第3話 断罪①
会場の中央が次第に静まりかえっていくのを感じながら、私は足元に微かな緊張を覚えていた。先ほどまで華やかに響いていた音楽が止み、多くの貴族たちが王太子エドワード・オルディス殿下の周囲に集まっている。どうやら殿下が夜会の締めくくりとして挨拶をするらしい。
エドワード殿下は、柔和な笑みを浮かべながらゆっくりと視線をめぐらせた。隣にはセレナ・グランの姿がある。彼女は小柄で華奢な体つきであり、その可憐な雰囲気が殿下の柔らかい表情によく馴染んでいるようにも見えた。夜会が盛り上がるほどに、二人が一緒にいる姿を見かける機会が増えてきた。
一方で、会場の隅のほうに立つレティシア・アルヴァトロスは、あいかわらず周囲に誰も寄せつけぬ雰囲気を保ったままだ。なまめかしい銀髪は光を集めるように淡く輝き、その表情は冷ややかで凛としている。殿下の挨拶が始まるというのに近寄る素振りを見せないところが、ある意味、彼女らしいとも言えるかもしれない。
やがて、エドワード殿下は視線を会場全体に向けた。賓客たちのさざめきも静まり、人々が次々と殿下をうかがう。私も大きな動揺こそないものの、なぜか胸の奥がざわついて仕方がなかった。先ほどから微妙に感じていた「きな臭さ」の正体が、何か形をとって現れるのではないか――そんな予感が拭えないのだ。
「皆様、今宵は私の呼びかけに応じてお集まりいただき、誠に感謝いたします。音楽に舞踏、美酒に美食……お楽しみいただけましたでしょうか」
殿下の声はやわらかな響きを持ち、場を和ませるように聞こえた。貴族たちが微笑ましく頷いたり、かすかに声を上げて同意を示したりする。
「皆様のおかげで、私にとっても実り多いひとときとなりました。これから先も、王国の繁栄のために共に歩んでいただければと願っております。そして……」
一拍、殿下は言葉を切る。その間に、ちらりとセレナのほうへ目をやったように見えた。次の言葉が何なのか、私だけでなく多くの人々が息を飲んで待つ。
「実は、ここで一つ、私から皆様にお伝えすべきことがあります」
殿下がそう言った途端、会場の空気が一気に張り詰めた。押し黙る人々の中で、レティシアに視線を向ける者がちらほらと見受けられる。どうやら誰もが「殿下と公爵令嬢」の話題を想定しているようだ。私もまた、思わずレティシアの姿を探す。
しかし、その銀の髪を持つ令嬢は、ほんの少し首を傾けた程度で、特に動揺を見せていないように見えた。あの冷ややかな瞳には、何が映っているのだろう。そんなことが頭をよぎる。
「皆様もご存じの通り、私はこれまで公爵家の令嬢……レティシア・アルヴァトロスと婚約の約束をしておりました。しかしながら……」
殿下の言葉が続いた瞬間、私は心臓が大きく跳ねるのを感じた。周囲の貴族たちが一気にざわつき始め、レティシアを振り返る。まるで、今から何かよからぬことが起こるのではないかという暗い予感が、会場を駆けめぐったようだった。
すると、その予感を裏付けるかのように、殿下はきっぱりと言い放つ。
「私はここに、レティシア・アルヴァトロスとの婚約を破棄する旨を宣言いたします」
息をのむ音が、あちこちで響いた。王太子が婚約を破棄――それはこの国の社交界において、とんでもない重大事にほかならない。しかもレティシアは公爵家の令嬢だ。彼女の家柄と殿下の家柄が結ばれる予定だったのが、突然こうして白紙に戻るとは誰も想像していなかっただろう。
私自身も衝撃を受け、思考が一瞬止まる。隣り合わせていた貴族がこそこそと話を交わし始め、レティシアの表情を盗み見る。彼女の体は固まったように微動だにせず、視線をまっすぐに殿下へ向けているようだった。
「婚約破棄……? しかし殿下、それはあまりにも急では……」
誰かがかすれた声を上げると、殿下はさも当然のように頷いた。
「急に思えるかもしれませんが、私にはこれ以上、共に歩むことはできないと判断せざるを得ない事情があります。事ここに至った理由は……」
殿下が言葉を続けようとしたそのとき、セレナが手を胸に当て、嗚咽を堪えるような仕草を見せた。殿下はすかさず彼女を支えるように腕を回し、皆の前で慎重に言葉を紡ぐ。
「セレナ、もう隠す必要はない。ありのままを話してほしい。私が必ず守るから」
セレナは瞳を潤ませ、声を震わせた。
「わ、私は……ただ、レティシア様に嫌われているとは思っていました。けれど、まさか、あんなにも……ひどい仕打ちを受けるとは……」
会場に居合わせる人々が、一斉に息を詰める。あの銀髪の令嬢が、セレナに「ひどい仕打ち」を? にわかには信じがたい話だが、セレナの細い肩が震えているのを目にすると、ざわめきが大きくなる。
「レティシア様は私の出自を馬鹿にし、何度も辛辣な言葉を浴びせました。皆がいないところで、私に耐えがたいほどの侮辱を……」
セレナは言葉を詰まらせ、涙を浮かべて俯いた。いかにも気丈に振る舞おうとしているようだが、それがかえって悲痛な印象を与えてしまう。まるで「隠されていた真実」がいま暴かれたかのように、周囲からレティシアへの疑惑の視線が集まり始めた。
私は隅からそれを見つめつつ、胸に走る不快感を抑えられなかった。レティシアがセレナをいじめた……? 今初めて聞いた話だが、いったいどこまでが事実なのか。
王太子殿下は、セレナを庇うような形で言葉を継ぐ。
「ここ最近、私の耳にはレティシアがセレナを苦しめているという噂が入り始めていました。ですが私は、それを彼女の誤解や言いがかりに過ぎないと思おうとしていました。しかし実際にセレナが苦痛を受けている場面を目撃した者が現れ、もはや看過できないと判断したのです」
その言葉が引き金となり、周囲の貴族たちが眉をひそめて小声で話し合いを始める。「公爵令嬢がそんなことをするものか」「しかし王太子殿下の言葉だぞ」「確かに態度が高圧的だとは聞いていたが……」 さまざまな声が交錯している。
私はレティシアのほうを見やったが、彼女は表情を歪めながらも毅然とした姿勢を崩さない。だが、その瞳には怒りと悔しさが混在しているようにも見えた。
「エドワード殿下」
強い声が大広間に響いた。レティシアが一歩前へ進み出る。周囲が一斉に退いたのは、彼女の佇まいに威圧を感じたからだろう。けれど、殿下はあえて距離を詰めることなく、セレナをかばい続ける。
「これは一体どういうおつもりですか。私がそんな……見に覚えのない中傷を受け入れるわけにはいきません」
レティシアの声は怒気を含んでいるが、その奥にある動揺を私には感じ取ることができた。誰だって、突然このような場で婚約破棄を言い渡され、いじめの加害者だと責められれば混乱するだろう。
エドワード殿下は、その冷ややかな瞳をレティシアへ向けると、毅然と答えた。
「私がここで言葉を飾る必要はありません。セレナが受けた仕打ちは明白であり、私も現に、彼女が怯える様を何度となく目にしてきた。貴女がどんな理由でそれを行ったのかは知らないが、もはや私は貴女を信頼できない」
「馬鹿な……そんな事実、断じてありません。私はセレナに嫉妬も敵意も抱く理由など……」
「では、どうしてセレナは苦しんでいるのです? 彼女がこれほど涙を流すのを見てもなお、心当たりはないと?」
言葉の応酬が大広間の空気を一層張り詰めさせる。レティシアがどれほど反論しようと、殿下は取り合わない。むしろ、彼女を「自分の立場を利用して弱い者をいたぶる人間」だと決めつけるような口ぶりだ。
セレナはそこにいて、涙をすすりながら俯いている。その姿を目にした貴族の多くが、同情の眼差しを向け、レティシアへの視線をより厳しくしていくのを感じる。
「……これは……一体、どういう筋書きなんだ……?」
私は心の中でそうつぶやいた。確かに、レティシアがかなり誇り高い態度を取る人だというのはわかる。だが、彼女がわざわざセレナに陰湿な言動をしていたというのは、にわかに信じがたい。
それでも、殿下がここまではっきりと口にする以上、会場の空気は一瞬でレティシアを排除する方向に傾いていく。まるで目に見えない嵐が舞い込んだかのように、人々の非難や疑念が一斉に彼女へ向かって吹き荒れ始めた。
「王太子殿下を裏切るなんて……公爵令嬢といえども許されるはずがない」
「セレナ嬢もかわいそうに。あれでは泣くのも無理はない」
「しかし、まさかこんな場で婚約破棄を宣言するなんて……レティシア様もよほどのことをしたのでは?」
ざわざわと飛び交う言葉の全てが、レティシアを否定する方向へ流れていく。彼女は一人、周囲の敵意を受け止めるかのように立ち尽くし、唇を噛みしめた。
「おやめなさい。皆で根拠もなく……そんな、彼女を一方的に……」
レティシアは声を張り上げたが、その叫びは誰にも届かないかのようだ。セレナがあまりにも悲痛そうに泣いているせいもあって、レティシアの弁明は感情に任せた醜態のようにしか映らない。周囲の冷たい視線がさらに彼女を追い詰める。