第25話 求婚と試練①
晩秋の陽が斜めに差し込む頃、フォルスター伯爵家の古い書斎では、クラウス・フォルスターが深い考えごとに没頭していた。分厚い書籍や政治の資料が並ぶ棚の前、彼は机の上に並べた数枚の書簡を見つめ、時折大きく息をついている。
あの夜会を経て、レティシア・アルヴァトロスの名誉は完全に回復した。王太子エドワードの不当な断罪から解き放たれた彼女は、今や社交界でも改めて敬意を集めている。一方で、クラウス自身も「伯爵家の次男でありながら、レティシアを支えた」ことにより、評価が一変した。
数日前、父ハンス・フォルスター伯爵からは「伯爵家としての立場は脅かされたわけではないが、今後の動きには慎重であれ」と釘を刺された。しかし、クラウスにとっては、もはやレティシアとの関係が単なる「政治的な協力」で終わるとは思えなかった。彼女が王太子の陰謀に耐え抜いた姿は、深く胸を打ち、守りたいと願うだけでなく、もっと近くで未来を共にしたいと切望させる。
(やはり、僕は彼女の隣に立ちたい。自分だけの意思で、レティシアを支え続けたい)
クラウスはその想いを抱きながら、迷いを振り払うように背筋を伸ばす。
このところ、公爵家とのやり取りを通じてわかってきたことがある。アルヴァトロス公爵家は王家と深い繋がりを持ち、レティシアも将来有望な貴族として数多の人に認められる存在だ。だが、結婚という問題になれば話は別。
自分は伯爵家の次男である。家督を継ぐ嫡子でもなく、伯爵家の政治力も公爵家と比べれば大きくはない。そんな立場で、あの公爵令嬢を正面から求婚しても、果たして釣り合いは取れるのか。公爵がそれを許すとは限らないし、伯爵家としても、安易に公爵令嬢を迎える政治的覚悟があるのか、疑わしい部分もある。
「それでも、やはり僕は逃げたくはない。レティシアを、この先ずっと失いたくないんだ……」
そう決意を口に出すと、クラウスは書斎を出て父の執事に呼び出しの申し込みを行った。父ハンス・フォルスター伯爵との話し合いは避けて通れないだろう。今までのように曖昧なままではいられない。
すると、思いのほか早く父から返事が届く。書斎の続き部屋で二人だけの時間が設けられ、ハンスは少し厳めしい顔つきでクラウスを見やった。
「わざわざ呼び出してくるなど、何か大きな話があるのか?」
クラウスは胸の奥で大きく息を吸い込み、できるだけ落ち着いた声を出そうとした。
「父上、僕はレティシア・アルヴァトロスに求婚する決意を固めました。もちろん、政治的にも簡単ではないと承知していますが、どうしてもあの方の隣に立ちたいのです」
ハンスは目を見開くと、無言のまま机に肘をついて腕を組む。一瞬、怒りがこみ上げるのではないかとクラウスは身構えたが、父の反応は意外なほど穏やかな沈黙だった。
「……そうか。お前がそこまで腹を括ったのなら、いまさらわたしが止めても無駄だろう。もっとも、伯爵家としては簡単にはいかんぞ。相手は公爵家の令嬢だし、あの騒動を経てなお、アルヴァトロス家の影響力は王都でも最上級だ。下手に動けば、王家との関係にも波紋が広がりかねない」
「承知しております。僕も無謀な行動ではなく、正当な手続きを踏みたいと考えています。公爵家との交渉なしに求婚など、許されるはずもありませんから……」
父と息子の間にある緊張感が、しばしの間続く。やがてハンスは長いため息をつき、クラウスの様子をもう一度確かめるように見る。
「お前がレティシアを救うためにした行動は、一歩間違えれば伯爵家を巻き込む危険もあった。しかし、結果的にはお前の真摯さが認められ、伯爵家への悪評も広がらなかったどころか、むしろある種の評価が高まった面もある」
「はい。そこは父上の寛大なおかげもあり、使用人たちも嫌がらず手伝ってくれました」
ハンスは口元をわずかにほころばせる。
「フォルスター伯爵家としても、お前のしたことを全面的に否定するつもりはない。わたしの方でも、公爵家と話す機会を探ってみよう。……もっとも、公爵がどう判断するかは、お前の覚悟次第だぞ」
クラウスは深く頭を下げた。予想以上に父が理解を示してくれたことに、ほっと安堵する。
「ありがとうございます。僕も、自分の本気度を示し、彼女が拒否するなら受け入れるつもりで動いています。決して身勝手に奪い取るのではなく、あくまで誠意を伝えたい」
「いいだろう。ならば、その誠意が相手に届くかどうか、これからが正念場だ」
こうして、クラウスは公的にも自分の決意を固める段階へと進むことになった。
一方、アルヴァトロス公爵家では、レティシアが徐々に自由を得ているのをよそに、「伯爵家の次男との噂」を聞きつけた公爵が内心で複雑な思いを抱えていた。
ある朝、公爵は娘を応接室へ呼び出し、書斎の机に資料を広げたまましばし黙り込んだ後、ようやく口を開く。
「レティシア、お前の誇りと頑張りによって、我が家の名誉は取り戻された。王太子の判断ミスを責める声も多いが、わたしとしては大事を荒立てすぎぬよう努めるつもりだ。その方が、公爵家にとっても得策だからな」
レティシアは、父の方針が理解できる。王太子との関係をこれ以上悪化させるのは得策ではないし、娘の名誉が回復された今こそ、穏便に事を進めたいのだろう。
「わかっています。わたしも、これ以上セレナや殿下を追い詰める気はありません。少なくとも今は、わたしの方に悪い噂は残っていませんし……」
公爵はうなずいた後、やや含みをもった表情を浮かべる。
「ただ、最近は公爵家と伯爵家との間に妙な噂があるのを聞いている。お前がフォルスター伯爵家の次男、あのクラウスを随分と信用しているという話だが……まさか、二人の間にそういった話はないだろうな?」
その言葉に、レティシアは一瞬息をのむ。実際、クラウスとの間に生まれた感情は、まだはっきりと定義づけてはいないが、否定するのも難しいと感じている。
「……いいえ、わたしは彼に多大な恩義を感じているわ。それ以外のことは……まだ自分でも整理できていません」
「そうか。わたしは伯爵家の次男そのものを否定するつもりはないが、家同士の釣り合いや政治的な問題がある。あの家がどう思っているかも、わたしにはわからぬし……いずれにせよ、お前の一存で決めるには大きな話だ」
公爵のまなざしには愛情と心配が混じっている。王太子との婚約が破談した経緯を思えば、娘の将来に余計な負荷をかけたくないのだ。レティシアはそれを理解しながらも、微かな戸惑いを隠せない。
心の奥で「もしクラウスが求婚してきたら、自分はどう受け止めるだろうか?」という疑問が渦を巻く。頭では政治的困難を考えてしまうが、胸の中では、彼の隣にいる未来を捨てきれないという思いが芽生えている。
かつて、レティシアは王太子と共に国を支えようと決意し、無数の努力を重ねてきた。それを一方的に断たれた苦痛は大きかったが、クラウスが命がけで助けてくれたことで、「本当に隣にいてくれる人」とはどういう存在かを学んだ気がする。
しかし、公爵令嬢としての立場がプライドを邪魔する面もある。格下の伯爵家との結びつきに、周囲がどう反応するかもわからず、下手をすれば世間が「結局は王太子に振られたから妥協したのだ」などと言いかねない。
自分の心の中にある不安とプライドが、レティシアを足踏みさせていた。求婚という言葉を聞くだけで、心がかすかに震える。彼のあたたかい手のぬくもりを思い出すと、却って余計に恥ずかしくなるのだ。




