第17話 深まる絆②
資料を確認しようとするレティシアが、椅子から立ち上がろうとした際に足元の紙束につまずき、バランスを崩しそうになる。
クラウスが慌てて手を伸ばし、彼女を支えるかたちになった。思いがけず二人の顔が近づき、レティシアはほんの数秒、驚いた目でクラウスを見つめる。
ほんの一瞬の接触なのに、胸の奥がはじけるような感覚を覚え、レティシアは慌てて姿勢を正す。
「ごめんなさい、余計な心配を……」
「い、いえ……大丈夫ですか? けがはないですか?」
クラウスも動揺を隠せないまま、彼女が無事だとわかってほっと安堵の息をつく。わずかに触れた彼女の体温が、まだ手のひらに残っているようで、落ち着かない気分が続く。
レティシアはそのまま少しそっぽを向きながら、書類を拾い上げて机に戻す。頬が熱くなりかけているのを感じ、必死に平静を取り繕っている。
「……ありがとう。助かったわ。わたしにこんなドジなところがあるなんて、知らなかったでしょう?」
「ええ、初めて見ました。でも、そんな一面があってもいいと思います。あなたが常に完璧でいる必要なんて、ないのですから」
飾りのない彼の言葉が胸に届くたび、レティシアは自分が今、彼の言動にどれほど心を揺さぶられているのかを思い知らされる。まだその気持ちを恋愛と断じるには抵抗があるが、「特別」という言葉を連想してしまうのを止められない。
一方、クラウスもレティシアの苦笑混じりの表情を目にして、彼女が頑なではなくなりつつあるのを感じ取っていた。以前より、はるかに自然に会話が成立しているし、何より彼女が自分を頼りにしてくれると感じられる瞬間が増えた。誇り高い公爵令嬢が心の隙を見せるのは、それだけ彼を信じ始めた証だろう。
「こんな状況なのに、あなたの存在が心の支えになっている……わたし、今初めてそう思えたかもしれないわ」
レティシアは、周りに人がいることを意識してか声を潜め、小さく囁くように言った。クラウスは頬が熱くなるのを感じながら、かすかに微笑んで応える。
「僕も同じです。レティシア様の隣に立つことで、これまで感じたことのない力が湧いてくるようで……不思議ですね」
こうして会話を交わすうちに、二人の間には微妙な甘やかさが漂う。しかし、それはまだかすかなものであり、二人も無意識にそれを避けるように話題を仕事のことへ戻そうとする。
とはいえ、互いへの思いが深まっていることは明らかだった。証拠を集める仕事や、協力者たちとの会合、さらには王太子派閥への警戒を緩めるわけにはいかないが、その合間にも、二人の意識は少しずつ互いに向かうようになっていた。
「さて……本題に戻りましょう。この証拠を公にする方法について、わたしの侍女たちともう一度詰めていくわ。あなたも伯爵家の動きが怪しいなら、無理はしないで。余計なリスクを負う必要はないの」
「そうもいかないですよ。あなた一人を危険に晒すわけにはいかない。ここは僕も協力を惜しみません」
レティシアが少しきつめの口調で忠告しても、クラウスは淡々と自身の覚悟を示す。その応酬が目には危なっかしくも映るが、何よりも二人の絆が強いことを示していた。
ささやかな会話や仕草を重ねる中で、二人の心は確かに通じ合い始めている。お互いにまだ恋と呼ぶほどの明言はしないが、相手をかけがえのない存在と感じ始めているのは明白だ。
「……ありがとう、わたしもあなたを支えとして認めてる。たとえ言葉に出さなくても、お互いにわかってるはずよね」
「はい。僕もレティシア様と共に立ち向かうつもりです。最後まで」
そうして二人は、新たに決意を確かめ合うように書類を再び手に取る。まるで相手の体温を胸に刻むかのように、いつも以上に穏やかな空気が書庫に流れた。
外を見やれば、季節が移り変わる気配が感じられる。早朝にはまだ寒さが残っていたが、日中になると少しずつ暖かい風が吹くようになった。恐らく、二人の間にも似たような変化が訪れているのだろう。厳しい寒風のような困難に囲まれてきたが、今はかすかなぬくもりがそこにある。
これから待ち受けるのは、王太子派閥との最終的な対決かもしれない。しかし、その不安を抱えつつも、レティシアとクラウスは互いに敬意を抱き合い、さりげなく相手を思いやる時間が増えている。もしこの困難を乗り越えた先で、二人がどのような関係を築くのか、それはまだ誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、二人の絆がこれまでになく深まっていること。恋と名付けるには早いかもしれないが、特別であることは揺るぎない――そんな微妙な感情が、書庫の片隅でそっと花を開き始めていた。




