第2話 宿舎 LODGING 『夜の匂いと、パンの魔法』
第2話 宿舎 LODGING 『夜の匂いと、パンの魔法』
夜になると、ミレニアムの路地は少しだけ匂いを変える。
ようやっと来た春のぬくもりは何処かに隠れてしまい、石畳はしっとりと冷え、焼き上がったパンの香りが通りに漂う。その匂いを追っていくと辿り着くのは小さな宿屋。看板には“月とランプ亭”と書かれていた。
「ただいま~」
背中に大きなカバンを背負った少女が、よっこいしょっと扉を開ける。
少女の名前はティリス・ノア。年齢は十五。この春に魔法学校に入学したばかり。
下宿先として住まうようになってから、まだそう日もたっていないが、夕方からは宿屋に併設されたパン屋の手伝いをして、宿賃をおまけしてもらっているあたり、わりと交渉上手でちゃっかりした娘である。
「おかえり、ティリス。きょうは多めだったから配達大変だったでしょ?」
奥から顔を出したのは、宿の女将であり、パン職人でもある中年の女性――レジーナだった。太陽のように明るい性格で、大概のことは笑い飛ばしてしまうが、どんなに忙しくても一日一回は必ず客の顔を見て声をかける。大雑把で細やかな肝っ玉かあちゃんだ。
「というわけで、まかないのパンに癒しの薬草を練りこんでみたの。
味は保証するけど、効果のほどは……失敗してたらごめんね」
「それって、眠くなるパンじゃ……」
「うふふ。かもね」
大広間の暖炉を囲んで、人々がそれぞれの夜を過ごす。
月とランプ亭は、魔法学校の学生や研究生、時折旅人も受け入れるが、お客は長期滞在者に限るという変わったルールがあった。まあ、女将さんからしたら「すぐいなくなっちゃうなんて、なんだか寂しいじゃないか」くらいの話なのかもしれないが。
その夜も、宿の一角では誰かが本を読み、誰かが刺繍をし、誰かがお茶の葉を煎じていた。
まかないのパンとスープをもらい、ティリスは暖炉のそばの席についた。
「ここ、空いてる?」
食事のトレイを持ってきて彼女の前に座ったのは、まだ若い見知らぬ青年だった。着ている服はシンプルなのだが、上から下まで黒づくめ、しかしキレイに整えられていた。
「……あなたも学生さんですか?」
「ん? ああ、うん。君も?」
「はい、まだ初等科ですけど。あなたは……?」
「研究生ってやつ」
そう言って、彼はパンを少しだけちぎった。
「この宿、落ち着くよね。パンの匂いと、人の声と……あと、魔法があまりない感じがさ」
「魔法……ないですか?」
「ないっていうと違うけど、“見えない魔法”っていうのかな。
なんて言うか、“この宿があったかい理由”みたいなものが、魔法で説明できたら……って」
ティリスはそれを聞いて、黙ってパンをかじった。
そして、ぽつりと言った。
「私、この宿に来てから、よく眠れるようになったんです。なんにも怖くなくて。
夜って、前は嫌いだったのに……」
青年は驚いたように目を見開き、それからにっこりと笑った。
「それが“見えない魔法”なんだと思うよ」
夜が更けてくると、宿には小さな音楽が流れる。誰が弾いているのかはわからないが、きっと、夜の精霊か何かが、居心地のいい夜のために奏でているのだろう。
ティリスは部屋に戻り、机の上のノートを開いて、今日のことを記した。
「まかないのパンが、焼き立てじゃないのに少しだけ温かかったのは、
たぶん誰かの魔法が、まだ残っていたんだと思う」




