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心が折れたので、森の小さな店で処方箋を作ります  作者: 九重有
第一章

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2話目 断れない人の休日



朝の森は、音が少ない。

鳥の声は遠く、葉が擦れる音だけが近い。窓の外の緑は濃く、光は細い筋になって床をなぞり、壁をなぞり、また消える。


目を開けた瞬間、私は自分の呼吸を探した。

浅くない。喉で止まらず、胸の奥まで入ってくる。

それだけで、少し怖い。深い息は、何かが崩れる合図みたいに感じてしまうから。


布団から起き上がると、床の木が小さく鳴った。

足裏に冷たさが伝わる。嫌じゃない。痛みではなく、ただの朝の冷えだ。


昨夜の記憶が、途切れずに残っている。

駅の光。坂道。森の匂い。

そして——看板。


【処方箋を作ります】


夢なら、起きたら元の部屋にいるはずなのに。

窓の外は森で、朝の光は柔らかく、遠くで水の音がする。


扉を開けると、湯気の匂いがした。

甘い草の匂いと、火の匂い。陶器が木に触れる乾いた音。


カウンターの向こうでルカが湯を注いでいた。

袖を捲った腕が動くたび、湯気が光って揺れる。暖炉の火は小さく、でも確かに生きていた。


「起きた」


声が短いのに、刺さらない。

言葉が、角を落として置かれる感じ。


「おはようございます」


「うん。飲んで」


差し出されたカップを両手で包む。

陶器の熱が掌に伝わり、指先の冷えが少し引く。

一口飲むと甘さが先に来て、あとから草の苦みが静かに追いかける。喉を通った瞬間、胸の奥のこわばりが一段ゆるむ。


足元で「きゅ」と小さな声。

モコが布の影からもぞもぞと出てきて、私の足首にすり寄った。毛が触れて、くすぐったい。


「……おはよう」


モコは返事みたいに鼻先を押し当て、私の膝によじ登って丸くなる。しっぽが太ももにかかり、軽い重みが乗る。


ルカがそれを見て、ほんの少しだけ目尻を緩めた。


「ちゃんと起きられたね」


「……ここ、夢じゃないんですね」


言葉にした瞬間、喉がきゅっと詰まった。

怖さは遅れて来る。


ルカはすぐに肯定も否定もしない。

カップを置いて、椅子を一つ引いた。座る位置は向かいじゃなく、少し斜め。視線がぶつかりすぎない距離。


「怖い?」


「……はい」


答えた自分に驚いた。

今まで“はい”と“いいえ”の間で濁すのが癖だったのに、ここでは嘘が出にくい。


ルカは頷いた。


「うん。怖くていいよ。……ここは、そういう人が来る場所だから」


「私、帰れますか」


ルカは少しだけ息を吐いた。

ためらいが、声に混じる。


「帰れる可能性はある。……でも今日、すぐって感じ知道ない」


「……道が、見えない?」


「うん。日によって変わる。心みたいに」


言い方が柔らかくて、逆に現実味が増す。

道が心みたいに変わるなら、私は今、相当ぐちゃぐちゃだ。


私はカップを握り直した。


「じゃあ……私は、ここで何を」


「今は、休む。それが一番」


ルカは少しだけ笑う。


「休むのが下手な人ほど、休む練習が必要だから」


胸の奥がちくりとした。

当たっている。


「……手伝えること、ありますか?」


言ってから、しまったと思った。

手伝う癖。役に立たないと落ち着かない癖。


ルカはその癖を責めない。

でも、飲み込まない。


「うん。あるよ。ただし、紡が壊れない範囲で」


「壊れる……」


「大げさに聞こえるかもしれないけど、ここはね、優しい人が壊れやすい」


言葉尻がやさしいのに、芯がある。


ルカは立ち上がって、棚を指さした。

瓶が並び、紙が積まれ、ペンが数本、きれいに揃っている。


「まずは、カップを拭く。布はそこ。……それと、火を見て。近づきすぎない」


私は頷き、布を取った。

布は乾いていて、少しだけ草の香りがする。

カップを一つずつ拭く。拭くたび、陶器の表面が指に引っかかり、滑り、温度が分かる。


単純な作業は、頭の中の騒音を薄くしてくれる。

私は気づかないうちに、息を長く吐いていた。


「……紡」


ルカが呼ぶ。

名前の呼び方が、包むみたいだ。


「さっきの“手伝えることある?”ってやつ、悪いことじゃないよ」


私は手を止めた。


「でもね、今日は“手伝う”より先に、“自分の息”を覚えて」


「息……」


「うん。今、浅くなった」


言われて初めて気づく。

私は慌てた時、息が止まる。


「……こういうのも、処方なんですか」


ルカは少しだけ首を傾ける。


「処方っていうより、土台。土台がないと、言葉が効かない」


「言葉が……効く?」


昨日の一行が頭をよぎる。

『今日は、ひとつだけ“やらないこと”を決める』

あれは確かに、身体に落ちた。肩が下りて、息が深くなった。


「……あれ、どうして効いたんですか」


私が聞くと、ルカはカップを指で軽く回した。

湯気がふわりと揺れる。


「“受け取った”から」


「受け取る……」


「うん。ここでは、それが大事。本人が受け取らない限り、ただの文字なんだ」


私は紙の束を見た。

白い紙。ペン。整った棚。

道具は、いつでもそこにある。


「じゃあ、受け取ってもらえれば……誰でも」


言いかけて、ルカの目を見て止まった。

ルカの目が少しだけ曇った。


「……誰でも、ではないよ」


声がやわらかい分、言葉が重い。


「ここは“代わりに抱える”仕組みがある。だから、分け方を間違えると、書く側が先に折れてしまうんだよ」


胸が冷える。

代わりに抱える。

昨日、ルカの指先が震えたのを思い出す。


「ルカさんは……」


「僕は、今は書かないかな」


言い切るのではなく、言葉尻を落とす。


「書けないのか、書かないのか……それは、今はいい。紡は、まず休もう」


答えの手前で止める。

それが、いま必要な距離の取り方だと分かる。


私は頷いた。

頷いたとき、胸の奥が少しだけ落ち着いた。


そのタイミングで、鈴が鳴った。


からん、と乾いた音。


ルカの背中が少しだけ硬くなる。

でも言葉尻は崩れない。


「……来たね」


扉が開く。

森の冷気といっしょに、街の匂いが入り込む。鉄の匂い、汗の匂い、夜更かしの匂い。


スーツ姿の男性が立っていた。

肩が湿っている。雨じゃない。汗だ。

姿勢は崩れていないのに、目の下に薄い影がある。


「……すみません」


第一声がそれだった。


ルカは距離を詰めず、声を丸める。


「寒いよね。入っておいで。謝るのは、あとでいい」


男性は少しだけ肩の力を落として入った。

靴を揃える手つきが丁寧すぎて、見ているこっちが息を詰める。

“ちゃんと”し続けてきた手だ。


椅子に座っても背もたれに触れない。

膝の上で指を組み、親指だけが忙しく動いている。


ルカが温かいカップを置く。


「飲める?」


男性は両手で受け取り、口をつけた。

飲んだのに、息が深くならない。喉を通っても胸の奥で止まってしまう。


私は、声を急がないように聞いた。


「お名前、教えてもらえますか」


男性は一度口を開け、閉じた。

それから小さく答える。


「……篠原です」


「篠原さん。今日は、どうしてここに」


篠原さんは視線を落とした。


「……別に。大丈夫なんです」


言葉に温度がない。

大丈夫で蓋をする癖が、口の形だけ残っている。


沈黙が落ちる。

落ちた沈黙に耐えられないみたいに、篠原さんが続けた。


「僕、頼まれると断れなくて。……断れないっていうか、断らないんです。断るのが怖くて」


語尾が小さくなる。

小さくなるほど、真実に近づく。


ルカは頷く。


「怖いって言えたの、偉い」


篠原さんが少し驚いた顔をする。

“偉い”と言われることが、たぶん久しぶりだ。


私が聞く。


「断らないと、どうなると思いますか」


篠原さんの親指が速く動く。


「……嫌われるとか。評価が落ちるとか。頼れないやつだって思われるとか」


「それ、誰かに言われましたか」


篠原さんは首を振る。

誰も言っていない。

言っているのは、篠原さん自身だ。


ルカが白い紙とペンをテーブルに置いた。


「篠原さん。今いちばん重いこと、書いてみようか」


篠原さんはペンを握った。

握った途端、手が震える。震えを隠そうとして指に力が入る。

“震えないようにする”ための力が、また疲れを増やす。


篠原さんは丁寧すぎる字で書いた。


『返事が早すぎる』


そのとき、モコが床に降りた。

ふわり、と軽い音。

迷いなく篠原さんの足元へ行き、足首にすり寄る。毛が触れて、篠原さんの親指の動きが一瞬止まった。


「……あったかい」


声が少し柔らかくなる。

柔らかくなった途端、目の奥の疲れが見える。


ルカは紙を見て、頷いた。


「篠原さんは、断れないんじゃなくて……返事を急ぐ癖があるんだね」


篠原さんの眉が少し動く。

当たっている反応。


ルカは続けた。語尾をやわらかく。


「一行だけ書くよ。受け取ってもらってもいい?」


篠原さんは迷って、でも頷いた。


「……受け取ります」


ルカが書く。迷わず一行。


『返事は「今は決めません」でいい』


私はその字を見て、息が止まりそうになった。

一行が、刃物みたいに正確だ。

でも刃物じゃない。切り捨てではなく、守るための一行。


ルカが言う。


「篠原さん。ここで一回だけ、練習しようか」


「練習……」


「うん。僕が頼むね。『今すぐ返事して』って」


篠原さんの喉が動く。

怖さが形になる動き。


ルカは優しい声で頼んだ。


「篠原さん、今すぐ返事して」


篠原さんは一度口を開け、閉じた。

それから、紙を握りしめるみたいに見て、言う。


「……今は、決めません」


声が小さい。

でも言えた。


言えた瞬間、肩がほんの少し下がる。

半拍遅れて、息が深くなる。


篠原さんは驚いたように瞬きをした。


「……あ、なんか……胸が、楽になった」


ルカが小さく頷く。


「うん。効いたね」


その瞬間、私はルカの指先がわずかに震えるのを見た。

ほんの一瞬。

胸の奥が冷える。


——代わりに抱える。


ルカはすぐに袖で指先を隠すみたいに手を引き、何事もなかったように笑う。


「篠原さん、今日はそれだけでいいよ。小さくで十分」


篠原さんは処方箋を両手で押さえた。


「これ……持って帰ってもいいですか」


「うん。持って帰って。……でも、今日一回だけ使ってね」


「一回だけ」


篠原さんが復唱する。

復唱の声が、さっきより落ち着いている。


扉の前で靴を履く。

靴紐を結ぶ手つきが少しだけ雑になる。


雑、じゃない。

力が抜けた手つき。


篠原さんは振り返り、頭を下げた。


「……ありがとうございました」


謝罪じゃない。受け取った人の言葉だった。


扉が閉まる。鈴が鳴る。

森の冷気が遠ざかる。


私は息を吐いた。

吐いた息がちゃんと長い。


ルカが私を見て、言葉尻をやわらかく落とした。


「紡、今の、見えた?」


「……指、震えてました」


ルカは一瞬だけ目を伏せた。

隠さないけど、見せすぎない顔。


「うん。……だから僕は、あまり書かないようにしてる」


「じゃあ……いつか、私が」


言いかけて、喉が詰まる。

怖い。でも、避けられない予感。


ルカは私を見て、少し笑った。

安心させるための笑いじゃない。ちゃんと現実の笑い。


「急がなくていいよ。君が“書く側”になるなら、順番がある」


「順番……」


「見立てて、受け取ってもらって、一行だけ。行動は小さく。……それで十分に効く」


私は頷いた。

手順があると、怖さが少し減る。


モコが「きゅ」と鳴いて、私の膝の上で丸くなる。

しっぽが太ももにかかって、軽い重みが落ち着きを連れてくる。


私は、棚の紙を見た。

白い紙が、ただの紙じゃなく見えた。


——いつか、ここに自分の字が並ぶ。


その想像が、嬉しくて。

少し怖かった。

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