3.ようこそ「蒼の卓」へ(3)
ミーナが戻ったフロアは、先ほどの緊張が嘘のように再び賑やかさを取り戻していた。
「ミーナちゃん! 追加のエール頼むよ!」
「はいはい、すぐ行きますよ~!」
「おーいヴァルト、今日の煮込み、もう一杯くれ!」
「……あいよ。」
ヴァルトの無愛想な声が、店の空気をまた一段と落ち着かせた。
「ヴァルトさーん、追加注文入りましたよっ。」
ミーナが手早くメモを差し出す。
「……今日はよく食うな。」
「そりゃあ、ヴァルトさんの料理が美味しいからですよ。」
「……口がうまいな。」
「へへっ、営業スマイルの特訓です。」
「なら、注文取り逃すなよ。口ばっか動かしてねぇで。」
「もう! またそれですか!」
ふっと、常連たちの笑い声が店内に広がった。
テオは、湯気が立ち昇るフロアのざわめきを聞きながら、ほっと息をついた。
心地よい騒がしさ、温かい香り、優しい声。
「……ここが、“帰る場所”ってやつなのかな。」
重たいまぶたがゆっくりと閉じていった。
長い間忘れていた“安心”という温もりの中で、テオは深く眠りに落ちていった。
夜の帳が、ゆっくりと街を包み込んでいた。
「蒼の卓」の窓から漏れる橙色の灯りが、石畳の道を優しく照らしている。
かつては笑い声と活気で満ちていた店内も、今は静寂に包まれていた。
片付けを終え、テーブルの上に残るのは、いくつかの空いたジョッキと、賑わいの名残だけ。
カウンター奥、ヴァルトは黙々と包丁を動かしていた。
トントン――リズムよく響く刃音が、夜の静けさに溶けていく。
手元には、明日のスープ用に仕込む野菜と骨付き肉。
寸胴鍋からは、淡く優しい出汁の香りが立ち上り、空いた店内を満たしていた。
ふと、視線を端に向ける。
片隅のソファで、穏やかな寝息を立てる少年――テオの姿があった。
「……しっかり食ったんだ。もう大丈夫だろ。」
「ヴァルトさん、そっちはもう終わりそうですか?」
控えめな声が背後から届く。
振り返ると、エプロンを外しかけたミーナが、少し疲れた様子で立っていた。
「ああ、あと少しで終わる。」
「なら、私が明日のテーブル拭き、やっておきます。」
「……もう上がれ。今日はよく動いたろ。」
「うーん……」
ミーナは少しだけ唇を尖らせて、それからふっと笑った。
「ヴァルトさんこそ、いつも閉店後まで残ってるじゃないですか。」
誰に聞かせるでもなく、低く呟いた声は、湯気の中に消えた。
「お前は接客が仕事だろ。無理して厨房まで口出すな。」
「えー? 接客だけで満足するなんて、もったいないじゃないですか。」
「……なら、明日から仕込み全部やるか?」
「やっ、それはちょっと!」
ミーナは慌てて両手を振り、すぐに小さな笑い声が漏れた。
言葉が止まり、店内は再び静けさに包まれる。
しかし、その静けさは心地よく、暖炉の薪がはぜる音だけが響いていた。
「なあ、ミーナ。」
ふと、ヴァルトが口を開いた。
「ん?」
「……今日のスープ、どうだった?」
ミーナは、わずかに驚いた顔をした後、柔らかく目を細めた。
「最高でしたよ。だって――」
カウンターの端で、安らかな寝息を立てる少年を見やり、言葉を続ける。
「ほら、ちゃんと“届いて”るじゃないですか。」
ヴァルトは短く鼻を鳴らした後、ふっとわずかに口元を緩めた。
「……そうか。」
寸胴鍋の火を小さくし、鍋蓋が静かに閉じられる。
それは、今日という一日の終わりを告げ、また新しい一日への支度を意味していた。




