第3話 断罪②
私は見ていられなくなり、思わず目を背けた。何か言わなければと感じる一方、伯爵家の次男である自分が、公爵令嬢と王太子殿下の間の話に口を挟むのは得策ではないという理性も働く。
しかし、理性が行動を止められないほど、私の胸は騒ぎ立っていた。この光景はあまりに不条理で、彼女が一方的に「悪い」と断ぜられていくのが正しいとは思えなかった。
殿下はレティシアに向けて、最後通告にも似た口調を投げかける。
「ここで貴女が何を弁解しようと、私の決意は変わりません。貴女との婚約は無効とし、セレナを傷つけた代償は、公爵家ともども追って償っていただくことになります」
その瞬間、レティシアの瞳に怒りの炎が燃え上がったように見えた。
「……ふざけないでください。私がそんなことをする理由も、証拠も、何ひとつない。そちらこそ、なぜこんな形で私を貶めようとするのか……私には理解できません」
怒声と嘲笑が入り混じる大広間。貴族たちの視線は容赦なくレティシアを攻撃し、セレナをいたわる言葉ばかりが飛び交う。アーチのように豪華な装飾が施された壁も、重厚なシャンデリアの煌めきも、いまこの空間を取り巻く冷たい雰囲気を暖めることはできない。
限界だった。私は唇を噛んで大きく息を吸い込む。目の前で、誰も彼女を助けようとしない。公爵家の重臣や関係者も、あまりの衝撃に動けずにいるのか、はたまた王太子殿下との対立を恐れているのか、だれ一人として声を上げないのだ。
ならば、自分が――
その思いが頭を過ぎた途端、気づけば私は人混みをかきわけて前へ進んでいた。伯爵家の次男という立場を思えば、これは明らかに軽率な行動かもしれない。だが、あまりに理不尽なこの光景を放っておくことはできなかった。
「待ってください!」
大声をあげた私に、会場の人々が一斉に目を向ける。そもそも目立つ立場ではない私が、いきなり叫んだのだから当然だろう。驚きのざわめきが広がる中、私はさらに声を張る。
「王太子殿下、そしてセレナ嬢。いま仰ったことの証拠は本当に揃っているのですか? レティシア様が何をしたというのか、実のところ誰も確たる事実を確認していないのではありませんか?」
私の問いかけに、王太子殿下はすうっと視線を鋭く細めた。辺りが急激に静まり返る。
「……あなたはどなたでしたか? たしか、フォルスター伯爵家のご子息……でしたか」
殿下がじろりと私を見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。王太子殿下の不興を買うことは、ひとりの貴族として致命的な危険を伴う。それでも私は退くことを選べなかった。
「たしかに、セレナ嬢はひどく怯えているように見えます。けれど、それだけを根拠に……レティシア様を完全に悪いと決めつけるのはあまりに早計だと思います。さきほどのお言葉には、あまりにも推測が混じっているのではないでしょうか」
言いながら、私の手はわずかに震えていた。だが、周囲の非難の目が私に向かおうとも、ここで口を閉ざすわけにはいかない。あの銀髪の令嬢が、全くの悪意の塊などとはどうしても思えないのだ。
「あなた……!」
レティシアが私を見て、驚いたように一言漏らす。今まで見たことのない表情だった。いつも鋭さを漂わせていた目が、少しだけ揺れている。たぶん、私のような存在が助け舟を出すことは、予想外だったのだろう。
王太子殿下は小さく息をつき、冷ややかに言い放つ。
「あなたは何を根拠に、それを言うのです。セレナの涙の証言こそが十分な根拠ではありませんか。数多くの方が彼女の訴えを聞いており、私自身も彼女が苦しむ姿を見てきたのです」
「しかし……それは、セレナ嬢の内面からくる辛さかもしれません。たとえば、誰かが彼女をそそのかし……あるいは、事実を誇張して広めようとしている可能性は、考えないのですか?」
私の問いに、ざわざわと一層不穏なささやきが広がる。むろん、殿下を正面から疑うような発言は、貴族社会ではタブーに近い。
「フォルスター伯爵家の次男ごときが、王太子殿下の宣言を否定するのか?」
「何を思って、そんな無謀なことを……?」
小声の批判や嘲笑が耳に入ってくる。だが、不思議なことに、私は強い後悔を覚えてはいなかった。むしろ、一人でもレティシアの言い分を聞こうとしない今の状況をなんとか変えたい気持ちでいっぱいだった。
殿下は低い声で言葉を継ぐ。
「では、あなたはレティシアを信じると? こんなに多くの方々がセレナの訴えを聞いているのに」
その声は、私を試すようでもあり、脅すようでもあった。周囲もまた、私がどう答えるのか注目している。
私は大きく息を吸い込むと、レティシアのほうをちらりと見やり、はっきりと答えた。
「はい。せめて、証拠もないまま彼女を断罪するのはあまりに乱暴だと思います。確かにセレナ嬢の涙は痛ましいですが……人を追いつめるなら、もう少し冷静に事実確認をすべきではないでしょうか」
その瞬間、会場全体がどよめいた。レティシアを庇うような発言を、伯爵家の次男が堂々とやってのけるとは、誰も予想していなかったのだろう。私自身、後先考えずに口を動かしているのがわかる。
レティシアは唇を引き結び、何か言おうとしている。だが、その言葉を紡げないまま、私を見つめ続けていた。遠目では読み取れない感情が、その瞳の中に確かにある。
王太子殿下が厳しい表情を浮かべ、何かを言いかけたとき、周囲から怒号のような声があがった。
「フォルスター伯爵家の者が、王太子殿下に楯突くとは……!」
「信じられない……あの人、自分の身分をわかっているのかしら」
私への非難が混じった声が押し寄せる。まさに、レティシアに向けられていた敵意の一部が、私のほうへ移ったかのようだった。
だが、それでも私は退かない。ここで黙りこんでしまえば、レティシアは完全に孤立してしまうだろう。それを黙って見ていることはできなかった。
ふと、視線の端にレティシアが小さく震える指先を握りしめる姿が見えた。その姿は、決して弱々しいものではない。それでも、この乱暴な断罪に対してひとりで抗うにはあまりに荷が重いはずだ。
ならば、私が声を上げるしかない――それがこのときの私の正直な気持ちだった。
「クラウス・フォルスター……!」
エドワード殿下がもう一度私の名を呼ぶ。そして、何か言いかけたその瞬間、私はレティシアの前に立ちはだかった。今の私にできることは、殿下や周囲の矢面から彼女を守ることだけだ。
会場の皆が息を呑む。レティシアは、まるで自分でも思いがけない光景を目にしたかのように私を見上げている。その目にほんの一瞬、動揺が浮かんだように感じられた。
そして私は、声を張り上げる。
「お聞きください! レティシア様にも、弁解の機会を与えるべきではありませんか。王太子殿下のご発言も、セレナ嬢の涙も重く受け止めるべきですが、それだけで真実を決めてしまうのは……!」
しかし、私の言葉の途中で貴族たちの厳しい視線が一斉に注がれ、口々に反論を浴びせてくる。エドワード殿下の支持者や、セレナに同情的な者たちは怒りを顕わにし、私を排除しようとするような雰囲気すらある。
まさに修羅場のような光景だった。それでも、私は引くことを選ばなかった。たとえ私が伯爵家の次男という立場を失おうとも、この場で何も言わずに見過ごすわけにはいかない。
すると、レティシアが意を決したように眉を上げ、声を張る。
「あなた……どうして……」
その問いに、私は答えを返す暇もなかった。ただ、もう後戻りできないと心の中で悟る。
王太子が私を射すくめるように睨みつけるが、その一瞬、私は彼の静かな瞳の奥に、何か複雑な感情を見た気がした。ただの怒りだけではない。そこに確かに「狙い」のようなものがあるのではないか――そんな疑念が脳裏をかすめる。
いずれにせよ、こうして私は、フォルスター伯爵家の次男でありながら、王太子殿下をはじめ、この会場にいるほとんどの貴族を敵に回すような行動に出てしまったのだ。
これから先、どんな道を歩むことになるのか、想像もつかない。ただ、レティシアが一方的に断罪され、踏みつけられている光景に耐えられなかった。それだけは揺るぎない事実だった。
人々のざわめきと敵意、その狭間で銀髪の彼女がうっすらと驚き混じりの表情を私に向ける。彼女のプライドを傷つけまいと、その瞳の奥に浮かんだ感情をまっすぐに受け止めながら、私は決して屈しないつもりでいた。
今宵の夜会は、こうして思いもよらぬ結末へ向かい始めた。
私の行動がこの先何をもたらすのかはわからない。だが、一度きりの大きな決断によって、私の人生は大きく動かされようとしている――そう確信するには十分なほど、会場には荒々しい空気が渦巻いていた。
まるで、一度立ち上がった旋風はもう後戻りできないと告げるように、シャンデリアの光までが揺らいで見える。
そして、私の目の前には、初めて見る動揺を湛えたレティシアの姿がある。彼女の言葉にならない思いが、その瞳に宿っていた。
確かなのは、これが一つの大きな分岐点――私と、そしてレティシアにとって、運命を変える一夜の始まりだということだ。