第2章
# 第2章:記憶の注入
帰り道、紙袋を抱えたまま、僕は早足で歩いた。
すれ違う人々の視線が、やけに気になる。まるで、僕が何か悪いことをしているのがバレているような気がして、思わず紙袋を胸に抱き込む。
でも、誰も僕を見ていない。
みんな、自分のことで精一杯だ。
僕はただの、どこにでもいる青年でしかない。
アパートに着くと、郵便受けを確認する。
チラシが数枚。それだけ。
階段を上がり、部屋の鍵を開ける。
ドアを閉め、チェーンをかける。
ようやく、一人になれた。
リビングに紙袋を置き、中身を取り出す。
小さなバイアルと、注射器のようなデバイス。
バイアルの中の液体は、今までのものとは違って、濃い赤色をしていた。まるで、血のように。
僕は、それをデバイスにセットする。
手が震える。興奮なのか、恐怖なのか、自分でもわからない。
時計を見る。午後三時。
彼女が来るのは、夕方だ。まだ時間はある。
でも、急がなければ。
今すぐ、この記憶を味わいたい。
僕は自室へ向かい、カーテンを閉める。
部屋が薄暗くなる。それだけで、少し落ち着いた。
ベッドに横たわり、デバイスを右のこめかみに当てる。
ひんやりとした感触。金属の冷たさが、肌に食い込む。
心臓が、早鐘を打っている。
怖い。でも、引き返せない。
僕は、ボタンを押した。
---
瞬間、視界が暗転した。
真っ暗な闇の中に、僕は放り出される。
浮遊感。それから、急激な落下。
次の瞬間、僕は誰かの体の中にいた。
いや、正確には「誰かの視界を、僕が覗いている」。
これが、記憶再生。
いつもの感覚だ。
でも、今回は違う。
没入感が、段違いだ。
僕は、確かにその場所に立っている。
空気の匂い、足裏の感触、耳に届く音。全てが、リアルだ。
目の前には、玄関のドアがある。
見覚えのあるドア。木製で、少し傷んでいる。
ああ、そうだ。
これは、実家のドアだ。
僕の心臓が、跳ね上がる。
まさか。
いや、まさか。
足が動く。僕の意思ではなく、記憶の持ち主の意思で。
ドアノブに手をかける。
大きな、ゴツゴツとした手。
無骨な指。傷だらけの関節。
これは、僕の手じゃない。
ドアが開く。
鍵は、かかっていなかった。
玄関に入る。靴を脱がない。そのまま、廊下を進む。
奥から、声が聞こえる。
母の甲高い笑い声。父の低く抑揚のない返事。
いつもの、あの音。
僕の中で、憎しみが蘇る。
ああ、そうだ。この声を、僕は心底嫌っていた。
いや、違う。
これは、僕の感情じゃない。記憶の持ち主の感情だ。
でも、妙にシンクロする。
まるで、僕自身の憎しみのように。
廊下を進む。リビングのドアの前で、足が止まる。
深呼吸。
それから、ドアノブを掴む。
ゆっくりと、ドアを開ける。
---
リビングには、二人がいた。
ソファに座る母。ワインを片手に、テレビを見ている。
その隣には父。新聞を広げている。
二人とも、こちらには気づいていない。
僕の視界――いや、記憶の持ち主の視界が、ゆっくりと二人を捉える。
母の白髪混じりの髪。父の疲れた背中。
三年前の、あの日の二人だ。
記憶の持ち主は、ポケットから何かを取り出す。
紐のようなもの。細くて、丈夫そうな紐。
そして、一歩、また一歩と、ソファに近づく。
足音は、立てない。
まるで、何度も練習したかのように、静かに。
母が、ワインを口に運ぶ。
父が、新聞のページをめくる。
そして――
記憶の持ち主は、一瞬で母の背後に回り込んだ。
紐を、母の首に巻きつける。
母の悲鳴。
ワイングラスが手から滑り落ち、床に叩きつけられて砕ける。
赤い液体が、床に広がる。
ワインか、血か、区別がつかない。
父が振り返る。
その顔に浮かぶのは、驚愕。そして、恐怖。
「な、何を――」
父の言葉は、途中で途切れる。
記憶の持ち主は、容赦なく母の首を絞め続ける。
母の手が、必死に紐を引き剥がそうとする。でも、力が足りない。
母の顔が、紫に染まっていく。
目が見開かれ、白目を剥く。
やがて、母の手が力なく垂れ下がる。
記憶の持ち主は、母の体をソファに放り投げる。
そして、父に視線を向ける。
父は、逃げようとした。
立ち上がり、リビングのドアへ向かう。
でも、記憶の持ち主は、速い。
一瞬で父に追いつき、背後から紐を首に巻きつける。
父は抵抗する。
母よりも力がある。必死に暴れ、後ろを向こうとする。
そして、父の爪が、記憶の持ち主の左手を引っ掻いた。
その瞬間――
僕の左掌に、焼けるような痛みが走った。
熱い。
痛い。
鋭い。
鉄の匂い。血の匂い。
僕は、記憶の中にいるのに、確かにその痛みを感じていた。
これは、何だ?
なぜ、僕が痛みを感じるんだ?
混乱する間もなく、記憶は続く。
父の抵抗も、やがて弱まる。
首を絞められ、酸素を奪われ、やがて動かなくなる。
記憶の持ち主は、父の体を床に落とす。
ドスン、と鈍い音。
それから、静寂。
リビングには、二つの死体だけが残る。
記憶の持ち主は、静かに息を吐く。
仕事を終えた、とでも言いたげに。
そして、左手を見る。
傷ができている。
父の爪が引っ掻いた、三日月型の傷。
血が、滲んでいる。
記憶の持ち主は、それを無表情に見つめる。
痛みを感じているのか、いないのか、わからない。
ただ、淡々と、その傷を見ているだけ。
そして――
記憶の持ち主は、リビングを出た。
廊下を歩き、玄関へ向かう。
ドアを開け、外へ出る。
夜の闇に、消えていく。
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視界が、途切れた。
僕は、ベッドの上で、荒い息をついていた。
全身が汗でびっしょりだ。
シーツが、湿っている。
心臓が、まだ激しく脈打っている。
そして、左手が、痛い。
僕は、左手を見る。
そこには、何もない。傷も、血も、何もない。
でも、痛みだけは、確かに残っている。
焼けるような、鋭い痛み。
僕は、自分の左掌を撫でる。
何もない。でも、痛い。
これは、何だ?
そして、僕の中に、別の感情が湧き上がってくる。
カタルシス。
ああ、終わった。
ああ、これでよかった。
あの男が、母を殺した。父を殺した。
僕の代わりに。
僕は、それを見て、満足していた。
醜い。最低だ。
でも、本当だ。
僕は、両親が死ぬのを見て、喜んでいる。
自分が最低な人間だと、わかっている。
でも、止められない。
僕は、ベッドに横たわったまま、天井を見つめる。
記憶は、終わった。
でも、余韻が残っている。
あの男は、誰だ?
なぜ、両親を殺したんだ?
そして、なぜ、僕はあの男の痛みを感じたんだ?
答えは、わからない。
ただ、一つだけわかることがある。
僕は、この記憶を買ってよかった。
そう思っている自分が、怖かった。




