第7章
# 第7章:対決
部屋に戻ると、彼女が置いていった朝食が、テーブルに並んでいた。
サンドイッチと、コーヒー。
ラップがかけられている。
彼女らしい、細やかな気配り。
でも、今の僕には、それが重く感じられる。
僕は、サンドイッチに手をつけなかった。
食欲がない。
ただ、コーヒーだけを飲む。
冷めていたが、構わなかった。
時計を見る。
午前十一時。
夜八時まで、あと九時間。
長い。
あまりにも長い。
でも、待つしかない。
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午後は、何もする気になれなかった。
ソファに座り、ぼんやりと過ごす。
何度も、今夜のことを考える。
彼女に、何を聞けばいいのか。
どう切り出せばいいのか。
そして――
彼女が、本当のことを話してくれるのか。
もし、彼女が否定したら?
もし、彼女が逃げたら?
いや、彼女は逃げない。
あの返信の様子からして、彼女は覚悟している。
むしろ、この瞬間を待っていたような気さえする。
時間が、ゆっくりと過ぎていく。
午後三時。
午後五時。
午後七時。
そして、午後七時五十分。
チャイムが鳴った。
僕は、飛び上がる。
早い。
十分も早い。
でも、彼女だ。
間違いない。
僕は、深呼吸をする。
落ち着け。
落ち着いて、話すんだ。
玄関へ向かう。
ドアを開ける。
そこに、彼女が立っていた。
いつもと同じ、優しい笑顔。
でも、どこか――覚悟を決めたような、静かな表情。
「こんばんは」
彼女は、そう言って、中に入る。
僕は、何も言わずにドアを閉める。
彼女は、靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
僕も、後に続く。
彼女は、ソファに座る。
僕も、向かい側のソファに座る。
テーブルを挟んで、向かい合う。
沈黙。
どちらも、何も言わない。
ただ、見つめ合う。
やがて、彼女が口を開く。
「……話って、何?」
彼女の声は、いつも通り穏やかだ。
でも、どこか、緊張している。
僕は、覚悟を決める。
「あの記憶のこと」
「記憶?」
彼女は、首を傾げる。
「記憶屋で買った、記憶」
彼女の表情が、一瞬だけ固まる。
でも、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「ああ……また、買ったの?」
「ああ。でも、今回は違った」
「何が?」
「両親が殺される記憶だった」
彼女は、黙る。
もう、笑顔は消えている。
真っ直ぐに、僕を見つめている。
「僕は、その記憶を見た。大柄な男が、両親を殺す光景を」
「……そう」
「でも、おかしなことがあった」
僕は、左手を上げる。
「記憶の中で、父が男の左手を引っ掻いた。その瞬間、僕の左手に、痛みが走った」
彼女は、何も言わない。
ただ、じっと僕を見ている。
「そして、君の左手にも、傷があった」
僕は、彼女の左手を見る。
今日も、彼女は白い手袋をしている。
「三日月型の傷。記憶の中の傷と、同じ形の」
彼女は、ゆっくりと自分の左手を見る。
それから、僕に視線を戻す。
「それで?」
「記憶屋に行った。店主に聞いた」
「何を?」
「あの記憶が、どこから来たのか」
僕は、言葉を続ける。
「店主は言った。あの記憶は、特別な依頼で入ってきたものだと。特定の顧客――つまり僕に、特定の記憶を売るように指示されたものだと」
彼女は、動じない。
「依頼主は、僕に近い人間だと言っていた」
僕は、彼女を見つめる。
「君だろう?」
沈黙。
長い、長い沈黙。
彼女は、何も言わない。
ただ、僕を見つめている。
その目には、何の驚きもない。
まるで、この瞬間を予期していたかのように。
やがて、彼女はゆっくりと立ち上がる。
窓辺へ歩いていき、外を見る。
「ねえ」
彼女は、窓の外を見たまま、静かに言う。
「どうして、気づいたの?」
「傷だよ。君の左手の傷」
「ああ、そう」
彼女は、小さく笑う。
「わざと残したのに、気づくのに時間かかったね」
「わざと……?」
「うん。記憶を加工する時、痛みの感覚だけは消さなかった。君が、いつ気づくか楽しみだったから」
僕の背筋が、凍る。
彼女は、振り返る。
その顔には――
笑顔があった。
でも、それは今までの優しい笑顔ではない。
どこか、満足そうな。
どこか、待ち望んでいたかのような。
そして、どこか、狂気を孕んだ笑顔。
「そうよ」
彼女は、静かに言う。
「あの記憶の中の男は、私」
僕は、息を飲む。
頭ではわかっていた。
でも、本人の口から聞くと、衝撃は大きい。
「私が、あなたの両親を殺した」
彼女は、手袋をゆっくりと外す。
その下には、三日月型の傷があった。
まだ赤い線が残っている。
「この傷は、あなたのお父さんがつけたもの。必死に抵抗したのよ。でも、無駄だった」
彼女は、傷を撫でる。
まるで、勲章でも眺めるかのように。
「なぜ……」
僕は、ようやく声を絞り出す。
「なぜ、両親を殺したんだ?」
彼女は、僕に近づいてくる。
そして、僕の目の前に立つ。
「それは……あなたが聞きたいこと?」
「当たり前だろう!」
僕は、立ち上がる。
「君が、僕の両親を殺したんだ。理由を教えてくれ。なぜ、そんなことをしたんだ?」
彼女は、静かに僕を見つめる。
その目は、どこまでも深い。
「本当に、知りたい?」
「当たり前だ」
「知ったら、あなたは後悔するかもしれないわよ」
「それでも、知りたい」
彼女は、ため息をつく。
それから、ソファに座る。
「座って。長い話になるから」
僕は、戸惑いながらも、向かいのソファに座る。
彼女は、手袋を外したままの左手を、テーブルに置く。
三日月型の傷が、僕に向けられている。
「ねえ」
彼女は、静かに言う。
「覚えてる? 子供の頃、私たちよく一緒に遊んだわよね」
「……ああ」
「あなたは、いつも泣いていた」
彼女の声が、遠くなる。
「お母さんに怒られた、お父さんに無視された、って。いつも、私のところに来て泣いていた」
僕は、黙って聞く。
「私も、同じだったの」
「え?」
「私の家も、同じだった。父は酒飲みで、母は私を無視していた。だから、あなたの気持ちがわかった」
彼女は、目を伏せる。
「私たちは、同じだった。同じ痛みを抱えていた。だから、わかり合えた」
僕は、何も言えない。
彼女が虐待を受けていたことは、知っていた。
でも、それと両親の殺害が、どう繋がるのか。
「でも、あなたは変われなかった」
彼女は、僕を見る。
「大人になっても、両親の支配から逃れられなかった。あなたは、ずっと苦しんでいた」
「……それは」
「私は、それが耐えられなかった。あなたが苦しむのを、見ていられなかった」
彼女の目に、涙が浮かぶ。
でも、それは悲しみの涙ではない。
何か、別の感情。
「だから、決めたの」
彼女は、微笑む。
「あなたを、自由にしてあげようって」




