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心が折れたので、森の小さな店で処方箋を作ります  作者: 九重有
第一章

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第3話 「大丈夫」という人の夜



棚の前で、私は紙の束を揃えていた。

端を指でそろえるたび、さらりと乾いた音がする。


そのとき、モコがふわっと跳ねた。


「きゅ」


白い紙の束の上に、ぺたんと座る。

なんの悪気もない顔で、ただ“そこが面白い”みたいに。


「ちょ、そこはだめ」


私は笑いながら紙を引き抜く。

モコは何が起きたのか分からない顔で、今度は私の腕によじ登ろうとする。


「ここ、ルカさんの仕事道具だから」


カウンターの向こうから、湯気の向こうの声が返ってきた。


「うん、今はね」


私は振り向く。


「今は、って?」


ルカは湯を注ぐ手を止めずに、目だけ細めた。語尾がやわらかい。


「でも紡にも、いずれ道具になるよ」


胸の奥が、静かに鳴った。

嬉しいより先に、怖いが来る。


「……まだ、早いです」


「急がなくていいよ」


ルカは湯気を落ち着かせるみたいに、言葉を置く。


「道具は、持つ人の呼吸が整ってからでいい」


モコが「きゅ」と鳴いて、私の袖口をちょん、と叩く。

私は紙の束を棚の奥へ戻し、モコを抱え直した。軽い。ふわふわして、のんきな匂いがする。


アオはカウンターの端に座り、こちらを見もしない。

尻尾だけが、ゆっくり揺れている。

見ていないふりで、全部見ている猫だ。


私はカップを拭く布を手に取った。

乾いた布には、かすかに草の香りが染みている。

カップを一つずつ拭く。拭くたび、陶器の表面が指に引っかかり、滑り、温度が分かる。


「紡」


ルカが呼ぶ。

名前の呼び方が、怒っていないのに止める音を含んでいた。


「その手、冷えてきてる」


私は反射で口を開きかけて、閉じた。

“平気”と言う前に、息を一つ吐く。


「……少し、冷えてます」


言えた瞬間、ルカの眉がほんの少し下がった。安心が混じる。


「うん。言い直せた」


褒め方が過剰じゃない。

でも、ちゃんと嬉しそうだ。


ルカはカウンターからカップを差し出した。


「これ、もう一口。熱いよ」


「ありがとうございます」


一口飲む。

甘さと苦さが、胸の奥をゆっくりほどく。


「今日は……」


ルカが言いかけて、少しだけ黙る。

言葉を選ぶ間。


「今日はね、もし何かあっても、急がなくていい。……隣で見ててくれたら、それで助かる」


「助かる、ですか」


「うん。僕が落ち着く」


不意に心臓が跳ねた。

優しい言い方なのに、逃げられない真剣さがある。


モコがカップの湯気に鼻先を近づけ、くしゃみみたいに「きゅっ」と鳴いた。

それで少し笑ってしまう。


「モコ、熱いのはだめ」


私はモコを抱え直す。

モコは気にしていない顔で、私の肩のあたりに顎を乗せた。


そのとき、鈴が鳴った。


からん、と短い音。

一回だけ。


空気が少しだけ引き締まる。

アオの尻尾が止まった。


ルカが扉を見る。

私はそれを見て、胸の奥が小さく鳴った。用意しろ、という合図。


ルカは扉へ向かう。

取っ手に触れる瞬間、ほんのわずか肩が上がる。


扉が開いた。


冷たい空気が流れ込む。森の匂いの中に、街の匂いが混じっている。鉄の匂い、汗の匂い、乾いた夜の匂い。


立っていたのは背の高い男性だった。

季節外れみたいに重いコート。肩が落ちている。

顔色は悪くない。むしろ整っている。

整っているのに、目の焦点が少しだけずれていた。

“ちゃんとしたまま、どこかで止まっている”目。


「……こんばんは」


ルカが言う。声は丸い。


男性は小さく頷いた。

頷いたのに、足が動かない。


「寒い?」


ルカが聞く。


「……大丈夫です」


第一声がそれだった。


声が平坦だった。

言葉の形だけが出て、体温が乗っていない。


ルカはすぐに否定しない。

扉の横へ身を引き、道を作る。


「入って。座って。ここ、冷えるから」


男性は一歩だけ踏み出した。

靴を脱ぐ動作が遅い。遅いのに丁寧だ。何かを壊さないようにしている。


椅子に座っても背もたれに触れない。

膝に手を置き、指先だけが微かに震えている。


ルカがカップを置く。


「飲める?」


男性は口をつけた。

飲んだのに、息が深くならない。喉を通っても胸の奥で止まってしまう。


ルカが、静かに聞く。


「お名前、言える?」


男性は少しだけ瞬きをして、答えた。


「……南條です」


「南條さん。今日は、どうしてここに」


「……大丈夫なので」


また戻る。

大丈夫の輪の中でぐるぐる回っている。


私は息を吸って、声を急がないようにした。


「南條さん。“大丈夫”って言うのが癖ですか」


南條さんの目が、少しだけこちらに向く。


「言わないと……崩れる気がして」


ようやく別の言葉が出た。

その言葉だけで、胸の奥が少し痛い。


「崩れたら、迷惑が」


「迷惑って、誰にですか」


私が聞くと、南條さんは一拍置いて答えた。


「……全部に」


全部。

便利で、残酷な言葉。


ルカがやわらかく割って入る。


「南條さん。今日は“全部”じゃなくていいよ。ひとつでいい」


南條さんが眉を寄せる。


「……ひとつ?」


「うん。いちばんしんどいの、ひとつだけ」


南條さんは黙った。

黙ったまま、カップを握る指に力が入って白くなる。


私はその手を見て言う。


「手、冷えてます」


「……大丈夫です」


また戻る。

戻るたびに、息が遠くなる。


ルカが少しだけ声を低くする。叱らないけど、逃がさない。


「大丈夫って言う前に、息して。……今、どんな感じ?」


南條さんの喉が動く。


「……分からない」


「分からなくていい」


ルカの語尾がやわらかい。


「分からないって言えたら、それで一歩」


その言葉に、南條さんの目が少しだけ揺れた。


そのときモコが床に降りた。

ふわり、と軽い音。

のんきなまま、迷いなく南條さんの足元へ向かう。


南條さんが反射で足を引きそうになって、止めた。

止めた瞬間、呼吸が一拍だけ深くなる。


モコが「きゅ」と鳴いて、足首にすり寄る。

毛がコートの裾に触れて、南條さんの指先の震えが少しだけ止まった。


「……あったかい」


声に温度が戻る。

戻った途端、目の奥の疲れが見える。隠せなくなる。


ルカが私を見る。

目が、静かに強い。

言葉はない。でも、今夜は“こちら”だと分かる。


ルカはペンを取らなかった。

代わりに、白い紙とペンをテーブルに置く。私の前に。


心臓が跳ねた。

怖い。

でも、南條さんの目が、今ここにいる。


ルカが小さく言う。言葉尻がやわらかい。


「紡。……焦らなくていい。ゆっくりでいいよ」


私は頷いた。

まず、同意を取る。ルカが教えてくれた土台。


「南條さん。一行だけ書きます。……受け取ってもらえますか」


南條さんは少し迷って、それから頷いた。


「……受け取ります」


その言葉が出た瞬間、店の空気が少し変わった気がした。

火の音が近くなる。湯気の匂いが濃くなる。


次に、見立てる。

私は急がない。


「南條さんは、“大丈夫”って言い続けて……息を止めてしまったんだと思います」


南條さんの眉がほんの少し動く。

当たっている反応。


私は一行を書く。

短く、迷わず。


『今日は「大丈夫」を言わない』


書いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

自分にも刺さる言葉だった。


最後に、行動。

言葉を身体に落とす。


「ここで一回だけ、言葉を変えましょう」


南條さんが私を見る。

焦点が、少しずつ合ってくる。


私はゆっくり言った。


「“大丈夫”じゃなくて」


一拍置く。


「“しんどい”って、言ってみてください」


南條さんは口を開け、閉じた。

言えない。言えないのに目が濡れる。

濡れるのに、涙が落ちない。


モコが足元であくびをして、丸くなる。

そののんきさが、逆に逃げ道を塞ぐ。

深刻になりすぎる前に、今ここに引き戻される。


南條さんの肩が震えた。

震えが体の奥から上がってくる。


「……しんどい」


声が掠れた。

でも確かに言った。


言った瞬間、南條さんの呼吸が一気に深くなる。

肺の奥まで空気が入って胸が膨らむ。

その膨らみに本人が驚いたみたいに目を見開く。


次の瞬間、涙が落ちた。

ぽた、とカップの縁に落ちる。

湯気が少しだけ揺れる。


南條さんは肩を落とした。

背もたれに、初めて背中が触れる。

指先の白さが戻る。


「……あ」


南條さんが、息を吐いた。長い息。


「……息、できる」


その言葉に、胸が少しほどける。

ほどけた瞬間、私の胸の奥が重くなった。


冷えが指先へ降りる。

掌がひやりとする。

視界の端が少し暗くなる。


——肩代わり。


私はカップを握った。

熱を逃がさないように。

でも、熱が追いつかない。


「紡」


ルカの声が鋭い。

鋭いのに、心配が先にある。


私は反射で否定しそうになって、止めた。

言い直す。


「……少し、冷えました」


ルカの表情が、ほんの少しだけ緩む。

すぐに動く。ためらいがない。


毛布が肩にかかる。

次に、温石が掌に押し当てられる。

石は熱を持っていて、じわじわと指先に広がる。


「紡、少しやりすぎたね」


ルカの語尾がやさしい。


「今日はここまでにしよう。……君が冷えるの、僕は好きじゃない」


胸がきゅっと鳴った。

言葉があたたかい。けれど“置かれる”感じじゃない。

ただ、手を引かれる感じ。


モコが「きゅ」と鳴いて、私の膝に跳び乗った。

ふわふわの体が乗って、軽い重みが落ち着きを連れてくる。

アオはいつの間にか床に降りていて、扉の方を向いて座っていた。

外を見張るみたいに。


南條さんは涙を拭きながら、処方箋を見つめていた。

紙の上の一行を、何度も目でなぞる。


「……これ、持って帰っていいですか」


声に温度がある。

助けを求める声ではなく、受け取った人の声。


「はい」


私は頷いた。頷き方をゆっくりにする。


「でも……今日は一回だけでいいです。無理は、しないで」


南條さんは小さく笑った。

笑い方が、ぎこちなくない。


「……一回だけ」


復唱が、約束になる。


扉の鈴が鳴る。

南條さんが立ち上がる。靴を履く動作が、さっきより確かだ。


「……ありがとうございました」


深いお辞儀。

謝罪じゃなくて、受け取った人の言葉だった。


扉が閉まる。

森の冷気が遠ざかる。


私は息を吐いた。

吐いた息が白くならないのに、指先だけが冷えている。


ルカが私の肩に手を置く。

強くない。逃げない程度の力。


「紡。……今の、できたね」


「……怖かったです」


「うん。怖くていい」


ルカの語尾がやわらかい。


「でも、次からはルール。君が壊れないためのルール」


私は頷いた。


「見立てる。受け取ってもらう。一行だけ。行動は小さく。……それで十分に効く」


「はい」


「はい、は一回」


「……はい」


モコがあくびをして、私の膝で丸くなる。

アオの尻尾が一度だけ揺れ、また止まった。


私はテーブルの上の紙を見る。

自分の字。たった一行。


嬉しい。

でも、胸の奥で、見えない糸がきゅっと締まる感覚がした。


ルカが一瞬だけ目を逸らし、すぐに戻す。


「……今日は、増えたね」


何が、とは言わない。

言わないまま、私の肩を軽く叩く。


「今日は休もう。続きは、またでいい」


私は頷いた。

返事はいつもより少し遅かった。


「……はい」


モコが「きゅ」と鳴いて、まるで終業の合図みたいに目を閉じた。

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