5.賑わいの夜、揺れる過去
朝日がまだ柔らかい光を差し込む中、『蒼の卓』の厨房には薪がくべられる音と、湯気が立ち上る鍋の香りが満ちていた。
ヴァルトは寸胴鍋の中でスープを仕込みながら、木製のスパテルをゆっくりとかき回す。
肉と野菜の旨味が溶け出し、香辛料がほのかに鼻をくすぐる。
カウンターの向こうでは、ミーナがせっせと食器を拭きながら、ヴァルトをちらりと見やる。
彼の無骨な背中は、いつもと変わらず寡黙で、まるで店の一部のように静かだった。
「相変わらず、黙々と仕事してますね。ちょっとは私とおしゃべりしてくれてもいいんですよ?」
ヴァルトは手を止めず、ぼそりと返す。
「鍋と話せばいいだろ」
「はあっ!? それ、どういう意味ですか!」
ミーナがむっと頬を膨らませた瞬間、カラン――と店の扉が音を立てて開かれた。
入り込んだのは、涼やかな風と、ギルドの受付嬢、サラ・メルヴィルだった。
「おはようございます、ヴァルトさん、ミーナちゃん!」
「サラさん、おはようございます!」
ミーナが笑顔で迎える。ヴァルトはちらりと目を向けるだけだったが、無言のまま鍋をかき回し続けた。
「実はね、ギルドの新人歓迎会を“蒼の卓”でやりたいって話が出てるの。お願いできるかしら?」
ミーナはぱっと目を輝かせる。
「歓迎会! いいですね! ぜひやりましょう!」
しかし、ヴァルトの顔は渋かった。
「……ギルドで勝手にやればいいだろ」
「まあまあ、そう言わずに。ヴァルトさんの料理なら、新人たちも喜ぶわよ?」
サラは悪戯っぽく微笑んだ。
ミーナがジト目でヴァルトを見る。
「ヴァルトさん、たまにはいいじゃないですか!」
ヴァルトはわずかにため息をつき、
「……好きにしろ」
とだけ言った。
サラが満足そうに頷いた後、ふと思い出したように話題を変える。
「そういえば、最近ギルドでシエラ・ヴォルクが目撃されたらしいわよ」
その名を聞いた途端、ヴァルトの手がわずかに止まる。
ミーナが首を傾げる。
「シエラって……確か、S級の?」
「ええ。歴代最年少でS級になった剣士。最近まで姿を消していたんだけど、久しぶりにギルドに顔を出したらしいの」
ミーナは感心したように目を丸くするが、ヴァルトは何も言わず、再び鍋をかき回し始めた。
その背中には、ほんのわずかだが張り詰めたものがあった――。
時刻は進み、外は既に夜の帳が下りていた。
『蒼の卓』は、冒険者たちの熱気と笑い声で溢れていた。
天井から吊るされたランプがゆらめき、木製のテーブルには酒と料理が並べられる。
新人冒険者たちは初クエストを終え、興奮冷めやらぬ様子で仲間と酒を交わしていた。
「ははっ、冒険者なんて楽勝じゃねぇか!」
酔いが回ったのか、一人の新人が大声を上げ、ジョッキを乱暴にテーブルへ置く。
周囲の仲間が「やめろよ」と制止するが、彼は意に介さない。
「ギルドの連中は大げさすぎるんだよ! 俺たちなら余裕でやっていけるって!」
店の奥、カウンターに座る男がその光景をじっと見つめていた。
アーヴィング・グレン――ヴァルトの元仲間であり、A級冒険者。
彼は酒を片手に、ヴァルトの背中を見据えていた。
「お前が飯屋やってるって聞いたが……信じられねえな」
ヴァルトは黙って鍋を振るい、無関心を装う。
「悪いが、客なら黙って食え」
「ったく、昔のお前なら、もっとキレがあったのによ」
アーヴィングは不機嫌そうに酒を煽る。
そんな中、ミーナが問題を起こした新人の前に立ちはだかった。
「――お客様、騒ぐのはいいですが、限度ってものがありますよ?」
彼女の声は甘く響いたが、目には鋭さが宿っている。
「ここは、“帰る場所”なんです。そんなふうに暴れるなら、お引き取り願います」
酔っ払いの顔色が変わる。
周囲の冒険者たちは「おいおい、ミーナちゃんに睨まれたぞ」と茶化しながら笑い、店の空気が緩んだ。
ヴァルトは無言でそれを眺めながら、ゆっくりと鍋の中のスープをすくった。
宴の後の「蒼の卓」は、静寂に包まれていた。
賑やかだった新人たちはそれぞれ宿へ戻り、片付けを終えた店内にはヴァルトとミーナの二人だけが残っている。
ミーナはカウンターでグラスを磨きながら、ちらりとヴァルトを見る。
彼はいつものように黙々と鍋を洗っていた。
「ねえ、ヴァルトさん」
「……なんだ」
「どうして、ギルドとのつながりを避けようとするんですか?」
ヴァルトの手が一瞬止まる。
ミーナはその反応を見逃さなかった。
「今日、アーヴィングさんが言ってましたよね? “信じられねえ”って。昔のあなたを知ってる人たちは、きっとまだ冒険者としてのあなたを求めてるんじゃないですか?」
ヴァルトは少しの間、無言だった。
やがて、静かに答える。
「面倒だからだ」
「それ、本心ですか?」
ミーナはグラスを拭く手を止め、真っ直ぐにヴァルトを見つめた。
彼の横顔はいつものように無表情だが、ほんのわずかに視線が揺れているように見えた。
「冒険者を続けていたら、お前も知ってるだろう。あの生活は、いずれ壊れる。いつか誰かが、戻ってこねぇ日が来る」
ヴァルトはふっと息を吐いた。
「俺は、それが嫌だった」
ミーナは静かにヴァルトの言葉を噛みしめる。
彼が過去に何を見て、何を選んだのか――彼女には完全には理解できないかもしれない。
でも、一つだけ言えることがあった。
「……それでも、今、ギルドの人たちはあなたを気にしてるんですよ?」
ヴァルトは何も言わなかった。
時を同じくして、夜の「蒼の卓」の前に、一人の少女が立っていた。
白銀の髪が、月光を受けて淡く輝く。
冷たい夜風に吹かれながら、彼女はじっと店の灯りを見つめていた。
S級冒険者、シエラ・ヴォルク。
彼女の蒼い瞳は、まるで何かを見極めるように揺らめいている。
ヴァルト・エーベル――その名を聞いた時、彼女の心には妙な感覚があった。
「……ふん」
シエラは小さく鼻を鳴らし、そのまま静かに背を向けた。
だが、その足取りは、まるで「またここへ戻る」ことを前提としているかのようだった――。
翌朝、「蒼の卓」の扉が勢いよく開かれた。
「よお、相変わらず早えな」
姿を現したのは、アーヴィング・グレンだった。
彼はいつものように無造作に腰を下ろし、ヴァルトを見上げる。
「……何か用か」
ヴァルトは鍋をかき混ぜながら、視線を向けることなく淡々と尋ねた。
「昨日の話の続きだ」
「もう話すことはない」
アーヴィングは苦笑する。
「お前、変わらねえな。昔から、めんどくせえことからは逃げるタイプだったよな?」
ヴァルトは何も答えず、ただ静かに鍋をかき混ぜ続ける。
「……お前、まだ剣を握れるんだろ?」
その一言に、ヴァルトの手がわずかに止まる。
「はっ……やっぱりな」
アーヴィングはにやりと笑った。
「お前の“場所”が奪われる前にな」
その言葉だけを残し、彼は席を立った。




