第4話 正しさが重たい日
朝の光は、昨日より白かった。
森の緑が濃いせいで、光が薄く見えるのかもしれない。窓の外は静かで、鳥の声が遠い。水の音だけが、一定の間隔で耳に触れる。
目を開けた瞬間、私は指先を見た。
冷たい。昨日ほどじゃない。でも芯が残っている。握っても、熱が戻るのに時間がかかる。
扉の向こうで、床が小さく鳴った。
「……起きた?」
ルカの声。近いけど、部屋の中には入ってこない。
境界を守るみたいな距離。
「起きました」
「頭、痛くない?」
「……少し、重いです」
言えた。
“平気”より先に、正直が出た。
「うん。そう言ってくれて安心した」
ルカはそれだけ言って、足音を遠ざけた。
安心が、背中の向こうから伝わる。
廊下に出ると、モコが床でころん、と転がっていた。
のんきに尻尾をぱたぱたさせて、私を見上げる。
「きゅ」
「おはよう、モコ」
しゃがむとモコは私の腕に体を預ける。軽い。ふわふわ。
深刻さを知らない体の重みが、胸の奥をゆるめる。
カウンターの上にはアオ。
目を閉じているのに、こちらの気配を全部拾っている。尻尾が一度だけ動いた。
「アオも、おはよう」
返事はない。
返事がないのが返事だ。
ルカが湯気の立つカップを二つ、カウンターに置いた。
湯気が、朝の白さに溶ける。
「今日は甘め。……昨日、頑張ったから」
「頑張ったのは、南條さんが……」
言いかけて、私は自分の言い方に引っかかった。
誰かを褒めるために、自分を消す言い方。
ルカは笑わないで、言葉尻を落とす。
「紡も頑張った。僕はそう思う」
「……ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」
それだけの会話が、意外と胸に残る。
私は棚の上を見た。
昨日はそこを見上げるたび、背伸びしたくなった。
“役に立ちたい”が先に出る。
ルカがその視線に気づいて、先に言う。
「紡、今日は背伸びしなくていいよ」
「え、見られてました?」
「見てた」
「監視……?」
「見守り」
ルカが言い直す。語尾がやわらかい。
「落ちたら困るから。……僕が」
“僕が困る”は、過保護の言い換えだ。
「私、落ちないです」
言いかけて、止める。
ここで張り合うと、また呼吸が浅くなる。
「……落ちないようにします」
「うん。じゃあ、落ちないように、僕が取るね」
ルカは棚の上の瓶を軽く持ち上げて、作業台に移した。
言葉より動きで、私の“やりたい”を受け止める。
私は負け惜しみみたいに言った。
「私、役に立ってない……」
ルカはすぐ答えない。
湯気の向こうで、少しだけ眉を下げる。
「役に立たなくていい日もあるよ」
「……そんな日、あります?」
「ある」
断言じゃないのに、揺れない言い方。
「紡がここにいるだけで、店の空気が落ち着く日」
「それ、前も言ってました」
「言うよ。何回でも」
言葉尻がやわらかくて、ずるい。
モコが「きゅ」と鳴いて、私の足元をくるくる回った。
私は思わず笑う。
「モコ、忙しいね」
モコは忙しいと言われたのが嬉しいのか、ころん、と転がって見せた。
転がって、また転がる。
のんきさが天才みたいだ。
ルカが小さく笑った。
「モコ、今日も平和だね」
「平和を担当してるんですよ、きっと」
「じゃあ、僕は何担当?」
「……紡の監視?」
「見守り」
また言い直される。
「アオは?」
私がカウンターを見ると、アオはゆっくり目を開けた。
私を一秒だけ見て、目を細めてまた閉じる。
「無言の圧担当」
「それ、合ってる」
ルカが笑った。
私は布を取り、カップを拭き始めた。
布には草の匂いが残っている。陶器の表面が指に引っかかり、滑り、温度が分かる。
そのとき、鈴が鳴った。
からん。
一回だけ。
空気が引き締まる。
モコは気づかず、床でころん、と転がっている。
アオの尻尾だけが止まった。
ルカが扉を見る。
「……来たね」
「私、取次ぎします?」
私が言うと、ルカは優しく首を振る。
「ううん。今日は僕が行く。紡は、カップ拭いてて」
「カップ係……」
「大事」
ルカはそう言って扉へ向かった。
扉が開く。
街の匂いが流れ込む。
鉄と汗と、少しだけ香水。
忙しい場所の匂い。
入ってきたのは、年齢のわかりにくい女性だった。
背筋はまっすぐ。コートをきっちり着て、靴を揃える動作に迷いがない。
目が鋭いというより、整理されすぎている。
「……失礼します」
声も整っていた。
ルカが言う。語尾はやわらかい。
「寒いよね。入って。座っていいよ」
女性は頷き、椅子に座った。背もたれに寄りかかる。
姿勢は崩れていないのに、肩甲骨のあたりが硬い。
私はカップを置きながら聞いた。
「お名前、伺ってもいいですか」
「黒木です」
「黒木さん。今日はどうしてここに」
黒木さんは、カップを見る前に言った。
「私は正しいことをしているだけです」
入口がそれだった。
私は思わず口が動く。
「正しいの、すごいですね」
黒木さんが私を見た。
整った目。
「すごくはありません。必要です」
必要、という単語が重い。
ルカがゆっくり言う。
「正しいって、疲れるよね」
黒木さんは即答する。
「疲れていません」
言い切るのに、余裕がない。
「眠れてますか」
私が聞くと、黒木さんは一拍置いた。
「睡眠は必要量を確保しています」
必要量。
数字の匂い。
ルカがカップを差し出す。
「飲める? 熱いよ」
黒木さんは受け取って口をつけた。
飲み方が丁寧。丁寧すぎて、落ち着けていない。
モコが黒木さんの足元に向かった。
のんきに、ただ興味で。
「きゅ」
黒木さんは反射で足を引きそうになって、止めた。
止めた瞬間、呼吸が一拍だけ深くなる。
モコは黒木さんの靴先に鼻を寄せ、満足そうに床にころん、と転がった。
黒木さんはその動きを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「……何ですか、これ」
「モコです」
私が言う。
「妖精」
「妖精……」
黒木さんは眉を寄せる。
「業務上、妖精という存在は想定していません」
言い方が真面目すぎて、私は笑いを堪えきれなかった。
「すみません。想定外ですよね」
ルカが静かに笑う。
「想定外が来る日もあるよ」
黒木さんは「……そうですか」とだけ言った。
でも、さっきより声が硬くない。
ルカが話を戻す。やさしい速度で。
「黒木さん。ここに来た理由、もう一つある気がする」
黒木さんは視線を上げる。
「理由はありません。……ただ、仕事の帰り道で、気づいたら」
「気づいたら、来てた」
私が補うと、黒木さんはわずかに頷いた。
頷いたのに、すぐ言い直すみたいに言う。
「私は問題を解決しないといけない立場なので」
その“立場”が鎧だ。
ルカが聞く。
「黒木さん、誰かに怒ってる?」
「怒っていません」
即答。
「うん。じゃあ、責任だけ持ってる」
黒木さんの指がカップの取っ手を強く握った。
取っ手が折れそうな握り方。
「責任は必要です。甘さは、崩壊を呼びます」
「崩壊って、何が崩れるの?」
ルカの問いは穏やかなのに、逃げ場がない。
「組織です。秩序です」
「黒木さん自身は?」
私が言うと、黒木さんは固まった。
「……私は」
言葉が止まった。
モコが、黒木さんの足元でまたころん、と転がった。
何も気にせず。のんきに。
黒木さんの口から、ぽろっと落ちた。
「……軽い」
「はい。軽いです」
私が答えると、黒木さんは私を見た。
その目に、ほんの少しだけ人が戻る。
ルカが言う。
「黒木さん。ここでは、まず“受け取る”って言ってもらってもいい?」
黒木さんの眉が寄る。
「受け取る?」
「うん。本人が受け取らないと、ただの言葉だから」
黒木さんは小さく息を吐いた。
息が吐けた時点で、少しだけ鎧が緩んでいる。
「……受け取ります」
ルカが紙とペンを置いた。
私はその動作を見て、胸の奥が少し冷えた。
ルカが書くと、何かを抱える。昨日見た震えが頭に浮かぶ。
ルカは気づいたみたいに私を見て、言葉尻をやわらかくする。
「紡、今日は見てて。大丈夫」
“見てて”が命令じゃなくて、安心の手渡しみたいだった。
ルカが見立てる。
「黒木さんは、正しさを鎧にしてる。……鎧は、守るけど重い」
黒木さんが言い返しかけて、止めた。
「私は正しい。だから——」
「うん。正しい」
ルカは否定しない。
ただ順番を変える。
「でも正しいまま、眠れなくなってる」
黒木さんの目が揺れる。
「眠れてます。必要量は」
「必要量、って言い方、好きじゃない」
私がぽろっと言ってしまった。
黒木さんがこちらを見る。
「……なぜ」
「人って、必要量だけじゃ……足りない時、あるので」
自分の声が小さくなる。
黒木さんの空気に飲まれそうになる。
ルカが助けるみたいに言う。
「紡、今の、いい。…黒木さんに届いてる」
黒木さんがわずかに眉を動かす。
反論する代わりに、質問が出る。
「届く、とは」
「届くっていうのは——」
ルカが一拍置く。
「黒木さんが“自分の話だ”って思ったってこと」
黒木さんは黙った。
黙って、カップを見た。
湯気を見ているだけなのに、視線が少し柔らかくなる。
ルカが一行書く。
『今日は、正しいことより先に眠る』
黒木さんが鼻で笑いかけて、止めた。
「そんなの、無理です」
「無理じゃなくていいよ」
ルカの語尾はやわらかい。
「今日だけ。順番を入れ替えるだけ」
黒木さんの唇が震えた。
震えを隠すように、言葉が硬くなる。
「私が止まったら……終わる」
恐怖が、鎧の隙間から出る。
ルカは頷く。否定しない。
「うん。怖いよね」
その一言で、黒木さんの肩がほんの少し落ちた。
「でもね、黒木さん」
ルカが続ける。
「止まらないと、終わるのはもっと早い」
黒木さんの喉が動く。
「……じゃあ、どうすれば」
初めて、問いが出た。
正しさじゃない、助けの問い。
ルカは行動を一つだけ。
「スマホ、ある?」
黒木さんはバッグからスマホを出す。
指が速い。仕事の指だ。
「これがないと、動かないので」
「うん。分かる」
ルカは否定しない。
「じゃあ、一分だけ、裏返してみて」
黒木さんの指が止まる。
裏返すだけが、こんなに難しい。
「一分で、何が変わるんですか」
「一分は変わらない」
ルカの言葉尻がやわらかい。
「でも、一分“戻る”」
黒木さんはゆっくりスマホを裏返した。
置いた瞬間、肩がほんの少し下がる。
モコが「きゅ」と鳴いて、スマホの横にころん、と転がった。
まるで見張り役みたいに。
黒木さんが小さく言う。
「……監視されている」
「見守りです」
私が言うと、ルカも同時に言った。
「見守り」
黒木さんは一瞬だけ目を丸くした。
二人の声が揃ったのが、意外だったらしい。
「……息、吐けますか」
ルカが聞く。
黒木さんは息を吐いた。短い。
「もう一回」
もう一回。少し長い。
そのとき黒木さんの目が潤んだ。
潤むのに、涙は落ちない。
落とすまいと、正しさが踏ん張っている。
黒木さんが小さく言う。
「……私、甘いのが嫌いなんです」
「うん」
ルカが頷く。
「甘いのが嫌いな人ほど、甘さが必要な時がある」
黒木さんが鼻で笑った。
「……ずるい」
その一言で、空気が変わった。
鎧に隙間ができる。
——発動。
黒木さんの呼吸が深くなる。
目の焦点が、少し柔らかくなる。
「……眠い」
黒木さんが言った。
眠い、という言葉は弱音じゃない。体の声だ。
「うん。いいよ」
ルカが言う。
「眠いって言えたら、今日は勝ち」
黒木さんは処方箋を見つめた。
『今日は、正しいことより先に眠る』
「持って帰ります」
「うん。今日だけでいい」
黒木さんは立ち上がる。
靴を履く動作が少しだけ遅い。遅いのに、慌てていない。
「……ありがとうございました」
深いお辞儀。
扉へ向かう背中が、さっきより少しだけ軽い。
鈴が鳴って扉が閉まる。
その瞬間、私は膝がふわっと軽くなった。
軽いのに、立てない。
力が抜けたというより、力が残っていない。
「紡」
ルカがすぐに近づく。
言葉尻がやわらかいのに、焦りが混じる。
「座ろう。……うん、そこ。ゆっくり」
私は椅子に座った。
座った瞬間、指先がまた冷える。奥から出てくる冷え。
ルカが私の掌に温石を押し当てる。
「紡、今日はもう終わりにしよう」
「……私、何もしてません」
言った瞬間、声が情けなく聞こえて、嫌になる。
ルカは首を振る。
「してない、じゃないよ。……君が“ここにいる”ってだけで、僕は落ち着く」
「またそれ言う」
「言う。何回でも」
モコが「きゅ」と鳴いて、私の膝に跳び乗った。
のんきにあくびまでしている。
世界がまだ壊れていないみたいに。
アオが床に降りてきて、扉の前に座った。
動かない。
閉店の合図みたいに。
ルカが小さく息を吐く。
「……今日は閉店」
私は反射で謝りそうになって、口を閉じた。
代わりに、正直な言葉を探す。
「……少し、休みたいです」
ルカの眉が、少し下がる。安心が混じる。
「うん。そう言ってくれて、よかった」
ルカは毛布を持ってきて、私の肩にかける。整える手つきが丁寧で、でも手早い。
「紡、ここまで。…続きは、またでいい」
私は頷いた。
「……はい」
モコは私の胸元で丸くなって、すぐに目を閉じた。
のんきな顔。
アオは枕元に来て、目を閉じる。見張りのまま眠る猫みたいに。
ルカが小さな声で言った。
「明日は、もう少し楽にしようね」
それは約束じゃなくて、願いだった。




