第10話 罪と赦し
麻乃が最初に目にしたのは、真っ白な天井だった。
静かな部屋の中で紙をめくる音が聞こえ、視線を移すと、ベッドの横で椅子に腰をかけて資料を読んでいる修治の姿が目に入った。
「よく寝たか?」
視線に気づいた修治は、麻乃を見ると資料を閉じ、優しげな表情で笑った。
「まあね」
麻乃はそう答えて上半身を起こした。
(そうか……あのあと、気を失ったんだ――)
左肩の傷が痛んだけれど思ったほどじゃないのは、多分、麻酔か痛み止めのおかげだろう。体の痛みよりも、心の奥で疼く罪悪感の方がずっと重く、麻乃の胸を締めつけていた。
「あたし、どのくらい寝てた?」
窓から西日が差しているから、夕方が近いということはわかる。
「丸一日ってところか。もうすぐ陽が沈むからな」
「修治、もしかして、ずっといてくれたの?」
「まさか。つい今しがた来たところだ」
そう言いながら、修治は首筋に手をもっていった。
それを見て、嘘だ、と思った。
ずっとではないにしろ、きっと朝からいただろう。
嘘をつくとき、修治はいつも首筋に触れる。子どもの頃から変わらないその癖が、今は妙に愛おしく感じられた。こんなときでも、自分のことを気遣ってくれる修治の優しさが、麻乃の心を温かくすると同時に、自分の不甲斐なさを際立たせる。
「川上の様子もみてきた。腕は元には戻らないが、容体は安定したそうだ。俺が顔を出したときは、まだ目を覚ましていなかったが」
「そっか……助かってくれて本当によかった……でも、あたしはあいつの腕を……よりにもよって右腕を奪って……」
川上の利き腕だった。剣を握る手だった。あの瞬間の光景が、麻乃の脳裏に鮮明に蘇る。血に染まった川上の姿、麻乃の刀が川上の腕を――。
思い出すたびに、胸が締めつけられるような苦しさが襲ってくる。
「それでも死なせなかっただけ上等だ」
うつむいた麻乃の頭を、修治はいつものようにクシャクシャとなでると、急に真面目な表情をみせた。
「あのな、おまえの傷の具合もたいしたことはなかったし、俺たち明日から当分……そうだな……三カ月ほど実家に戻るぞ」
「家に帰るの? どうして?」
「やらなきゃならないことが、山ほどあるからだ。俺たちは謹慎を食らったよ」
「謹慎……」
その言葉が、麻乃の心に重くのしかかる。自分の判断ミスが、どれほど多くの人に迷惑をかけたのか。部隊の崩壊も、川上の怪我も、すべて自分の責任だと思うと、息が詰まりそうになった。
「部隊の崩壊で次の隊員の選別や訓練もしなければならない。中央にいても、前線どころか援護にも出られないんじゃ、ただ焦れるだけだろう? 一日も早く立て直さないとな」
「何人……残った?」
シーツをギュッと握った手が震える。
本当は一番最初に聞かなければならないことだった。けれど、怖くて聞けなかった。答えを知ってしまったら、現実を受け入れなければならない。それでも、逃げてはいけない。隊長として、仲間たちの運命を知る責任がある。
「俺のところは十八、おまえのところは十一だ」
泣いてはいけないと、そんな場合ではないとわかっていても、目が潤む。
残ったのが十一人ということは三十九人も……。
もう八年以上をともに過ごし、楽しいときもつらいときも、いつも一緒で家族のようだった。それがあの一日で、ほとんどの隊員を亡くしてしまった。
一人一人の顔が思い浮かぶ。みんな、それぞれに家族がいて、恋人がいて、夢があった。それを守るために戦っていたのに、自分の判断で命を散らせてしまった。隊長として、もっと違う選択ができたのではないか。そんな後悔が、麻乃の心を激しく責め立てる。
残ったうちの一人は川上だろう。
そうなると、事実上、部隊に残るのはたった十人だ。
「辛くても泣いている場合じゃないぞ。俺たちは決めたはずだ。なにがあっても逃げない、泣かないってな」
「わかってる。大丈夫だよ」
瞬きで涙をこらえ、深く息を吸って顔をあげると、麻乃は修治の目をしっかりとみつめた。
泣いてはいけない。今、自分に許されるのは涙ではなく、責任を果たすことだ。生き残った仲間たちのために、そして亡くなった仲間たちのために。
「それに……もうすぐあの日だから、西区にいたほうが都合もいいと思う」
「うん……」
あの日。麻乃にとって特別な意味を持つ日。毎年この時期になると、心が重くなる。今年は特に、こんな状況で迎えることになるなんて。
「おまえの家は、今日のうちに簡単に手入れをしておいてもらおう。そのほうが、実家に帰るより落ち着けるだろう?」
「ん……そうだね。そうしておいてもらえると助かるよ」
両親が亡くなってから、麻乃は修治の家に引き取られて暮らしたけれど、洗礼で蓮華の印を受けたあと、両親と過ごした家を直してそこで暮らすことにした。
修治には二人の弟がいて手狭になったことと、蓮華になったことで麻乃自身、ひとり立ちをしたいと思ったからだ。
中央の宿舎に入るまで、少しのあいだそこで過ごし、それから今までは年に数回、帰る程度だ。
両親との思い出が詰まった家。今の麻乃には、その家に帰る資格があるのだろうか。こんな結果を招いてしまった自分を、亡き両親はどう思うだろう。
「起きられるようなら、このまま帰っていいそうだ。まだ何度かは通うようだけどな。一度中央に戻って、今夜中に荷物をまとめたら、明日の朝には発とうと思う。いいな?」
「うん……でも、その前に一度、川上の様子をみにいきたい」
そうか、と修治はわずかに考えてからドアをみつめた。
「今からでも行ってみるか? もしかすると目を覚ましているかもしれない」
麻乃はうなずいてそれにこたえ、身支度を整えて部屋をあとにした。
ほかにも何人か、状態の重かった隊員のところへ顔を出し、見舞ってから廊下の一番奥の部屋へと向かった。
一歩一歩、川上の部屋に近づくにつれて、麻乃の心は重くなっていく。彼にどんな顔をして会えばいいのか。どんな言葉をかければいいのか。
ノックをすると、中から川上の母親が顔を出した。
「――藤川さん」
「あ……あの……あたし……このたびはこんなことになってしまって、本当に申し訳ございませんでした」
麻乃は深く頭を下げた。
こんなことしかできないのが情けないと、母親を目の前にして改めて思う。
腕を失った我が子の姿に、どんな思いを抱いているのだろう。恨まれても当然だ。息子の将来を奪ってしまった自分を、許してもらえるはずがない。
「なにをいうんです。藤川さんが決断してくださらなかったら、息子は命を落としていましたよ。そりゃあ、片腕では不自由もあるでしょう。それでも、命があってこそ、ですよ」
母親は麻乃の手をギュッと握ってくれた。
その手はあたたかく力強い。予想していた責めの言葉ではなく、感謝の言葉。それが麻乃の心に深く刺さった。こんな優しさを向けられるほど、自分は立派なことをしたのだろうか。もっと良い方法があったのではないかと、今さらながら思う。
「生きてさえいれば、多少の不自由はあっても、この先、なんだってできます。助かってくれて本当によかった……あなたのおかげですよ。だからどうか、気に病まないで」
そして、どうぞ見舞ってやってください、と言って部屋を出ていった。
ベッドに近寄ると、川上の目が麻乃に向いた。
「隊長……安部隊長まで……」
「いいよ。話さなくて。目が覚めて本当によかった。けど、ごめんよ、つらい思いをさせて……」
そっと川上の額に手を伸ばした。
発熱しているのか、触れた手に熱が伝わってくる。
こんな風に、仲間に触れるのは何度目だろう。怪我をしたとき、病気になったとき、いつも隊長として気遣ってきた。でも今回は違う。自分が傷つけた仲間に、どうして優しく触れることができるのか。
「なにを言ってるんですか……隊長、昨夜も見舞ってくれましたよね。そうやって、俺の額に触れて……」
「……昨夜?」
「夜中に目を覚ましたら枕元に立ってて……常夜灯のあかりで目が赤く見えたから、俺、お迎えが来たのかと思っちまいましたよ」
痛みに顔をしかめながらも、川上は冗談まじりにそう言って、へへっと笑ってみせた。麻乃が目を覚ましたのはついさっきだ。無意識にここを訪れたのだろうか?
修治を振り返ると、こぶしを口元にもっていき、窓の外に目を向け、なにか考え込んでいる。
「俺、脇腹なんですよ」
「うん?」
よそ見をしていたところに、川上が話し始めたから、あわてて視線を戻した。
「三日月……さすがに消えてました。だからもう、戦士として隊長の役には立てないんですけど……」
「そうか……」
印が消えた。それは戦士としての終わりを意味していた。川上にとって、どれほど辛いことだろう。剣を握ることができなくなっただけでなく、戦士としての誇りも失ってしまった。すべて、麻乃のせいで。
「俺、早く回復して、地元の道場で師範になることに決めました。たくさんの強い戦士を育てて、隊長のもとに送り出します」
目を閉じてゆっくりと深く息を吐いた川上は、力強い目で一息に言いきった。印が消えたということは、戦士としてはもう戦えないという証し……。
きっと、そうなるだろうとは思っていた。片腕でやっていけるほど甘くはないのだから。
それでも川上は、前向きに自分の道を見つけようとしている。その強さが、麻乃の心を打った。同時に、自分の弱さが恥ずかしくなる。痛みがひどいのか、川上はつらそうな表情を浮かべて、もぞもぞと体を動かしている。
「もういいよ、もう話さなくていい。少し休みな。あたしもまだここへ通うから、また顔を出すよ」
「もう……来ちゃ駄目ですよ」
「――えっ?」
「俺が次に隊長に会うときは、育てた戦士を預けるときです」
痛み止めが切れたのか、川上の呼吸が少しずつ荒くなり、体をよじってうなり声を出した。
「薬が切れたな。麻乃、お袋さんと先生を呼んできてやれ」
修治にうながされ、麻乃は部屋を出た。
ドアが閉まるとき、修治が川上になにか問いかけているのが視界の端に入った。
廊下に出ると、部屋から離れたところで川上の母親と先生が話をしているのを見つけ、声をかけた。薬が切れたらしいことを伝えて、すぐに部屋へ向かってもらうと、二人と入れ違いに修治が出てきた。
「もう大丈夫みたいだな。きっと薬が効いて、また眠るだろう。俺たちももう行くか」
「そうだね」
一度だけ、病室を振り返った。
これまでも何度か怪我で部隊を離れた隊員がいたけれど、長く一緒に闘ってきた仲間がいなくなるのは切ない。そんな感傷を察したのか、修治の手がまた麻乃の頭をなでた。
(なにがあっても逃げない。泣かない)
その言葉をもう一度、胸の中で繰り返した。心の奥では別の声が響いている。本当に自分は逃げずに立ち向かえるのか。これから先、どんな困難が待ち受けているのか。
それでも、歩き続けなければならない。亡くなった仲間たちのために、そして生き残った仲間たちのために。
麻乃は深く息を吸って、医療所をあとにした。