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心が折れたので、森の小さな店で処方箋を作ります  作者: 九重有
第一章

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第4話 正しさが重たい日



朝の光は、昨日より白かった。

森の緑が濃いせいで、光が薄く見えるのかもしれない。窓の外は静かで、鳥の声が遠い。水の音だけが、一定の間隔で耳に触れる。


目を開けた瞬間、私は指先を見た。

冷たい。昨日ほどじゃない。でも芯が残っている。握っても、熱が戻るのに時間がかかる。


扉の向こうで、床が小さく鳴った。


「……起きた?」


ルカの声。近いけど、部屋の中には入ってこない。

境界を守るみたいな距離。


「起きました」


「頭、痛くない?」


「……少し、重いです」


言えた。

“平気”より先に、正直が出た。


「うん。そう言ってくれて安心した」


ルカはそれだけ言って、足音を遠ざけた。

安心が、背中の向こうから伝わる。


廊下に出ると、モコが床でころん、と転がっていた。

のんきに尻尾をぱたぱたさせて、私を見上げる。


「きゅ」


「おはよう、モコ」


しゃがむとモコは私の腕に体を預ける。軽い。ふわふわ。

深刻さを知らない体の重みが、胸の奥をゆるめる。


カウンターの上にはアオ。

目を閉じているのに、こちらの気配を全部拾っている。尻尾が一度だけ動いた。


「アオも、おはよう」


返事はない。

返事がないのが返事だ。


ルカが湯気の立つカップを二つ、カウンターに置いた。

湯気が、朝の白さに溶ける。


「今日は甘め。……昨日、頑張ったから」


「頑張ったのは、南條さんが……」


言いかけて、私は自分の言い方に引っかかった。

誰かを褒めるために、自分を消す言い方。


ルカは笑わないで、言葉尻を落とす。


「紡も頑張った。僕はそう思う」


「……ありがとうございます」


「うん。どういたしまして」


それだけの会話が、意外と胸に残る。


私は棚の上を見た。

昨日はそこを見上げるたび、背伸びしたくなった。

“役に立ちたい”が先に出る。


ルカがその視線に気づいて、先に言う。


「紡、今日は背伸びしなくていいよ」


「え、見られてました?」


「見てた」


「監視……?」


「見守り」


ルカが言い直す。語尾がやわらかい。


「落ちたら困るから。……僕が」


“僕が困る”は、過保護の言い換えだ。


「私、落ちないです」


言いかけて、止める。

ここで張り合うと、また呼吸が浅くなる。


「……落ちないようにします」


「うん。じゃあ、落ちないように、僕が取るね」


ルカは棚の上の瓶を軽く持ち上げて、作業台に移した。

言葉より動きで、私の“やりたい”を受け止める。


私は負け惜しみみたいに言った。


「私、役に立ってない……」


ルカはすぐ答えない。

湯気の向こうで、少しだけ眉を下げる。


「役に立たなくていい日もあるよ」


「……そんな日、あります?」


「ある」


断言じゃないのに、揺れない言い方。


「紡がここにいるだけで、店の空気が落ち着く日」


「それ、前も言ってました」


「言うよ。何回でも」


言葉尻がやわらかくて、ずるい。


モコが「きゅ」と鳴いて、私の足元をくるくる回った。

私は思わず笑う。


「モコ、忙しいね」


モコは忙しいと言われたのが嬉しいのか、ころん、と転がって見せた。

転がって、また転がる。

のんきさが天才みたいだ。


ルカが小さく笑った。


「モコ、今日も平和だね」


「平和を担当してるんですよ、きっと」


「じゃあ、僕は何担当?」


「……紡の監視?」


「見守り」


また言い直される。


「アオは?」


私がカウンターを見ると、アオはゆっくり目を開けた。

私を一秒だけ見て、目を細めてまた閉じる。


「無言の圧担当」


「それ、合ってる」


ルカが笑った。


私は布を取り、カップを拭き始めた。

布には草の匂いが残っている。陶器の表面が指に引っかかり、滑り、温度が分かる。


そのとき、鈴が鳴った。


からん。


一回だけ。


空気が引き締まる。

モコは気づかず、床でころん、と転がっている。

アオの尻尾だけが止まった。


ルカが扉を見る。


「……来たね」


「私、取次ぎします?」


私が言うと、ルカは優しく首を振る。


「ううん。今日は僕が行く。紡は、カップ拭いてて」


「カップ係……」


「大事」


ルカはそう言って扉へ向かった。


扉が開く。


街の匂いが流れ込む。

鉄と汗と、少しだけ香水。

忙しい場所の匂い。


入ってきたのは、年齢のわかりにくい女性だった。

背筋はまっすぐ。コートをきっちり着て、靴を揃える動作に迷いがない。

目が鋭いというより、整理されすぎている。


「……失礼します」


声も整っていた。


ルカが言う。語尾はやわらかい。


「寒いよね。入って。座っていいよ」


女性は頷き、椅子に座った。背もたれに寄りかかる。

姿勢は崩れていないのに、肩甲骨のあたりが硬い。


私はカップを置きながら聞いた。


「お名前、伺ってもいいですか」


「黒木です」


「黒木さん。今日はどうしてここに」


黒木さんは、カップを見る前に言った。


「私は正しいことをしているだけです」


入口がそれだった。


私は思わず口が動く。


「正しいの、すごいですね」


黒木さんが私を見た。

整った目。


「すごくはありません。必要です」


必要、という単語が重い。


ルカがゆっくり言う。


「正しいって、疲れるよね」


黒木さんは即答する。


「疲れていません」


言い切るのに、余裕がない。


「眠れてますか」


私が聞くと、黒木さんは一拍置いた。


「睡眠は必要量を確保しています」


必要量。

数字の匂い。


ルカがカップを差し出す。


「飲める? 熱いよ」


黒木さんは受け取って口をつけた。

飲み方が丁寧。丁寧すぎて、落ち着けていない。


モコが黒木さんの足元に向かった。

のんきに、ただ興味で。


「きゅ」


黒木さんは反射で足を引きそうになって、止めた。

止めた瞬間、呼吸が一拍だけ深くなる。


モコは黒木さんの靴先に鼻を寄せ、満足そうに床にころん、と転がった。

黒木さんはその動きを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「……何ですか、これ」


「モコです」


私が言う。


「妖精」


「妖精……」


黒木さんは眉を寄せる。


「業務上、妖精という存在は想定していません」


言い方が真面目すぎて、私は笑いを堪えきれなかった。


「すみません。想定外ですよね」


ルカが静かに笑う。


「想定外が来る日もあるよ」


黒木さんは「……そうですか」とだけ言った。

でも、さっきより声が硬くない。


ルカが話を戻す。やさしい速度で。


「黒木さん。ここに来た理由、もう一つある気がする」


黒木さんは視線を上げる。


「理由はありません。……ただ、仕事の帰り道で、気づいたら」


「気づいたら、来てた」


私が補うと、黒木さんはわずかに頷いた。

頷いたのに、すぐ言い直すみたいに言う。


「私は問題を解決しないといけない立場なので」


その“立場”が鎧だ。


ルカが聞く。


「黒木さん、誰かに怒ってる?」


「怒っていません」


即答。


「うん。じゃあ、責任だけ持ってる」


黒木さんの指がカップの取っ手を強く握った。

取っ手が折れそうな握り方。


「責任は必要です。甘さは、崩壊を呼びます」


「崩壊って、何が崩れるの?」


ルカの問いは穏やかなのに、逃げ場がない。


「組織です。秩序です」


「黒木さん自身は?」


私が言うと、黒木さんは固まった。


「……私は」


言葉が止まった。


モコが、黒木さんの足元でまたころん、と転がった。

何も気にせず。のんきに。


黒木さんの口から、ぽろっと落ちた。


「……軽い」


「はい。軽いです」


私が答えると、黒木さんは私を見た。

その目に、ほんの少しだけ人が戻る。


ルカが言う。


「黒木さん。ここでは、まず“受け取る”って言ってもらってもいい?」


黒木さんの眉が寄る。


「受け取る?」


「うん。本人が受け取らないと、ただの言葉だから」


黒木さんは小さく息を吐いた。

息が吐けた時点で、少しだけ鎧が緩んでいる。


「……受け取ります」


ルカが紙とペンを置いた。

私はその動作を見て、胸の奥が少し冷えた。

ルカが書くと、何かを抱える。昨日見た震えが頭に浮かぶ。


ルカは気づいたみたいに私を見て、言葉尻をやわらかくする。


「紡、今日は見てて。大丈夫」


“見てて”が命令じゃなくて、安心の手渡しみたいだった。


ルカが見立てる。


「黒木さんは、正しさを鎧にしてる。……鎧は、守るけど重い」


黒木さんが言い返しかけて、止めた。


「私は正しい。だから——」


「うん。正しい」


ルカは否定しない。

ただ順番を変える。


「でも正しいまま、眠れなくなってる」


黒木さんの目が揺れる。


「眠れてます。必要量は」


「必要量、って言い方、好きじゃない」


私がぽろっと言ってしまった。

黒木さんがこちらを見る。


「……なぜ」


「人って、必要量だけじゃ……足りない時、あるので」


自分の声が小さくなる。

黒木さんの空気に飲まれそうになる。


ルカが助けるみたいに言う。


「紡、今の、いい。…黒木さんに届いてる」


黒木さんがわずかに眉を動かす。

反論する代わりに、質問が出る。


「届く、とは」


「届くっていうのは——」


ルカが一拍置く。


「黒木さんが“自分の話だ”って思ったってこと」


黒木さんは黙った。

黙って、カップを見た。

湯気を見ているだけなのに、視線が少し柔らかくなる。


ルカが一行書く。


『今日は、正しいことより先に眠る』


黒木さんが鼻で笑いかけて、止めた。


「そんなの、無理です」


「無理じゃなくていいよ」


ルカの語尾はやわらかい。


「今日だけ。順番を入れ替えるだけ」


黒木さんの唇が震えた。

震えを隠すように、言葉が硬くなる。


「私が止まったら……終わる」


恐怖が、鎧の隙間から出る。


ルカは頷く。否定しない。


「うん。怖いよね」


その一言で、黒木さんの肩がほんの少し落ちた。


「でもね、黒木さん」


ルカが続ける。


「止まらないと、終わるのはもっと早い」


黒木さんの喉が動く。


「……じゃあ、どうすれば」


初めて、問いが出た。

正しさじゃない、助けの問い。


ルカは行動を一つだけ。


「スマホ、ある?」


黒木さんはバッグからスマホを出す。

指が速い。仕事の指だ。


「これがないと、動かないので」


「うん。分かる」


ルカは否定しない。


「じゃあ、一分だけ、裏返してみて」


黒木さんの指が止まる。

裏返すだけが、こんなに難しい。


「一分で、何が変わるんですか」


「一分は変わらない」


ルカの言葉尻がやわらかい。


「でも、一分“戻る”」


黒木さんはゆっくりスマホを裏返した。

置いた瞬間、肩がほんの少し下がる。


モコが「きゅ」と鳴いて、スマホの横にころん、と転がった。

まるで見張り役みたいに。


黒木さんが小さく言う。


「……監視されている」


「見守りです」


私が言うと、ルカも同時に言った。


「見守り」


黒木さんは一瞬だけ目を丸くした。

二人の声が揃ったのが、意外だったらしい。


「……息、吐けますか」


ルカが聞く。


黒木さんは息を吐いた。短い。


「もう一回」


もう一回。少し長い。


そのとき黒木さんの目が潤んだ。

潤むのに、涙は落ちない。

落とすまいと、正しさが踏ん張っている。


黒木さんが小さく言う。


「……私、甘いのが嫌いなんです」


「うん」


ルカが頷く。


「甘いのが嫌いな人ほど、甘さが必要な時がある」


黒木さんが鼻で笑った。


「……ずるい」


その一言で、空気が変わった。

鎧に隙間ができる。


——発動。


黒木さんの呼吸が深くなる。

目の焦点が、少し柔らかくなる。


「……眠い」


黒木さんが言った。

眠い、という言葉は弱音じゃない。体の声だ。


「うん。いいよ」


ルカが言う。


「眠いって言えたら、今日は勝ち」


黒木さんは処方箋を見つめた。


『今日は、正しいことより先に眠る』


「持って帰ります」


「うん。今日だけでいい」


黒木さんは立ち上がる。

靴を履く動作が少しだけ遅い。遅いのに、慌てていない。


「……ありがとうございました」


深いお辞儀。

扉へ向かう背中が、さっきより少しだけ軽い。


鈴が鳴って扉が閉まる。


その瞬間、私は膝がふわっと軽くなった。

軽いのに、立てない。

力が抜けたというより、力が残っていない。


「紡」


ルカがすぐに近づく。

言葉尻がやわらかいのに、焦りが混じる。


「座ろう。……うん、そこ。ゆっくり」


私は椅子に座った。

座った瞬間、指先がまた冷える。奥から出てくる冷え。


ルカが私の掌に温石を押し当てる。


「紡、今日はもう終わりにしよう」


「……私、何もしてません」


言った瞬間、声が情けなく聞こえて、嫌になる。


ルカは首を振る。


「してない、じゃないよ。……君が“ここにいる”ってだけで、僕は落ち着く」


「またそれ言う」


「言う。何回でも」


モコが「きゅ」と鳴いて、私の膝に跳び乗った。

のんきにあくびまでしている。

世界がまだ壊れていないみたいに。


アオが床に降りてきて、扉の前に座った。

動かない。

閉店の合図みたいに。


ルカが小さく息を吐く。


「……今日は閉店」


私は反射で謝りそうになって、口を閉じた。

代わりに、正直な言葉を探す。


「……少し、休みたいです」


ルカの眉が、少し下がる。安心が混じる。


「うん。そう言ってくれて、よかった」


ルカは毛布を持ってきて、私の肩にかける。整える手つきが丁寧で、でも手早い。


「紡、ここまで。…続きは、またでいい」


私は頷いた。


「……はい」


モコは私の胸元で丸くなって、すぐに目を閉じた。

のんきな顔。

アオは枕元に来て、目を閉じる。見張りのまま眠る猫みたいに。


ルカが小さな声で言った。


「明日は、もう少し楽にしようね」


それは約束じゃなくて、願いだった。

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