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心が折れたので、森の小さな店で処方箋を作ります  作者: 九重有
第一章

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プロローグ 戻れなくなった夜



帰り道が、消えた。


森はいつも同じ顔をしている。

木の匂いも、火の音も、湯気の匂いも。

それなのに、その夜だけは「外へ続く気配」だけが見当たらなかった。


扉の前に立つ。

木の取っ手に触れる。

いつも通りの、ぬるい温度。


押す。


開かない。


もう一度、押す。

少し強く。


開かない。


「……ああ」


笑ってしまったのを覚えている。

大丈夫だと思っていたからだ。

何度も危ない線を踏んで、戻ってきた。

今日も戻れる。

そう信じる癖だけが、上手になっていた。


背後で、鈴が鳴った。


一度。

二度。

三度。


猫が、扉の前に座る。

いつもの位置より、ほんの少しだけ前。

逃げ道を塞ぐような位置で。


——結び目が、増えた。


数は見えない。

見えなくても分かる。

増え方が違う。

胸の奥の糸が、ぎゅっと締まる。

息が浅くなる。

足元が冷える。


その夜の客は多かった。

忙しい日というより、世界が削れている日。

言葉が追いつかない人が、続く日。


最後の客は、入ってきたときから「大丈夫」を繰り返していた。

顔色は悪いのに、笑っている。

笑い方だけが丁寧で、目が助けを求めていないふりをしている。


一番危ないやつだ。


「……座って」


声が、思ったより柔らかく出た。

それが自分の声だと気づいて、少しだけ安心した。

こんな夜でも、私はまだ、壊れてはいない。


温かい飲み物を出す。

毛布を一枚。

言葉を急がない。


それだけで、人は呼吸ができる。

呼吸ができると、やっと本音が出る。


「……もう、無理だと思って」


客がそう言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

ああ、言えた。

言えたなら、戻れる。


私は紙を取った。

ペン先が震える。

震えを叱らない。

叱ると、余計に震えるから。


一行だけ。


たった一行でいい。


客は処方箋を受け取った。

読み上げた瞬間、目の焦点が合う。

息が深くなる。

肩が下りる。


——治った。


その瞬間だけは、いつも嬉しい。

世界がほんの少しだけ、元に戻る気がする。


「ありがとう」


客が泣いた。

泣けるのは、生きている証拠だ。

私はそれが嬉しくて、笑おうとした。


そのとき、胸の奥が重くなった。


痛い、じゃない。

重い。

見えない荷物を抱えたみたいに、内側の筋肉が固まる。


——肩代わり。


その言葉を、私はまだ知らなかった。

知らなかったけれど、身体は知っていた。

治した分だけ、こちらが少し冷えることを。


客は帰っていった。

扉の外の森が、道を作ってくれたからだ。

迷いながらも、ちゃんと出口へ向かっていく背中を見送って、私は思った。


よかった。

戻れた。


その直後だった。


扉が、開かなくなった。


押しても、引いても、動かない。

取っ手はある。

扉もある。

でも“外”が、ない。


森は静かだった。

責めもしない。

慰めもしない。


ただ、帰り道を消した。


猫が低く鳴いた。

叱っているのではなく、知らせている。

「ここまでだ」と。


私は扉に背を預けた。

木が冷たい。

自分の背中が熱い。


——戻りたかったな。


その言葉が、初めて本音だった。

戻りたい。

外に。

人のいる場所に。

朝が来る場所に。


でも、森はもう、私を返さない。


胸の奥の糸が、また締まる。

結び目が増えたせいだ。

分かっている。

分かっているのに、悔しかった。


そのとき。


鈴が鳴った。


今度は、外から。


扉の向こうに、誰かがいる。

落ち葉を踏む、ためらう足音。

迷いながら近づく気配。

まだ折れきっていない、誰か。


私は顔を上げた。

息を吸う。

浅いままでもいい。

声が出るなら、それでいい。


帰れなくなった夜に、森はまた誰かを連れてくる。

まるで私に言うみたいに。


——次は、お前が迎えろ。


「……いらっしゃい」


声が震えた。

けれど、その震えは怖さだけじゃなかった。


その子だけは、戻さなきゃいけない。


たとえ、私がここに残ることになっても。

たとえ、この店が“私の場所”になってしまっても。


扉の向こうの気配が、一歩近づく。


私は、扉の内側で静かに立った。

迎える準備をしながら、ひとつだけ願う。


この子には、結び目を増やしすぎないでほしい。

この子には、戻ってほしい。


そして私は、その願いが、これから私を守るのか壊すのかを

まだ知らないまま——扉に手を伸ばした。

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