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第5話 傷ついた公爵令嬢①

 柔らかな朝の光が部屋のカーテン越しに差し込む頃、レティシア・アルヴァトロスはようやく瞼を開いた。だが、そのままベッドから起き上がろうとはせず、淡い天井の装飾をただぼんやりと見つめている。


 夜会での一件から数日が経った。あの日、王太子エドワード・オルディスによって突きつけられた婚約破棄は、彼女を取り巻く状況を一変させた。もともと彼女を畏怖する者は多かったが、今はそれが一気に悪意や疑念へと変わり、噂の形で社交界を駆け巡っている。


 もっとも、そうした動きは想定の範囲内でもあった。彼女はもともと、自分の高い矜持を表に出すことで、周囲と深く交わらずに過ごしてきたのだ。けれど、今回の騒動によって公的にも面目をつぶされた今、もはや「王太子妃」の地位を得る見込みは完全に断たれたといっていい。さらに、それに伴う政治的な後押しも失いつつあるのが現状だった。


 レティシアはそっと目を閉じた。


 あの夜会で何が起こったのかを思い返すと、未だに胸がざわつく。王太子殿下が突如として自分との婚約を破棄し、セレナ・グランの涙ながらの訴えを受けて、彼女に一方的にいじめの罪を押しつけた。周囲はそれを疑わずに受け止め、貴族たちの非難が一気に噴出する。


 まるで既に結論の決まった裁判のようで、いくら否定しても「彼女はそういう人間だ」という決めつけが覆る気配はなかった。いつの間にか会場全体が敵になるあの感覚――今思い出しても喉が詰まるような息苦しさを覚える。


「……なんて屈辱……」


 乾いた声が唇からこぼれる。レティシアは乱れた布団をそっと払いのけ、ベッドに浅く腰掛けた。現在、公爵家からの外出は厳しく制限されている。というより、彼女自身も気安く外に出る気はない。世間がどう噂しているかは手に取るようにわかるし、侍女たちの目さえもどこかよそよそしい。


 そんな生活を送る中で、唯一の味方と言えるのは父親であるアルヴァトロス公爵だ。しかし、公爵家が受ける政治的な圧力は日に日に増しているのが明白であり、父としても彼女を心配しながらも苦慮しているのが伝わってくる。


 そう考えた途端、昨夜の父の姿が脳裏に浮かんだ。どれほど忙しくとも決して乱れを見せない公爵が、疲れ切った面持ちで書類に目を通していたあの光景。


「レティシア……少しの間は外出を控えていなさい。わたしもあれこれ手を尽くしているが、王太子殿下の宣言はあまりに唐突で……」


 父はそう(つぶや)いて、深いため息をついた。そして娘が心を痛めていることは承知しているが、今は目立った動きをするより守りに徹したほうが得策だと言い聞かせる。その言葉が正論だとわかっていても、レティシアの誇り高い心は、この軟禁にも近い状況に反発を禁じ得ない。


 クローゼットには、王妃教育の一環として揃えられた華やかなドレスの数々が整然と並んでいる。本来であれば、王太子主催の舞踏会や、王室行事の際に堂々と身に纏うはずだったそれらが、いまは無意味な装飾品と化している。


「何が、王太子の婚約者……。結局、わたしは都合よく利用されただけだったのでしょうか」


 痛烈な失望と、決して外には見せたくない悔しさが胸の奥をざわつかせる。彼女の誇りは、この状況を自分にとっての「失墜」だとは認めたくないが、頭の片隅で否応なく(ささや)く声がある。「公爵令嬢」が「王太子妃の最有力候補」でなくなった今、どれだけの人が自分を敬い、どれだけの勢力が自分の背後に立ってくれるだろうか、と。


 侍女が部屋の扉を軽くノックし、朝食を運ぶ許可を求めてくる。返事をすると、目を伏せがちな侍女が静かに入室してきて、トレイをテーブルに置いた。かつては彼女も、レティシアに対しては畏怖を感じながらも慕っている節があったが、今は微妙な距離感が生まれている。


「お嬢様……少し召し上がったほうがよろしいかと……」

「ええ、そうね。置いておいて」


 レティシアは極力冷静に返事をしたが、侍女の声が小刻みに(ふる)えている気がした。まるで「あの夜会以来、彼女は激昂しやすくなったのでは」と警戒しているかのようだ。自分が本当にそんな存在として映っているのかと思うと、何とも言えない苦々しさを覚える。


 侍女が退室した後、スープを一口含もうとしたが、食欲はまるで湧かない。淡い香りをかいだだけで胃が重くなるような心地がして、そのまま手を止めた。


 代わりに、部屋の窓際へと足を運ぶ。カーテンを少し開けると、朝の柔らかな光が部屋に差し込み、チュールのような白いレースがふわりと揺れる。


 王都の街並みはいつもと変わらず美しく見えるのに、自分はまるで牢獄の中にいるかのような気分だった。いまだ明るみには出ていないが、公爵家が王太子の怒りを買った事実は揺るぎなく、しかもレティシア自身が「セレナをいじめていたのでは」と信じられつつある以上、多くの貴族は彼女を避けるだろう。


「……どうすれば、こんな状況を覆せるの……」


 その問いを誰に向けたわけでもなく、虚空に(つぶや)く。完璧であらねばならないと努力を重ね、誰にも()びぬ姿勢を貫いてきた自分が、今やこんなにも(もろ)い立場にいる。


 沈黙が部屋を支配する中、ふと夜会での出来事が頭をよぎる。自分が激しく追いつめられ、王太子派閥の面々に糾弾されるさなか、不意に聞こえてきた男の声――「証拠もないまま彼女を断罪するのはあまりに乱暴だ」という、あの言葉。


 彼の名は、クラウス・フォルスター。伯爵家の次男だそうだが、今まで会った記憶もない。


 あの夜会では、周囲が皆こぞってセレナに同情するような雰囲気だった。レティシアがいくら言葉を尽くしても、誰一人として耳を貸さない状態。しかし、その中でクラウスだけが、もはや殿下や社交界の全員を敵に回してでも彼女を庇うような態度を示してくれた。


 もちろん、その行動は決して状況を好転させるわけではなかったが、それでもほんの一瞬――自分は「まだ誰かが正しい目線を持っている」と感じられて、かすかな救いを見出したのも確かだった。


「フォルスター伯爵家の次男……クラウス……」


 名を口にしてみると、なんとも言えない妙な感情がこみ上げる。どうしてあの程度の家の次男が、自分を助けようとしたのか。高い地位や強力な派閥に属しているわけでもないのに、なぜ命知らずのように手を差し伸べたのか。


 思考の隅で「ありがたい」と思いつつ、同時に「どうしてそんな人物に助けられる形になったのか」という屈辱にも似た感情が渦巻く。誇り高い令嬢を自負する彼女にとって、知らない男に救いの手を差し伸べられたことは、敗北感のような苦い味をもたらすからだ。


「……わたしは……自分の力で、この状況を打破しなければならないのに……」


 そう(つぶや)いたあとで、思わず唇を噛み締めた。これまで常に「自分がやらなければならない」という意識を持ち、実際に努力もしてきた。しかし、すべてを台無しにするかのような婚約破棄を王太子から告げられ、周囲からは一斉に非難される事態に陥っている。


 本当は心の奥底で恐れている。「このままでは自分が本当に『そういう存在』として扱われてしまうのではないか」という不安がぬぐえないのだ。噂とは恐ろしいもので、一度広がってしまえば、その真偽にかかわらず人々は信じ込んでしまうことがある。


 もし今後、レティシアが一生「あの子は、弱い娘を追い詰めて王太子にも見放された」と思われて生きていくとしたら、その先にあるのは想像したくもない――まさに屈辱と孤独の道だ。


 その恐怖とプライドが交錯し、彼女の心を(さいな)む。

 窓の外を見つめながら、「どうしてこうなってしまったのか」と何度も自問する。かつては誰よりも王太子妃に相応しいと評価され、それに恥じないよう必死に振る舞ってきた。遠慮や甘えを捨て、完璧さを求めることで「自分こそ王太子の隣に立つ者だ」と示してきたつもりだった。


 それらの努力が、今や嘘のように崩れ落ちている。


「王太子殿下は、どうしてあのようなやり方を……。セレナ・グランを守ることが必要なら、もっと穏やかに話し合う余地だってあったはずなのに……」


 わずかに眉をひそめる。エドワード・オルディスは表向き穏やかな性格に見えるが、実は巧みに周囲を操る策士だと(ささや)かれている。婚約破棄を発表するのにあの夜会を利用したのも、自分に非があるかのように見せかけるための舞台だったのだろうか、と考えざるを得ない。

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