第9話 森の店の「断り」
その朝、森は静かすぎた。
静かなのに、音が遠い。いつも聞こえる小さな鳥の声が、今日は届かない。
私は棚の前に立っていた。瓶の位置を直す。直して、また直す。整っているのに、整っていない気がする。
足元でモコがころん、と転がった。
「きゅ」
のんきな声。
私はしゃがんで、モコの頭を撫でた。温かい。生きている温度。
アオは窓辺で外を見ている。尻尾が一度だけ揺れて、止まった。
「紡」
ルカの声が近い。
「今日は、無理しない日だよ」
「……いつも言ってます」
「うん。今日は、特に」
その“特に”が、少し重い。
「何かあります?」
ルカは少し考えてから言った。
「今日は、断る日になるかもしれない」
私は聞き返した。
「断る……?」
「うん」
ルカの語尾がやわらかい。
「この店が、ね」
鈴が鳴った。
からん
一回だけ。
アオの尻尾が止まる。
モコは止まらない。ころん、と転がって、起き上がる。
扉が開いた。
入ってきたのは、男性だった。
歩き方が速い。目がまっすぐ。迷いがない。店の空気を確かめる前に椅子へ向かう。
“助けてほしい人”の動きじゃない。
“助けさせる人”の動きだった。
「ここ、噂の店ですよね」
第一声が確認。
ルカがやわらかく答える。
「いらっしゃい。座ろうか」
「助けてもらいに来ました」
男性は座った。背もたれに深く体を預ける。腕を組む。目が笑っていない。
私はカップを置きながら聞いた。
「お名前、伺ってもいいですか」
「黒崎です」
苗字だけ。即答。
「黒崎さん。今日は、何が一番困ってますか」
黒崎さんは迷わなかった。
「仕事で成功したいんです」
私は一瞬、言葉を失った。
「成功」
「はい。結果が出ない。努力はしてるのに」
声が強い。早い。止まらない。
「集中力を上げたい。迷わない判断力が欲しい。人に舐められない自信も欲しい。全部必要なんです」
私はカップを握り直した。
胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。
ルカが静かに聞く。
「黒崎さん。それは、治したいもの?」
「え?」
「苦しさを止めたいのか、結果を増やしたいのか」
黒崎さんは少し眉を寄せた。
「結果が出れば、苦しくなくなります」
ルカはすぐには返さない。
一拍置いてから言った。
「この店はね」
語尾がやわらかい。
「前に進むための力は出せない」
黒崎さんが笑った。乾いた笑い。
「意味が分からない。助ける店でしょ?」
「助けるよ」
ルカは頷く。
「でも、進ませる店じゃない」
黒崎さんの目が細くなる。
「違いは?」
「息を戻す場所」
短い言葉。
「走るための場所じゃない」
黒崎さんの声が少し低くなる。
「じゃあ、無意味ですね」
空気が変わった。
店の温度が、ほんの少し下がる。
私は思わず口を開きかけて、止まった。
ルカが先に言う。
「黒崎さん」
語尾がやわらかいまま、揺れない。
「ここでは、できないことがある」
黒崎さんが笑う。
「できない?」
「うん」
一拍。
「この店は、“走り続けたい人”は助けられない」
静かな言葉だった。
黒崎さんの視線が鋭くなる。
「助ける気がないだけでしょ」
その瞬間、湯の音が止まった。
さっきまで聞こえていた小さな沸騰音が、ふっと消える。
私は思わず振り返った。
モコがころん、と転がった。
のんきな音だけが、空気を少し戻す。
ルカは怒らない。
「助けたいよ」
そして続ける。
「でも、黒崎さんはまだ止まってない」
黒崎さんが黙った。
ルカの声は変わらない。
「この店は、止まった人しか入れない」
沈黙。
黒崎さんは立ち上がった。椅子が小さく鳴る。
「……意味が分からない店だ」
扉へ向かう。足音が速い。
扉の前で止まり、振り返らないまま言った。
「もっと役に立つ場所探します」
扉が閉まった。
鈴が鳴った。短く。
私は、息を止めていたことに気づいた。
「……断った」
「うん」
ルカが頷く。
「店が断った」
胸の奥が、少しざわつく。
「助けられたかもしれないのに」
ルカは首を振る。
「助けるタイミングじゃない」
「タイミング」
「止まれたら、戻ってくる」
語尾がやわらかい。
「走ってる人は、まだ聞こえない」
私はカップを握った。
温かさを確かめるみたいに。
「……店にも、断る日があるんですね」
ルカが小さく笑った。
「うん。あるよ」
一拍。
「紡と同じ」
モコがころん、と転がった。
アオの尻尾が一度だけ揺れる。
今日は、処方箋は書かれなかった。
店が、一人断った。




