王太子の勘違い〜この婚約破棄は間違いです!〜
一行目が「婚約を破棄する」系異世界恋愛短編を実験的に書いてみました。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
「スカーレット。今日をもって、君との婚約を破棄する」
フォアノ王太子は、高らかに宣言した。
このビフォルテ王国の王宮では、フォアノ王子の17歳の誕生日パーティーの真っ最中である。
今まさに、ダンスの時間が始まろうとする直前だった。
王太子としての訓練の賜物だろうか。
大声を張り上げた訳でもないのに、声がよく通る。
耳心地のいい声で信じられない宣言をしたものだから、それまで賑やかだった人々の話し声がぴたりと止んでしまった。
「……理由をお聞かせ願えますか?」
静かに応えるその声は、月の光のように美しく、穏やかな少女の声だった。
声の主は、スカーレット・マレニティ侯爵令嬢。
フォアノの婚約者である。
フォアノが玉座へと繋がる階段の途中に居るために、スカーレットは階下から彼を見上げる形になっている。
彼の背後にある玉座は、2つとも空席だ。
スカーレットの両親もホールに見当たらない。
どうやら国王たちと共に席を外しているようだ。
そんな状況を敢えて狙ったのだろう。
フォアノの顔には、はっきりとした決意と覚悟が見て取れる。
「理由、か。自分が一番よく分かっているだろう。お前程度の異能では、王妃に相応しくないからだ。代わりに、キュアラ・リトル伯爵令嬢と婚約を結ぶこととする。この場に居る皆が証人だ。分かったな、スカーレット!」
そう言ってフォアノは、スカーレットから視線をやや左に移した。
その視線の先、会場の端から、1人の少女が現れた。
黒髪のスカーレットとは正反対の白銀の髪を持つ少女は、白い頬をほんのりと赤く染め、迷わずフォアノの隣へと向かった。
彼女こそ、先程フォアノが名を告げたキュアラ・リトル伯爵令嬢である。
「このキュアラは、人の傷を癒すという素晴らしい異能を持っている。ただ生けた花を長持ちさせるだけのお前の異能とは、比べようもないのは分かるだろう。王家には、キュアラのような異能が必要なんだ! 役に立たないお前などではなく!」
フォアノは高らかに謳う。
スカーレットに言っているというよりは、周囲に聞かせているかのようだ。
事実、そうなのだろう。
この自分の行いの正当性を、周囲に訴えているのだ。
フォアノの言葉に、周囲は一気に騒めいた。
新たな婚約者の登場以上に、スカーレットの異能が、初めて明かされたからだ。
「スカーレットさま、ごめんなさい。でも、分かってください。この国の為には、こうするしかないのですわ!」
キュアラは胸の前で手を握り、瞳を潤ませて訴えかける。
しかしどうにも、その表情には優越感が滲んでいた。
「……そうですか。ですがこの婚約は私たちだけでどうにかなるものではございません。国王陛下と、父の判断に委ねます」
「いいだろう。そうしようではないか」
フォアノには勝算があるようだ。
ここまで大勢の貴族に婚約破棄騒動が知られてしまったのだから、父王としても認めざるを得ないだろうと踏んでいる。
フォアノは内心、やり遂げたとホッとした。
あんな未来は、確実に回避しなければいけない。
この国の王侯貴族たちの多くは、異能と呼ばれる不思議な力を持っている。
ある者は目にも止まらぬ速さで走り、ある者は姿形を別人にすることができる。
異能の良し悪しがその者の価値を決め、如何に名家の出身と言えども、異能がなければ蔑視されるのがこの国の常識だ。
現在の王は千里眼で遠くの事象を見ることができ、王妃は嘘を見抜く能力を持っている。
そしてその2人の息子であるフォアノ=ビフォルテ王太子も、類に漏れず、強力な異能を持っていた。
それは“予知”。
自分の意志で見たい未来が見える訳ではないが、この国にとって重要な局面となる出来事は全て予知してきた。
予知は施政者として最も敬畏される能力だろう。
誰もがフォアノを褒め称え、次の王に彼より相応しい者はいないと口々に言った。
フォアノ自身も、自分の異能と施政者としての能力を疑ったことはなく、王太子として不足なくしっかりと役目を果たしているという自負があった。
王太子の立場は流石に重いが、それでも不満に思ったことなどただの一度もない。
それが自分の役目、自分が果たすべき役割だから。
しかし、フォアノにも唯一、受け入れられないことがあった。
それは、彼の婚約者のことだ。
婚約者であるスカーレット・マレニティ侯爵令嬢は、家格だけ見れば確かに最もフォアノの婚約者に相応しい。
この国の公爵家に現在女児はおらず、異能という特殊な事情から、余程の事情がなければ他国の姫を娶ることもないからだ。
だがそれは、スカーレットにそれなりの異能が備わっていれば、の話である。
スカーレットの異能は、ずっと公にされていない。
そのようなことは異例であるため、人々はあらゆる推測を口にした。
けれど、唯一スカーレットの異能を知る王と王妃が彼女をフォアノの婚約者に据えた為、きっと国家機密級の強大な異能を持っているのだろう、というのが人々の共通認識だった。
だが、フォアノは知っている。
幼い頃、実際にその目で見たからだ。
かつてスカーレットが王宮にフォアノを訪ねてきた際、花束を持参したことがある。
それを自ら飾りたいと花瓶に生け、フォアノの自室に持っていくようメイドに言付けた。
幼い婚約者の行動としては可愛らしいもので、フォアノもその時は好意的に受け取り、自室に置かれた花を愛でていた、のだが。
その花が、いつまで経っても枯れない。
もちろん花の種類にもよるが、せいぜい3週間もすれば大体の花は朽ちてしまう。
けれど、スカーレットの生けた花は、1月経っても枯れることはなかった。
メイドには『スカーレットにもらった花だから保存してもらった』と言い訳をした。
料理人などに稀に居るが、食材の鮮度を保たせる異能を持つ者もいるのだ。
もしやスカーレットもその類の異能を持つのかと思い、フォアノはスカーレットに色々試させた。
しかしどうやら、花を生ける時にしかその能力は発揮されないようであった。
効果自体も微妙だ。
何年も枯れないという訳でもなく、せいぜい通常より何週間か長持ちする程度でしかない。
マレニティ侯爵家の一人娘が、まさかそんなつまらない異能だなどと、誰が想像しただろう。
スカーレットは本当に、「生けた花を長持ちさせる」能力しか持っていなかったのだ。
——何故、彼女と婚約をすることになった?
フォアノは疑問だった。
スカーレットの異能を知りながら、それでも尚自分の婚約者に彼女を据えた両親が、理解できなかった。
父王は聡明だ。
なのに何故、彼女と婚約をさせたのか。
何度かスカーレットの異能について王に掛け合おうとしたものの、王は耳を貸さず、話し合いにもならなかった。
フォアノはここで、1つの疑念を持つことになる。
マレニティ侯爵について噂される、あることについて。
(そうでなければ、彼女が婚約者になる道理がない)
王と王妃は、スカーレットの異能を誤って認識させられているのだ。
マレニティ侯爵の異能は『認識阻害』だと言われている。
フォアノは直接見たことはないが、人々の精神に働きかけ、認識を歪める異能だ。
社交界では、マレニティ侯爵はこの異能により政界を牛耳っていると噂されていた。
本人は五感を歪めるに過ぎないと説明しているが、フォアノはこの噂を事実だろうと考えた。
その能力で、スカーレットの異能を誤魔化し、自身の娘を王妃にせんとしているのだ、と。
何と浅ましい。
フォアノはマレニティ侯爵に、ひどく幻滅していた。
実を言えばフォアノは元々、この婚約者が気に入っていた。
美しく聡明な彼女と肩を並べて国を統べる未来を想像し、期待に胸が躍った。
それだけではなく、彼女に対して淡い恋心まで抱いていた。
そしてきっと、彼女自身も同じだったのだろう。
幼い頃のフォアノとスカーレットは、周囲から見てもとても微笑ましい仲の良さだった。
スカーレットを気に入っていた分、期待していた分、その落胆は大きかった。
だからこそ必死に、彼女はもっと違う異能を持つはずだと試させたのだ。
けれど明らかに、スカーレットは王妃の器に相応しい異能を持ち合わせていなかった。
だが、フォアノがスカーレットと訣別する決意をしたのは、それだけが原因ではない。
ある、予知をしたからだ。
それは……。
「これはどういう訳だ」
混乱に渦巻く会場に、低くずしりと重い声が降った。
見れば、ホールの入り口から歩いてくる国王と王妃。
そしてスカーレットの両親であるマレニティ侯爵夫妻である。
「一体何があった」
「陛下、スカーレット・マレニティ侯爵令嬢との婚約破棄を許可いただきたい」
「な、何を言っているんだ太子!」
国王はフォアノの言葉に狼狽える。
息子が一体何を口にしたのか、理解できないといった様子だ。
「恐れながら、彼女はとても王妃が務まる器ではありません。王妃には、もっと有能な異能の持ち主を据えるべきだ。彼女のような」
そう言ってフォアノは、ちらりとキュアラを見る。
キュアラは得意げな様子を隠そうともせず、にやけそうな顔で深々とカーテシーをした。
「何を言う。お前はスカーレット嬢の異能を知らんだろう」
「いいえ、存じております。『生けた花を長持ちさせる』。それが彼女の異能でしょう」
「なっ……!」
王は信じられないというように目を見開くと、バッと音がする勢いでスカーレットを見た。
スカーレットはまさかというように目を見開き、フォアノを見つめている。
その様子を見るに、やはりスカーレットも王に自身の異能を偽っていたことが伺えた。
(本当に国王を謀っていたとは……君にはがっかりだ、スカーレット!)
フォアノはキッとスカーレットを睨みつけた。
「なんということだ……」
王は顔に手を当て、天井を仰いだ。
王妃もまるで血の気を失ったようにふらりと玉座に倒れ込む。
それを見たフォアノは、とても痛ましい気持ちになると同時に、スカーレットへの激しい感情が湧きあがる。
もっと早くにこうするべきだったと、フォアノは後悔した。
マレニティ侯爵が王を支えて玉座に座らせる。
王妃の様子に、慌てて使用人が水の入ったグラスを持ってくる。
キュアラがそれを受け取り、気遣わしげに王妃を座らせ、何かを水の中に入れると、それをこくりと一口飲ませた。
その時。
ごふっと王妃が咳き込んだと同時に、ひゅうひゅうと喉を鳴らして、白目を剥いて倒れ込んだ。
「王妃!」
「母上!!」
会場は一気に騒然となる。
王妃は痙攣し、泡を吹いて動かなくなった。
「毒だ! 王妃に毒が盛られたぞ!!」
誰かが叫ぶ。
王の命令で、水を王妃に差し出した使用人が取り押さえられるが、信じられないものを見たように愕然とした顔で震えている。
キュアラも同じように騎士に取り押さえられ、驚きに目を見開いている。
混乱を抑えようとマレニティ侯爵が何か必死に指示を飛ばす。
フォアノは、思わず膝を突いた。
何故? 何故だ?
王妃はスカーレットの手によって、命を奪われるはずだったのに。
毒ではキュアラの異能は役に立たない。
彼女は外傷を癒せるだけだからだ。
王妃はナイフで切り付けられるはずだった。
だからこそ、万一の為にこのキュアラを選んだというのに。
ふと、フォアノの横で何かが動いた。
その名と同じ、緋色のドレス。
スカーレットが、王妃の元に駆けていく。
「私がやります!」
「スカーレット! しかしここでは……」
「いいえお父様。時間がありません。今すぐに対処しないと! どうか目隠しを!」
スカーレットが言うと、マレニティ侯爵は逡巡した後に頷き、カッと目を見開いて会場を見つめる。
すると不思議なことに、それまでこちらを見ていた人々が、驚いた顔できょろきょろとし始めたではないか。
「私の異能、『認識阻害』です。人々の視界を歪め、向こうからはこちらの様子が見えない」
フォアノは驚いた。
侯爵の異能を初めて目にしたが、これだけの人数の視界を歪めるとは、かなり強力な異能だろう。
スカーレットはおもむろに自身のドレスの裾をたくし上げ、太ももに括り付けられたナイフを取り出した。
「王妃殿下、安心してください。少しちくりとしますが、痛くはありません。すぐに済みます」
そう言うや否や、大きくナイフを振りかぶり、王妃の胸元に突き立てた。
「何を!!!」
「フォアノ! 黙っていなさい!」
スカーレットを止めようとするフォアノを、何故か王が制す。
フォアノには何が何だか分からなかった。
これは。
これはまさしく、フォアノが予知した通りの光景だ。
あの予知の光景は、まさしく今日のことだったのだ。
スカーレットの言葉に反して、ナイフは王妃の胸に深く刺さり、みるみると傷を広げていく。
ついには鳩尾の下辺りまで傷は広がり、スカーレットはその傷の中に埋めるように、手を押し当てた。
「キャーッ!!!!」
それを見ていたキュアラが血の気を失い腰を抜かす。
恐ろしいものを見たというようにがくがく震えている。
「やめろ! これ以上母上を辱めるな! 父上! 何故こんなことを許すのです!!」
「黙って見ていろ! ああ神よ……!!」
王が必死に神に祈りを捧げる。
その懇願する表情は、あまりに真剣だ。
王と王妃はおしどり夫婦として有名である。
フォアノから見ても、2人が愛し合っていることに間違いはない。
なのに、何故このような凶行を許すのか。
フォアノは混乱し、ただ狼狽えるしかなかった。
やがてスカーレットが王妃から手を離した。
フォアノは恐る恐る、スカーレットと王妃に近付く。
そして見えた光景に、フォアノは驚愕した。
不思議だ。
あんなに大きく胸を切り開いたのに、血が一滴も出ていない。
それどころか、スカーレットが付けた傷が、一切見当たらない。
ドレスの胸元は切られている。
だからナイフを突き立てられたことは間違いないのに。
そして何より、王妃の顔に血の気が戻っていた。
「ゲホッゲホッ!」
大きく咳き込み、先ほどまで生気のない顔で倒れていたとは思えないほど、激しい動作で王妃が上半身を起こした。
慌ててスカーレットがハンカチを取り出し、王妃の胸元にかける。
先ほどまでナイフを括り付けていた太もものバンドに留めていたようだ。
「一体何が……」
ぼんやりと、まるで夢から醒めたばかりのような声で、王妃が誰にとはなく問う。
「無事か! どこか痛いところは!?」
「いいえ、特に何も。…………スカーレット、あなたが助けてくれたのね」
王妃は自分の身に起きたことを一つ一つ確認するように自分の胸元や周りを見た後、そう言った。
「いくら治療のためとはいえ、王妃殿下の尊いお体に傷を付けてしまい、申し訳ありませんでした」
そう言ってスカーレットは膝を突き、深く頭を垂れる。
王妃は胸元のハンカチを押さえつつ、すぐに彼女の肩に手をかけ、優しく微笑んだ。
「顔を上げてちょうだい。よく見てご覧なさい。傷なんてどこにもありはしないわ。救ってくれて、ありがとう」
王妃の言葉に、スカーレットは顔を上げる。
何故だか、ほっとしたような顔だ。
「さすが、マレニティ侯爵家の異能は違う。スカーレット、私からも感謝を」
王は王妃の肩を抱きながら、穏やかな笑顔を浮かべている。
ほんの少し、目元が濡れているようだ。
フォアノは目の前の光景が、何一つ理解できなかった。
一体何が起こった?
何故スカーレットは母にナイフを突き立て、何故母は起き上がったのだろう。
あの瞬間、確かに母は事切れたように、見えたのに。
「フォアノ殿下。本当のことをお伝えできず、大変申し訳ありませんでした。私の異能は『生けた花を長持ちさせる』ものではありません。私の本当の異能は、『傷付けたものを傷付けた分だけ回復させる』ものなのです」
——なんだ、それは?
そんな異能は聞いたこともない。
傷付けた分だけ、癒す?
つまり王妃を傷付けたのは、王妃を癒すためだったということか?
そんな、まさか。
「……フォアノ殿下は、私を恐ろしいと思いますか?」
そう言って、スカーレットは悲しそうに笑った。
——————
パーティーはそのままお開きとなった。
その場で国王は『スカーレットの異能はフォアノが告げたものとは異なる』『彼女の異能で、王妃が助かった』と宣言し、詳しい事情は追って伝えると貴族たちに説明し、解散とした。
会場にいた貴族たちは、皆釈然としない顔で会場を後にした。
そして、翌日。
スカーレットは再び、王宮へと向かった。
「スカーレット嬢。今回のこと、心より感謝する。其方がいなければ、王妃はあのまま命を落としていただろう」
「心から感謝するわ。スカーレット、本当にありがとう」
「滅相もございません。当然のことをしたまでですわ」
そう言ってスカーレットは腰を折って美しいカーテシーをする。
昨日見たキュアラのカーテシーとは、圧倒的に異なる優雅さだ。
思わず王妃も、顔を綻ばせる。
この場で唯一、フォアノだけが、決まりの悪い気分で佇んでいた。
昨日、スカーレットの本当の異能のことは聞いた。
花を生ける際には、水を吸いやすくするよう、茎の先端を切り落とすという。
長さを揃える為にも切るだろう。
つまり、スカーレットが花を「傷付けた」ことで、枯れゆく花の生命力が戻ったということだ。
王妃はあの瞬間、きっと事切れたのだ。
それが、すぐさまスカーレットが傷を付けたために、死の縁から蘇った。
まさか、まさかそんな異能だなどと、誰が思うだろう。
スカーレットが花を生ける場面を直接見ておらず、花を生ける際何をするのか、フォアノが知らなかったというのも原因の一つだ。
その要件の特殊性と、死後すぐであれば蘇生も可能であるという力の強さから、これまでスカーレットの異能は秘匿されていたのだ。
全ては勘違い。
フォアノの愚かな勘違いが引き起こしたことだった。
「異能が異能ですので、これまで王太子殿下にお伝えするのを躊躇っておりました。ですが、殿下ももう今年で成人。いよいよお伝えしようと両陛下とご相談していたところでしたが……まさか、娘の異能を勘違いなさっていたとは……」
そう言ってマレニティ侯爵はスカーレットを見遣る。
その視線に、スカーレットは首を垂れた。
「あの頃はまだ自分の異能についてよく理解しておらず、まさか殿下が私の異能にお気付きだとは思っていませんでした。
私が、このような異能は殿下に恐れられてしまうのではないかと不安で……それで、父と母に殿下にお話しするのは待つようお願いしていたのです。
まさかそれで、殿下に誤解を与えていただなんて……。殿下、申し訳ありませんでした」
「いや……」
「しかしだからと言って、あのような婚約破棄など、あり得ませんがね」
フォアノの言葉を遮るように、侯爵が鋭い視線をフォアノに投げかける。
その視線にフォアノが身が縮むような思いだった。
知らなかった。
確かにそうだ。
けれど、それが何の理由になるのだろう。
スカーレットを傷付けたことには、何ら変わりがないのに。
フォアノの様子を見た王は、一つ咳払いをすると、スカーレットに向き合った。
「直接感謝の意を伝えたいと思ったのは嘘ではないが、今日呼び立てたのは他でもない。愚息のしでかした婚約破棄騒動の件だ。
お前の父は、一刻も早く婚約を解消したいと言っている。元々こちらから頼み込んだ婚約だ。こうなった以上、王家は従わざるを得ない。
しかし、君の気持ちが最優先だろう。王家としては、王妃の命を救った其方を娶りたいと考えているが、其方の考えはどうだ」
王の言葉に、フォアノは驚きを隠せなかった。
王家から頼んだ婚約だということも、侯爵が婚約解消を願っていることも、全く知らなかったからだ。
「侯爵が娘を王妃にするため、自身の異能を使って王と王妃を謀った」という筋書きは、完全に虚構のものだったらしい。
王は心持ち、緊張したような表情でスカーレットの答えを待つ。
きっとこのまま、婚約は解消されるだろうという予感があるのだろう。
その後の王妃の毒殺騒ぎにうやむやになったが、あのような婚約破棄は明らかなフォアノの失態だ。
皆、固唾を飲んでスカーレットを見つめる。
スカーレットはついと頭を上げ、真っ直ぐな瞳を王に向けた。
「恐れ多くも陛下。お許し頂けるのであれば、王太子殿下と2人で話す時間を下さいませ」
彼女はそう言うと、また深く頭を下げた。
フォアノは混乱していた。
てっきり、二度と会いたくないとその場で婚約解消を願い出るものかと思っていたからだ。
そんなフォアノの混乱をさて置き、あれよあれよという間に、フォアノはスカーレットと2人、王宮の一室に入れられてしまった。
もちろん使用人もいるが、2人の会話が聞こえないよう壁に張り付いている。
王たちと侯爵たちは、2人の話し合いの結果を待ちつつ、今後のことについて話し合いを行なっている。
フォアノはいやに渇く喉を潤すように、しきりに紅茶を口へと運ぶ。
それはいつもの優雅な姿とは異なり、明らかに落ち着かない様子なことは明らかだった。
「……スカーレット。どうやら、私が一人で全てを勘違いしていたようだ。すまない。君の名誉を、酷く傷付けてしまった。……このまま、婚約を解消しよう」
フォアノは指先が冷たくなるのを感じながら、視線を落として告げる。
致し方ないことだと分かっている。
いくら何も知らなかったとはいえ、誤解だったとはいえ、取り返しのつかないことというものはあるものだ。
元よりそのつもりであったはずなのに、状況が変わった今、スカーレットの口から婚約解消の言葉を聞くのは、辛い。
まるで死刑宣告を待つかのように俯くフォアノをじっと見つめ、スカーレットは口を開いた。
「嫌ですわ」
「え……?」
思わずフォアノが顔を上げると、どこか優しげな瞳で、スカーレットが見つめていた。
「私、分かっていますの。昨日婚約破棄を告げられた時は驚いてとても悲しかったですけれど、今は分かります。全てを守ろうとなさったのですよね」
そう言って、スカーレットはにっこり笑った。
フォアノは目を瞬いた。
「殿下有責での婚約破棄にはできませんもの。例えば、リトル伯爵令嬢に懸想したから、だとか。そんなことをすれば、王太子の地位が揺らいでしまいますものね。殿下の従兄弟の方々との王位継承問題など起きれば、内戦に発展しかねません。ですから、私の異能を引き合いに出したのでしょう」
「……ああ、そうだ」
スカーレットの言葉に、どこか羞恥に似た感情が押し寄せ、フォアノは下を向く。
「確かに、もっと上手い方法はなかったのかしら、とは思いますけれど。ですが、噂通りお父様が異能で両陛下を謀っていると思われていたのでしょう? 実際、父の異能は五感を歪めることしかできないのですけれど。父がいる限り、多少強引に既成事実を作った方がいいと判断されたのですよね」
フォアノはもう黙るしかない。
全てお見通し。
自分の拙い思惑など、全てスカーレットに知られているのだろう。
彼女は呆れているだろうか。軽蔑しているだろうか。
今顔を上げたら、どんな顔で彼女が見ているかと、フォアノは恐ろしかった。
「……殿下は、昨日の私の『治療』を予知なさっていたのではないですか? そしてそれを私が、王妃殿下を害する所だと考えられた」
その言葉に、フォアノは顔を上げる。
緋色の瞳が、真っ直ぐと向けられていた。
「……ああ。母の異能は嘘を見抜くことだ。君の本当の異能が母に勘付かれたか、責められたかして、そんな凶行に走ったのかと考えたんだ」
「やはり、そうでしたか。だから、王妃殿下を守るために……私を殺人者にしない為に、婚約破棄をなさったのでしょう? フォアノ殿下の婚約者でなくなれば、王妃殿下にそう簡単に近付くことは叶いませんから」
そうだ。
あんな騒動を起こしたのは、母と、そしてスカーレットの為に。
本当に、彼女は予知能力でも持っているのではないかと思うほど、全てをよく理解している。
聡明な女性だ。
それに比べて、自分はなんと愚かなのか。
本当に予知能力のある自分は、何も分かっていなかった。
フォアノは止めどなく自戒する。
「もし王妃殿下を守るだけならば、その予知を周囲に伝えて、私を追放するなり監禁するなりすれば良いのですもの。だけどそうなさらなかった。きっと殿下は、私の為を思って下さったのだと、そう思い至ったのです」
「……だが、結局は衆人環視の中、君を誹謗中傷したに過ぎない。殺人者にするくらいなら……そう思ったのだが……」
フォアノの言葉は徐々に消え入りそうに小さくなっていく。
背を丸めて、このまま球になってしまいそう。
そんなことを想像して、スカーレットはくすりと笑った。
「殿下、私のことが好きなのですね」
「なっ……!!」
スカーレットの言葉に、フォアノは顔を赤くしてバッとスカーレットを見る。
その姿に、スカーレットもまたクスクスと笑った。
「だって、私の為にここまでしてくれるのですもの。幼い頃はとても仲が良かったですわよね。長じてからは、あまり2人で話す機会は少なかったですけれど、よく私を見ている殿下と目が合いましたわ。私、結構鋭いのです」
そう。
本当は。
いくら異能がつまらないものだろうと、いくら侯爵に幻滅していようと、フォアノの想いは変わらなかった。
だから、辛かったのだ。
ずっとずっと、どうすればいいのかと考えて、考え続けたせいで、結果愚かなことをしでかしてしまった。
赤面しながら頭を抱えるフォアノを、緋色の瞳が愛しげに見つめる。
スカーレットの頬は、赤く染まっていた。
「私も、殿下のことが好きですわ」
スカーレットはそう言って、にっこりと、あどけない少女のような、妖艶な女性のような、魅惑的な笑顔を浮かべた。
その笑顔に当てられて、フォアノはますます顔を赤くする。
「リトル伯爵令嬢には、少々嫉妬致しましたけれど」
「かっ彼女はただ! もし万一婚約破棄しても君が母を傷つけるようなことがあれば、彼女の異能が必要だと思って」
「そうですか。きっと殿下ならば、彼女にもきちんと説明なさったのでしょうね。まあリトル伯爵令嬢が、しっかり認識していたかは定かではないですけれど」
以前から、キュアラのフォアノに対するアプローチは凄かった。
それこそ、婚約者であるスカーレットのことなど、一切気にしていないように見えるほど。
そんな彼女に協力を仰ぐのだ。
本当の予知のことは話さないまでも、近々王妃が刃に倒れる可能性を示唆して、フォアノは丁寧な説明を行った。
だがキュアラはいまいち理解が及んでいないように見え、一抹の不安を覚えたのは確かだった。
ふと、それまで美しい笑顔を浮かべていたスカーレットが一転、しおらしい顔付きで、フォアノを上目遣いに見上げる。
「殿下……今でも、異能を知った今でも、私のことが好きですか?」
不安で仕方がないというように。
フォアノが、本気で彼女の異能を恐れるのではないかと思っているようだ。
今度こそ、フォアノは真っ直ぐに、緋色の瞳を見つめた。
「君の異能は、素晴らしい力だよ。誇っていい。今更だが、母を救ってくれてありがとう。それに……き、君のことは、今でももちろん、す、好きだ」
フォアノはそう言って腕で顔を隠した。
そんなフォアノを見て、スカーレットは今日一番、美しい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます……。殿下、愛していますわ」
後日、王妃の毒殺未遂事件の調査結果が、王宮に届けられた。
王妃を害した毒は、案の定、キュアラが飲ませたものであった。
リトル伯爵家では、薬草学の研究が盛んに行われている。
それは周知の事実だ。
リトル伯爵家には治癒系の異能が発現することが多く、その性質も相まって、これまで医療に貢献する善良な一族だと認識されてきた。
しかし今回の事件により、リトル伯爵家の裏の顔が判明した。
裏社会で暗殺等に使われる危険な薬物の研究、そして販売を行っていたのだ。
これまで巧妙に裏の顔を隠していたリトル伯爵家だが、フォアノがキュアラを婚約者にするということになり、欲が出た。
自身の娘が王妃になり、伯爵家が権力を持つようになると、嘘を見抜く王妃の異能が邪魔になるとリトル伯爵は考えたのだ。
何も知らぬ娘に貧血剤だと偽り、貧血気味の王妃に飲ませるよう言付け、毒を渡していたことが調査の結果明らかになった。
本来はあれほどの衆人環視の中飲ませるつもりはなく、婚約破棄をされたスカーレットに罪をなすりつけるよう偽装する予定が、キュアラが先走ってしまったようだ。
伯爵は処刑され、リトル伯爵家は取り潰し、何も知らず利用されたキュアラは、国外追放となった。
これぞ怪我の功名と言おうか。
フォアノの勘違いによる婚約破棄により、ビフォルテ王国が抱える闇が一つ、消えたのだった。
フォアノは、自身の勘違いでスカーレットを貶めたこと、結果的に王妃の命を危険に晒した責任を取って、3か月の謹慎処分を受けた。
世間的には、「リトル伯爵家の罪を暴く為、スカーレットの協力の元、王太子が仕掛けた罠だった。しかしあえなく王妃が毒牙にかかってしまった。王太子はその責を負って、活動を自粛している」と説明が為された。
貴族たちは若干腑に落ちないまでも、スカーレットが王妃を救ったという事実と、その後リトル伯爵の罪が明らかになったことから、一応の納得をしたのだった。
そして、フォアノの謹慎が解けて、しばらくして。
「フォアノ殿下、もっとこちらへ。距離が離れていては誤解をされますわ。私、誤解はもう懲り懲りですの」
「あ、あぁ……」
今日はフォアノとスカーレットの結婚式である。
他国の来賓や自国の貴族で一杯になった教会で、2人は永遠の愛を誓う。
「健やかなる時も、病める時も、互いを愛すると誓いますか」
牧師の言葉に、スカーレットは大きく頷く。
「はい。誓います」
「誓います」
「それでは、誓いのキスを」
牧師の言葉に、互いに顔を近付ける。
唇が触れる瞬間、スカーレットはフォアノに囁いた。
「殿下、愛しています。これからは、殿下が勘違いなさることのないよう、全て言葉にするように致しますわ」
そして、半ばスカーレットに押されるように、2人は口付けを交わした。
その様子を見た参列者は皆、フォアノはきっと、この美しい妃にずっと頭が上がらないのだろう。
そう思ったという。
ありがとうございました。