2.ようこそ「蒼の卓」へ(2)
ガタン――。
その音は、賑わいの中でもはっきりと耳に届いた。
「――誰か! 外で倒れてるぞ!」
店の喧騒が、一瞬にして静まり返った。
笑い声は掻き消え、冒険者たちのざわめきが緊張へと変わる。
ヴァルトの手が止まった。寸胴鍋の中でシチューが煮え立つ音だけが続いていた。
「ミーナ、毛布と湯を用意してくれ。」
迷いのない低い声。
「えっ? あっ、はい!」
驚きに一瞬固まったミーナだったが、すぐにトレイを置いて駆け出した。
ヴァルトは鍋を手早く火から下ろすと、カウンターを乗り越えるようにして店の外へ出る。
夕焼けが赤く、石畳を染めていた。
その上に、泥と埃に塗れた少年が倒れている。
浅い呼吸。かすかに動く胸。
全身には擦り傷や打撲の跡。だが、今この子を蝕んでいるのは――衰弱。
「……おい、聞こえるか。」
少年の肩をそっと支え、軽く揺する。
返事はない。唇は乾き切り、頬はひどくこけていた。
ヴァルトはその顔を見て、すぐに悟る。
――こいつは、空腹で死にかけてる。
「持つか?」
自問する間もなく、腕が少年を抱き上げていた。
「ヴァルトさん!」
毛布と湯を持ったミーナが駆け寄る。
「厨房だ。急ぐぞ。」
「はいっ!」
厨房の片隅、ミーナが素早く床に毛布を広げ、少年をそっと寝かせた。
ヴァルトはその傍らで鍋を火にかける。
「ヴァルトさん……大丈夫ですか? まだ息は――」
「心配するな。生きてる。あとは――」
火にかけられた鍋に、出汁と数種の乾燥野菜、わずかなハーブが放り込まれる。
そして、先ほど仕込んでいた鶏の出汁を注ぐと、ふわりと香ばしく優しい香りが立ち上った。
ミーナに背を向けて、ぼそりと呟いた。
「……あとは、食わせるだけだ。」
少年――テオは、重い瞼をわずかに持ち上げた。
目に映ったのは、無骨な顔の男と、心配そうに覗き込む金髪の少女。
「……ここは……?」
声は弱々しいが、意識は戻っている。
「食堂だ。」
低く短い答え。
「……これ……あんたが?」
「そうだ。食え。」
テオは、まだ震える手を伸ばし、スープの器を掴む。
恐る恐る口を付け、一口――。
その瞬間、じんわりと、体の奥から何かが解けていくような感覚が広がった。
温かさが、冷え切った身体の隅々まで染みわたり、枯れていた力を少しずつ呼び戻していく。
「……うまい……」
短い言葉に、ミーナの顔がぱっと綻んだ。
「よかった……!」
テオは、器を抱えたまま小さく息をついた。
「……俺、ギルドに入ったばかりで……初めてのクエストでした。」
「けど……準備不足のままダンジョンに突っ込んで……ダンジョンから帰ろうとしたときには疲労がたまりすぎてて……」
声が掠れる。
唇が震える。
生まれて初めて、死という概念と相対した。
遮二無二脱出して、もう立っていられるのがやっとという状況で、意識が曖昧になっていく中、最終的にたどり着いたのは、この食堂だった。
「……動けなくなって……怖くて……」
スープの表面が、一滴、濁った。
「でも」
顔を俯かせたまま、テオは声が小さくなりつつも言葉を紡ぐ。
「このスープを飲んで……あぁ、帰ってこれたんだって……そう、安心して。 うぐっ…。」
そのまま、静かに涙を流し始めた。
ヴァルトはしばし無言だった。
やがて、ぽつりと口を開く。
「……そうか。」
スープの器が、静かにテーブルに置かれた。
テオの小さな呼吸は、ゆっくりと安定していた。
まだ疲労の色は濃いが、その瞳にあった絶望は、少しだけ薄れている。
「……また、食べに来ても?」
かすれた声が、期待を滲ませる。
「ああ。いつでも来い。」
ヴァルトは短く答え、背を向けると再び厨房へと戻った。
鍋の音が、心地よく店内に響き渡る。
「ゆっくりしていっていいからね。」
ミーナが微笑んで言い添えると、テオは少しだけ目を丸くした。
「……ありがとう、ございます。」
その言葉は小さかったが、どこか温かく、確かだった。
ミーナは、その言葉を聞いて安心したように笑みを深めると、スッと立ち上がった。
「さてと、私は仕事に戻らないと。ヴァルトさんに怒られちゃうし。」
そう言って、軽い足取りでフロアへ戻っていく。
その背を見ながら、テオはぼんやりと思った。
(ここは、あったけぇ場所だな……)