第24話 小さな口づけ①
晩秋の冷たい空気が王都にも少しずつ染みてきた頃、アルヴァトロス公爵家の広い庭園は日中のにぎわいを終え、静かな闇に包まれていた。月の光が石畳を淡く照らし、遠くの木立からは夜風が葉を揺らすささやきだけが聞こえてくる。
そんな穏やかな夜の庭に、レティシア・アルヴァトロスとクラウス・フォルスターの姿があった。二人でゆっくりと歩を進めるうち、周囲の使用人も気を利かせて距離を置き、ごく自然な形で二人きりの時間が生まれていた。何か特別な行事があったわけではない。だが、先の騒動がようやく落ち着きを見せた今だからこそ、二人が同じ場所と時間を共有する意味が大きいのだ。
レティシアは夜空を仰ぎながら、小さな息をつく。ここ数日、王太子エドワードとの決定的な衝突を経て、政治的にも社交的にも多忙を極めてきた。彼女を偽りの疑惑から救うために奔走したクラウスの存在は、いまや公爵家の中でも高く評価されている。
とはいえ、レティシア自身はあまりそうした政治的な評価を気に留めていない。ただ、彼女の心を揺らしているのは、伯爵家の次男として生きながらも自分のために全力を尽くしてくれた青年の存在。その事実が、夜風に乗って何度も思い出され、胸をあたたかくさせるからだ。
クラウスは隣で寡黙に歩いていたが、やがて少し先のベンチを示して言葉をかける。
「少し腰を下ろしませんか。今日はずいぶん慌ただしくされていたようなので……お疲れではないですか?」
その柔らかな声に、レティシアは小さく笑って応じる。
「そうね、少しだけ座りましょうか。あなたも、疲れた顔をしていると思うけれど?」
二人は並んでベンチに腰を下ろす。夜空を振り仰げば、凛とした月の輝きが広がっていた。庭の奥にはバラのつるが彫刻のように絡み、薄暗い中でかすかに甘い香りを漂わせている。もうすぐ冷え込みが厳しくなる季節だが、今夜は風が穏やかで心地よい。
レティシアはあたりを見回し、周囲に気配がないのを確かめると、隣に座るクラウスへゆっくり視線を向けた。
「クラウス、あなたには本当に感謝しているわ。わたしの名誉を取り戻しただけじゃなく、こうして日常を取り戻す手助けまでしてくれた。あの場で声を上げてくれたことがなければ、今もわたしは孤立したままだったかもしれない」
その言葉には、以前のレティシアには見られなかった素直さが混じっている。王太子との婚約があった頃の彼女は、そんな弱みを見せることを拒んでいたし、傲慢と評されるほどの強気な態度を崩さなかった。しかし、今は隣にいるクラウスへ向け、静かな感謝を表しているのだ。
クラウスは少し照れたように苦笑し、かすかな月光の下で彼女をまっすぐ見つめ返した。
「僕こそ、レティシア様の気高さに惹かれていたからこそ行動できたんです。誰に何を言われようと、あなたが本当は誇り高い人だと信じられたから。結果的に大きな危険を冒すことになりましたが、後悔はしていません」
「危険を冒す……確かに。王家やセレナの逆襲があってもおかしくなかったわね。でも、あなたは全然ひるまなかったわ」
「むしろ、あなたが倒れそうにならない限り、わたしが逃げるわけにはいかないと思っていました。今になってみれば、無謀だったかもしれませんけれど」
小さな笑いが弾け、二人は見つめ合う。言葉にはしないが、お互いが特別な感情を持っているのを感じ取っていた。
しばしの沈黙が訪れ、夜の冷たさが肌をかすめる。レティシアはほんの少し肩をすくめ、「やはり風が冷たいわね」と呟いた。クラウスはそれに気づいて上着の裾を軽く調整し、レティシアが寒くないようにと気遣う。しかし、彼女が何か言い出すより早く、クラウスが意を決したようにこちらを向いた。
「先ほども言いましたが、レティシア様がこうして夜の庭を歩けるようになったことを、本当に嬉しく思います。今、あなたが昔のように胸を張って歩ける姿を見て……僕は、やっぱりあなたを守りたい気持ちがさらに強まっているんです」
ふいに率直すぎる思いを告げられ、レティシアは心臓が跳ねるような感覚を覚えた。耳元でざわめく夜風が急に静まったように感じられる。
「守りたい、か……クラウスはいつもそう言ってくれるわね。でも、わたしこそ、あなたに助けられてばかりで」
言いながら、レティシアの胸にはこれまでの数週間が走馬灯のように思い返される。孤立していた時、クラウスが命がけで声を上げてくれた場面。二人で証拠を探し、王太子派閥に対抗した夜会の激闘。どの瞬間にも、彼の存在は欠かせなかった。




