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【完結】記憶の檻  作者: ドネルケバブ佐藤


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第1話


 目覚めると、いつも天井の染みを数えている。

 一つ、二つ、三つ。何度数えても同じ数だ。当たり前のことだ。でも、数えずにはいられない。数えることで、少なくとも今日という日が昨日の続きであることを確認できる。それだけで、僕はなんとか起き上がる理由を見つけられる。


 カーテンの隙間から差し込む光が、埃を照らしている。埃は宙を漂い、やがて床に落ちる。それを見ているだけで、十分、二十分が過ぎていく。

 別に、急ぐ理由はない。

 僕には何もない。


 両親が死んでから、もう三年になる。

 あの日から、僕は「自由」になったはずだった。母の甲高い声で叩き起こされることも、父の冷たい視線で食卓を囲むこともなくなった。毎日が、静かだ。穏やかだ。誰も僕に指示を出さない。誰も僕を否定しない。


 なのに、僕は何もできない。


 冷蔵庫を開けても、何を食べたいのかわからない。テレビをつけても、何を見たいのかわからない。外に出ても、どこへ行きたいのかわからない。

 母が「あなたはこれが好きでしょう」と押し付けてきた料理も、父が「これを読め」と投げてきた本も、全部嫌いだった。でも、それがなくなった今、僕は自分が何を好きなのかさえわからない。


 僕は、空っぽだ。


 両親に詰め込まれた「こうあるべき」という呪いを吐き出したら、中には何も残っていなかった。骨と皮だけの器。それが僕だ。


 スマートフォンが震える。

 画面には、彼女からのメッセージ。


『今日、そっち行くね。冷蔵庫空っぽでしょ? 買い物してくるから』


 彼女。幼馴染で、今は恋人ということになっている。

 正確には、彼女がそう呼んでいて、僕はそれを否定していない、というだけだ。


 彼女は、両親の葬式の時からずっと、僕の面倒を見てくれている。掃除も、洗濯も、食事の用意も、全部やってくれる。僕が何も言わなくても、彼女は僕に必要なものを察して、与えてくれる。


 それは、楽だ。

 とても、楽だ。


 でも同時に、息苦しい。


 彼女の優しさは、母のそれとどこか似ている。押し付けがましさはないけれど、逃げ場のなさは同じだ。彼女は僕を「守って」いるのか、それとも「閉じ込めて」いるのか。そんなことを考えても、答えは出ない。そもそも、彼女がいなければ、僕はもっと早く朽ち果てていただろう。


 だから僕は、彼女に甘え続ける。

 それ以外の選択肢を、僕は知らない。


 ベッドから這い出して、洗面所へ向かう。鏡に映る自分の顔は、相変わらず生気がない。頬はこけ、目の下には隈ができている。髪も伸びすぎて、前髪が目にかかる。


「……切らないとな」


 呟いても、いつ切るのか決められない。今日か、明日か、来週か。どれでもいい気がして、結局放置する。そうやって先延ばしにしているうちに、彼女が「切ってあげようか?」と言い出して、僕は頷く。いつもそうだ。


 歯を磨き、顔を洗い、リビングへ出る。

 時計を見ると、午後二時を回っていた。


 彼女が来るまで、まだ時間がある。

 どうやって過ごそう。


 テレビをつけても、すぐに消す。

 スマートフォンを開いても、見るものがない。


 そして、気づけば僕は、いつもの場所へ足を向けていた。


---


 繁華街の裏路地にある、その店。


 看板には「メモリーアーカイブ――思い出のデジタル化承ります」と書かれていて、一見すると古い写真やビデオテープをデータ化してくれる、ただのレトロな店に見える。


 実際、店の中には年配の客が何人かいて、古いアルバムを持ち込んでいた。カウンターには人の良さそうな初老の男性が座っていて、丁寧に対応している。


 でも、「常連客」は知っている。

 この店の奥に、もう一つの顔があることを。


 僕が初めてこの店を訪れたのは、一年前だった。裏サイトで見つけた暗号めいた書き込み。『本当の思い出が欲しいなら、メモリーアーカイブへ。カウンターで「カタログを見せてください」と言え』


 半信半疑で店に入り、その言葉を口にした。

 店主は一瞬だけ僕を値踏みするような目で見て、それから静かに頷いた。


「少々お待ちください」


 彼は奥の扉へ消え、数分後、一冊のファイルを持って戻ってきた。

 表紙には何も書かれていない黒いファイル。それを開くと、そこには商品リストが並んでいた。


『旅行の記憶(南国リゾート)・3万円』

『初恋の記憶(高校生・完全没入型)・5万円』

『格闘技の記憶(プロボクサー・試合)・8万円』


 他人の記憶を、買える。

 それを再生すれば、その人の体験を、自分のものとして味わえる。


 僕は、誰かの旅行の記憶を買った。南の島。青い海。それを再生したとき、僕は初めて「生きている」感覚を味わった。


 自分の人生には、何もない。でも、他人の記憶の中では、僕は誰にでもなれる。

 冒険家にも、恋人にも、成功者にも。


 それから、僕は止められなくなった。

 週に一度、次第に二度、三度。店に通い、カタログのページをめくる。買う記憶も、だんだんエスカレートしていった。最初は無害な記憶だったのが、やがて暴力的な記憶、犯罪の記憶へと移行していった。


 他人の怒り、他人の欲望、他人の狂気。

 それを追体験することで、僕は自分が「空っぽ」であることを忘れられた。


 店主は何も言わなかった。ただ、僕が選んだ商品をバイアルに詰め、デバイスと一緒に紙袋に入れて渡すだけ。まるで、処方箋を出す薬剤師のように。


 彼女は、気づいていた。

 僕の部屋に転がる空のバイアル。引き出しに隠したデバイス。記憶再生の後、ぼんやりと虚ろな目をしている僕。


「ねえ、またあの店に行ってるの?」


 彼女は悲しそうに言った。でも、止めはしなかった。ただ、僕の手を握って、「ほどほどにね」とだけ囁いた。


---


 今日も、僕は店の扉を開ける。


 カウンターでは、老夫婦が卒業アルバムを店主に手渡しているところだった。店主は穏やかな笑みを浮かべ、「二週間ほどで仕上がります」と言っている。


 僕は待つ。

 老夫婦が店を出ていくのを見送り、それから店主に近づく。


「カタログを」


 店主は頷き、奥からファイルを持ってくる。

 僕はページをめくる。もう見慣れた商品ばかり。どれも、以前ほどの刺激はない。


 旅行も、恋愛も、格闘も。

 全部、味わった。そして、もう飽きた。


 僕が欲しいのは、もっと強烈なもの。

 もっと、自分を忘れさせてくれるもの。


 そう思っていたとき、最後のページに、手書きのメモが挟まれているのに気づいた。


『特別在庫・殺人現場の一部始終・完全没入型・50万円・成人男女二名・要現金』


 殺人の記憶。


 僕は、そのメモを見つめる。

 指先が、震えている。


 今まで買った中で、最も高額で、最も危険なもの。

 でも、僕の中で、何かが騒いでいた。


 これだ。

 これが、僕が欲しかったものだ。


「……これ」


 僕は、そのメモを指差した。


 店主は一瞬、躊躇するような表情を見せた。でも、すぐにいつもの無表情に戻る。


「かなり……強烈ですよ。本当によろしいですか?」


「大丈夫です」


 僕は頷いた。

 どうせ両親の遺産が残っている。使い道のない金なら、これに費やしてもいい。


 何より、僕は欲していた。

 もっと強烈な記憶。もっと刺激的な体験。自分の空虚を埋めてくれる、何か。


 店主は静かに頷き、奥へ消えた。

 十分ほど待たされた後、彼は小さな紙袋を持って戻ってきた。


 僕は現金を支払い、紙袋を受け取る。

 ずっしりとした重み。それとも、僕の手が震えているだけか。


 店を出て、裏路地を歩く。

 紙袋を抱えながら、僕は思う。


 この中に、何が入っているんだろう。

 誰の記憶なんだろう。

 そして、僕はどんな「誰か」になれるんだろう。


 期待と、恐怖が、入り混じっていた。


 でも、引き返す気はなかった。

 僕には、もう戻る場所がないから。


 空っぽの僕は、他人の記憶でしか、生きられない。

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