第一章 囁き
平和とは生贄を欲している。限りなく大量の生贄を。
薄暗い研究室に、その声は響いた。床に散乱する古びた文書と、画面に映し出された複雑な演算式。アカデミーでも異端視されるこの部屋で、老教授ノヴァは、若き助手、ミカエル・レイヴンに静かに語りかけた。
ミカエルは、ディスプレイに表示されたシミュレーション結果から目を離せないでいた。世界紛争指数:0.0001%。統計学的に見て、「完全なる平和」と呼べる数字だ。この状態が、既に70年間続いている。
「教授、その理論は…倫理的に受け入れがたいものです。現に、この70年間、大きな戦争もテロも飢餓も、記録されていません。人々は満たされ、自由を享受しています。これは人類の英知の勝利ではないのですか?」ミカエルは声を震わせた。
ノヴァは、皺だらけの指で、古書のページをゆっくりとなぞった。
「英知…か。ミカエル、君は知っているだろう。人間の本性は、自己破壊と競争にある。歴史がそれを証明してきた。何故、突然、その本性が消えたと思う?」
ノヴァは立ち上がり、窓の外、穏やかに暮れる夕陽に照らされた、完璧に調和した都市を見やった。車のクラクションも、怒鳴り声もない。すべてが、静かで、秩序正しい。
「我々が構築した『調和システム』。このシステムこそが、この平和の維持装置だ。そして、その動力源が…」
それは、悪魔と呼ぶのではないか?
ミカエルの問いは、懺悔のように小さかった。
「悪魔、か。定義の問題だな。」ノヴァは薄く笑った。「君は、システムが70年でどれだけの『逸脱者』を処理したか、覚えているかね?」
ミカエルはデータを思い浮かべた。システムが「平和への脅威」と断定した人間—過激な思想家、独裁的な指導者、あるいは、単なる強い反抗心を持つ者—が、ある日突然、何の痕跡もなく社会から消える。その数は、人類史上、戦時下でもありえなかったほどの、大量の消失者。
「彼らは、戦争や紛争の『火種』だった。システムは、火種が燃え上がる前に、それを摘み取る。彼らの存在が、この70億人の平和を支えている。」
「それは、未来の罪に対する、現在の処刑です!彼らは、何も犯していない!」
「もし君が、一人の犠牲で、千人を、億人を救えるなら、どうする?」ノヴァはミカエルの瞳を覗き込んだ。「そして、その犠牲が、決して公にならないのなら?」
ノヴァの背後にある古書には、奇妙なシンボルと、古の言語でこう記されていた。
Pax Aeterna Sanguinem Vult.(永遠の平和は血を欲する。)




