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心が折れたので、森の小さな店で処方箋を作ります  作者: 九重有
第一章

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第1話 森の小さな店

第1話 森の小さな店


終電を逃した駅は、いつもより広かった。

改札の向こうに人影はまばらで、アナウンスの残響だけが天井に引っかかっている。床を磨いた洗剤の匂いが鼻の奥に残って、喉が乾いた。


ベンチに腰を下ろすと、コートの内側が汗ばんでいるのに、指先は冷たかった。

スマホの画面には未読が並び、通知の赤い点が小さく脈打つ。返事をしなければ、と頭では分かるのに、指が動かない。指の代わりに、胸の奥が先に「やめて」と言った気がした。


「……大丈夫」


声は小さく、駅の空気に吸われていく。

言った瞬間、胸の奥のどこかがきゅっと鳴った。息が浅い。肩が上がったまま戻らない。自分の身体なのに、扱い方がわからなくなる。


立ち上がって歩き出す。どこへ向かうつもりもなく、ただ人の少ない方へ。

駅の裏手に回ると、風が変わった。アスファルトの熱が薄くなり、土の匂いが混じる。雨が降ったわけでもないのに、湿った葉の香りがした。


そこに、小さな坂道があった。


昨日まで、ここは駐輪場のフェンスだったはずだ。

なのに今は、黒い影の間に、細い道が口を開けている。街灯は届かないのに、足元だけが淡く見える。道の先から、木が擦れる音がした。


一歩、踏み出す。靴底が土を踏む感触に変わる。

もう一歩。空気がひやりとして、息が少し甘くなる。夜の匂いが、駅の匂いを押し流していく。


背後を振り返ると、駅の光が遠い。

足元の道は、落ち葉に覆われ、柔らかく沈む。枝の間から月が覗き、木々は黒い海のように揺れていた。遠くで水の音がする。どこかで虫が鳴き、風が葉をこすった。


どれくらい歩いたのか分からない。

気づくと、森の奥に、ぽつんと灯りが浮かんでいた。


家だった。

古い木の家。屋根の端に苔がつき、窓の内側だけが橙色に明るい。火の色だ。あの光は、手を伸ばせば温度が分かるような色をしている。


玄関の上で、小さな看板が揺れていた。

墨のような文字が、柔らかい丸みで書かれている。


【処方箋を作ります】


扉の前に立つと、指先が震えた。

ノックをする勇気が出ない。呼吸だけが浅くなる。戸口の木目が近すぎて、目の焦点が合わない。


そのとき、内側で鈴が鳴った。

からん、と、乾いた音。


扉が、静かに開く。


湯気が流れ出してきた。

温かい匂い。草と蜜の匂い。火で温めた金属の匂い。

それだけで胸がゆるみ、喉の奥が熱くなる。


「……いらっしゃい」


声は柔らかく、押しつけがましさがなかった。

立っていたのは背の高い人で、白いシャツの袖をきちんと捲り、前掛けの紐を結んでいる。目が静かだった。見透かすのではなく、慌てさせない目。


「迷った?」


私は、うなずいた。言葉が出ない。


「うん。大丈夫。……寒いね、入って」


言われるまま足を踏み入れる。

床は木で、足音が柔らかく返る。壁には乾いたハーブの束が吊られ、小さな棚に瓶が並んでいた。奥で火がはぜる。暖炉だ。火の音は一定で、呼吸みたいに落ち着いている。


椅子に座った瞬間、膝が震えた。

震えが止まらないのに、不思議と怖くなかった。身体が、ようやく力を抜く場所を見つけたみたいだった。


「手、冷えてる」


その人——後でルカと知る——は、近づきすぎない距離で言った。

それでも言葉は、指先に触れた。


湯気の立つカップが置かれる。

陶器は少し厚く、持つと熱がじんわり伝わってくる。


「熱いよ。ゆっくり」


一口飲む。

甘さが先に来て、あとから草の苦みが静かに追いかけてくる。喉を通った瞬間、胸の奥の固さが一段ゆるむ。涙が出そうになって、私は目を伏せた。


「無理に話さなくていい」


ルカは向かいに座らない。カウンターの端に寄りかかって、こちらを見ている。

見ているのに、追い詰めない。


「でも、話したくなったら聞く」


その言葉が、床に置かれた毛布みたいに感じた。

私は、息を吸った。吸う息が少し深い。


「……大丈夫です」


出てしまう。癖みたいに。


ルカは笑わない。ただ、首を少し傾けた。


「そう言う人が、よく来る」


否定されないのが、こんなに楽だなんて知らなかった。

楽になった分、胸の奥が痛くなる。痛いのに、逃げなくていい。


「何が大丈夫なんだろうって、思う?」


ルカは静かに言った。

問いかけは軽くて、でも芯がある。


私は口を開け、閉じた。

言葉にならない。代わりに、喉が詰まる。


ルカはテーブルに、白い紙とペンを置いた。

紙は少し厚く、角がきれいに揃っている。


「書けそうなら。今、いちばん重たいもの」


重たいもの。

仕事。返事。顔色。期待。

思い浮かぶのに、どれも違う気がして、ペン先が止まる。手が小さく震える。


そのとき、足元で小さな声がした。


「きゅ」


視線を落とすと、ふわふわした小さな生き物が、床からこちらを見上げていた。

丸い耳、大きな目。淡いクリーム色の毛。リスのような尾が、毛布みたいに膨らんでいる。


「……っ」


驚くより先に、柔らかい体温が足首に触れた。

ぴたりと寄り添ってくる。迷いがない。


「モコ」


ルカが、ごく自然に名前を呼んだ。

モコは私の膝によじ登り、丸くなる。しっぽが太ももにふわりと掛かる。あたたかい。火の熱ともカップの熱とも違う、いきものの熱。


胸の奥が、少しだけほどけた。


私は、紙に書いた。


『全部、ちゃんとやろうとして疲れました』


書いた瞬間、涙が落ちた。

インクがにじみ、文字の端がふわりと滲む。


ルカは紙を取らない。

ただ、ゆっくりうなずいた。うなずき方が、急かさない。


「……うん。じゃあ、処方するね」


ルカはペンを取り、私の書いた文の下に一行だけ、まっすぐ書き足した。


『今日は、ひとつだけ“やらないこと”を決める』


たった一行。

それだけなのに、胸が少し軽くなる。重さが消えるわけではない。けれど、持ち方が変わる。


「声に出せる?」


私は、うなずき、紙を見つめる。

喉が震える。それでも、口を動かす。


「今日は、ひとつだけ……やらないことを、決める」


言葉が空気に落ちた瞬間、肩がすっと下がった。

息が、肺の奥まで入る。入ったところで、胸が静かになる。


——効いた。


そう思うより先に、身体が先に知っていた。


モコが「きゅ」と鳴き、私の手の甲に鼻先を寄せる。

その小さな重さが、現実につなぎ止めてくれる。


私は、顔を上げた。


「ここは、何なんですか」


ルカはすぐに答えない。

火の音を一つ数えるみたいに間を置く。


「休める場所。……今は、それでいい」


曖昧なのに、嘘じゃない言い方だった。


「帰れますか」


言った途端、怖さが喉を掴む。


ルカの表情が、ほんの少しだけ変わる。

心配の色が混じる。でも、押し込めるのが上手い。


「帰れる。……帰れる可能性は、ある」


私はその言葉を、カップの熱みたいに両手で受け取った。

完全な約束ではない。でも、見捨てる言葉でもない。


モコが私の膝で眠りかけ、しっぽがゆっくり揺れる。

火がはぜる。湯がかすかに沸く。


ここなら、少し置ける。

大丈夫と言わないまま、息ができる。


そのとき、どこかで鈴が鳴った。

からん、と小さく。


外の森が、ざわりと揺れた気がした。

葉擦れの音が近づき、また遠ざかる。


私はまだ知らない。

この店が何なのかも、ルカの目の奥の静けさが何を隠しているのかも。

ただ、今夜だけは分かる。


私は初めて、

“平気なふり”を置いたまま座っていられた。

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