第7話 断れない人の休日
朝、店の床は少しだけ冷たかった。
冷たいのに嫌じゃない。昨日の「帰そう」がまだ胸の奥に残っていて、沈みきらない。
私はカウンターで布巾を畳んでいた。
畳んで、角を揃えて、また畳む。意味のあることをしているふりをすると、息が浅くなる癖がある。
「紡」
ルカの声が近い。
「今、頑張ってるふりしてる?」
直球すぎて、私は笑ってしまった。
「……してます」
「うん。顔がそうだった」
「顔って、どんな」
「『役に立たなきゃ』って顔」
私は布巾を握り直した。
「役に立ちたいです」
「うん。紡はそういう人だよ」
ルカは否定しない。
でも次の一言が、いつも私の逃げ道を塞がない。
「だから今日は、役に立たない練習もしようか」
「役に立たない練習って、なに」
「何もしない、じゃなくて」
一拍。
「断る練習。休む練習。自分の分を残す練習」
足元でモコがころん、と転がった。
「きゅ」
のんきな声。
私はモコを見下ろして、少しだけ肩の力が抜けた。
「モコは練習しない」
「しない」
ルカが同意する。
「のんきは才能だから」
アオは窓辺で目を細めていた。
尻尾だけが、ゆっくり動く。
鈴が鳴った。
からん
一回だけ。
アオの尻尾が止まる。
モコは止まらない。ころん、と転がってから、ふわっと起き上がった。
「……来た」
ルカが言う。
「紡、今日は“見るだけ”でもいいよ」
「……でも、来たら」
「来る」
ルカはやわらかく言い切る。
「来る。でも全部背負わない」
扉が開いて、街の匂いが入ってきた。
鉄と汗と、乾いた昼の匂い。
入ってきたのは、若い男性だった。
服はきちんとしているのに、袖口だけが少し乱れている。
靴を脱ぐ動作が速い。速いのに、目が落ち着かない。
「……すみません」
第一声が謝罪。
ルカがやわらかく返す。
「寒かったよね。入って。謝らなくていいよ」
「でも……」
「うん。でも、いったん座ろう」
男性は椅子に座った。
背もたれに触れない。膝に手を置いて、指先だけが忙しい。
私はカップを置きながら聞いた。
「お名前、伺ってもいいですか」
「……田辺です」
「田辺さん。今日は、何が一番しんどいですか」
田辺さんは即答した。
「しんどくないです」
言い切ったのに、目が違う。
“しんどい”の反対側にいる目だ。
ルカが言う。
「しんどくないのに、ここに来た」
「……来ちゃったんです」
「来ちゃったでいい」
ルカの語尾がやわらかい。
「田辺さん、今日、休み?」
「休みです」
「休みなのに、息が浅い」
ルカは責めない。
ただ事実を置く。
田辺さんが笑おうとして失敗した。
「……休みって、何したらいいか分からなくて」
その言葉は、痛いくらい分かる。
私は口が勝手に動いた。
「休みなのに、予定入れちゃうタイプですか」
田辺さんが小さく頷く。
「はい。誘われたら断れなくて。……断ったら悪い気がして」
ルカが聞く。
「断ったら、何が起きると思う?」
田辺さんはすぐ答えた。
「嫌われます」
言った瞬間、田辺さん自身が少し驚いた顔をした。
口から先に本音が出たみたいに。
私は続けて聞いた。
「嫌われたら、どうなるんですか」
田辺さんは喉を鳴らしてから言った。
「……居場所がなくなる」
モコが、のんきに田辺さんの足元へ行った。
「きゅ」
田辺さんがびくっとする。
でも逃げない。
モコは靴先に鼻を寄せて、満足すると床でころん、と転がった。
その無防備さに、田辺さんの口元が少しだけ緩む。
「……かわいい」
「かわいいです」
私が言うと、ルカも言った。
「かわいいね」
田辺さんが、少しだけ息を吐いた。
それだけで、空気が一段やわらかくなる。
「田辺さん」
ルカが言う。
「今日は『断れない人の休日』を、ここで練習しよう」
「……断れない人の休日?」
「うん」
ルカは淡々と、でもやわらかく続ける。
「断れない人は、休日でも誰かの予定を生きる。……田辺さんの休日が、田辺さんのものになってない」
田辺さんの目が潤んだ。
「……だって、断ったら」
「うん。怖い」
ルカは頷く。
「怖いのは分かる。でもね、田辺さん」
一拍。
「断れないまま続けると、田辺さんが先に折れる」
私は胸の奥がきゅっとなった。
折れたくないのに折れてしまう、その予感。
田辺さんが小さく言う。
「……もう、折れかけてます」
直球が出た。
ルカが私を見る。
“今日は見るだけでもいい”の目のまま。
でも、田辺さんの「折れかけてます」は、今受け取れる形だった。
軽い処方なら、抱えすぎずに済む。
私は息を一つ吐いて、紙を取った。
「田辺さん。一行だけ書きます。受け取ってもらえますか」
田辺さんは少し迷った。
「受け取るって……」
「効かせるって、自分で決めることです」
私ははっきり言う。
「田辺さんが決めた時だけ、効きます」
田辺さんは湯気を見た。
それから小さく言った。
「……受け取ります」
同意。
私は見立てを言葉にする。
「田辺さんは、優しいから断れないんじゃない」
一拍。
「嫌われるのが怖くて、断れない」
田辺さんが頷いた。
頷き方が、苦しい。
「はい」
私は一行を書く。
『今日は一回だけ、断っていい』
田辺さんが紙を見て、困った顔をした。
「……でも、何を断えば」
私は行動を小さくする。
「今、断る相手は作らなくていいです」
先に安心を渡す。
「代わりに、“断る言葉”だけ練習しましょう」
田辺さんが眉を寄せる。
「言葉だけ」
「言葉だけ」
私は頷く。
「今、私が誘います。田辺さんは断ります」
田辺さんが目を丸くした。
「断るんですか、紡さんに」
「断ってください」
ルカが横から、やわらかく言う。
「ここなら大丈夫。僕も怒らない」
田辺さんが笑ってしまった。
「怒られるのが前提なんですね、僕」
「うん」
ルカはさらっと言う。
「今まで、怒られてきたんだね」
田辺さんの笑いが止まって、小さく頷いた。
私は言った。
「田辺さん、今度の日曜、手伝ってください」
田辺さんは反射で口を開きかけて、止まった。
止まって、息を吸って。
「……えっと」
言葉が出ない。
モコが足元でころん、と転がった。
「きゅ」
のんきな合図みたいに。
私はすぐ言い添えた。
「断っていいです。今、練習です」
田辺さんはもう一回息を吐いて、言った。
「……すみません。今日は、行けません」
言えた。
言えた瞬間、肩が少し落ちた。
落ちたのに、崩れてない。
私は笑った。
「断れました」
田辺さんの目が潤んだ。
「断れた……」
ルカが言う。
「うん。今の、すごく上手」
田辺さんが慌てて首を振る。
「上手とかじゃないです。……怖いです」
「怖いって言っていい」
ルカの語尾がやわらかい。
「怖いままでも、断れる。今、できた」
——発動。
田辺さんの呼吸が少し深くなった。
指先の忙しさが止まる。
「……胸が、軽い」
田辺さんがぽつりと言った。
言ってから、自分でも驚いたみたいに目を瞬いた。
「一回だけでいいです」
私は言う。
「今日は一回だけ断れた。それで十分」
田辺さんは処方箋を大事そうに畳んだ。
「持って帰ります」
「はい」
扉の前で、田辺さんは振り返った。
「……断っても、僕、死なないんですね」
私は頷いた。
「死なないです」
ルカも頷いた。
「死なない。居場所も、すぐには消えない」
田辺さんは小さく笑って、出ていった。
鈴が鳴り、扉が閉まる。
私は息を吐いた。
胸の奥が、少しだけ締まっている。結び目の気配。
でも今日は、沈みは来なかった。
ルカが私の手を見る。
「紡、冷えた?」
「……少しだけ」
「うん。今日はそこで止めよう」
私は言った。
「今日も書いちゃった」
「うん」
ルカは怒らない。
「でも短かった。行動も小さかった。……守れたね」
その評価が、嬉しいのに悔しい。
「守れるなら、もっとやりたい」
私が言うと、ルカは一拍置いた。
「うん。分かる」
語尾がやわらかい。
「でも、やりたい気持ちが強い日は、休む練習の方が大事」
モコが私の足に頭をこつんと当てて、ころん、と転がった。
まるで「休め」と言っているみたいに、言っていない。
私は笑った。
「モコ、仕事してる」
「してない」
ルカが即答する。
「してないのに、助かってる」
アオが一度だけ尻尾を揺らした。
私はカップを包み直して、言った。
「……ルカさん」
「うん」
「私、帰りたいです」
ルカはすぐ答えた。
「うん。帰そう」
短い。
やわらかい。
逃げない。
その言葉が、今日は少し遠い。
でも、それでも――。
湯気みたいに、少しだけ息が戻った。




