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第4話 孤立の始まり②

 自室に戻って扉を閉めると、漆黒の闇が私を包み込んだ。窓の外から月明かりがわずかに射しているが、その光も心の重さを拭い去ってはくれない。


 しんと静まり返った部屋で、私は大きく息を吐く。あの場で声を上げなければ、今ごろ私は平穏な伯爵家の次男として布団に潜り込んでいたことだろう。


 だが、あの夜会での光景を思い返すと、やはりどうしても自分を責める気持ちにはなれない。レティシアが孤立し、涙こそ流さぬものの、周囲の視線に押し潰されそうになっていたあの姿。私が黙り込んでいたら、きっと彼女は……。


「……レティシア・アルヴァトロス……」


 思わず名前を呼んでみる。銀色の髪がキラキラと照らされていた光景を、まぶたの裏に思い浮かべる。強烈な印象を刻み込まれたあの姿は、記憶の中でまざまざと蘇る。


 確かに、彼女は高いプライドを貫くような態度を見せていたし、周囲から見れば「近寄りがたい」と感じられる雰囲気を持っているだろう。けれど、私はその誇り高さこそが彼女の本質だと思うし、あのとき壇上で声を上げようとした姿にも真摯さを感じた。


 夜会の終盤、王太子殿下の言葉に対して必死に反論しようとした彼女の瞳には、確かな怒りと悔しさ、そして何よりも「自分の言い分を聞いてほしい」という切実な思いが宿っていた。あれが「嘘」とはとても思えない。


 私は袖口を握りしめる。正直なところ、私には彼女がセレナをどう扱っていたか、詳しい事情はわからない。もしかしたら一部に誤解の余地があるかもしれないし、あるいは何かのきっかけで反発した場面があったのかもしれない。だが少なくとも、あの場の断罪のされ方はあまりにも一方的だった。


「……そうだ。何らかの陰謀が隠されているとしても、不思議じゃない」


 王太子殿下がなぜあのように急激に態度を変え、婚約を破棄するまでに至ったのか。それを考えると、セレナの涙だけが理由とは思えない。大勢の貴族が見ている前で、あそこまで断固とした姿勢を貫くには、相応の計算があると感じざるを得ない。


 その計算の犠牲になったのがレティシアだとしたら、彼女の名誉は完全に失墜してしまう可能性があるだろう。あれほどの地位と美貌を誇りながら、多くの人に敵視され、まるで追放されるかのように孤立してしまう。


 そんな未来を想像すると、胸が締めつけられるように痛んだ。私などが何をできるわけでもないが、少なくとも真実を知りたい――純粋にそう思う。そして、もし彼女が冤罪を着せられているのなら、自分なりに力になりたいと思ってしまう。


 深く息を吐いてベッドに腰を下ろしたものの、頭が冴えすぎて眠れそうにない。部屋の外では、屋敷の使用人たちが忙しく動いている気配もなく、静寂だけが広がっている。まるで、私がこれから向かうであろう道の先に、何もないかのような虚無感さえ覚える。


 それでも、私が夜会で彼女を庇ったことは揺るぎない事実だ。父にも叱られ、今後の暮らしや立場にも不安がある。使用人たちの態度が冷たくなっていくのを感じるのは、たぶんこれからが本番だろう。


 けれど、「やらなければならなかった」という信念だけは、全く揺らがない。あの光景を思い出すたびに、私は自分の行いを後悔していない自分に気づく。周囲の目は確かに冷たいが、それでもレティシアがひとりきりで非難されるのを眺めていられるほど、私は割り切れなかった。


 少しでも彼女の助けになれたのかはわからない。もしかしたら、私が余計な口を挟んだことで、彼女の立場をさらにややこしくしてしまったのかもしれない――そんな不安が、心の隅にまとわりつく。


 それでも、もしあの場で私が黙っていたら、今ごろどうなっていただろう。王太子殿下とセレナの主張ばかりがまかり通り、レティシアには一切の言い分を述べる機会さえ与えられないまま。想像すると、いてもたってもいられない思いが込み上げる。


 私はベッドから立ち上がり、窓辺まで歩み寄る。夜空には雲がうっすらとかかり、月明かりを隠している。薄暗いその景色を眺めながら、明日から始まる日々に思いを巡らせる。


「孤立……するだろうな」


 自嘲気味にそう口にし、窓ガラスに映る自分の姿を見つめる。今まで、伯爵家の次男として特に不自由なく暮らしてきた。兄のように家督を継ぐプレッシャーもなかったし、使用人たちも礼儀正しく接してくれていた。だが、今後はどうなるかわからない。王太子派閥に(にら)まれたとあれば、我が家を避ける者も増えるに違いない。


 しかし、心に奇妙な落ち着きがあるのも事実だった。まるで、自分が何か大きな運命を背負い込み、そこへ踏み出していくことを納得しているかのような感覚。しばらく窓越しに夜空を見つめ、私はそっと目を閉じた。


 思い浮かぶのは、銀色の髪を揺らしていたレティシアの姿。あれほど誇り高い人が、あの夜会の場で孤立してしまったときのあの瞳を、どうしても忘れられそうにない。


「……後悔はしていない」


 静かな夜の空気に向かって、つぶやくように言い放つ。たとえ明日からどんな冷遇を受けようと、あの一件で私が彼女を放っておけなかった事実は変わらない。もし、あれこそが私がなすべきことだったのなら――私はこの選択を受け止めていくだけだ。


 外では風がかすかに吹いているらしく、窓の下の木々がさらさらと葉を揺らしている。ささやかな音ではあるが、それがこの静まり返った屋敷の中でやけに耳に残った。


 孤立の始まり。それはつまり、私が今までの平穏を失うことを意味しているかもしれない。父や兄、使用人たちがどう動くか、そして王太子派閥がどのような圧力をかけてくるかも未知数だ。


 それでも、私の胸の奥には不思議と澄んだ感覚があった。この道を選んだのは誰でもない自分自身であり、そしてそれは大切な衝動に背かぬための行為だった。


 やがて、私は重たいまぶたを押し開き、そこから見える夜の景色を再度眺める。いつしか雲は動き、月明かりがほんのわずかに差し込み始めた。部屋の床に細い光の筋が伸びている。


 そうだ、まだ道は途切れていない。薄暗いながらも、一筋の光がある。それが、私にとっての希望のように感じられる。あの銀髪の令嬢がどのような苦境に立たされようと、私はもう傍観者ではいられない――そんな妙な決意が、心に芽生えつつあった。


「たとえ誰も理解してくれなくても……やるしかないんだ」


 それは決して大げさな決意ではなく、ただ素直に湧き出た感情だった。自分が何者であるか、何をすべきかを示す道しるべがようやく見え始めたような気がする。


 部屋の灯りをともし、しばし窓から離れて机に向かう。孤立するとはわかっていても、この状況の中で私ができることを少しでも考えてみたい。王太子派閥がどんな手段を講じてくるのかを想像し、それに備える策はないか――あるいは、レティシアに関する情報を少しでも集められないか、思案してみる。


 そうして頭を巡らせると、少しだけ眠気が遠のき、逆に何かに向かって動き出したい衝動が強まった。とはいえ、今夜は休むしかないだろう。朝になれば、否が応でも伯爵家や外部から押し寄せる現実と向き合うことになるのだから。


「これからどうなるか……わからないな」


 小さく独り言を(つぶや)き、ベッドへ戻る。寝具に身を沈めると、昼間のような疲労感がやっと襲ってきたが、頭の中は不思議と軽い。


 周囲からの冷たい視線を一身に浴びる日は遠くない。父にも愛想を尽かされるかもしれない。使用人たちも私を敬遠し、友人や同輩からも見放されることだってあるかもしれない。


 それでも、あの夜会でレティシアをかばった自分を否定する気にはなれない。もし同じ状況が再び巡ってきても、私はきっと同じ選択をするだろう――その確信が、暗がりの中で深く胸に刻まれていた。


 やがて瞼が重くなり、ぼんやりと意識が遠ざかっていく。眠りへ沈みかける刹那、銀色の髪を揺らすレティシアの姿と、あのとき彼女が見せたほんの僅かな動揺――その記憶が、柔らかな光となって私の脳裏を照らした。


 こうして、私はすべてを失うかもしれない明日へと、一歩ずつ足を踏み出し始める。たとえ孤立の道を進むとしても、それは自分が選んだ道。後悔はない。


 決意の代償――その言葉が脳裏をかすめるが、不思議と暗い悲観は湧かない。自分がすべきことをした結果ならば、どんな重荷も背負ってみせる――そんな固い思いを胸に、私は深い眠りへと落ちていった。

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