4.ようこそ「蒼の卓」へ(4)
朝の光が、「蒼の卓」の窓から優しく差し込んでいた。
昨夜の賑わいを忘れさせるような静けさの中、ほんのりと漂うのは煮込み料理の香り。
カウンター奥からは、鍋がコトコトと心地よい音を立てている。
ヴァルトは、変わらぬ手つきで朝の仕込みを進めていた。
「……んっ……」
柔らかな光にまぶたを押され、テオはゆっくりと目を開いた。
視界に映ったのは、木の天井と、暖炉の残り火がはぜる音。
「……あれ?」
かすかな戸惑いを覚えながら、体を起こそうとする。
――その瞬間、空腹が腹の底から訴えかけた。
「うっ……」
思わずお腹を押さえると、そこにふっと笑い声が届いた。
「腹が減ったか。」
低く、落ち着いた声。
視線を向けると、カウンターの向こうでヴァルトが鍋を振るっていた。
「そりゃ……あれだけ寝れば、腹も減るだろうよ。」
テオは照れくさそうに頭をかいた。
「なら、食え。」
目の前に置かれたのは、湯気の立つシチューと厚切りのパン。
昨夜のスープとは違うが、同じく優しい香りが立ち昇っていた。
「いただきます。」
スプーンを取り、一口。
とろりとしたシチューが舌を包み、身体の芯を温めていく。
「……っ、うまい……」
思わず声が漏れる。
それはただの味覚の満足ではなかった。
冷たく縮こまっていた心が、じんわりとほどけていく――そんな感覚。
「……本当に、ありがとうございます。」
器を置き、テオはまっすぐにヴァルトを見た。
「おかげで……生きて帰れました。」
短く、しかし心のこもった言葉だった。
「……勘違いするな。」
ヴァルトは少し目を伏せ、低く答えた。
「俺がやったのは、飯を出しただけだ。」
「はいはい、出ましたよ。ヴァルトさんお得意の“ただの飯”発言。」
軽やかな声と共に、ミーナがフロアへ姿を現した。
その手には、湯気の立つ温かいハーブティー。
「だけど、ヴァルトさんの“ただの飯”で、助けられた人は何人いるんでしょうね?」
「……口が減らねぇな。」
テオはそのやり取りを見て、口元に小さな笑みを浮かべた。
そして、スプーンを置き、言った。
「……俺、また冒険に出ます。」
ヴァルトとミーナが、同時に彼を見る。
「無鉄砲に飛び込んで……顧みない進み方になるかもしれない、けど」
テオの声には、弱さの中に確かな決意が混ざっていた。
「今は、"帰ってきたい"と思う場所ができたから。 絶対また来ます!」
ヴァルトは短く鼻を鳴らした後、器を片付けながら、いつもの調子で言った。
「……腹を空かせて帰って来い。」
ミーナは微笑みながら、そっとティーカップを拭いた。
「はいはい、ヴァルトさんなりの“気をつけて行け”ですね。」
テオは笑顔で立ち上がり、扉へ向かう。
「……ごちそうさまでした!」
扉のベルが、軽やかな音を鳴らした。
再び、店内に鍋の煮える音が満ちる。
ヴァルトは黙って、次の仕込みに手を動かしていた。
ふと、ミーナが小さく笑う。
「ね、ヴァルトさん?」
「……あ?」
「また一人、“帰る場所”ができましたね。」
ヴァルトは、答えない。
けれど、わずかに返した息は、どこか柔らかかった。
――カラン。
再び扉が開く音。
「おう、開いてるか?」
現れたのは、革鎧を着た屈強な男。
「お前がヴァルトだな? ギルドの受付嬢――サラに聞いてきた。」
「……あいつ、また余計なことを。」
「冒険の前に腹ごしらえだ。うまいもん、頼むぜ。」
ミーナが微笑んで言う。
「ようこそ、『蒼の卓』へ――あったかい飯、ありますよ。」




