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僕は断罪される公爵令嬢に恋をした ~彼女を救うためなら王太子だって敵に回す~  作者: ぱる子
第8章:騒乱のあとさき

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第24話 小さな口づけ②

 月光が照らす庭で、レティシアは思わず視線を落とし、かすかな声で続ける。


「ねえ、あなたはわたしのことを『守りたい』というけれど、それだけじゃないのではないかしら。わたしには、あなたがもっと別の……いえ、何でもないわ」


 言いかけて自ら言葉を飲み込んだレティシア。その頬にはわずかな赤みが差しているのを、クラウスは月明かりの下で捉える。まるで彼女にとっても、その先を言葉にするのは難しいことのようだ。


 しんとした空気が二人を包み、クラウスは胸の奥で自分の鼓動を感じていた。彼は先日から確かな恋心に気づいていても、それを率直に告げるにはまだ躊躇(ためら)いがある。立場の違いや、政治的な問題を考えれば、軽々しく告白するわけにいかない。


 それでも、言葉よりも先に行動が出てしまうときがある。クラウスはレティシアのかすかな戸惑いを察して、思わず手を伸ばした。自分でも理由を説明できない衝動で、彼女の手をそっと取る。


「……!」


 レティシアの瞳が驚きに見開くが、それを振りほどきはしない。クラウスの手が暖かく、そして不思議な安心感をもたらすことに彼女は気づいてしまっているからだ。


 クラウスはほんの一瞬、ためらいがちにレティシアの手を引き寄せ、躊躇(ためら)いと決意が入り混じった眼差しで見つめる。次の瞬間、彼はレティシアの手の甲へそっと口づけをした。それは短く、静かな動きだったが、今この場の二人にとっては十分すぎるほどの衝撃を伴った。


 レティシアの心臓が跳ね上がる。体の芯が熱を帯びるように感じられ、思わず言葉を探そうとするも何も出てこない。夜の庭園で、手に触れるかすかな口づけ。あまりにもロマンティックなその瞬間に、彼女は身動きが取れなくなった。


 一方、クラウス自身も顔を上げるなり、口づけの瞬間に息が詰まるような感覚を覚える。今しがた犯した行動の大胆さに胸がドキドキとして、レティシアの反応を伺う余裕さえない。


 やがて彼女が僅かにまぶたを閉じ、そしてゆっくりと視線を戻す。二人の間には夜風が通り抜ける音だけが流れ、周囲のすべてが遠のいたようだった。


「あなた……今のは……」


 レティシアが上ずりそうな声を抑えつつ問いかけるが、クラウスも言葉にならない。手に触れていたかすかなぬくもりが、まだ離れないままだ。


「す、すみません。いえ、謝るつもりはないのですが……無礼をしたことは確かですよね……」

「無礼、というより……驚いただけ」


 それ以上は何も言えず、二人は顔を赤くして視線を彷徨わせる。まるで年若い恋人たちが、初めて秘密を共有したかのような初々しさがそこにはあった。レティシアは普段の彼女から想像できないほど頬を染め、クラウスもまた失態を恐れるように口を噤む。


 しばしの沈黙の後、レティシアがふと笑う。


「……あなた、そこまで勇気ある人だと思っていなかったのだけど」


 クラウスは自嘲気味に肩をすくめる。


「勇気というより、勢いでした。後悔しているわけではありませんが、いま胸が苦しいくらい緊張してます……」


 そう言いながらも、どこか嬉しそうな表情が含まれているのをレティシアは見逃さない。彼女も、自分が彼の「勢い」を真っ向から拒絶しなかったことに、まるで安堵のような感覚を覚えていた。


 そのまま二人は、気まずいはずの沈黙を保ちながらも、なんとも言えない優しい空気に包まれていた。レティシアは、一瞬でも彼の唇が手に触れた事実を思い返し、胸がドキリとする。かつて王太子と未来を誓った頃にも味わったことのない、何か深い安心感と期待感が同時に湧き上がるのだ。


 一方、クラウスも自分の中に押しとどめられない感情を認めざるを得ない。彼は決定的な“愛の言葉”を語るにはまだ踏み切れないが、少なくともレティシアをただ助けたいだけではないという思いを確信し始めている。


 しかし、これで二人が恋人同士となったわけではない。お互い立場もあるし、政治的に絡まる問題もある。今はまだ正式に想いを告げ合うのは早いと、二人ともどこかで踏みとどまっている。それでも、この「小さな口づけ」が差し込んだ光は、彼らの未来をほんの少しだけ照らしてくれた。


「……ありがとう。でも、やっぱり、いまはまだ……」


 レティシアがそう(つぶや)くと、クラウスも小さく(うなず)いた。


「わかっています。僕も、今すぐ結論を出すつもりはありません。少し、甘えさせていただいただけです」


 薄暗い庭のなかで、二人はそれ以上は言葉を交わさず、ただお互いの存在を感じ続けた。まるで重大な秘密を共有した子どものような、はにかんだ静かな時間だった。


 月が高く昇り、夜風が肌寒さを増してくると、レティシアは小さく咳払いして立ち上がる。


「そろそろ部屋へ戻りましょうか。あまり長く外にいると、風邪を引いてしまうわよ」


 クラウスはそれを合図と受け取り、素直に立ち上がる。自分がやってしまった行動の余韻が、まだ胸の中で熱を持っているようだ。レティシアの方を見やると、彼女もわずかに顔を背けるようにして歩き出す。


 そうして二人は言葉少なに並んで屋敷の方へ戻る。正式な愛の言葉など交わさずとも、今はこれでいいと思っている。互いの距離が縮まったことを感じれば、それだけで十分だ。


 扉の前に立つと、レティシアが振り返ってクラウスを見上げた。


「今夜はありがとう。あなたと話せて、少し気持ちが軽くなったわ」

「こちらこそ、ありがとうございます。……ええと、その、先ほどのことは……」


 クラウスが何か言おうとしたが、レティシアはそれを制すように手のひらをあげて、かすかに微笑む。


「いいのよ。今はまだ深く考えずに。わたしたちには、ほかにやるべきことがたくさんあるから……。そうでしょう?」


 クラウスは苦笑して肯定する。そう、政治的な波乱が収まったわけではないし、家同士の関係も次の局面を迎えるかもしれない。王太子の立場が揺らいだ今、レティシアやクラウスが歩む道にはまた別の山が待ち受けているのだ。


 でも、今だけはその一瞬のロマンスを胸に抱き、静かにこの夜を終えよう。確かなのは、二人の間に小さな火が灯ったということ。いつか大きく燃え上がるかもしれないその感情を、しばし育む余裕ができたのだ。


 レティシアは音もなく扉を開け、邸の中へと戻っていく。クラウスは一人残され、ほんの少し離れた外廊下に立ちつくしたまま、先ほどの口づけの瞬間を思い出していた。


 また新しい朝が来るとき、二人の関係はどう変化しているだろうか。正式な言葉で伝え合う日が来るのか、それともさらに時がかかるのか。


 その答えをまだ示さないまま、夜の空が凛として彼らを包み込む。次の展開への期待を残すように、静かで甘い余韻だけがそこに息づいていた。

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