第1話 噂の令嬢②
夕刻になると、フォルスター伯爵家の馬車が用意された。クラウスは礼服に身を包み、父ハンスに短い別れの挨拶をして出かける。
「失礼のないようにな。それから、くれぐれも変な噂を立てられないよう気をつけろよ」
いつになく真顔で念押ししてくる父に苦笑しつつ、クラウスは深々と頭を下げた。
「承知しています。行ってまいります」
馬車が石畳の道を進むにつれ、王都の中央へ近づく。通りには夕刻の喧騒があり、行き交う人々の姿が見える。商人たちの呼び声や音楽隊の練習の音、そして遠くから聞こえる教会の鐘の響きが、少しずつ華やいだ夜を予感させる。
クラウスは窓越しに外の景色を眺めながら、夜会に思いを馳せた。
以前にも社交界の集まりに出席したことはあるが、こんなに大規模で格式の高い場は初めてだ。王太子殿下が主催とあれば、招かれた貴族の数も相当なものだろう。中にはわざわざ地方から遠征してくる侯爵や子爵もいるはずだ。
レティシア・アルヴァトロスも、その場に姿を現すのだろうか。
クラウスは、自分には到底手の届かない「遠い世界」のように感じていた。家の格式に大きな差があるだけでなく、人間としてもあまりに違う場所に立っているように思える。けれど、ほんの少しだけ、その姿を見てみたいという興味が湧いているのも事実だ。
社交界は時に冷酷だ。見た目の麗しさや家柄による差別が横行し、ひとたび噂が立てばあっという間に広がってしまう。実体のない話でも、それが誰かの口に乗れば「さも真実のように」扱われることだってある。
レティシアについての良からぬ噂も、もしかしたらそうした誇張や誤解が混じっているのかもしれない――クラウスはそう考えると、なぜか胸がむずがゆいような、不思議な感覚にとらわれた。
「……会えるだろうか」
小さくつぶやいた声が、馬車の揺れにかき消される。夕暮れの光が車内を照らし、これから始まる夜の華やぎを知らせるかのように、窓ガラスに反射してきらめいていた。
フォルスター伯爵家が王都中央の広場を通過する頃、馬車越しにもわかるほど、あちこちの屋敷が明かりを灯し始めているのが見えた。貴族たちはそれぞれに舞踏会用の衣装を整え、この夜会に向かっているに違いない。
クラウスは心の奥で、「表向きは華やかでも、その裏で何が起きるかはわからない」と警戒する気持ちを拭えなかった。
とはいえ、ただの次男である自分が大きな動きをするわけでもない。挨拶を交わし、形式的な社交をこなして、あとは兄に報告すればいいだけのこと。
それなのに、レティシア・アルヴァトロスに対する関心だけが、妙に意識の片隅にこびりついて離れない。
ようやく夜会の会場となる王城が見えてくる。城の周囲には大小さまざまな馬車が連なり、豪華な衣装に身を包んだ貴族たちが続々と入場していた。
煌びやかな灯火が城門の左右に並び、石造りの壁を照らしている。城内では、既に音楽隊が軽やかな演奏を始めているらしく、外まで微かに調べが漏れ聞こえてきた。
クラウスはそこで初めて、今夜起こり得る様々な出来事に胸を弾ませる自分を意識する。面倒だ、退屈だと思っていた夜会が、少しだけ魅力的に思えてきたのだ。
「伯爵家の次男? と侮られないよう、きちんと振る舞わないとな……」
そんな小さな独り言を漏らしつつ、クラウスは屋敷の扉を開ける従者に向けて身支度を整える。
まだこの時点では、彼がこれから目にする光景や、出会う人々が、どれほど彼の運命を左右するのかなど知る由もなかった。
だが、その胸に芽生え始めたわずかな興味――「レティシア・アルヴァトロスはどんな女性なのだろう」という想いが、確かにクラウスを前へと駆り立てている。
降り立った城の石畳は、まだ太陽の名残が消えきらず、淡い橙色の光を宿していた。空には早くも星が瞬き始め、まるでこれから起こる数多の出来事を見守っているかのようだ。
クラウスは馬車から足を下ろし、軽く衣装の皺を伸ばす。さあ、夜会が始まる。
彼は一歩、石畳の上を踏みしめながら、自分でも気づかないほど微かに笑みを浮かべた。
どこか遠くの方で、音楽隊の弦楽器が高らかに奏でる序曲が聞こえてくる。重なり合う旋律は、これからの波乱や喜びを、すでに予感させていた。