第15話 揺らぎ始める威光①
あの日から、王都の社交界には少しずつ奇妙なざわめきが生まれ始めていた。王太子エドワード・オルディスが流したとされる噂の一部で、矛盾が露呈しているらしい――そんな話を耳にする貴族が増えつつあるのだ。
たとえば、セレナ・グランが「レティシア・アルヴァトロスからあの場所で侮辱を受けた」と涙ながらに語った日時に、実はレティシアが公の席に出席していたことが確かめられたという一件。参加者の間では「王太子殿下はセレナの話を簡単に信じてしまったのでは」「彼女を無条件で庇うのは不自然ではないか」という声がささやかれている。
エドワードがレティシアと袂を分かつに至った経緯は、あの夜会での断罪を境に広く知られるようになった。だが、そこにある種の不透明さや裏付けの薄さを感じ取る者が現れ始めたのは最近のことだ。王太子という立場故に、誰もが否応なく従っていたが、さすがに「まったく筋が通らない」という指摘が増えれば、それを無視することは難しくなってくる。
そうした微妙な空気を感じ取ったのは、クラウス・フォルスターも同じだった。レティシアとともに地道な調査を重ねる中で、「王太子派閥がすべてを牛耳るわけではなく、隙がある」と見え始めたのだ。
ある日、クラウスの友人が届けてくれた書簡には「セレナが語るエピソードのいくつかに、日付や場所の大きな齟齬があるのではないか」と書かれていた。しかも、それを不審に思い始めた貴族の子弟たちが何名かいるという。彼らは直接口には出さないが、「王太子なのに怪しい」と内心で感じているらしい。
もっとも、レティシアの周囲にはいまだ冷たい視線が多い。セレナが弱々しい姿で泣き続けているという噂に共感する者もおり、「あの誇り高い公爵令嬢がやはり悪いのでは」と決めつける声は完全には消えていない。
ただ、ここにきて「セレナの言動に矛盾が多いのでは」という指摘や、彼女自身が王太子の恩恵を受けるために嘘を重ねているのではないかという疑念がちらほらと湧き始めているのも事実だ。仲の良いはずの貴族同士の会話の節々に、わずかな疑問が滲む――「セレナは実際にはそこまでか弱くないのでは」「レティシアとの直接的な衝突を見た者がいないのはどうして」など、些細な疑問が膨らみ始めているのだ。
こうした微妙な風向きを察したレティシアとクラウスは、書庫の一角で顔を突き合わせ、今後の方針を改めて検討していた。屋敷の中を監視する目が増えているのを感じつつも、二人で集めた資料を広げ合い、静かに議論を交わす。
「どうやら、王太子殿下への信頼がわずかに揺らぎ始めているようですね。噂の矛盾を感じ取る人が増えれば、こちらとしては追い風になるかもしれません」
クラウスがそう口にすると、レティシアは頷きつつも不安を拭いきれない表情を浮かべた。
「ええ、たしかにわずかながら『王太子がセレナの作り話に踊らされているのではないか』という声もあるようだけれど、だからといって王家に直接反旗を翻すような行動を取る貴族はそうそういないわ。皆、大事に巻き込まれたくないのが本音でしょう」
「そこが難しいですね。王家を真正面から批判するのは、多くの者にとってリスクが大きい。例え王太子殿下に疑いを持っていても、あえて名乗りを上げる人がどれほどいるのか……」
二人の言葉には慎重さがにじんでいる。王太子の威光が揺らぎ始めたといっても、それはまだ軽いさざ波程度。仮にエドワードが本腰を入れて政治的圧力をかけるなら、揺らぎかけた者たちが再び沈黙を選ぶ可能性は高いのだ。
クラウスは小さく息を吐き、手元の紙束を整理しながら続ける。
「どうやら、セレナも浮かれたままではいられない状況みたいです。先日、王都の酒場で『セレナ嬢は本当は繊細などころか、とても狡猾だ』という話が出たと、情報屋から報せがありました。実際、それを耳にした貴族も少なからずいるようで……」
「つまり、セレナが王太子に取り入るために涙を利用している可能性を示唆する声が増えてきたということね。そこを突けば、彼女の信頼が大きく揺らぐかもしれないわ」
レティシアは冷静に頷き、机の上の書簡に視線を落とす。そこには、セレナが王太子周辺で「本当に弱々しいだけではない」と示すような行動をとっているという噂が記されている。人払いをした後、王太子側近に対して堂々と意見を述べていたとか、逆に自分を貶める者に激しい言葉を浴びせたなど、真偽定かならぬ話がいくつも含まれている。
「問題は、今後わたしたちがどう動くかよ。事実を突きつける段階で、王家を真正面から批判する形になれば、周囲の反発も相当大きいわ。味方がくじけてしまう危険性もある」
「そうですね。僕たちが今まさに悩んでいるのは、どのタイミングで、どこまで公にするか。王太子殿下の立場やセレナの評判を大きく崩せば、それなりの逆襲があるでしょう」
レティシアは沈黙し、少し考え込む。クラウスも口を閉じ、ペンを手にしたまま動かない。二人とも、今が決断を迫られる時期だと感じていた。王太子の威光が少しずつ揺らぎ始めているからこそ、うかつにカードを切りすぎるとリスクが跳ね上がるのである。




