第5話 帰り道が曖昧な日
窓の外は、今日も森だった。
緑は濃く、光は細く、風は冷たくも熱くもない。
それでも私は、ずっと外を見ていた。
道を探す目になっているのが、自分でも分かった。見つけたらすぐ逃げられるように。逃げられないなら、せめて理由を知れるように。
足元でモコがころん、と転がった。
「きゅ」
のんきな声。
私は笑いかけて、笑いきれなかった。
「……ねえモコ。帰り道はどこだろうね?」
モコは私の靴先に頭をこつんと当てて、また転がった。
知らない顔。知らないままのんきな顔。
カウンターの向こうでルカが湯を沸かしている。
アオは窓枠に座り、外を見ていた。尻尾だけがゆっくり揺れる。
ルカがカップを二つ、私の手元に置いた。
「紡。飲もう」
「……はい」
「熱いよ。落ち着くまで、口つけなくていい」
言い方がやわらかい。
逃げ道を作ってくれるやさしさだ。
私はカップを包んだ。
陶器の熱が掌に伝わる。指先の冷えが少し引く。
「……ルカさん」
「うん」
私は窓の外を見たまま言った。
「私、、、帰りたい」
言った瞬間、胸の奥が痛くなった。
ここで言うと、ルカを傷つける気がした。
でもルカは、傷ついた顔をしなかった。
息を一つ吐いて、ちゃんと受け止めた。
「うん。帰りたいよね」
「帰りたいって言ったら、怒りますか?」
「怒らないよ」
語尾がやわらかいのに、はっきりしている。
「帰りたいって言えるのは、いいことだよ。紡が自分を諦めてないってことだから」
私は唇を噛んだ。
「じゃあ、帰して」
直球が出た。
自分でも驚くほど子どもみたいな言い方。
ルカは一瞬だけ黙った。
黙ったのは、誤魔化さないためだ。
「……今日の帰り道は、出てない」
「昨日も出てない」
「うん」
「明日も?」
「明日は、分からない」
その“分からない”が、いちばん怖い。
「私、ここに閉じ込められたの?」
ルカは首を横に振る。
「閉じ込めてない」
一拍。
「でも、帰り道は森が決めるところがある」
「森が決めるって、なにそれ」
声が強くなる。
強くなるのは、助けがほしいからだ。
ルカは目を逸らさない。
語尾をやわらかく保ったまま、言い切った。
「紡が焦ると、道は隠れる。……だからまず、息を戻そう」
「息、してる」
「うん。でも浅い」
言われて初めて、胸が苦しいのに気づく。
モコが「きゅ」と鳴いて、私の膝に跳び乗った。
のんきに丸くなって、あくびをする。
空気が張ってるのに、気にしていない。
「……モコ、空気読まないね」
ルカが小さく笑う。
「読まない。そこが助かる」
アオが窓枠から降り、音もなく床に着地した。
そして扉のほうへ歩き、そこで止まる。尻尾が止まる。
鈴が鳴るより先に、アオが“来る”と言っている。
「……来るね」
ルカが言った。
鈴が鳴った。
からん。
一回だけ。
ルカが扉を開けた。
入ってきたのは若い女性だった。
コートの袖を握り、目が落ち着かない。靴を脱ぐのは速いのに、座るのは遅い。迷いが体に残っている。
席に着くなり、バッグからスマホを掴んだ。
落とすと終わるものみたいに、強く握っている。
「……すみません」
第一声がそれ。
ルカがやわらかく言う。
「寒かったよね。入って。……手、震えてる」
女性は慌てて手を隠す。
「震えてません」
「震えてるよ」
責めない。ただ事実を言う。
「ここ、震えても大丈夫」
私は椅子を引いた。
「座ってください。……お名前、聞いてもいいですか」
「……柊です」
「柊さん。いちばん苦しいのは何ですか」
柊さんはスマホを見たまま言う。
「返事が、来ない」
「誰から」
柊さんは首を振った。
「言いたくない。馬鹿みたいだから」
「馬鹿じゃない」
私は言った。
「馬鹿って言葉、柊さんを守らないです。傷つけます」
柊さんの指が白くなる。
「……既読なのに、返ってこないと」
喉が詰まる。
「私、いらないって言われたみたいで」
私は一歩踏み込む。
「いらないって、言われたことありますか」
柊さんが息を止めた。
止めたまま、頷いた。
「……あります」
「いつ」
「高校のとき」
声が小さい。小さいのに重い。
「グループから外されました。……理由、最後まで分からなかった」
理由が分からないまま置いていかれる感じ。
それが、今も胸に張り付いている。
ルカが、静かに言った。
「それ、まだ終わってないね」
柊さんの目が潤む。
「終わらせたつもりでした」
「つもりでも、体が覚えてる」
私が言うと、柊さんが頷いた。
「通知が鳴ると……また戻るんです。あの時に」
「戻るって、どんなふうに」
私が聞くと、柊さんは言葉を探し、押し出した。
「心が沈む感覚があって」
その一言が、店の空気を少し変えた。
「それで……スマホを見て、安心しようとして、余計に苦しくなる」
柊さんは唇を噛む。
「見たら“来てない”って分かるのに、見ないと“来てるかも”って思って……どっちも怖い」
「うん」
ルカが頷く。
「柊さん、今、ちゃんと怖いって言えてる」
モコが、のんきに柊さんの足元へ行った。
「きゅ」
柊さんがびくっとする。
でも逃げない。
モコはスマホの端に前足をちょん、と置いた。
遊びの延長みたいに。
「……え」
柊さんが声を漏らす。
もう一回、ちょん。
「……だめ」
言いながら、声が弱い。嫌じゃない。手放すのが怖いだけ。
ルカが少し笑った。
「今日はモコが正しい」
柊さんが驚いてルカを見る。
「妖精が……正しい?」
「うん。のんき代表だから」
私は言う。
「のんきな子ほど、見張りが上手いんです。……柊さんの手、ずっと力入ってる」
柊さんは苦笑した。
「……置いたら、見逃す気がする」
「見逃すの、怖いよね」
私は頷く。
「でも今、握ってても苦しいですよね」
柊さんの唇が震える。
「苦しい。……息が浅い」
言えた。
言えた瞬間、会話が一段進む。
私は紙を取り、ペンを握った。
胸の奥に、かすかな締まりが走る。
でも今日は小さく、軽く、守りながら。
「柊さん。一行だけ書きます」
柊さんが顔を上げる。
「……効くんですか」
「効きます」
私ははっきり言う。曖昧にしない。
「ただ、柊さんが“受け取る”って言ってくれた時だけ」
柊さんはスマホを見て、それから私を見た。
「……受け取ります」
同意。
私は見立てを言葉にする。
「柊さんは、返信が欲しいんじゃない」
柊さんが息を吸う。
「置いていかれたくない」
柊さんの目から涙が落ちた。
ぽたっと、膝の上に落ちる。
「……はい。置いていかれたくない」
私は一行を書く。
『返信は、心が落ち着いてからでいい』
柊さんが首を振る。
「でも、落ち着かない」
「落ち着かないのが普通です」
私は言う。
「だから、落ち着く時間を作ります。五分だけ」
柊さんが眉を寄せる。
「五分で、何が変わるの?」
ルカが答えた。言葉尻はやわらかい。
「世界は変わらないよ」
一拍。
「でも柊さんの沈みは、少し浅くなる」
私は続ける。
「スマホ、裏返して。五分だけ湯気を見る。怖さが出たら、“怖い”って言っていい」
柊さんは、手が動かない。
「できない」
直球が出た。
私はうなずく。
「できないって言ってくれてありがとう」
柊さんが苦しそうに笑う。
「ありがとうって言われるの、変です」
「変でもいい」
私は言う。
「柊さん、今まで“できない”って言ったら怒られたんですか」
柊さんが頷く。
「……甘えるなって」
「じゃあ今日は、甘えていい」
私が言うと、ルカも言う。
「甘えていいよ」
言葉が揃って、柊さんが少しだけ笑った。
モコがそのタイミングで、スマホの横にころん、と転がる。
見張りみたいに。
柊さんが息を吐いた。
「……分かった。やる」
ゆっくりスマホを裏返す。
置いた瞬間、肩が落ちる。
「こわい」
私はすぐ返す。
「うん。こわい。今、そう言えてる」
「息、吐いて」
柊さんは吐く。短い。
「もう一回」
もう一回。少し長い。
柊さんは湯気を見た。
「……湯気って、消えるのに、また出る」
「うん」
私は頷く。
「返信も、来ない時間があっても終わりじゃない」
柊さんの目が潤む。
「……私、今見なくても、壊れない」
その言葉が出た瞬間、空気が変わる。
——発動。
柊さんの手が膝の上に落ちる。
呼吸が深くなる。
私は胸の奥で、きゅっと締まる感覚を覚えた。
糸が、結ばれる。
ルカが小さく呼ぶ。
「紡。冷えた?」
私は首を振る。
「冷えじゃない。……締まった」
ルカの目が少し曇る。
でも声はやわらかい。
「うん。それが結び目」
柊さんは処方箋を見つめた。
「これ、持って帰っていい?」
「もちろん」
私は言う。
「でも今日は五分で十分。帰ってからも、五分だけでいい」
柊さんが頷く。
「五分だけ」
扉の前で、柊さんは振り返った。
「……また来てもいい?」
「また必要な時に来られるよ」
ルカが言う。
「柊さんは、ここに来ていい」
その直球に、柊さんの目が潤んだ。
頷いて出ていく。
鈴が鳴り、扉が閉まる。
私は息を吐いた。
胸の奥の締まりが残っている。
「……増えました」
私が言うと、ルカは頷いた。
「うん。増えた」
「いくつ増えたんですか」
私は直球で聞いた。
ルカは少しだけ黙る。
黙って、私の手を見る。指先の色を見る。
「紡、今その数字を知ったら、眠れなくなる」
「眠れなくなるのは、もう慣れてる」
「慣れなくていい」
語尾がやわらかいのに、強い。
「怖がるのを、僕が増やしたくない」
私は言う。
「じゃあ、私は帰れなくなる?」
ルカは逃げない。
「可能性はある」
心が沈む感覚があって。
私はカップを握った。熱いのに、手が頼りない。
ルカは続ける。やわらかいまま、現実を渡す。
「でも、帰れなくなるって決まったわけじゃない」
「どうしたらいいの?」
私の声が、ほとんど泣きそうだった。
ルカは言い切る。
「僕が帰す」
「……できるの?」
「できる方法を探してる」
「ずっと?」
「ずっと」
モコが「きゅ」と鳴いて、私の膝に跳び乗った。
のんきに丸くなって、すぐに目を閉じる。
私は笑ってしまう。
「モコはさ、私が人生相談してるのに寝るのね」
ルカも笑う。
「寝る。のんき担当だから」
アオが私の足元に来て、静かに座った。
背中が近い。熱は押し付けない距離。
私は小さく言った。
「……怖いです」
ルカが即答する。
「うん。怖いね」
一拍。
「でも、紡は一人じゃないよ」
私は頷いた。
頷くと、胸の締まりが少しだけゆるんだ。
湯気が揺れた。
消えて、また出る。
私はそれを見て、今日だけは信じてもいいと思った。




