第2話 魅惑と傲慢①
王城の大広間に足を踏み入れた瞬間、あまりの華やかさに思わず息をのんだ。天井高く吊るされた無数のシャンデリアが宝石のように輝き、そこからこぼれる光が漆黒の床を淡く照らし出している。かすかに響く弦楽器の音色が優雅な調べを奏で、貴族たちの笑い声と重なって遠くから波のように聞こえてくる。
まるでそこだけが別世界のような、きらびやかな空間。人の動きや衣装の輝きが、ひとつの舞踏のようにゆらゆらと交錯していた。私は思わず礼服の襟元に手をやって息を整える。先ほどまで馬車の中で感じていた落ち着かなさが、一気に胸の奥で大きくなった気がした。
父ハンスに注意された通り、私は極力控えめで丁寧な態度を心がけようと思っていたのだが、この大広間で繰り広げられるきらびやかな光景を目の当たりにすると、自然と肩に力が入ってしまう。あらためて、自分は伯爵家の次男だという事実を実感した。
もっとも、ここに集まっている人々のほとんどは、私にさほど興味も抱かないだろう。王太子殿下との繋がりを持つ大貴族や、華麗な装飾を施した令嬢たちが談笑し合う様は、私が馴染んできた穏やかな屋敷の雰囲気とはまるで異なる。きっと今夜も、政治的な思惑や婚約話などがひそやかに交わされるのだろう。
私はさっそく会場の隅に控え、グラスに注がれた軽めの酒を口に含みながら、人々の様子を観察し始めた。普段から、つい安全圏に立って周囲を俯瞰してしまうのが私の癖なのだ。伯爵家の次男には「己を誇示する場」が少ない分、こうやって空気を読んで動くことが得意でもある。
どこかにいるであろう王太子殿下の姿を探してみようかと思ったが、それよりも先に、「公爵令嬢レティシア・アルヴァトロスはいるのだろうか」という考えが頭をよぎった。
今日は彼女が姿を見せるという話を、執事からもちらりと聞いていた。王太子殿下が主催する夜会に、婚約者である彼女が来ないはずがない。どんな衣装を纏い、どんな態度で周囲を圧倒するのか。耳にしてきた噂が真実ならば、かなりの存在感を放つはずだ。
グラスを置き、ちらほらと会話を交わす貴族たちの間を歩きながら、私は意識のどこかでレティシアの姿を追い求めていた。きっとすぐにわかる。これほど話題になっている人ならば、一目で「ああ、あれがそうか」と理解できることだろう。
しかし、少しうろうろしてみても、明らかに「それらしい」人物は見当たらない。周りは上品なドレスに身を包んだ令嬢たちがひしめいているが、皆そこそこに華やかなだけで、際立った圧倒感はない。
そんな折、ふと会場の入り口付近がざわめき始めた。周囲が控えめに道を開け、何かを見つめている。その視線をたどると、そこにいたのは、白銀のように淡く光を帯びた髪を優雅に流す女性だった。
私は一瞬で目を奪われる。彼女が身に纏っているのは、白と金を基調とした洗練されたドレス。動くたびに繊細なレースがきらめき、まるでその身体から淡い光が溢れているかのようだ。周りの人々がどれだけ飾り立てても、彼女の存在をかき消すことはできない。
その女性こそが、レティシア・アルヴァトロスに違いないと確信した。何より銀色の髪が印象的で、肌の白さを際立たせている。まるで昼間の月が静かに光を放つような、儚さと気高さを併せ持った美しさだ。
しかし、美しいだけではない。彼女には人を寄せつけない鋭さがある。人々が静かに礼をする中、彼女は一切崩れぬ姿勢で、さながら王侯を思わせるような足取りで進んでいく。周囲が彼女を敬うのは、その家柄ゆえだけではないと感じた。
周囲がひそひそと彼女を話題にしているのが聞こえる。
「さすが公爵令嬢……あの美貌は神が与え給うた奇跡のようだ」
「けれど、あれほど自尊心が強いのでは、手に負えないだろうな」
そんな言葉の断片が耳に飛び込んでくる。誰もがレティシアを称賛する一方、難しい性格だとも囁いている。その場にいるだけで、人々を圧倒するような威圧感があり、まるで彼女が中心に立つことでこの夜会の空気が変わったかのようだ。
私の視線も、彼女から離せなくなっていた。ずっと名前しか知らなかった公爵令嬢は、「本物」どころか、噂以上の迫力をまとっている。
見とれるように視線をやり場なく漂わせていると、レティシアが小さく顎を上げてこちらを見るような仕草をした……と一瞬感じたが、それは単なる私の思い込みかもしれない。実際には、彼女が遠目に私を目に留めた様子はない。
けれど、そのほのかな仕草だけでも、心臓が跳ね上がる。私はなぜだか急に喉が渇き、先ほど置いたグラスをまた手に取った。中身をそっと口に含むが、味わいがわからないほど意識は飛んでいた。
自分でも驚くほどの衝撃だった。彼女の立ち姿、ほんのわずかな目線の動かし方、すべてに隙がなく、周囲の人間を意に介さない冷ややかな雰囲気さえある。それが「傲慢」とも言える態度として映ることも、どこか納得がいく。
だが私は、その高いプライドゆえの気高さにこそ、強く惹かれてしまう。初めて人の容姿を「芸術」だと感じたと言ってもいいかもしれない。
同時に、ここまで強烈に心を揺さぶられるとは思っていなかった。冷静でいるはずの自分が、すでに彼女に心奪われている感覚がある。この一瞬にして沸き上がった感情は、何なのだろうかと自問せずにはいられない。
やがてレティシアは、会場の奥へと姿を進めていく。その先で人々から挨拶を受けたり、必要最低限の礼を返したりしているようだ。笑い声は聞こえない。ほんの少し口元が動いたとしても、それが笑みなのかどうかは判別できないほど淡々としている。
私はしばらくその様子を眺めていたが、自然と胸の奥に熱がこもってくるのを感じた。今まで、公爵家の令嬢など身分違いだと思っていたし、会う機会すらなかった。だからこそ縁遠いものと割り切ってきたのに、いざ実物を見ると、すべての考えをひっくり返されるような感覚がある。
気がつけば、周囲には王太子エドワード殿下や、令嬢同士の談笑に加わる人々の姿が見え始めていた。エドワード殿下は淡い金髪と整った容姿を持ち、穏やかな表情で貴族たちと言葉を交わしている。彼の傍らには、セレナ・グランという少女の姿もあった。
セレナは小柄で控えめな印象の女性で、没落しかけた貴族家の出だと聞いたことがある。王太子に庇護される形で社交界に姿を見せるようになったらしいが、その存在をよく思わない者もいるようだ。
しかし、そんな噂はともかく、今の私にとって関心があるのはレティシアが何を思ってこの場にいるのか、ということだけだった。王太子殿下との婚約者であれば、普通なら隣に並んでいても不思議はないはずなのに、彼女は殿下やセレナとは別の場所で、凛とした姿勢のまま飄々としている。
「……なるほど、あれがエドワード殿下の『想い人たち』という構図か」
そんな話を小声で交わす貴族たちが私の近くを通り過ぎた。
「殿下とセレナ嬢は、最近急に距離を縮めているらしいぞ。公爵令嬢がそれをどう思っているのか……」
「さあな。あの公爵令嬢が取り乱すなんて想像つかないが、周りが穏やかじゃないのは確かだ」
きな臭い噂は確かに流れ始めているらしい。レティシアとエドワード殿下が公の場で一緒にいるところを、ここしばらく見かけていないという話もある。ここ数年続いていた「王太子と公爵令嬢」という盤石な組み合わせに、セレナという存在が微妙な波紋を広げているようだ。
しかし、当のレティシアの態度はどこ吹く風。その銀色の髪を美しく揺らしながら、誰とも不用意に親しく接しない。穏やかな音楽が流れるこの場においてさえ、彼女の周囲だけが静謐な空気を保っているように感じる。
私は内心、この空気をどうにかして破ってみたい気がしてならなかった。一体、彼女はどんな話し方をするのだろう。どんな声で、どんな言葉を使うのだろうか。
そんな興味を抱く一方で、身分も立場も違う自分が近づいたところで、相手にされるはずもないという自覚がある。余計なお世話だろうし、ここで変にちょっかいを出して公爵令嬢の機嫌を損ねれば、父ハンスにどんな顔をされるか想像もしたくない。
それでも、いまここで感じている圧倒的な魅力を、ただ見ているだけで終わらせていいのかという戸惑いが、胸をざわつかせていた。