第10話 誤解と距離②
ただ、クラウスにはもう一つの思いがあった。純粋な正義感だけではない。レティシアに対して、どこか特別な感情を抱き始めているのだ。それが恋心だと明確に自覚しているわけではないが、彼女の鋭い言葉に傷つきながらも離れられない気持ちが確かにある。
「レティシア様、正直に言います。僕はあなたを救いたい。名誉を回復したいと願うのはもちろん、あなた自身がこれ以上苦しむ姿を見たくないからです。でも……あなたが何もかも貴族の誇りという枠内で解決しようとするとき、僕はときどき話しかけづらくなる。まるで、あなたが遠い場所に立っているように感じて……」
「それはあなたの感情でしょ? わたしはあなたを遠ざけているつもりはないわ。ただ、『わたしのやり方』に余計な干渉をしてほしくないだけ。わたしが大事なのは公爵家の令嬢としての立場であり、自分の意志よ」
強い言葉の応酬に、クラウスは少し押し黙った。確かに、彼女には彼女の守るべきものがある。その大きさを理解しながらも、彼は思わず心の中で嘆息してしまう。自分が踏み込む余地は、本当にわずかしかないのかもしれない。
書庫の空気が重く沈む。しばし二人は沈黙のまま文書を手に取り、それぞれの作業を続けるふりをしていた。そんなとき、扉の向こうから声が聞こえ、レティシアの侍女が再び顔を覗かせる。
「お嬢様。少々よろしいでしょうか。先ほどの報せに追加で連絡がありまして……」
「わかった。あなたは廊下で待っていて」
レティシアが短くそう告げると、侍女は会釈して再び扉を閉めた。そのわずかなやりとりの間、クラウスはふと侍女の顔に戸惑いの色が浮かんでいるのを見逃さなかった。どうやら書庫内の張り詰めた空気に気づいているようだ。
侍女が去ったあとも、気まずさは消えない。堪えかねたようにクラウスが席を立つ。
「少し外の空気を吸ってきます。頭を冷やしたいんで……」
「どうぞ。わたしはまだこの書類を確認することがあるから、先に失礼するわ」
レティシアはそう言って、机のうえの資料に視線を落とす。クラウスは何も言わず書庫を出た。
廊下へ出ると、ちょうどレティシアの侍女が後始末をしているところだった。彼女はクラウスが険しい表情をしているのを見て、心配そうに声をかける。
「クラウス様……少しお疲れのご様子ですね。何かあったのでしょうか。お嬢様も、ここ数日ずいぶん神経をすり減らしているようで……」
「いえ、大丈夫です。ただ、僕たち少し意見が衝突しただけで……。ご心配かけて申し訳ない」
侍女は苦笑混じりに小声で言う。
「お嬢様は強がっていらっしゃるけれど、本当のところはずっと孤独を抱えてこられたのです。今はクラウス様が力になってくださっているからこそ、この調査が進められている。どうか、あまり深く気に病まないでくださいませ」
その言葉に、クラウスは胸が締めつけられるような感覚を覚える。彼女の周りの人間も、レティシアが限界に近い精神状態で必死に踏ん張っていることを理解しているのだろう。彼女自身は表に弱音を決して見せないが、いつ折れてもおかしくない状況なのかもしれない。
それでもなお、彼女は「公爵令嬢としての誇り」を最優先し、自らに妥協を許さない。そこにすれ違いの要因があるとわかっていても、クラウスはどう声をかけていいかわからなかった。
「ありがとうございます。もう少し落ち着いたら、再度話をしてみます。彼女にとって大事なのはわかるので……」
「……はい。お嬢様のことを、どうぞよろしくお願いいたします」
侍女の言葉はまるで「あなたしか頼れない」と言っているようにも聞こえ、クラウスの胸を熱くした。あの誇り高い令嬢を本当の意味で支えられるのは、自分しかいないのではないかと――そんな思いが、ほんの少し、彼を前向きにしてくれる。
一方、クラウスが書庫を出て行ったあと、レティシアは窓際に立ち尽くしていた。先ほどの侍女から報せられた新情報を受け取る気力も湧かず、ため息だけが口をつく。
クラウスが資料を整える際に生じる小さなズレや連絡ミスは、単なる些事かもしれない。だが、彼女はそこに「余裕のなさ」を感じてしまうのだ。彼が動くためには、伯爵家内での反対を押し切らねばならず、そのせいで行動が制約されることが多い。自分のように強い立場を持たないために「頼りない」と思ってしまう自分がいる。
「でも、あの人はあの人なりに必死なのだろうし……わたしにとっても必要な存在のはずなのに」
言葉にできない感情が交錯する。恋愛や好意などに思い至るより先に、彼女の頭を支配しているのは「公爵家の命運を守る」という使命感。そのためには、自分の判断を誤らず、少しの隙も作らないよう動かねばならないと強く考えている。
だが、クラウスと衝突するたびに胸のどこかが痛むのは、なぜなのだろう。それがただの苛立ちや焦りではないと、かすかに感づいている。それを認めれば、彼女の誇りは揺らいでしまうのではないか――そんな恐れもあった。
「わたしは弱音を見せられない。公爵家を背負うのはわたししかいない。でも……」
曖昧な独白を止め、レティシアは再び机に向かう。今は感情に流されてはいけない、そう自分に言い聞かせるように、次なる資料に視線を落とす。その手は震えてはいないが、どこか力がこもっていない。
こうして、二人の想いは小さな衝突を積み重ねながら、かえってぎこちなくなっていく。周囲の人間たちがそれぞれ気を遣いながらも、決定的な修復のきっかけを与えられないまま、午後の時間がゆっくりと過ぎていった。
このすれ違いが完全に解消されない限り、二人の協力体制も万全とは言えない。しかし、今はまだ彼らにその余裕がない。王太子派閥の次の一手がいつ動くかもわからず、セレナの涙に隠された不穏な企みは、さらに深く根を張っている可能性があるのだから。
曇天の空は依然として重たく、やがて小雨が降り始めた。遠くの街路がほんのり湿る頃、レティシアは書庫の窓を閉じて小さく息を吐く。心の曇りも、同じように晴れないまま。互いの思惑を抱え込んで迎えた夜は、さらに二人の距離をわずかに広げていった。




