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木曜日なんて大嫌いだ

作者: ある


 あたしは、木曜日が一番嫌いだ。

 だって、木曜日が一番疲れが溜まりやすいし、数学とか物理とか重めの教科ばっかり入ってるし、何より──アイツの顔を見なければならない。


「──やぁだぁっ! もう、サユってば」

「意外とぶきっちょさんだよねぇ」


 ……ああ、まただ。いい加減鬱陶しい。

 木曜の五時間目、学年共通である英語の移動教室。授業が始まる前までは昼休みだからか、移動先の教室ではギリギリまでだべっている輩がいる。それだけなら、別にいいんだけど……。


 この時間帯はいつも、あたしの席なんてものは無い。

 隣の席のアイツ──通称「サユ」と呼ばれている──芹沢さゆりのせいで。


 ──いつも満席だから、今日は授業が始まる十分前に来たんだけど、ダメだったか……。今度からは五分前に行こう。その時間なら予鈴が鳴るから、芹沢の"過激な"お友達──「取り巻き」も、さすがにあたしの席からいなくなるだろう。


 とりあえず、

「──あの、そこ、あたしの席だから……座ってもいい?」

 彼らに抱く、ドロドロでギッタンギッタンな想いは胸の奥に押し込んで、あたしは今日も芹沢の取り巻きへ声をかけた。


 目尻を下げ、声色は柔らかく。

 簡潔で角が立たない言葉を選び、床に付くぐらい腰を低く。

 そして──とびっきりにこやかな顔を手作りして、絶やさず。

 そうすれば、多分、きっと大丈夫。……大丈夫だ。


 すると、取り巻きは一拍反応を遅らせてから、


「…………ああ。ごめーん、ヤマグチさん」


 と言って、のろのろと気だるげに席を退いた。……さっきまでのキラキラと甘やかに輝いていた表情は何処へやら。──あと、あたしの苗字はヤマグチじゃない。マブチだ。


 取り巻きはチラッとほんの一瞬だけあたしを見てからは一切こっちを見なくなった。よかった。それはすなわち、あたしへの興味が全く無い──"先程の発言で、刺激を与えずに済んだ"って証。

 それでいい。あたしも、取り巻きとは極力絡みたくないから。

 ……よかった、今日も平常運転だ。そう、ここまではいいのだけど。



 ──じいいいぃ……



 ……んんんん。

 駄目だ、すっごく気になってしまう。


 パラ、パラと小テストの範囲のページを確認している中、やたらとあたしに視線を向けてくる奴がいる。

 どうやらそちらも平常運転のようだ。気のせいだと思いたいのに、あからさま過ぎて流石に気付かざるを得ない。


 チラッと目線だけそちらに向けると、案の定──送り主である芹沢が、ピクっと小さく反応した。そして、あたしと真逆の方向へ顔ごと勢いよくガバッと背ける。もう、これで何度目のやり取りだろう。いい加減飽きるか慣れろよ。あと、そんなに首曲げたらいつか骨折れるぞ。


 そんな反応も、やっぱり平常運転のままで。

 …… ムカつく。


「うおっ、ビックリした。サユどうした」

「なんか急に顔の動き激しくなったな」

「や、別に……窓の景色、急に見たくなっただけ」

「ふぅん」

「ゲッ、サユ勉強してる! マジメかよ」

「違いますー。今日のテスト、点数悪いと再試あるから」

「とか言っていっつもならないじゃん。優等生め」

「ねぇ、サユが全っ然ギュウしてくれないんだけどぉ!」

「唐突だなぁ」

「ごめん、後でしてあげるから」

「ええぇ〜! 今じゃなきゃヤーダァー!!」

「……わかった」


 芹沢さゆりは、女子にすごく人気だ。

 理由は単純。彼女は文武両道で美青年のような容姿の持ち主だからだ。もっと俗っぽく言えば──「モテる」というヤツだろうか。

 でも、正直──あたしは、芹沢のどこが良いのか全くわからない。いくら肩書きがよくたって、あたしからみた彼女は、ただ『優柔不断な普通の子』。それだけなのだ。


 不本意ながら、あたしと芹沢は中学時代からの同級生、しかもその三年間はずっと同じクラスで、知り合い程度の仲だが何かと接点は多かった、という間柄なので、大雑把な特徴なら何となく知ってる。

 彼女は、本当に言いたいことを人に言うのが苦手な人だ。表情には結構あからさまに出てるけど。そして、友達相手でも時たま口調が敬語になったり、話し方がぎこちなくなる。

 ……そう、芹沢は肩書きに隠れてるから目立ってないけど、本当は人付き合いが下手くそな人だ。 そして年々、友達にも下手くそな愛想笑いばっかりするようになった。


 今だって、本当は小テストの勉強がしたくてたまらないって顔をしてるクセして、取り巻きの1人にサービスのハグをかれこれ五分も続けている。


 ……そんな眉間にシワを寄せながら笑うぐらいなら、断ればいいのに。


 芹沢さゆりのことが嫌いだ。

 嘘をつくのが下手なくせに、ヘラヘラと薄っぺらに笑って誤魔化す所も、その場の環境に合わせてコロコロと仮面を変える所も、罪悪感からかなんなのか、誰にでも中途半端に優しくしようとする所も。全部ぜんぶ嫌いだ。

 ……あたしの前では嫌味ったらしいぐらいに『良い奴』を演じる所も、嫌いだ。知ってるんだからな。今さら良い人ぶった所で、アンタには"前科"があるって。


 そういう狡い所も、全部嫌いだ。


「──じゃ、今日の授業はここまでにしましょう。次回からは……」

 チャイムが鳴り、先生が一言二言話し終えた後、号令で適当に挨拶を済ませてたら、みんなまばらになってそれぞれの教室に戻る。あたしも今日はもう、この教室に用は無いし、居心地悪いのでサッサと教室に戻ろうとした。


「真渕さん」


 ──心臓に響くような低い声。

 大きい訳でもやかましい訳でもないが、妙にするすると耳の奥に入り込んで来る、声。少なくともあたしがそう感じる声の主は、知る限り彼女しかいない。

「……何?」

 振り返った先、芹沢は鋭い眼光であたしを貫く。瞳の奥に宿っているものは何なのか。……そんなのあたしがわかる訳ないけど。



「……くろ」

「は?」

「あ、いや…………っ、後ろ」

「うしろ……?」

 そこまで言った後、芹沢はあたしから視線を逸らした。いつも変だが、ここまで挙動がおかしい芹沢は珍しい。……どうしたんだ?

 そして、芹沢は何やら気まずそうに口をモゴモゴさせながら、

「スカート、めくれてる……真渕さんの、後ろ」

「すかーと…………──え、ウソッ!?」

 慌てて後ろを振り返ると──めくれてるどころじゃなかった。スカートの一部が腰あたりで食い込まれており……丸見えだった。中身が。

 ちなみに、あたしの今日の下着の色は、黒。

 つまり、先程芹沢が呟いていた『くろ』っていうのは──。


「〜〜〜〜〜ッッ!!!」


 この後、いつの間にかやってきた取り巻きや一連の流れを見ていた人達からクスクスと笑われながら「くろぱん」と言われ、あたしが「バカッ!!」って言いながら発火するのはまた別の話。



 ──ああ、木曜日なんて大っ嫌いだ。




***


「……で…………の……マブチ……が…………」


 ──あたしの名前を呼ぶ、聞き慣れた声に思わず足を止めた。『くろぱん事変』から丁度一週間後、木曜の昼休み。職員室での用事を終え、教室に戻ろうとした時のことだった。

 下の階段踊り場から聞こえてくる声だったので、そのまま上からこっそり覗き込む。どうやら、部活仲間の同級生二人が、あたしについてコソコソと何やら話をしてるようだった。なぜか、一人は泣いている。


「──もうやだ、あの子」

「あー……うん……」

 話を聞く限り、泣いている子──部長は──あたしに不満があるらしい。

 そして、どうやらその不満が爆発しそうな時は、時々今日みたいにもう一人の子を呼んであたしへの愚痴を言って、普段からのストレスを発散させているみたいだ。


 ……実はその部長、過去に一回だけあたしに対する愚痴を暴露されたことがある。参加者は当然、主催者である部長と、あたしという名のサンドバッグ──あとは、観客枠に同じ部活の同級生メンバー数人。

『──って言われてぇ……私っ、すご、く……つらい、辛くって…………』

 ──そう、いわば部長は観客の真ん前で、対あたしハイパーフルボッコタイムを行った経験があるのだ。……末恐ろしい子だ。


「あの子、ホントに空気読めないし……この間も、私が後輩に注意してた時、急にヘラヘラ笑って話の腰を折ってくるし……」

 ──いや、後輩に注意するといつも空気悪くなるから、その時はあたしにおちゃらけたことを言って無理やりでも場の空気を変えろってアンタから強引に頼んできたんじゃん。こないだまでは似たようなことした時、お礼まで言ってたじゃねぇか。アレ、結構しんどいんだよ。


「部活の終了時間が伸びるって言ったら、『えぇ〜……』ってあからさまに不満そうな顔してたし、やる気なさそうな態度とられるの、士気が下がるから本当やめてほしい……」

 ──イヤイヤイヤ! そんな顔した覚え無いんだけど! そもそもホントにやる気ねぇ奴が『おちゃらけ役』なんて買って出ねぇでしょーが。


「あと、最近調子に乗ってるよね。部長である私よりやたらと目立って仕切りたがろうとしてるし。私のこと見下してるのかな」

 ──乗ってねぇわ! そもそも部長のアンタが色々雑務をメンバーに乗っけてくるだけだろ! 自分から仕切るなんて死んでも御免だわ! なーんも考えないで誰かの指示に従ってる方が、ずーーーっと楽だわ!

 つーか何なんだよ! やる気無いって言ったり調子乗って仕切りたがるって言ったり、矛盾してんじゃねぇか!!


 あたしが…………あたしがっ!

 いっつもいっつも、どんな思いで──!!


『──部長って、マブチにはやたら当たりが強いよね』

『いつもヘラヘラ笑ってて、言い返さないからじゃない?』

『あぁ〜、確かに。すぐ泣くようなか弱い子が相手だと自分が悪者になっちゃうし、ズカズカ言っちゃうようなキツい子が相手だとダメージやリスクが大き過ぎるからねぇ……』

『多分、"ちょうどいい"んだよ。マブチだと、色々』


 ……部室から漏れた他メンバーの雑談が、今になって頭によぎる。──どいつもこいつも、勝手なことばっか言いやがって。

「…………っ」


 止めよう。これ以上聞いてたって、お互いにしんどくなるだけだ。

 薄く息を吐いた後、あたしはそっと階段から離れた。


***


 ──なんで、さっきは盗み聞きなんてしちゃったんだろう。


 体育館裏にある、人気のないちっちゃなベンチに腰掛けながらそんなことをぼやいた。

 部長があたしのことを嫌ってるのはとっくのとうにわかってた。何を言っても、何をしても、互いの気持ちが届くことは全然無くて。もう相性の問題だって、随分と前から諦めてた。

 そこまで考えてるなら、さっきの愚痴だってハイハイと聞き逃せばよかったのだ。今さら気付いても、もう遅いけど。


 というか別に、あたしのことを嫌ってる人は部長だけじゃない。

 ──そうだ、今までそうだったじゃないか。最近は大分減ったから忘れてかけてたけど、あたしは本来、『嫌われ者』だったじゃないか。


 そう、あの頃みたいに──


***


「マブチさんってさぁー……×××だよねー」

「それな〜」

「こないだなんか、×××××……でさぁ」

「何それ、×××!」

「マジ××××××だけどぉ」


 ……中学一年の宿泊行事、帰りのバス。

 ウトウトと眠りこけていたあたしへのお目覚めに用意されていたものは──元々、周りから疎まれていたから、自然な流れではあったのかもしれないが──対あたし専用、言葉が原料となっている大量の拷問器具だった。

 ……『×』の中身は、今も思い出すだけで卒倒しそうなので、もうボンヤリとしたセリフしか浮かべられない。


 最初、あたしはその拷問器具が受け入れられず、しばらく寝そべりながら呆然としていた。──が、途中でハッと我に返り、『痛い、いたい』と感じるようになった。


 ……すぐにでもその痛みを止めて欲しくて。


「────ッ!」


 ガバッッッ!!!


 ──あたしは勢い良く起き上がった。そして、痛みを与える方向をキッと睨む。


 その時の光景は、今でも鮮明に覚えている。

 驚き、困惑し、うじゃうじゃとこっちを見つめてくる目ん玉が、何十も──しかし、そのおぞましい瞳たちの中に、罪悪感や悪びれの色を浮かべた者は一人もいなかった。


 目ん玉達はこう言った。


「っえ……マ、ブチさ……ん」

「お、おき、て、たの?」

「…………ご、ゴメンナサイ……?」


 謝る必要なんてないのに。

 だって、しょうがないじゃん。

 ……そもそも、何に対して謝ってんの?


 しかし、そこから更に──多分目ん玉達とは違う、野次馬からの発言ではあったが──あたしに向かって、一番鋭利のある拷問器具で、ついに深くトドメをぶった切って来た。


「マブチさん、大丈夫だから! 今の、××の悪口だから!!」

「バカ、もう遅いよ」


 ──あぁ、そっか。

 あたし、そこまで嫌われてるんだ。

 まぁ、嫌いなもんは嫌い。しょうがないよね。うん、やっぱあの子たちが謝る必要なんて、無いじゃん。


 でも、なんでかな。

 ──心臓が、狂おしく、痛い。


 この出来事が理由で、あたしは『悲しい』では言い表せない感情があることを知った。

 心臓の内側が暴れて、爆発しそうで。泣きたくてたまらないのに、なぜか泣けなくて。


 ──あぁでも、そういえば。

 あの時、バスで隣の席に座っていた芹沢はずっとスヤスヤと眠ったまま、あたしへの拷問大会には全く参加していなかった。

 ……今思えば、それもあったから、あの場では泣かないでいられたのかもしれない。


***


 振り返ってみると……あたしの人生、誰かに嫌われてばっかりだなあ……。


 そんなことを自嘲的に考えながら、あたしはハハッと小さく笑った。

 ギシリと軋むベンチの音を聞きながら上を見る。今日の空はとても青く澄んでいて、乾いた風が吹いている。もし、今日一日中ここにいたら、心地は良いかもしれないが喉を痛めるだろう。


 遠くから聞こえる誰かの笑い声。バタバタと忙しない足音。自分がこんな所で沈んでいても、時間は立ち止まってくれない。ましてや、こんなあたしを救ってくれるはずもない。

 ……そう考えてしまったら、もう何もかも全部やるせない。馬鹿みたいだ。


 あーあ……。


「なーんかもう……疲れちゃった」



 その時だった。


 ──ガサッ

 ずっと静かに流れていた空気に、落ち葉を思いっきり踏んだような音が背後から聞こえたのは。

 驚いて振り向くと──そこには、一番会いたくなかった人が立っていた。


「芹沢……さん」


 彼女は目を見開いてこちらを見ていた。

両手はギュウウウッと握りしめており、心なしか、瞳の奥が揺れてるような気がする。

 ザワザワと吹くからっ風がさっきよりもうるさく感じるのは、あたしが気にし過ぎなだけだろうか。


「……」

「……」

「…………」

「…………」


 あたしと芹沢は、確かに中学からの顔見知りで、不本意だが数年の間、それなりにお互いを近くで見てきた。しかし、その年月の中でも、二人がまともな会話を交わしたのは数少ない。つまり、今さらながら会話の仕方がわからないのだ。


 ──いや、ちょっと待て。 別に会話せんでよくない? むしろ今までほぼ会話ゼロの、実質他人みたいな関係の人に、わざわざ話しかける方が不自然じゃない? ……うん。そうだそうだ。さっきあたしが呟いていたことが聞かれてたかどうかは知らんけど、とりあえず暗黙の了解で今の状況全てを無かったことに……。


 そう自分の中で言い聞かせ、そろり……そろり……と芹沢の脇をすり抜けようとした、その時だった。


「──さっき」


 ──気を抜いてたら聞き逃してしまいそうな、か細い呟きだった。だからそのまま気付かないフリをしたって、芹沢は咎めたり引き止めたりしなかっただろう。


 でも、


「……『さっき』、何?」


 しまった。つい、反応してしまった。

 ──ほら見ろ。言い出しっぺの芹沢さえおどろいちゃってるじゃん。


「…………いや」


 ──なんでもない。

 そう口には出さなかったけど、芹沢はふるふると首を横に振って合図を送った。


「…………そ」


 今度こそ、あたしは芹沢に背を向けて、ずんずんと歩き出した。


 ……あーあ、何やってんだ、自分。芹沢なんかの呟きに、情けなくもガッツリと反応しちゃうなんて。芹沢があたしなんかの心配を、する訳ないのに。


 ──そんなの、あの時にちゃんとわかってたことじゃん。




***


 話しかけても無視され、返事が来たとて杜撰な扱い──中学時代、周りから見たあたしは『汚物』や『腫れ物』同然……そんな感じだった。


 誰一人、あたしには極力近寄らない、話しかけない、対等に優しく接するなんてしない、ましてや、友達になるなんて有り得ない……ただ一つ、許されるのはあたしについて酷く扱うこと。それだけだった。


 だから、あたしの前で堂々と悪口を言ったって、近くにいられたら思いっきり嫌な顔をしたって、身体に痕が残らなければ、からかって、馬鹿にして、オモチャみたいに扱ったって、あたしが不本意に誰かと接触してしまった時、汚物を見るような反応をしたって、とにかくあたし相手ならどれだけいたぶったって──あの頃、あの空間の中であれば、全て許されることだった。……もちろん、あたしの感情なんかお構い無しに。


 でも、そんな中でも例外の人はいた。

 あたしにも普通の人と同じように、接してくれる人。対等と呼ぶのは少し違うかもしれないけれど──普通に話をして、普通に親切にしてくれて、普通にあたしを見てくれる人。


 別に、宝物のように大事にして欲しいとか、そんなことを思ってた訳じゃない。

 ただ──あたしを、『普通の子』にしてくれる人達の存在は、当時の自分にとって本当に……ほんとうに、嬉しかった。

 ──芹沢さゆりも、その中の一人だった。




「──は? 定規を忘れてた!? 言ってくれれば私が貸すから、次はもっと早く言えよ!!」


 ──ちゃんと会話をしたのは、この時だっただろうか。


 中一の春、美術の初回授業で先生がいきなり「今から定規を使います」と言った。

 慌てて筆箱の中を確認したもののそんな都合よく定規が現れててくれることはなく、仕方がないので頼み綱である『隣の席の人に貸してもらう作戦』を実行しようとした。

 が、その時の隣の席の人──そう、その相手が芹沢さゆりだったのだ──が、彼女を見てすぐに思ったことは、


 "すっごく美人。でも、すっごくキツそう"


 だった。あと、『定規貸して』なんて言ったらめっちゃ怒られそう、とも。

 当時──芹沢さんは、今よりもずっと無表情で、かなり愛想が悪くて、『肩書き』が無ければ人間関係においてとにかく不器用な人だった。

 そんな理由で、あたしは芹沢さんから定規を借りることは諦め、定規無しの目分量で頑張ることにした。


 ──まあ結局、途中であたしが頑張って目分量で描いてた残骸を芹沢さんに見られた事で定規を持っていないことがバレてしまい、彼女からカミナリが落ちてくる羽目になったのだけど。


「……あ、ありが、とう?」


 ──怒らせてしまった。


 当時はそう落ち込んだ。謝るべきなのか、感謝するべきなのかわからず、曖昧な返事をしてしまった。そして、しばらくの間は芹沢さんのことを、ただただキツくて怖い人としか思っていなかった。


 でも、


「真渕さーん! 次、第一音楽室だから! こっちこっち!」

「──あ、じゃあ真渕さん。何すればいいかわかんないならお皿とボウル洗って」

「真渕さん、今教科書でやってるとこ、五ページ先」

「真渕さん、多分今の時期にジャージは暑い」

「真渕さん!」

「真渕さん──」


 ……この人、ただのクラスメイトにしてはちょっと距離が近過ぎじゃない? しかも、相手はあたしだぞ? 『汚物』で『腫れ物』のあたしだぞ?


 "定規"のことがあったからか、芹沢さんはあたしのことを何にも出来ない赤ん坊のように思ってるようだった。そして、芹沢さんはまるで、その赤ん坊を張り切ってお世話している姉、みたいな。……そんなポジション。

 そんな状況に、最初はちょっと戸惑いと面倒くささを感じていたんだけど……。




「──はーい! じゃあ今から誕生月の偶数と奇数で二チームに分かれてください!」

「えっと、あたしは……誕生日、十一月二十日だから……偶数、かな」

「は? 誕生月で分かれるんだから奇数だろ」

「えっ……あ、そっかあ! そうだよね!」


 ……こんな感じで、割と普通に会話してくれる時もあった。ちなみに、芹沢さんは仲良い一部の友人達には口が悪くなるのだが、あたしの前で口が悪くなった時は気を許されたような気がしてちょっと嬉しくなった。


 逆に、あたしが芹沢さんを手伝うことがあった時には、


「! ありがと!」


 って、本当に嬉しそうにお礼を言われたこともあった。


 あたしがいつまで経ってもクラスメイト相手に敬語が抜け切れないのを聞いた芹沢さんが、


「──っふはっ! 何その敬語」


 って、表情を柔らげて笑われたこともあったっけ。


 他にも、あたしが物理的に近くにいても汚物扱いしないどころか、状況次第では「もっと近づいていいから」って言ってくれたり、芹沢さんと週番をすることになった時は「真渕さん、週番」って毎回声をかけて、一緒に仕事をしてくれたり(今思えば、芹沢さんはあたしがサボるのを阻止しようとしてただけかもしれないけど)。そうそう、『真渕』って苗字の書き方も読み方も、すぐにちゃんと覚えてくれた。


 普通の人なら、それが当たり前なのかもしれない。でも、それすら与えられなかったあたしにとって、少々距離が近い芹沢さんは本当に大きな存在になっていた。


 ──気付けば、あたしにとって芹沢さんは特別だった。


 ……もしかしたら芹沢さんも──いや、さすがに自惚れ過ぎかな。でも、芹沢さんはあの『目ん玉』達とは違う。芹沢さんは、アイツらみたいなことは考えてないし、そんな風にあたしを傷付けたりはしない。


 ──あの頃のあたしは、本気でそんなことを思っていた。

 ……まだまだケツの青いガキだったのだ。




 それは、本当にただの偶然だった。


「──ああ、マブチって昔ぼっちだったよな!」


 ……中学時代、確かにあたしは『汚物』や『腫れ物』扱い同然だった。しかし、卒業に近づくにつれその扱いは徐々に減っていき、三年になった頃には周りが飽きたのか、受験の影響でいちいちあたしに絡む暇が無くなったのか──少なくとも、あたしに"汚物"扱いをする人はほとんどいなくなっていた。……"腫れ物"なんかと極力関わってやるもんか、って人はチラホラいたけれど。まあそれでも、あたしの話題をされなくなったり、すれ違っただけで、しかめっ面をされなくなったりするだけでも、居心地の良さは全然違うから大分楽だったけど。


 そして、その頃になると──あたしと普通に会話をしてくれる人も増えていた。


 先程の発言は、元"野次馬"メンバーからだった。卒業直前、ジャンケンで適当に決められたメンバーでアルバム作りをしていた時のことだった。その会話に至るまでの流れは覚えていないが、おそらく、今までの思い出を一から振り返ってた時、不意に誰かが"その頃"を思い出したのだろう。


「あー……うん、そうだね」

「あン頃はみんな、マジで荒れてたしねー」

「まーよくやるわ〜って感じ」

「マブチさん、コミュ障ってだけでアレされるのはマジでついてなかったよな〜」

「……うん」


 ……早く、この話終わってくれないかな。というか、その話を本人の前でよく平然と話せるよな。……別にいいけどさ。

 せっかく、アルバム作りが楽しくなってきた所なのに。早く終われ、終われ、おわれ──


 ……でも、その願いは虚しく破れ、


「そうそう、一年の泊まり行事でさ〜」


 ──一番触れてほしくなかった話題に触れられてしまった。


「あっ! 思い出した! 自由時間のヤツでしょ!?」

「そう! あん時もやばかったよねー! マブ、──クラスメイトの悪口大会!!」


 ──知ってるよ。

 いや、本当にそんなものが開催されていたことは今知ったけど、そんな感じのことぐらいはやってたんだろうなって、あたしでも何となくわかる。……『クラスメイト』で濁さなくていいのに。どうせ、その感じだとほとんど『マブチさん』のことでしょ。


「あーね! アレ、結構人集まってたよね!」

「ねっ! ××ちゃんとか×××とか……あ、××もいたよね!」

「え! そのメンツは意外!」

「それな〜!」

「あとは──サユも!」


 その名前を聞いた瞬間──今まで黙々と動かしていた手がピタッ! と止まった。


 ──今、『サユ』って言った? サユ"も"、って……サユ、って…………


「……芹沢さん、も?」

「そうそう! あの子、結構マブチさんについて話していたよねー!!」

「そうね〜。確か──」



 ──あたしは個人的に気に入っていた緑色のパーカーを「ピーマンみたいで心底ダサい」と、集まった人達の前で面白おかしく言って笑い物にしたこと。

 ──何をやらせてもトロ臭くてイライラすること。

 ──喋り方や言い回しが気持ち悪いから、必要以上に話しかけないでほしいこと。

 ──あたしと同じ班になって、本当は『ハズレ』だと……思ってた、こと。


 ×××××××、××××××××××

 ×××××××××……

 ×××…………



 ……このようなことを、彼女は大会中に話していたらしい。他にも多分、あったような気がするけど……ダメだ、これ以上は『× × ×』になってしまう。


「──ッ、……」


 …………まあ……そう、だよね。

 確かに、そんな奴……あたしも嫌、だ。

 よくよく考えたら、『目ん玉』達を差し置いて──こんな『汚物』を、だれが純粋に好んで近付こうとするんだよ。


 やっと気づいた。あたしは、盛大な勘違いをしてたことに。芹沢さんも、『目ん玉』達と大して変わらなかった、ってことに。




 芹沢さんも、やっぱり。

 ──あたしのこと、"嫌い"なんだね。




「……………………」


 この後、あたしは卒業アルバム製作係の中で誰よりも遅く残った。一人になりたかったのだ。もちろん、その日は何も手を付けることなんて出来なかった。


「──っは……ははは」


 わかってた。覚悟はしていたつもりだった。でも、"真実"を聞かされた時、ヤバかった。


 ──心臓がえぐれて、もぎ取れるんじゃないか──本気でそう思う。それぐらい痛かった。


「……っ、う………ぁ」


 ──ジワジワ、じわじわ。

 湿っぽく、生ぬるく、視界が歪んでいく。


 かなしかった。本当にかなしかった。

 優しさの裏側で、そんな風に思われていたことが、かなしかった。他の誰でもない『芹沢さん』だったから、かなしかった。帰りのバスで『目ん玉』達から拷問を受けたときよりも、ずっと……。


「っ……ぁ……ぅあ…………っ、ぐ」


 かなしくて、かなしくて、つらくて、くやしくて。そして、やっぱり悲しくて。

 無性に──どうしようもなく、『狂おしい』と感じた。


 ところで、その日はやけに焼き付いていたものがあった。黒板の右端に書かれていた、たった一行。



 "2月15日 木曜日"



 ──この日から、あたしの中の『芹沢さん』は『芹沢』へと変化した。



「木曜日なんて…………だいきらいだ」



***


「──キャッハハハハハ!!!」

「マジ〜? それはヤバッ!」


 相変わらず、今日もあたしの席は無い。

 むしろ、今日はいつもよりも取り巻きの数が多い気がする。その場所だけはいつも、満員電車並の密度なのだ。授業という用が無ければ本気で距離をとりたい。


 木曜の五時間目、開始チャイム五分前。

 あたしは教室の入口付近で芹沢を中心とした群衆を見つめていた。……五分前でも、やっぱりダメだったか。


「…………」


 グググッ、と足を動かす努力はしている。でも、動かない。まるで関節ごと置物になった気分だ。……あの場に行きたくない。入りたくない。きっと、その想いを強く抱いているせいだろう。少なくとも今日は──あの席にいようと思える勇気が、無い。


 …………サボっちゃおうかな。


 一歩、もう一歩と足が後ずさる。置物になった足はどうやら、そこから退く分には軽々しく動いてくれるようだ。いや、そうしろと無意識に脳が命令してるから、かもしれない。そして、また一歩あの場所から距離をとる。

 ふと、外の景色が見たくなった。窓の方へと目を向ける。そこから見えるものはやっぱりのどやかで、それすらあたしを置き去りにする。


 あぁもう、いっそのこと。

 このまま遠くにいってしまいたいなあ……


 心の中で呟いた、その時だった。


「……?」


 気のせいだろうか。なんか、背中から──視線が一筋、ものすんごくぶっ刺さってるような気がするんですけど。なんか妙に、背筋から緊張が走る。


「──……」


 いや、まさか、絶対に気にしすぎだ。だって、まさか。こんな距離があるのに、そんなことある訳無い。

 ──アイツがこっちを見てる、なんて。


 ……でも、結局興味本位に勝てなくて。気のせいだって思い込みたくて。

 ──くるっ、と空想の視線へ振り向いた。


「ッ、え」


 ────ガタンッ!!


 遠くからでも、机と椅子が乱暴にぶつかり合う音が聞こえた。急に絡んで来た尖りのある視線に驚いたのか、視線の送り主──芹沢が椅子に座ったまま、誰が見てもわかるぐらい目を大きく見開いて動揺してる。


 ──やっぱり芹沢だ。でも、なんで……。


 視線はまだ絡めたまま、また一歩後ろへ下がる。すると、芹沢は目をギラッとさせ、こちらを睨んできた。眉間にシワがよっており、元々つり上がっている瞳がさらに上を向く。

 ──わあ、怖い。元々強面の芹沢がそんな顔すると、ますます迫力あるなぁ……って、そんなことを言ってる場合じゃない。


 ──なんで? どうして?

 というか、いつから見てたの?


 グラグラするほど強い視線に、何か言いたげに開く薄い唇。その全てをあたしにぶつけてくるのが、考えても全く意味わかんなくて。ただ、


 "戻るな 堂々と入ってこい"


 ──何となくそんな念が、ひしひしと感じる。わかんないはずなのに、そんな気がした。


「……ッ」


 これ以上見ると狂ってしまう。そう思い、ブツンと芹沢から線を切った。ギュッとキツくスカートの裾を握り締めた手が痛い。今、自分の顔がどんだけ歪んでいるのか、鏡を見なくともわかる。


 ──嫌だよ。無理だよ。

 今行ったって、きっとあたしは頑張れない。


 ……もう、これ以上、がんばりたくない。


 心の中ではそう叫び、のたうち回っているのに。


 ペタ、ペタ、ペタ…………ペタ。


 今度は何からの命令か、あたしの身体は芹沢の隣へのろのろと向かっていた。そして──今回はたっぷりと空白の時間を使ったが──無事、いつもの指定席へ到着した。


 今日は芹沢の様子がいつもよりおかしいからか、それともあたしの負のオーラが酷く表出していたからか、取り巻きたちは目の前に到着したあたしの存在にすぐ気付いた。


「あ、来ちゃった!」

「ごめーんヤマグチさん、今どく〜……」


 そう言って、あたしの席を独占している取り巻きギャルのリーダー格は少しだけ座る位置をずらした。が、彼女は今、自分磨きにお熱な模様だ。机の上に大量のお化粧道具と女性雑誌が置かれているあたり、どうやらメイクの練習をしているらしい。他所でやれよ。


 ……とはいえ、そんなこと言うのは億劫だ。取り巻きのヒンシュクも買うだろう。ただでさえ、今は何かを喋る元気さえ無いのに。


 ……あぁ、こうなるのは薄々わかってたのに、なんでまたのこのこと自分から騙されに行ってるんだろ。踊らされてんだろ。……期待なんて、しちゃってんだろう。

 自虐的に嘲笑い、肩の力が抜ける。このまま少しでも身体を傾けたら、簡単に倒れることが出来そうだ。そんな感覚。


 ──ほんとバカみたい。

 みんなも、芹沢も───あたしも。





「とか言って、全っ然どく気ねぇじゃん」





 ────え?

 今の声…………だれ?


 あたしの知ってる……よく知ってる、心臓を貫通出来そうなぐらい、よく通る低い声。


 まさか──芹沢?


 ……でも、やっぱり初めて聴く声かもしれない。こんなあからさまな──トゲットゲの鋭い声は、今まで聴いたことがなかったから。

 芹沢は毒舌だけど、意図的に相手を直接攻撃するようなことは絶対にしない……いや、出来ない。そんな、狡い奴だったから。

 まさか、ついに幻聴が──


「!? っ、え……」

「てか、そもそもここで化粧すんな」

「さ、サユ……?」


 ……聞こえた訳ではないらしい。でも、取り巻きもあたしと同様、かなり驚いて声が出ないようだ。みんな口がOの字になっている。それはそれでちょっと可笑しいけど……や、それよりも。


 チラッと横目で確認する。──肝心である芹沢の様子は、全く平常運転ではなかった。声だけでなく、気味が悪いぐらい静かに凪いている目つきや、口元の下向き具合、よく見たらこめかみ辺りで小さく浮き彫りになっている血管。それらを見ただけで、どんなに鈍感な人でも──怒ってるんだ、って、すぐにわかる。


 ──芹沢。

 なんでそんな、"真剣"な顔してんの。

 ……意味がわからないよ。


「とにかく、アンタは早くそこどきな。彼女、困ってんだろ」


 芹沢は視線だけチラッとあたしに向けながら、リーダー格の取り巻きにそう促す。


 ……いや、どちらかと言うと芹沢の言動にめっちゃ困ってるんですけど。まあ、そんなこと言えないけど。


「あ……ど、どくよー! どくってばぁ……」


 リーダー格の取り巻きギャルはバツが悪そうな顔を浮かべ、お化粧道具をポーチにしまってからササッと席を空けた。


「オルチャンメイク、マスターしたくてガチになってたから、つい……」

「アンタいっつもギリギリまでそこ座ってんだろ。……もうすぐチャイム鳴るぞ」

「ゲッ! マジじゃん!!」

「ヤバ、遅れたらハゲにネチネチ怒られんじゃん!」

「急がなきゃ! じゃあねサユ! ヤマグチさん本っ当にゴメンね!」

「──待って」

「え」

「前からずっっっと思ってたけど──この子、"ヤマグチ"じゃなくて"マブチ"だから」

「!」

「えっ、そうだったの!?」

「そ、マブチ。真実のシンに、さんずいと『咲』の右側部分の奴とりっとうへんを合体させたヤツ。この二つを合わせて、『真渕』」

「へー。とりま、マ、マブチさん? ごめんねー!」

「あ、うん。……」


 バタバタバタバタバタ……


 ──嵐が去るって、こんな感じのことをいうんだろうか。そんなどうでもいいことを考えてしまう。


「…………フン」


 取り巻きの姿が見えなくなるのを確認した後、芹沢は肩の力が抜けたのか、しなしなと机の上に突っ伏した。心なしか、突っ伏す直前に見えた彼女の瞳はゆらゆらと大きく──安堵と不安に挟まれ揺れていた、ような気がした。


「──っ、あ……」


 ──何か、何か言わなくちゃ。

 困惑と焦燥感と……じわじわとせり上がる熱い何かに駆られて、視線を芹沢の方へ向き直す。


 ──バチン!


 直球、ストレート。

 芹沢の視線は、的当ての中心部分を的確に、且つ豪速球で当ててくるような強烈さがある。

 その瞳に射貫かれると、脳がドロドロ焼けそうになる。


「! ぁ、あのっ!」

「……」


 言わなきゃいけない、それは、わかってる。

 ──でも、なんて言えばいいの?

 "ごめんね"? それとも、"ありがとう"?

 ……どちらも正解なような気がするし、不正解なような気もする。


「あ……あの、さ」


 どうしよう。伝えたいことはいっぱいあるはずなのに、喉が締まって言葉が塞がる。詰まっていく。


「あの……っ、……あの、ね」


 耳が、肩が、両手が。

 身体中至る所、じわじわと熱くなっていく。



「────ごめん」

「……え」



 芹沢は座りながらあたしをまっすぐ見上げる。新鮮だった。芹沢は女子の中でもかなり身長が高い。下手したら一部の男子を追い抜いてるぐらいだ。そして、あたしの身長はほぼ女子の平均ぐらい。つまり、普通に並べばあたしは、いつも芹沢から見下されているのだ。不可抗力だけど。だから、新鮮だった。でも、理由はそれだけじゃない。


「いま、まで…………ごめん」


 しゃがれた声。

 俯き、何かを堪えてる表情。

 ぶるぶると、震える、肩。


 はじめて、みた。

 芹沢が──泣きそうに、なってるところ。


 なんで? どうして?

 というか『ごめん』って『今まで』って、なに?

 …………本当に、なんで?


 そんな疑問形が、馬鹿の一つ覚えみたく脳内で堂々巡りしていて。

 泣きたいような、激怒してやりたいような……そんな気持ちになって。


 キーンコーンカーンコーン……


「はーい、みんな席についてー! グッドアフタヌーン!」


 ──また、言いたいことが声にならず、先生の一声で呆気なく現実に引き戻された。芹沢も、チャイムが鳴ったことでさっきまでの歪んだ表情がまるで嘘のように、教科書を開いている。


「…………っ」


 わけわかんない。何なんだよ。

 ──アイツ、マジで何なんだよ……!


 いつでも、何度でも。芹沢はあたしをグルグル振り回して、あたしの心を奪って、根こそぎ奪って。


 ──結局、今でもあたしは芹沢宛の"特別"を捨てられそうにない。


 それをハッキリ自覚してしまった、今。


 もう、後戻りはできない。



***


「っ、芹沢さん!」


 授業後、あたしはスタコラサッサとホームルーム教室へ帰ろうとしている芹沢を引き止める。


「……真渕さん?」


 芹沢はゆっくり時間をかけて振り返った。相変わらず、飄々とした顔だ。対照的に、あたしは少し息が上がっている。休み時間で人の行き来が多い上に、芹沢の歩く速度があまりにも早いので、追いかけてつかまえるにも一苦労だったのだ。


 ぜーはー……ぜー、はー…………

 大きく深呼吸して、落ち着かせた後。


「あの、さ……さっきの……」

「…………別に、そのまんまの意味だよ」

「だからっ……なんで、今さら……っ!」


 ──そうだ。今さらなのだ。

 芹沢が謝ってきたこと──そんなの、"あの頃"について以外なんてない。聞くだけ野暮な話。でも、タイミングがおかしい。あの流れで『ごめん』と謝るのは──どう考えても、あたしの方だった。


 なんで、"あの頃"について今さらほじくり返そうとしたんだ。そうするのは──あたしより、芹沢に方が耳が痛いことのはずなのに。


「…………っ」


 芹沢は、また顔を歪ませ下を向く。対して、あたしはまっすぐに芹沢を見つめて、そらさない。いくら時間がかかっても、絶対に言ってもらう。言うまで逃がさない──そう、決心したから。


 どれぐらい時間がかかっただろう。あたしの意図を読み取り観念したのか芹沢は息を吐いて、もごもごと口を動かした。


「…………エゴ、だった」

「……エゴ?」

「そう。……自分勝手な、ただのエゴ。……それだけ」


 ──エゴ。

 その言葉を聞いて、何となく……


「芹沢さん」

「……何?」

「その話、もっと、ちゃんと聞きたい」

「……」

「だから──あたしに、遠慮なんかしないで」

「──」

「あたしに悪いと、本気で思ってんなら……」

「…………」

「──全力で、あたしを傷付けな」

「────っ」


 瞬間、芹沢の表情が完全に崩れた。

 カッ開かれた切れ長の目がグラグラと揺れる。眉が下がり、肩をせり上げ、そして──ブルブルと、本格的に身体が震えている。


 そして──芹沢は、腹部にグッと力を入れて、




「君が──嫌いだと思った。……初めて、会った時から」




 ──やっぱり。そうだよなぁ。

 正直、そう言われたらもっと傷付くかなあって思ってたけど、案外何とも思わなかった。もしかしたら──"真実"を聞いた時に、鍛えられたのかもしれない。


「一目見た時から、嫌いだって思った。

 頼りなくて、何にも出来なくて。なのに全然、頑張ろうとしない所が、嫌いだった。

 一風変わったことばかり言う君が、嫌いだった。

 周りがどんな顔してても、そんなのお構いなしって、のうのうと生きてる。そんな所も、嫌いだった。

 ……ここまで来ると、君がやることなすこと、全部嫌いだって思うようになった。

 だから、いっそのこと本人の前で思いっきり罵倒して、傷付けて、嗤ってやろうと、思った」

「……」

「……っ、…………」


 ここで、芹沢の呼吸が乱れる。身体の振動が少し派手になって、ヒューヒューと喉を絞めたような音がした。


「…………」


 ──ここまで、あたしのことを『嫌い』って言う人に、これは酷なことかもしれない。けど……。


 でも、そうしたいと思った。だから、

 ──そっ、と芹沢の手の甲に触れる。


「っ」


 ──びくっ


 やっぱり、芹沢は大きく肩を震わせた。

 ……あぁ、やっぱりダメか。そう思い、ササッと芹沢から手を離そうとした、ら、


「──このまま、いて」


 ──!

 まさかの、芹沢からギュッと握り返された。

 思わず、握る力が強くなる。


「……でも」


 ここでやっと、芹沢はあたしの目をしっかりと見つめ返してくれた。


「ある日突然、私が君と何でもない話をしていたら……君が、笑った」

「……え?」

「当たり前だけど、君は、学校にいる時はいつも笑わなかった。怒ったり、悲しんだりすることはあっても、ちゃんと笑ってる姿は見たことなかった。だから、初めて、笑った顔を見た時…………」

「……?」



「──"うれしい"って、思った」



「──え」

「始めは、気のせいだと思った。今まで、あんなに嫌いだと思ってたのに、いきなり、そんなこと……こんな感情を持つ自分に、嫌悪感も抱いた。……でも、当時の私が知る限りでは、学校で君が他の子に笑っているところ、全然見たことなかった、から……『もしかして、私にしか見せてない表情、なのかな……』って、そう考えたら……何か──"悪い気はしない"、そう思った」

「……」

「そんで、そこからは…………嫌い、よりも優越感の方が強くなった。

 君は、私と話す時だけはどんどん笑顔が増えていった。最初は、私を怖がって、たどたどしい会話しかできなかったのに、段々と怖がらなくなって、いつの間にか自然に会話ができるようになった。それが、嬉しかった。

 ──君が私にだけ懐いてくれてる、そう特別感を実感できる時が嬉しかった。

 ……そう気付いたころには、君が…………"かわいい"って思うようになった」

「────…………」

「……」

「…………」

「……引いた?」

「え、や、別にそれは……びっくりは、したけど……」


 びっくりした。本当にびっくりした。だってまさか──芹沢の口から、あたしに対して"かわいい"なんて言う日が来るとは、本当に思わなかったから。……多分、本人もだろう。


「……そう思うようになったら、段々、嫌いだった所が全然、嫌いじゃなくなって。むしろ、すごいと思うようになった。

 出来なくても、何回失敗しても、ひたむきに頑張ろうと努力する所が、格好良いと思った。

 他の子とは全然違うことを言う君の話を、もっと聴きたいと思うようになった。

 どんなに周りから酷な扱いを受けても、全然屈しない君が、強いと思った。

 そんな君を──真渕さんを、もっともっと知りたい。……本気で、そう思うようになった」


 ……でも。


 そう言葉を続けた時、芹沢の熱すぎる手がギュウギュウと握りしめた。少し痛かったが、恐らく──向き合っているのだ。包み隠さず、まっすぐに、あたしへ気持ちを伝えるために。


 だから、


「……ゆっくり、でいいよ」

「──…………」


 ──ありがとう。

 そう言わんとばかりに、彼女はキュッと軽く握り直した。


「……中三の、二月。自由登校の時期だったけど、その期間中に、用があって一回だけ学校に来た、ことがあった。そしたら…………教室で一人、ポツンと静かに泣いている、クラスメイトがいた」

「──あ」


 ──え、嘘。それって……


「……ごめん。実はあの時、見てたんだ。……一人で静かに泣いてる、真渕さんを」

「──!!」

「泣いてる理由は、わからなかったけど。でも……なんとなく、悲しくて泣いてる、ってことは、わかった。」

「…………」

「ほんとうに、悲しいって顔してた。

 ……その時になって、やっと気付いた。真渕さんだって、人だから。悲しくて泣くこともあるよな、って。もしかしたら、今まで周りから受けた仕打ちに対して、想像以上に、悲しみとか、憎悪とか、持ってるかもしれない、って。

 それから……私のことも、『懐いてる』なんて大きな勘違いで、本当は、『大嫌い』って思われてるんじゃないか。って、思った」

「……」

「そこでやっと、自分が真渕さんにしてきた仕打ちについて、後悔した。……"後悔"って言葉でも全然……足りない、けど。

 『どうして私は、真渕さんが自分を嫌ってないって勝手に思い込んでたんだ。どの面下げて、"真渕さんが知りたい"なんて望んでんだよ』って、責めた」

「…………」

「そこまで考えて、ようやく──"謝りたい"って、思った。謝って済むことじゃ、全然ない、けど。でも、何もしないよりはずっと、マシだと思った」

「………………」

「……でも、その日を境に、……どのタイミングで、謝ればいい? これからどうやって、真渕さんと接していけばいい? 今まで、自分はどんな感じで真渕さんと接してた? ……ってなって、段々と距離感がわかんなくなった。しかも、何となく……真渕さん、も、その頃から私のこと、避けるようになった気がした。……私を見かけると、嫌そうな顔、も」


 ──気付いてたんだ。

 いやでも、芹沢が今言っていることが全部本当であれば──まあ、気付かざるを得ないかもしれない。


「高校生になって、ますます距離ができて。……英語のクラスで、隣の席になれた時は、『汚名返上』のチャンス、だと、思ったけど……意識すれば、するほど、やっぱりダメで」


 え? じゃあいつも、授業前に感じていたあの視線って……そういうことだったの?

 ……や、それは後でじっくり考えよう。

 ……急にむず痒くなった首根っこにも、ひとまず無視を決め込んで。


「とにかく、早く"あの頃"にしたこと、謝らなきゃって、そればかり考えてた。そして──今日。ついに絶好のチャンスが来たと、思った。本当は、昼休みに──言えたら、良かったんだけど。言おう言おうって思った、直前──『昔のこと、今さら掘り返すんじゃねぇって怒られたらどうするんだよ?』って、怖気付いてストップを、かけてしまった。……悪い癖だと、自分でも思う。……でも、今思えば、あんなんじゃ言葉少な過ぎた。だから──もう一回、言わせて」

「え」


 そう言い切り、芹沢は湿りけのある熱い手を、今までの中で一番強く握って、言った。



「真渕さん。

 今まで……自分が、どうしようもなくて」



 ──本当に、ごめんなさい。



「──────っ」

「……以上が、今さらながら私が真渕さんに謝った理由、です」


 そう言い終えた後、芹沢は魂が抜けたようにぐったりとしていた。まるで中身の無いヤドカリ、エラが無くなった魚みたいな、そんな感じだ。



「…………うん」

「……結局私は、赦されたくて、謝っただけなんだ。自分のしたこと、棚に上げてばかりで、その癖、欲望には忠実。……エゴの塊でしか、ないでしょ?」

「そうだね」


 ──出来るだけピシャリと、あえてキツく言い放った。芹沢が、グッと傷付いた顔をする。


「……当たり前だ。本気で赦してほしいなんて、思ってない。ただ──これ以上後悔するのは、もう、嫌で」

「……他に、何の後悔をしてるの?」

「……引かない?」

「今さら」

「…………そっか」


 芹沢は力なく笑った後、またお腹にグッと力を入れて──感情を漏らした。


「君に、優しくしたかった」

「……」

「いっぱい、笑わせたかった。嫌な思いばかり、させなければよかった。」

「…………」



「──君の特別に、なりたかった」



「────ッ」

「……もう、実現はできないけど」


 そう言って、芹沢は自嘲的に笑った。ギュウギュウと握り潰されている拳は、誰が見ても──痛々しいものだった。


 ガヤガヤガヤ……


 一瞬、二人が黙り込んだ隙に雑音が入り込む。

 ──熱い何かが、ドクドクドクとせり上がる感覚がする。


「……あ、もうチャイムが鳴るな。そろそろ帰らないと」


 そっと、芹沢が繋いだ手を離した。

 出すものはすっかり出せたのか、芹沢はスッキリした顔をしていた。

 そして──一瞬、見逃しかけそうになったが──何か覚悟を決めた、寂しい笑顔も。



 ──ふざけんな。

 何勝手に、自己完結してんだよ。

 こちとらまだ──アンタを引き止めた本当の目的、果たせてないんだよ。



「……じゃあ、遅刻するのは嫌だからそろそろ戻──」

「──バカ」


 気付けば、芹沢の腕をガッと掴んでいた。

 まさか自分が、こんなに低い声が出せると思わなかった。そして、怒りをギチギチに込めた、色も。


「……え?」

「勝手に終わらせんな。あきらめんな。特別って思ってんのはアンタだけなんて、思うな」

「え」

「バカ!!! 今になって急に謝ってくんじゃねぇ!! 

 ──あたしはねえ、アンタが思ってんよりもずっとずっとずーっと! 芹沢が大っっっ嫌いで特別なんだよ!!!!」

「……は」

「芹沢さんが笑ってくれたら"うれしい"! 怒ってる所も泣いてる所も恥ずかしい所も、もっと色んなアンタが見たいし聴きたいし知りたい! 芹沢に嫌われたら死ぬほど悲しいし! 忘れられたら気が狂うぐらい辛い! ……あたしだって…………あたしだって…………っ!」





「──芹沢の"特別"になりたいっ!!!」





 ──そっか。……そっか、そう、だったんだ。


 あたし、そんなに芹沢からの特別が欲しかったんだ。


 ………………そっかあ。





「あたしの激重感情舐めんじゃねぇ!!!

 バーーーーーカッ!!!!!」

「────………………は」

「あと!!」


 グイッ、と芹沢のネクタイを掴む。


「英語の授業前、あたしのために怒ってくれてありがとっ!」

「え、……。別に、そんなつもりじゃない」

「じゃあ、勝手にそう思っとく!」

「──……」

「以上!! じゃあねっ!!!」


 ──よし、全っ然足りないけど……一番言いたいことは、ちゃんと言えた。今は、これでいい。とりあえず、これでいい。


 ブォン! と勢いよく回れ右! をし、人の流れに逆走する。

 ──今思えば、先程から二人の会話は普通に人が多くいる所で白熱していた。そして、あたしがあんな馬鹿げたことを馬鹿みたいに馬鹿デカい声で叫んだため、目撃者はあたしを見るなり怪訝な顔や不快な感情、好奇的な視線ばかり向けてくる。恥ずかしい。本当に恥ずかしい。


 でも、



「──っふははっ! なんっだそれ」



 背後から、一つだけ。いつもより半音高く、楽しげに揺れる低声が聞こえた。



 こっちのセリフだわ。

 なんっだそれ。

 わけわかんない。


 なんだろう、このムズムズする痒い気持ち。




 あぁ、もう



 やっぱり



 あたしは




 木曜日なんて大嫌いだ



[完]

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