第14話 宿舎 INN 『月光と、カレー』
第14話 宿舎 INN 『月光と、カレー』
ミレニアムの一角に、知る人ぞ知る長期滞在者向けの宿がある。
その名は“月とランプ亭”。研究者や魔術師の卵が集う、いわば“魔法学生のたまり場”だった。
この宿に、夜をテーマに研究する青年がいた。少し間の抜けたような目元に、整えられた簡素な衣服。そのゆるい風貌に、いまは寝不足のせいか疲れがにじみだしていた。
いまの彼の研究内容は、「魔法水に夜の光を集めて効果を高める」というもの。
だがその夜もまた、宿の裏庭でおこなった実験は失敗だった。
「光が抜ける……。掬ったそばから零れていく、蒸発してる?」
青年はため息をついた。月光を集める瓶は冷えきっており、魔力の波動も弱い。書いた式はすでに三回書き直していた。
「抽出式をもう一度見直してみようか。あるいは、遮断魔法を――」
答えの出ない問いが、瓶の水面に揺れていた。
そんなときだった。
「……カレー。すぐ食べれるんですけど、いりませんか?」
素っ気ないが気遣いを十二分に感じる声と共に、カレーの皿を持った手がぬっと差し出された。
「実験の邪魔しちゃ悪いかなーとは思ったんですけど、ご飯はちゃんと食べましょうよ」
「カレー?」
「そう、昨日作って一晩寝かせたやつです。このまま行くと今から二晩目も寝て過ごす運命が待っています」
そういってティリスは少しだけ“はにかむ”ように笑う。
「昨日の昼間にコトコトやっておいたものを、夜はじっくり寝かせて、また今日もコトコトやってたから、よーく味も馴染んでますよ」
「……ああ、ありがとう」
青年はしばらく黙っていたが、小さく礼を言い、さじをにぎった。
宿の裏庭に置かれた木のテーブルとイス。ランプの明かりが湯気で揺らめく。
青年はひと口すくい、静かに口に運ぶ。
「……あぁ、うまい」
その一言に、ティリスはほっとしたような顔をしたが、それをすぐに隠すように目をそらした。
「お水でも入れてくるんで、そのまま食べててください」
彼女は立ち上がり、水差しを取りに厨房へと消えた。その背中を見送りながら、青年はまた一口、カレーを口に含んだ。
(一晩。夜を越すだけで、こうも変わるものか……)
煮込まれ、落ち着き、角が取れて――味が染みる。その変化は、瓶の中の魔法水にも通じる何かがあるように思えた。
「はい、お水。どうですか? 満足しました?」
「久しぶりに食事らしい食事をしたよ。ありがとう」
「女将さんから、いまカレーパンのレシピを教えてもらってるんです。いい匂いするでしょ?玉ねぎがとけて、ちょっと甘めだけど、スパイスもバッチリ!」
もっとも、肝心のパン生地が上手くいかなくって、カレーの出番はまだなんだけどね。っと、ティリスはバツの悪そうな顔をする。
「なんとかカレーは及第点を貰ったんですよ。コツは、夜通し火を入れるんじゃなくって、ちゃんと静かに休ませること。味が落ち着いて、深く染み込むんですって」
その言葉を聞くと、青年は何かが引っ掛かったような顔をして首をかしげる。
「……夜通し、深く染み込む……?」
青年はぽつりと呟くと、彼は席を立ち、魔法水の小瓶を再び手に取った。
翌朝。彼は、ついに成功した。
魔法水の水面は、夜を溶かしたような深い青を帯びていた。
波立ちもせず、濁りもなく、しかし確かにそこに“夜の質感”が宿っていた。
ティリスが無言で傍らに立ち、その様子を見ていた。
「……何を変えたんですか?」
「……寝かせました」
「……カレーみたいに?」
「……そう、カレーみたいに」
ふふっと真顔が維持できなくなって、ティリスがふきだす。
「具体的には、どうしたの?」
「月光を、いったん沈めてから拾ったんです。火を止めて、待つ。まるでカレーみたいに」
「じゃあ、私ってお手柄じゃないですか。これは、お礼が楽しみですね~」
いうだけ言って笑顔をむけると、朝の配達があるのか、パンの入った小さな袋を手に、彼女は表に歩き出していく。
青年はティリスに礼を言いかけたが、彼女は背中で手を振るだけだった。




