第10話 誤解と距離①
低く雲が垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。レティシア・アルヴァトロスは、公爵家の離れに設えられた書庫の窓辺に立ち、曇天をぼんやりと見つめている。ここ数日は曇りや雨ばかりで、まるで彼女の心を映すような沈んだ空気が続いていた。
その書庫には、このところレティシアとクラウス・フォルスターが調査に使うための資料が山積みにされている。王太子派閥が広めている噂や、セレナ・グランの行動記録など、多岐にわたる紙束と手帳類。公的な場ではなかなか手に入らない情報も、レティシアの人脈を通じて少しずつ集まっていた。
しかし、調査が進むにつれ、二人の考え方の違いが徐々に表面化し始めている。互いに目標は同じ――「事実を明らかにし、レティシアの名誉を回復する」こと。けれど、その手段をめぐって、もしくは何を優先すべきかをめぐって小さなすれ違いが積み重なっていた。
その日も朝から二人で書庫に籠り、整理された書類を確かめ合う予定だった。レティシアは机の上を整えながら、少し遅れて来ると連絡のあったクラウスを待ち受ける。だが、気が立っているせいか、ほんの些細なことが気に障るようになっていた。
しばらくして書庫の扉が開き、クラウスが姿を現す。先日入手したメモや証言の抜粋が書かれた資料を抱えているが、どこか落ち着かない様子で挨拶もそこそこに席についた。
「お待たせしました。少し準備に手間取ってしまって……」
「ええ、そう。では、早速始めましょう」
レティシアの声は冷ややかだった。前なら「遅かったわね」の一言程度で済ませたかもしれないが、今は意識せずとも棘が含まれる。クラウスもそれを敏感に察したのか、書類を広げる手が一瞬止まった。
「その……資料は、昨晩のうちにまとめ直しておきました。セレナが『いじめ』を受けたと語った日程と、実際のスケジュールのズレを表にしています。あと、セレナ周辺の証言も少しだけ追加で取れて……」
「それは助かるけれど、どうして朝の段階で共有してくれなかったの? わたしとしては、まとめに時間を取りたくなかったのだけど」
些細な疑問に思えるそのやりとりが、意外にも火種になった。クラウスは慌てて弁解する。
「すみません。夜遅くまでかかってしまって、朝になってから伯爵家の使用人に文書を清書させていたんです。父の目を気にしながらの作業だったこともあって……」
「ならば連絡くらいはできたでしょう。わたしがあなたを当てにしてここまで整えていた作業も、無駄になった部分があるかもしれないわ」
レティシアの言葉に、クラウスは言い返す言葉を失う。確かに連絡を取る手段はいくらでもあったのだろうが、彼の方にも事情がある。伯爵家の中での立場があまり芳しくなく、準備や情報のやりとりを公にできないという難しさを抱えているのだ。
「……申し訳ありません。これからは気をつけます」
「そうしてちょうだい。余計な時間はありませんもの」
そのまま二人は、ギスギスした空気の中で資料の確認に移った。王太子派閥が広める噂と、セレナが主張する「被害」の具体的内容。そして、レティシアが把握しているスケジュールとの矛盾点を照合していく。
作業自体は順調だったが、一言やりとりするたびに小さな不満が積み重なっていくのをお互い感じ取っていた。レティシアは自分が公爵家の当主の娘として、どれほどの責任を背負っているかを強く意識しており、動きに無駄を出したくない。一方、クラウスはそれが分かりながらも、自分には限界があると痛感していた。
昼近くになり、侍女が軽食を運んできた。食事を取りながら一息つくには、よいタイミングだったはずだが、レティシアは席を立つと窓辺へ歩き、外の景色に目を向ける。
「ここ数日、王太子殿下とセレナの周囲が妙に活気づいているようね。噂では、さらにわたしを糾弾するような新たな『証言』を集めているらしいわ」
「その話は僕も耳にしています。でも、実際にはどれほど確かな証言か怪しいものです。やり方を見れば、まるで政治的な陰謀というか……大げさかもしれませんが、何でも捏造しようとしている気配がある」
するとレティシアが振り返り、少し尖った口調で切り返す。
「大げさかもしれない、なんて曖昧な言い方はやめて。もし本当に捏造されているなら、わたしとしては看過できない重大事よ。あなたには分からないかもしれないけれど、わたしの家と名誉がかかった問題なの。曖昧な表現は不安を煽るだけだわ」
クラウスの胸に、チクリと痛みが走る。彼の正義感は、一人であれば多少の損失を恐れず行動できる性質を持っているが、レティシアにとっては家の未来そのものが懸かった一大事だという意識が揺るぎなくある。
「……僕だって軽く見ているわけじゃありません。曖昧な言い方をしたのは、まだ確証を得ていないからです。確証もなく断言してしまえば、逆に相手に付け入る隙を与えるかもしれないし……」
「そうかもしれないけれど、それを『はっきり言いきれない』という形でわたしに伝えるのは、ただ不安を増幅させるだけでしょう。もっと言葉を選んでほしいわ」
侍女が軽食を並べている傍らで交わされる会話としては、あまりに険悪だ。その侍女も気まずそうに目を伏せ、何も言わずに書庫から退散していった。
このままだと険悪なまま作業を続けるのは難しい。そう感じたクラウスが、小さく息を吐き、意を決して言葉を探す。
「……レティシア様。もし僕の言い回しや段取りがあなたの要求に十分応えられていないのだとしたら、素直に謝ります。けれど、僕なりに必死なんです。伯爵家の中でも立場が微妙で、情報を持ち出すにも細心の注意がいる。僕の意志だけで自由に動けるわけではないんです」
「わたしだって、自由に動けるわけではないわ。公爵家の利益があり、父がどう思うかもある。けれど、わたしが守りたいのは誇りと名誉。それを損なうような行動が少しでもあるなら、容赦なく排除しなければならないの」
その言葉を耳にし、クラウスはあらためて彼女の姿を見る。まっすぐな背筋と冷徹な瞳。それは公爵令嬢としての気高さを映しつつ、危うさもはらんでいる。彼女は自分の心を守るために、周囲との距離を保ち続けてきたのだろう――そして今も、クラウスに対して同じ姿勢を崩そうとはしない。




