第6話 休む許可が出ない人
朝、森の光は薄かった。
薄いのに、目には痛い。白い光が木々の間で細く切れて、床に落ちている。
私はカップを拭いていた。
拭いて、置いて、また拭く。終わりがある作業は安心する。終わりがあるから。
足元でモコがころん、と転がった。
「きゅ」
のんきな声。
私は小さく笑って、笑いきれなかった。昨日の結び目が、まだ胸の奥に残っている。
アオは窓辺で外を見ていた。尻尾だけがゆっくり動く。
ルカは棚の前で瓶を並べ替えている。音がしない。手つきが静かすぎる。
「紡」
ルカが振り向いた。
「指先、冷えてない?」
「……冷えてないです」
答えてから、言い直した。
「冷えそうです」
ルカがほんの少し笑う。
「うん。今の方がいい」
「何がですか」
「嘘じゃない」
言い方がやわらかいのに、逃げ道がない。
私は布巾を握り直した。
「私、役に立ってないと落ち着かないんです」
「うん。知ってる」
ルカは否定しない。
否定しないのに、次で少しだけ止める。
「今日は、“抱えない日”にしよう」
「……抱えない日って」
「書かない日」
ルカがはっきり言った。
「紡が苦しくなるまで、店は回さない」
胸の奥がきゅっとした。
守られると、悔しくなる。
「でも、来たら」
「来る」
ルカの語尾がやわらかい。
「来ても、全部は背負わない。背負わない練習をする」
「練習」
「うん。ここは練習できる場所」
モコがころん、と転がって、私の足に頭をこつんと当てた。
励ましているみたいに、何も考えてない。
「モコは練習しない」
ルカは小さく頷いた。
「のんきは才能だから」
アオの尻尾が止まった。
鈴が鳴るより先に、空気が変わる。
からん。
一回だけ。
扉が開いて、街の匂いが入ってきた。鉄と汗と、乾いた昼の匂い。
入ってきたのは、年齢のわかりにくい男性だった。
スーツは整っているのに、襟元だけが少し乱れている。目の下に薄い影。口元が固い。
靴を揃える動作が妙に丁寧で、息だけが浅い。
「……すみません」
第一声が謝罪。
ルカがやわらかく返す。
「寒かったよね。入って。謝らなくていいよ」
「でも……」
「うん。でも、いったん座ろう」
男性は椅子に座った。
背もたれに触れない。膝に手を置いて、指先だけが忙しい。
私はカップを置きながら聞いた。
「お名前、伺ってもいいですか」
「……相川です」
「相川さん。いちばん困ってること、ひとつだけ言えますか」
相川さんは笑おうとして失敗したみたいな顔をした。
「困ってるっていうか……困ってないです」
その否定が、いちばん苦しい。
ルカがすぐに言う。
「困ってない人は、ここに来ない」
相川さんが目を伏せた。
「……来ちゃったんです」
「来ちゃったでいい」
ルカの語尾がやわらかい。
「相川さん、眠れてますか」
「眠れてます」
「何時間」
質問が具体。逃げ道がない。
相川さんは少し黙ってから答えた。
「……四時間」
「足りてないですね」
私が言うと、相川さんは反射で返した。
「足りてます。慣れてるので」
ルカが静かに言う。
「慣れてるって言い方、危ない」
相川さんが眉を寄せる。
「危なくないです。僕、仕事、回してるんで」
「回してる」
ルカが繰り返す。
「回してるのに、ここに来た」
相川さんの口元が少しだけ歪む。
「……回してるから、来たんです」
直球だった。
私は思わず聞いた。
「回してると、来たくなるんですか」
相川さんはカップを両手で握りしめた。
「……止まれないから」
「止まれない」
私が繰り返すと、相川さんが頷いた。
「止まったら、全部止まる」
ルカが聞く。
「相川さんが止まったら、何が止まる」
相川さんの答えは早い。
「仕事」
「仕事が止まったら、相川さんはどうなる」
答えが遅くなる。
「……嫌われる」
言った瞬間、相川さん自身が驚いた顔をした。
自分で言って初めて、心の中の言葉を見つけたみたいに。
私はすぐ聞いた。
「誰に」
相川さんは笑った。笑えていない。
「……全員に、です」
“全員”が出たとき、息が少し浅くなった。
全員、という言葉はいつも嘘みたいに大きいのに、本人には本当なんだ。
モコが、のんきに相川さんの足元へ行った。
「きゅ」
相川さんがびくっとする。
でも逃げない。逃げられない人の反応だ。
モコは靴の先に鼻をつけ、満足すると床でころん、と転がった。
その無防備さに、相川さんの口元が少しだけ緩む。
「……なんですか、これ」
「モコです」
私が言うと、相川さんは目だけでモコを追った。
「……羨ましい」
その一言で、机の上に本音が置かれた。
ルカが拾う。
「羨ましいって言えた。いいね」
相川さんが慌てて首を振る。
「いや、そんな……」
「そんな、の後に本音がある」
ルカの言い方はやわらかいのに、逃がさない。
相川さんは観念したみたいに言った。
「……休みたいです」
言えた。
言えた瞬間、肩が少し落ちる。
私は、胸の奥がきゅっとした。
今日は書かない日。だけどこの言葉は、今、受け取れる形だった。
相川さんが続けた。
「でも休んだら、罪悪感が来るんです」
「罪悪感って、どんな形ですか」
私が聞くと、相川さんは苦しそうに笑った。
「……頭の中で、怒鳴られる」
「誰に」
「上司とか、家族とか、昔の先生とか。……全部混ざって」
ルカが言う。
「相川さんの中の『許可を出さない人』だね」
相川さんが頷く。
「はい。……許可が、出ない」
私は決めた。
軽く、短く、抱えない処方にする。
一行と行動だけ。代償を増やしすぎない。
私は紙を取った。
「相川さん。一行だけ書きます。受け取ってもらえますか」
相川さんが迷う。
「……受け取るって」
「効かせるって決めることです」
私ははっきり言う。
「相川さんが決めた時だけ、効きます」
相川さんはカップを見た。湯気を見て、少しだけ息を吐いた。
「……受け取ります」
同意。
私は見立てを言う。
「相川さんは、休めないんじゃなくて」
一拍。
「休んでいいって、自分に言えない」
相川さんの目から涙が落ちた。
落ちるのが早い。止めない涙。
「……はい」
私は一行を書く。
『休む許可は、相川さんが出す』
相川さんが紙を見て、鼻で笑った。
「……簡単に言う」
「簡単に書きます」
私は言った。
「簡単じゃないから、簡単にするんです」
ルカが静かに頷く。
「うん。それ、いい言い方」
行動は小さく。
「相川さん。今、ひとつだけやりましょう」
相川さんが顔を上げる。
「何を」
「スマホ、切らなくていいです」
私は先に逃げ道を塞がない。
「ただ、画面を伏せて。三十秒だけ」
相川さんは固まった。
「……三十秒でも、怖い」
「怖いって言っていいです」
私はすぐ返す。
「今、怖い」
相川さんが息を吸う。
「……怖い」
言えた。
相川さんはスマホを伏せた。
置いた瞬間、指が震えた。
モコがその横でころん、と転がった。
まるで「置けたね」とでも言うみたいに、言っていない。
相川さんが小さく笑った。
「……こいつ、煽ってません?」
「煽ってないです」
私が言う。
「モコは、何も考えてない」
ルカも言う。
「何も考えてない」
相川さんが、ちゃんと笑った。短いけど本物の笑い。
「次、息を吐いてください。短くていい」
相川さんは吐く。短い。
「もう一回」
もう一回。少し長い。
相川さんの肩が、ほんの少し落ちる。
——発動。
店の音が戻る。
相川さんの目の焦点が少し柔らかくなる。
「……今、休んでる感じがする」
相川さんがぽつりと言った。
「うん」
私は頷く。
「三十秒でいい。三十秒休めたら、次は一分もできます」
相川さんは処方箋を見つめた。
『休む許可は、相川さんが出す』
「持って帰ります」
「はい。今日一回だけで十分です」
「一回だけ」
相川さんは復唱し、頷いた。
復唱が約束になる。
扉の前で相川さんは振り返り、言った。
「……僕、休むの下手ですね」
ルカがやわらかく答える。
「下手でもいいよ。練習できたら、もう上手くなる」
相川さんは小さく笑って、出ていった。
鈴が鳴り、扉が閉まる。
私は息を吐いた。
胸の奥が、少しだけ締まっている。結び目の気配。
でも沈みは来ない。今日は軽く済んだ。
ルカが私の手を見る。
「紡、冷えた?」
「……少しだけ」
ルカが頷く。
「うん。今日はそこで止めよう」
私は言った。
「私、書いちゃいました」
「うん」
ルカは怒らない。
「でも、短くできた。抱えすぎなかった」
その評価が、嬉しいのに悔しい。
「……抱えすぎる顔、してました?」
「してた」
即答。
「目が『助けなきゃ』って言ってた」
私は視線を落とした。
「助けたいです」
ルカの語尾が、もっとやわらかくなる。
「うん。紡は助けたい人だよ」
一拍。
「でも、紡を助けるのも、僕の仕事」
モコが「きゅ」と鳴いて、私の足に頭をこつんと当てた。
そのままころん、と転がる。のんきに世界を回している。
私は笑ってしまった。
「モコ、忙しい」
「忙しい。平和担当だから」
ルカも笑う。
アオがこちらを見た。
一瞬だけ。尻尾が一度だけ揺れて止まる。
私はカップを包み直し、言った。
「……ルカさん」
「うん」
「私、帰りたいです」
ルカはすぐ答えた。
「うん。帰そう」
短い。
やわらかい。
逃げない言葉だった。
私はカップの熱を確かめて、息を吐いた。




