第3章
# 第3章:日常の浸食
どれくらい、そうしていただろう。
ベッドに横たわったまま、僕は天井を見つめ続けていた。
時計の針が進む音だけが、部屋に響いている。
左手の痛みは、徐々に引いていった。
でも、完全には消えない。まるで、皮膚の奥に何かが残っているような、鈍い違和感。
僕は、ゆっくりと体を起こす。
頭が重い。記憶再生の後は、いつもこうだ。
他人の記憶を体験するということは、他人の感情も一緒に体験するということだ。それは、脳に負担をかける。店主も、最初にそう警告していた。
「あまり頻繁にやりすぎると、自分の記憶と他人の記憶の区別がつかなくなることがあります。ほどほどに」
でも、僕はほどほどにできなかった。
だから、ここまで深みにハマった。
そして今、僕は最も危険な記憶を体験してしまった。
両親を殺した男の記憶。
偶然だ。
そう思おうとする。
50万円の記憶。成人男女二名。
たまたまそれが、僕の両親だっただけ。
でも、本当にそうだろうか?
店主の顔が、脳裏に浮かぶ。
あの躊躇するような表情。そして、すぐに無表情に戻った顔。
彼は、何か知っていたんじゃないか?
僕が誰の息子か。そして、その記憶が何なのか。
いや、考えすぎだ。
店主は、ただの仲介業者だ。記憶を売買しているだけで、中身まで把握しているわけがない。
そう自分に言い聞かせる。
でも、不安は消えない。
僕は立ち上がり、洗面所へ向かう。
鏡を見る。
顔色が悪い。唇も青白い。
まるで、幽霊のようだ。
水で顔を洗う。冷たい水が、少し頭をすっきりさせてくれる。
タオルで顔を拭きながら、また左手を見る。
何もない。傷はない。
でも、確かに痛みを感じた。
あの瞬間、父の爪が引っ掻いた瞬間、僕の左掌に鋭い痛みが走った。
なぜだ?
記憶再生は、視覚と聴覚を再現する。
店主の説明では、嗅覚も多少は再現されるらしい。
でも、触覚――特に痛みまで再現されるなんて、聞いたことがない。
いや、待て。
もしかしたら、これは新しい技術なのかもしれない。
「完全没入型」と、メモには書かれていた。
だから、痛みまで再現されるのかもしれない。
そう考えれば、筋は通る。
でも、それにしても、妙だ。
痛みがリアルすぎる。
まるで、本当に僕自身が傷を負ったかのように。
僕は、洗面所を出て、リビングへ戻る。
テーブルの上には、紙袋とバイアル、デバイスがそのまま置かれていた。
バイアルは空になっている。中の赤い液体は、全てデバイスに注入された。
僕は、それを片付けようとして――
ふと、気づいた。
窓の外が、暗くなっている。
時計を見ると、午後六時を回っていた。
三時間も、経っていた。
記憶再生は三分のはずなのに。
いや、違う。
記憶再生は三分だ。でも、その後ずっとベッドに横たわっていたから、時間が経ったんだ。
そして――
玄関のチャイムが鳴った。
彼女だ。
僕は慌てて、バイアルとデバイスを掴み、自室へ駆け込む。
引き出しに押し込み、紙袋もベッドの下に突っ込む。
それから、深呼吸。
落ち着け。普段通りに振る舞え。
玄関へ向かい、ドアを開ける。
彼女が立っていた。
両手には買い物袋。そして、笑顔。
「おかえり。遅くなっちゃった」
彼女はそう言って、部屋に入ってくる。
「……ただいま」
僕は、なんとかそう返す。
彼女は、靴を脱ぎながら、僕を見上げる。
そして、少し眉をひそめる。
「顔色悪いよ。大丈夫?」
「うん、ちょっと寝不足で」
「またちゃんと寝てないの? ダメだよ、体壊しちゃう」
彼女は心配そうに僕の額に手を当てる。
その手は、温かい。
「熱はないみたい。でも、無理しないでね」
「ありがとう」
彼女は微笑み、それからリビングへ向かう。
「今日は鍋にしようと思って。野菜たくさん買ってきたから」
彼女はキッチンで、買い物袋から食材を取り出し始める。
僕は、ソファに座り、彼女の背中を見つめる。
いつもの光景。
いつもの彼女。
でも、今日は違う。
僕の目は、彼女の左手に釘付けになっていた。
白い包帯。
手首から掌にかけて、ぐるぐると巻かれている。
「……その手、どうしたの?」
僕は、できるだけ自然に聞いた。
彼女は振り返り、左手を軽く上げて見せる。
「ああ、これ? 昨日ね、包丁で指切っちゃって」
彼女は、困ったように笑う。
「不器用だよね、私。いつも注意してるのに」
「痛くない?」
「最初は痛かったけど、もう大丈夫。絆創膏だけじゃ不安だから、包帯巻いてるだけ」
彼女は、そう言って、また料理に戻る。
僕は、その包帯を見つめる。
左手。
包帯。
傷。
記憶の中で、父が引っ掻いたのは、男の左手だった。
三日月型の傷。
血が滲んでいた。
そして、僕が感じた、あの痛み。
まさか――
いや、そんなはずがない。
ただの偶然だ。
左手なんて、誰でも怪我をする場所だ。
彼女は昨日、包丁で指を切ったと言っていた。
それだけのことだ。
記憶の中の男とは、何の関係もない。
それに、彼女は僕より小柄だ。華奢だ。
記憶の中の男は、大柄で、手もゴツゴツとしていた。
全然違う。
僕は、考えすぎているだけだ。
記憶再生の後遺症で、現実と記憶がごちゃ混ぜになっているんだ。
そう自分に言い聞かせる。
でも、胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感が残る。
気のせいだ。
きっと、気のせいだ。
「ねえ、お風呂沸かしてきてくれる?」
彼女の声が、僕を現実に引き戻す。
「……うん」
僕は立ち上がり、浴室へ向かう。
蛇口を捻り、湯を出す。
浴槽に湯が溜まっていく音を聞きながら、僕は考える。
あの記憶は、何だったんだ?
両親を殺した男。
大柄で、ゴツゴツとした手を持つ男。
その男は、誰だ?
なぜ、両親を殺したんだ?
そして――
なぜ、その記憶が店に並んでいたんだ?
偶然なのか?
それとも、何か意味があるのか?
わからない。
何もわからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
僕は、その男を知りたい。
あの「強さ」がどこから来るのか。
あの男が、どんな人間なのか。
もしかしたら、会えるかもしれない。
もしかしたら、話ができるかもしれない。
そして――
もしかしたら、僕も変われるかもしれない。
そんな、歪んだ期待が、僕の中で膨らんでいく。
僕は、浴槽の湯を止め、リビングへ戻る。
彼女は、鍋の準備を終えたところだった。
テーブルには、湯気の立つ土鍋が置かれている。
「できたよ。食べよう」
彼女は、僕を手招きする。
僕は、テーブルの前に座る。
彼女も、向かい側に座る。
「いただきます」
彼女はそう言って、箸を手に取る。
左手で、器を持つ。
包帯を巻いた左手で。
一瞬、僕の視線がそこに向く。
でも、すぐに目を逸らす。
気にしすぎだ。
ただの怪我だ。
「ほら、これ食べて。栄養つけなきゃ」
彼女は、いつも通りの笑顔で野菜を取り分けてくれる。
僕は、頷く。
箸を持つ。
鍋の湯気が、部屋を満たしていく。
温かい。
優しい。
いつもの夕食。
いつもの彼女。
何も変わっていない。
変わったのは、僕だけだ。
あの記憶を見てしまったから。
両親が殺される瞬間を、体験してしまったから。
僕の中に、何かが残ってしまった。
でも、それは記憶屋のせいだ。
彼女は関係ない。
そう思う。
そう思いたい。
僕は、野菜を口に運ぶ。
味は、よくわからない。
ただ、温かいということだけが、わかった。




