第9話 紅き髪の記憶
修治は当時八歳、麻乃はまだ六歳だったけれど、もう大人を相手にするほどの腕前になっていた。
演習でのノルマは、道場ごとに色分けされ、それぞれの左腕に巻いた組み紐を、時間内に自分の道場以外から五本奪うこと。
それは二人にとって至極簡単なことで、早々にノルマを達成すると、こっそり抜け出して西浜の防衛戦を見に行った。崖を上がった砦の近くに大きな銀杏の木があって、登ると海岸を一望できる。それまでも二人で何度も抜け出しては、銀杏の木に登り、戦闘を眺めていた。
その日もちょうど襲撃があったようだった。
敵軍はヘイト。
兵数も多かったのに、泉翔の戦士たちは決して多くはない隊員数で、倍以上の敵をあっという間に倒していた。
その姿に魅せられ、いつか自分たちもあの場所に立つんだと、抜け出してくるたびに互いに誓い合った。修治と麻乃の目指す姿が、そこにあったから。
高揚する気持ちを抑えきれないままに、もう一度、海岸に目を向けると、堤防のあたりで戦士たちが忙しなく動いているのに気づいた。
「なんだろう? なにかあったのかな?」
「修治、あっち!」
麻乃が指を差した方を見ると、敵兵がよろめきながら砦に続いている道を走ってくる姿が見えた。
「堤防を抜けられたんだ……」
これまで、こんなことは一度もなかった。戦士たちが堤防を抜けられるなんて。
砦は今、使われていないけれど、武器が保管されていることは知っている。海岸の様子から見て、何人かが追ってきてはいるだろうけれど、追いつく前に敵兵が砦に気づいたらどうするんだろう。
崖を降りた森では、今まさに演習中で、そのさらに向こうには街がある。
(もしも武器を取って侵入されたら――)
ふっと不安がよぎる。麻乃が身を寄せ、声を潜めてつぶやいた。
「修治、あいつらこっちに来るよ」
修治は麻乃を見た。
麻乃も修治を見ていた。
敵は手負いだ。
一人は痩せている。
もう一人は背が低くて小さい。
どちらも頼りなさそうに見える。
演習を抜け出してきたから武器はある。
(俺たち二人なら……麻乃と一緒なら、きっと倒せる)
そう思った。修治の胸には、これまで味わったことのない熱い感情が湧き上がっていた。憧れの戦士たちのように、自分たちも敵を倒すことができる。その証明をしたかった。案の定、砦に気づいた奴らがこっちに向かってくる。
息を殺してその様子を窺いながら、敵兵が木の下を通り抜けるとき、意を決して枝から飛び降りた。その勢いで修治が痩せた方の首筋を肘で打って倒した。驚いて振り向いた小さい方には、麻乃がすばやく足の腱を斬って動きを止めた。
(やった――!)
と思った。思ったより簡単に倒せた、と。
安堵して冷や汗を拭ったその腕を後ろから掴まれ、修治は木の幹に叩きつけられた。
打ち込みが浅かったのだろうか。
痩せた奴は首を揉みほぐしながら、修治の前に立ちふさがった。はっとしてこちらを振り返った麻乃の首を、もう一人の小さい奴が掴んで締め上げたとき、追ってきた隊員が二人、その場に着いた。
それが麻乃の両親の隆紀と麻美だった。
「お前たち……どうしてこんなところに!」
驚いて叫んだ麻乃の両親、その顔色が変わった。敵兵は子供ごときに一度でも倒されたことでひどく憤っていた。麻乃の首を絞める手にいっそう力が入った瞬間、修治は持っていた剣を小さい奴の背中を目がけて投げつけ、麻乃は残った力を振り絞って、敵兵の脇腹を蹴り上げた。
敵兵が反撃に怯んだその瞬間に、麻乃の両親が動いた。なんの合図をしなくても二人の息は合っていて、隆紀が修治を押さえていた痩せた奴を、倒れた麻乃を抱き上げた麻美が小さい奴を斬り倒した。
たった一撃で、麻乃の両親は敵兵の命を確実に奪っていた。
「修治、怪我はないか?」
「……うん」
麻乃の父親に手を借りて立ち上がった修治の目に入ったのは、麻乃の母親が前のめりに倒れるところだった。
堤防を抜けた敵は二人だけじゃなかった。麻乃の母親は、木陰に潜んでいた敵兵に至近距離からボウガンで背を撃たれていた。
「麻美――!」
駆け寄ろうとした父親の太腿をまた別の敵が放った弓矢が貫いた。父親の背後から現れた大柄の敵兵が、その背に槍を突き立てた。声も出せずに立ちすくんだ修治の耳に、麻乃の声が届いた。
「お母さん……?」
庇うように麻乃を抱きしめたまま、動かない母親の背中をもぞもぞと小さな手が撫でていた。血に濡れた手を見た瞬間、麻乃はキレた。悲鳴にも似た叫び声を上げると、母親が握っていた刀を取って体の下から飛び出した。
麻乃はボウガンを持った敵兵の腕をすくい上げて斬り落とし、そのまま振り下ろす力で一気に袈裟懸けに斬り倒した。
次に、大柄の奴が父親の体を貫いた槍を抜こうとしたところを、懐に潜り込んで喉を一突き。
残った弓使いが焦って麻乃に斬りかかるも、麻乃は簡単にそれを躱し、腹を一突きにしてそのまま横へ切り裂いた。
真っ赤な血が噴き出して、麻乃を染めた。
ほんの数十秒のことだった。
それだけの時間で、六歳の子供が大人を三人も斬り殺してしまうなんて。修治はどうすることもできず、ただ、黙って見守っているしかなかった。足がすくんで動けない自分への苛立ちと、麻乃の異変への恐怖が、修治の心を支配していた。
返り血を浴び、興奮して肩で息をしていた麻乃は、異様な雰囲気を纏っていた。
「……麻乃」
呼びかけた修治の声さえも判別できなくなっていた麻乃は、今度は修治に斬りかかってきた。
一振り目をどうにか躱したものの、完全には躱しきれずに脇腹を浅く斬られ、その刃は木の幹に当たって食い込んだ。
間近で向き合った麻乃の黒髪が、陽に透けているにしては、やけに赤い色をしていた。見つめ合った黒い瞳も変に赤みを帯びていて、それまで感じたことがないほどの殺気を含んでいる。
修治はとっさに、そばに倒れている父親の手から刀を捥ぎ取って構え、振り下ろされた母親の刀を受けた。
「……っつ!」
その瞬間、鋭い金属音が響き、柄を握った手には刺すような痛みが走った。
それは麻乃も同じだったようで、二人の手から刀が落ち、麻乃は崩れるように倒れて気を失ってしまった。
敵兵を追っていた他の戦士たちが、麻乃の叫び声を聞きつけてその場に着いたときには、両親の息は既に絶えていた。麻乃は倒れたままでぴくりとも動かない。
斬られた脇腹を押さえてその場に座り込んでいた修治は、呆然とその光景を眺めるだけだった。
その後、すぐに戦士たちの手で医療所へ運ばれた。麻乃はショックが大きかったせいか、何日も目を覚まさない。修治は麻乃が心配で、日に何度も病室を訪れては様子を見ていた。自分が浅はかだったせいで、麻乃を巻き込んでしまった。その罪悪感が、修治の心を蝕んでいた。ある日、麻乃の病室を出たところで、修治は大柄の男に声をかけられた。
「修治くん、だったね?」
「はい……」
「私は蓮華の高田という。少しだけ、話を聞かせてもらえるかな」
高田と名乗った男は、麻乃の両親がいた部隊の隊長だった。一見、とても怖そうだけれど、修治を見る目はとても優しく見える。
傷に負担が掛かるからと病室に戻され、高田はベッドの脇に椅子を寄せて腰を下ろした。
「あの日、砦でなにがあったのか、思い出せる限りをできるだけ詳しく話してほしい。君にとっては思い出すのも辛いだろうが」
最後にそう付け加えた。
修治と麻乃を本当に心配してくれるのを感じたし、高田にも蓮華という立場があるのはわかる。信用して包み隠さずなにもかもを話した。
演習を抜け出し、あんな場所にいたために、麻乃の両親が亡くなってしまったこと、麻乃が倒れた母親の血に強く反応したこと、そして最後に、麻乃の黒髪と黒い瞳がやけに赤く見えたことも。
麻乃の父親の家系には、稀に鬼神が生まれるらしいという話を、高田が聞かせてくれた。
その姿は紅い瞳と紅い髪――。
高田はあの場を見ておおよそのことを察し、今の話を聞いて確信した、と言った。麻乃が鬼神の血を受け継いでいる、と。
あのとき、麻乃は覚醒しかけた。
本来は精神的に安定してくる洗礼の時期に覚醒するだろうはずが、両親を死なせてしまったショックと罪の意識で、一時的に目覚めてしまったのだろう。
まだ不安定な子供の時期に。
それから半年ほどの間、麻乃は口をきくこともできなくなってしまった。
笑ったり泣いたりといった感情も、覚醒しかけたときの記憶とともに忘れたかのように、ただ、ぼんやりと過ごしていた。
両親を失った麻乃は、修治の家で暮らすことになった。
麻乃の血筋については、親同士が親しくしていたこともあり、修治の両親もすべて承知していたようだ。
容姿が多少変わったくらいでは、麻乃に対する態度になんの変化も見せなかった。
だからなのか、麻乃も安心感を得たように、少しずつ言葉も感情も取り戻していった。
それまでの暮らしが戻りかけた頃、また高田が尋ねてきた。
今後、すべての責任を自分が負うので、麻乃を引き取らせてほしい、と高田は申し出てきたのだ。
けれど、修治の両親は強くそれに反対した。
三人がずいぶんと長い時間をかけて話し合いをした結果、麻乃はこのまま修治の家で暮らすことになった。
程なくして、蓮華を引退した高田は、修治と麻乃の通う道場へ師範としてやってくることになった。
修治の両親は、表立って反対はしなくても、麻乃だけでなく修治が戦士を目指すことにも良い顔を見せなかった。
それでも、修治も麻乃も高田の下で、今まで以上の訓練を続けて腕を上げ、ついには洗礼で蓮華の印を受けてしまった。
最後には両親も諦め、今では戦士として生きていくことを認めてくれている。
「浅はかだったんだよ。実戦を知らなかった俺たちは、手負いの方が厄介だってことを知らなかった。おまけに訓練とは違う、打ち倒すことと本当に倒す――命を奪うということの違いも。ガキのうぬぼれが、取り返しのつかない結果を招いたんだ」
修治の胸には、今でもあの日の後悔が重くのしかかっている。もしも自分がもっと冷静に判断していたら、もしも演習を抜け出したりしなかったら、麻乃の両親は死なずに済んだかもしれない。その思いは、修治の心に深い傷となって残り続けていた。
両手で顔を覆い、溜息をついたとき、梁瀬は修治の顔を覗き込むようにして問いかけてきた。
「麻乃さん、泉翔人にしては髪が赤茶だけど、瞳は黒いよね? 古い文献で鬼神の記述を読んだことがあるけど、髪も瞳も紅いって書いてあったよ。だから僕は今まで、そうかもしれないと思いながらも確証を持てずにいたんだけど」
「ああ。一時的だったから、目を覚ましたら覚醒したときのすべてを忘れていた。髪は薄っすら色が変わっていたが、瞳は黒に戻っていた。それから今までは、あの通りだ」
「じゃあ、もう鬼神として目覚めることはない?」
「いや、時が来れば必ず覚醒はするそうなんだ。ただ、そのときの状態が安定していれば今と変わらないまま。万が一……不安定な精神状態で覚醒すると、敵も味方もない。文献と同じで麻乃は本当に鬼になる」
それを聞いて、梁瀬は腕組みをして唸った。
「あの腕前で敵方に回られたら、僕ら束になっても抑えられないんじゃ……」
「そのときは、俺が刺し違えてでも止める。そのために常に麻乃の前を行くように鍛えてきたんだ。あの日から俺はそう決めて生きてきた。いつでも麻乃が安定していられるように……ずっとそばにいてやれるようにな」
修治の声には、決意と同時に深い愛情が込められていた。それは恋愛感情とは異なる、家族への愛、守るべき者への責任感から生まれる強い意志だった。麻乃を失うことは、修治にとって自分の一部を失うことに等しかった。
梁瀬が思い出したように、あっ、と声を上げた。
「さっきの責任云々って、そこから来てるんだ? じゃあ、やっぱり一緒になるってこと?」
その言葉を聞いて、修治は少しだけ笑みを浮かべると、そのままグラスを煽った。
「それはないな。そりゃあ、俺たちになにもなかったとは言わない。そういう意味でずっと一緒にいてもいいと思ったこともあった」
「……うん」
「でも結局、一緒に育ってきた時間が長すぎて、恋だの愛だのっていうよりは家族として互いを思い合っていると、俺も麻乃も気づいてしまったんだ」
なにもないまま、そのまま歩いて来られたらよかった。
八年前に思いを遂げてから、たった二年の間に感じた違和感を、麻乃も感じているようだった。
修治にとって、麻乃は守るべき存在であり、同時に最も理解し合える存在でもあった。しかし、その関係性は恋人同士のそれとは明らかに異なっていた。深い絆で結ばれていながらも、それは血の繋がりこそないものの、兄妹のような、家族のような愛情だった。
なにをどう伝えたら良いのかわからずにいた修治に、終わりを告げてきたのは麻乃の方だった。
だからといって二人の間は変わることもなく、それからもずっと、誰よりも一番近い場所で、誰よりも大切な家族としてそばにい続けている。
「そうかぁ……だから二人とも、いつも微妙な雰囲気だったんだ」
「言っておくが、あんただから話したんだ。他言は無用だぞ」
「僕は話さないよ。麻乃さんもそんな話、自分からはもちろん聞かれてもしないだろうし。でも、なにか事情があるってことは気づいていると思うよ。巧さんは特に、ね」
「ったく……あんたたちは本当に食えない親父どもだよ」
「だてに場数は踏んでないからねぇ」
思わず呆れて笑った。ふふっと梁瀬も意味深に笑う。
梁瀬に話したことで、少しだけ気持ちが楽になった気がするのは、単に罪悪感から逃れたかっただけだろうか。
修治は、ぎゅっと握った拳を口元に持っていくと、数分の間、考えてから梁瀬に告げた。
「俺は今日、あんなに隊員を亡くして、その後倒れた麻乃が妙に気になる。なにもないと思うんだが、謹慎の間、少し宿舎を離れて西区の自宅に戻るつもりだ。その間、こっちとの連絡や資料のやり取りを頼めないだろうか?」
「それはもちろん構わないよ。でもあれだ。二人が一緒に帰るとなると、また騒ぐだろうね」
「……鴇汰の奴か? 立ち向かってくるっていうなら、いつでも受けて立つさ。生半可な奴に麻乃は預けられないからな」
修治を乗り越えられるだけの相手でなければ、麻乃を渡すつもりはない。
近づく相手は誰であろうと牽制してきた。
それが仲間であっても同じだ。
「修治さんも、鬼の口だねぇ」
「明日、麻乃の様子を見て、明後日には帰るつもりだ。後のこと、よろしく頼む」
立ち上がり頭を下げると、梁瀬は黙って頷き軽く修治の背中を叩いて、それに答えてくれた。