第1話 はじまりのとき
遥か昔――。
小さな国は高い山と深い谷に囲まれ、他国との交流もなく平和に営まれていた。人々は土地を耕して育み、皆が静かに慎ましく暮らしていた。
この国の中心には緑豊かな森が広がり、大きな泉には古くから人々に信仰されている女神が住むとされていた。泉のほとりには白い石で築かれた神殿があり、女神に仕える巫女たちが季節ごとに祭事を執り行っていた。
春先には作付けの時期や気候による注意すべきことを、女神のご神託として人々に伝え、秋の収穫時には豊穣を祝う。冬には一年の感謝を込めて長い祈りを捧げ、夏には五穀豊穣を願う祭りが催された。生活の中に信仰はしっかりと根付いていった。
「みなさま、今年は例年よりも春の気温が上がりにくいようです。作付けの時期はひと月ほど遅らせるのが良いでしょう」
「夏は例年よりも少しばかり雨が多いようです。作物の育ちが悪くなるやもしれません。食糧は多めに保管されているでしょうが、無駄のないよう注意を払って管理するように」
各村や集落の長たちが神殿に集まり、巫女たちのご神託を聞いて田畑を整える。そのおかげで豊作のときには食料を多く保管しておくことも可能になり、国民たちは不作の年でも飢えることなく過ごせていた。
女神への信仰は深く、人々は困ったときには必ず神殿を訪れ、巫女たちに相談した。病気になったときには薬草の在りかを、迷子になった家畜の行方を、嫁ぎ先で悩む娘の心の支えを――。
巫女たちは女神の声を聞き、的確な助言を与えてくれた。
そうやって長いあいだ、この国の人々は平穏に、幸せに暮らしてきた。
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年月が経ち、文化や文明が少しずつ発達していくと、人々は山や谷を越えて別の国の人々と交流するようになっていった。
最初は商人が一人、二人と訪れるだけだった。彼らは珍しい品物を持参し、この国の豊かな農作物や手工芸品と交換した。やがて往来しやすいように道が整備され、山にはトンネル、谷や川のあちらこちらに橋が架かり、食糧や農機具、資材などの売買も行われるようになった。
他国の技術や知識も流入し、農業はより効率的になり、手工芸品はより美しく精巧になった。人々の暮らしは便利になり、国はますます豊かになっていく。
巫女たちも最初は他国の人々の流入を心配したが、女神のご神託では「多くの人々が幸せになることは良いこと」とのお告げがあった。こうして国境は開かれ、平和な交流が続いていった。
子どもたちは他国の言葉を覚え、若者たちは新しい技術を学んだ。老人たちは最初こそ変化を恐れたが、豊かに変わっていく暮らしに満足するようになった。
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更に年月が経ったころ、この小さな国に突然やってきたのは、甲冑を纏い武器を携えた冷酷な兵士たちだった。
彼らは明け方に現れた。霧に紛れて国境を越え、まだ眠りについている人々を襲った。資材や食糧を奪いつくし、男手を中心に多くの若者が兵士たちによって連れ去られてしまった。
残された老人や女、子どもへの手荒い仕打ちや殺戮――。
家屋は焼かれ、田畑は荒らされ、家畜は殺されるか連れ去られるかした。
これまで争いに縁のなかった国の人々は、抗う術も知らず、なすがまま、抵抗することさえできずにいた。平和な日々の中で、人々は戦うということを忘れてしまっていたのだ。
「やめてください! なぜこんなことを!」
「お願いします、子どもたちだけは……」
人々の嘆願も虚しく、兵士たちは冷酷に略奪を続けた。三日三晩にわたって続いた蹂躙。嵐のようにやってきた他国の兵士たちが去ったあと、人々は荒らされて枯れ果てた土地を前に呆然と立ち尽くすしかなかった。
幸いなことに泉や神殿は深い森に覆われていたおかげで発見されることもなく、巫女たちも森の奥深くに身を隠すことができた。けれど、失った人々や荒らされた土地を前に、巫女の長はひどく嘆き、悲しんだ。
「こんなにも田畑を荒らされてしまったというのに、残された若者たちは数少ない……」
「それでも、どうにか再建しなければ。蓄えもなにもかも持ち去られてしまったのだから……」
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人々は悲しみに暮れながらも、荒らされた田畑を一から丁寧に耕し、これまでの生活を守っていくことしかできずにいた。
残った人々は必死に働いた。老人は腰が痛むのを我慢して鍬を握り、女たちは重い荷物を背負って運んだ。子どもたちも大人の手伝いをし、みんなで力を合わせて復興に取り組んだ。
巫女たちは女神に祈りを捧げ、再び豊かな実りがもたらされるよう願った。そして女神のご神託に従って、最適な作付けの時期と方法を人々に伝えた。
「女神さまは、この試練を乗り越えれば必ず良い日が来ると仰っています」
巫女の長の言葉に、人々は希望を抱いた。そして一年間、懸命に働き続けた。
ところが、ようやく落ち着いて作物が育ち、収穫の時期を迎えようとしたころ、また他国の兵士たちがやってきて、すべてを奪っていく……。
今度は前回とは違う国の兵士たちだった。彼らもまた容赦なく、育てた作物を刈り取り、残り少ない家畜を連れ去り、わずかに残った若者たちの一部をも拉致していった。
せっかくの蓄えも底をつき、人々の暮らしは、いよいよ立ち行かなくなってきた。
「もう限界だ……」
「このままでは、全員が餓死してしまう」
人々の心に絶望が広がった。
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「埒が明かない……このままでは、この国は他国に滅ぼされてしまう」
「一体、他国はどうなっているんだ? この国から奪いつくして贅沢な暮らしをしているんだろうか?」
困り果てた集落の長たちが集い、相談した。そして兵士たちが立ち去ったのち、密かに他国の様子を探りに出かけることにした。
あるものは山を越え、あるものは川を渡り、またあるものは谷を下る。危険を承知で、彼らは故郷を離れた。
そこで彼らが目にしたのは、木々や草花が枯れ果て、ろくに動物もいない広大な大地だった。川は干上がり、湖は泥沼と化し、かつて豊かだったであろう平原は砂漠のように荒れ果てていた。
彼らは自分たちの国と、あまりにも違うことに、ただただ驚いた。
「こんなにも荒れた土地では作物も育たず、この国に奪いに来るのも当然だ」
「だからといって、これまでのように奪われ、殺されてしまうだけではたまらない」
さらに調べてみると、この荒廃した大地には四つの国があり、それぞれが残り少ない資源を巡って争い続けていることがわかった。彼らにとって、豊かなこの小さな国は、まさに奇跡のような存在だったのだ。
抵抗しなければならないけれど、これまで戦うという経験をしたことがなく、どうしたら良いのかわからないまま、人々は悩むばかりだった。
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そんなとき、巫女の長が、特別なご神託を受けたといって各集落の長たちを神殿に招集した。
「明日の夕刻、連れ去られた多くの者たちが、女神さまの御力を借りて戻ってきます。その夜は全員が家の外には出ず、決して外を覗いてはなりません」
これまでも巫女たちを通して女神のご神託を受けていたけれど、それは作付けや収穫の時期、あるいは天候に関することに過ぎなかった。
人々に女神を信じる思いはあるけれど、これまでとはまったく違う、しかも現実離れした巫女のお告げに、誰もが半信半疑のまま、翌日を迎えた。
夕刻になると、本当に連れ去られた多くの若者たちが戻ってきた。彼らは皆、放心状態で、何も覚えていない様子だった。ただ、「女神さまが守ってくださった」とだけ繰り返すばかりだった。
人々は再会を喜び合い、巫女のご神託通りに、それぞれが家にこもった。
あたりが暗くなると雨が降りはじめた。雨は徐々に強まっていき、深夜には激しい嵐となった。国中には山崩れが起きたかと思うほどの大地震と轟音が一晩中響き渡り、家々は激しく揺れ続けた。
誰もが怯えながら眠れぬ夜を過ごし、嵐の去った翌朝――。
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人々が外に出て見た光景は、まさに奇跡だった。
東側にあったはずの山がなくなり、切り立った崖に変わっていた。そこから先は青い海が広がっている。北側と南側の谷は砂浜となり、寄せては返す波が聞こえてきた。西側の海岸は深く切り込まれた入り江に変わっていた。
そう、彼らの国は一夜にして島になっていたのだ。
「女神さまは持てる力のすべてを使い、この島をかの地より引き離しました。これでもう無益な争いに巻き込まれることはなくなるでしょう」
巫女の長の言葉は国の人々を安心させるはずだった。しかし、他国から戻った人々の心には、大きな不安が残っていた。
「ですが、巫女長さま。私たちが連れ去られた土地には、四つの国がありました」
「それぞれの国にも、同じように守神さまの信仰が残っていたのです」
「しかし、争いばかりを繰り返している間に、どの国の人々も守神さまを祀ることさえしなくなったようで……」
「神殿は荒れ果て、巫女もいなくなっていました」
各々が胸の内の不安を口にすると、巫女の長はほうっと細く長いため息を漏らした。
「確かに、あの地では神はみな、眠りについてしまったのでしょう。女神さま以外の守護の力を感じることはありませんでした……」
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荒れ果て、枯れていく一方の土地を、ほんのわずかな糧を求めて四つの国が奪い合いを繰り返している。そんな彼らがこの国を見つけ、自分たちの命を繋ぐのは豊かなこの地だけだと信じたのだ。そして、それぞれがこの地を手に入れるべく、新たな争いを始めたのだった。
だが、ある日突然に消えたこの国を、彼らが放っておくだろうか?
きっと探すだろう。海の向こうに消えた豊かな国を見つけるため、船を造り、航海術を学び、必死に探し続けるに違いない。
たとえ今すぐでなくとも、いずれ必ずここへたどり着くだろう。
「今までのように、のんびりと暮らしていくだけでいいのだろうか?」
「もしもまた攻め込まれたら――?」
「今度は逃げ場もない。この島で最後まで戦うしかない」
人々の不安は日に日に大きくなっていった。
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島の人々は何日もかけて話し合った。村の長老たちが集まり、若者たちが意見を述べ、女たちも子どもたちの未来を案じて声を上げた。
そしてついに、全員が一つの決意を固めた。
いずれまた来るかもしれない侵略の手におびえながら暮らすのではなく、この身を鍛え、武術を学び、いざというときには命を賭してもこの国を守る――と。
女神の奇跡によって得られた安息は、決して永遠ではない。だからこそ人々は立ち上がった。愛する故郷を、そして女神への信仰を守るために。
「女神さまが命を賭して守ってくださったこの島を、今度は私たちが守らなければ」
「平和のために戦う力を身につけよう」
「子どもたちにも、強く生きる術を教えよう」
巫女の長も、この決意を女神に報告した。すると、女神からは新たなご神託が降りた。
「戦いを好まぬ女神さまですが、愛する者たちを守るための力を身につけることは、決して悪いことではないと仰っています」
「ただし、復讐のためではなく、平和を守るためであることを、決して忘れてはならないと」
平和な日々の中で育まれた結束と、試練を乗り越えた強さを胸に、島の人々は新たな歩みを始めた。海に囲まれた美しい島で、彼らはより強く、より賢く、そしてより団結した民族として生まれ変わろうとしていた。
この島に、新しい時代が始まろうとしていた。