夜明けはもうすぐ
幼いころ、リュシーとライナは仲の良い美人姉妹と評判だった。
それがいつからだろう、変わってしまったのは。
きらめく夜燭の下、美しく着飾った令嬢たちが踊っている。新月の夜会も半ば。
踊る輪に加わることなく、ライナはなんとなく、ふわりふわりと揺れる流行りのドレスを目で追っていた。
ライナが今、身につけているのは、手直ししたとはいえ、明らかに流行遅れとわかるそれ。
ライナは伯爵家の次女として……否、今は亡き父の跡を継ぎ、女伯爵となった姉リュシーの妹として、家の為となる婚姻が必要だった。だから、ただ夜会で佇むだけではいけないと分かっていた。
分かっていたけれども、ライナは動けないでいた。
思いがけぬ父の死で、伯爵家は窮乏していた。
未来の姉婿が継ぐはずだった爵位は、まだ婚約者も決まっていなかった姉が継ぐことになり、成人したばかりの姉はそれでも精一杯やっていたが、私財が減っていくのを止めることはできなかったのだ。
そんな中で、姉が用意してくれたドレス。恥ずかしいと思う必要はないというのに……
漏れそうになるため息を隠して、ライナは広間からテラスへと視線を移した。
月の無い夜空に、星がまたたいている。
「ライナ嬢」
遠慮がちに声をかけられて、ライナは振り向いた。
「ネイト様……」
アトラン伯爵家の嫡子で、美貌の青年が立っていた。
「私と一曲、踊っていただけませんか。もしあなたが、……そう望むなら」
どこか熱を帯びた双眸と、しかしそれとは反対に気遣うようにそっと手を差し出されて、ライナはかすかに首を横に振った。
ライナが動けないでいる理由は、この青年にもあった。
「ネイト様、いけません。姉に見つかったら……」
せつなげな顔をするネイトに、ライナも胸が苦しくなる。
ああ、もしその手を取れたなら……
「ライナ!何をしているの!!!」
伯爵家の当主にふさわしい、真新しく豪奢な衣裳をまとった姉がこちらにやって来るところだった。
鋭く問われて、ライナはただ静かに、
「ご挨拶しただけですわ」
と、答えた。
リュシーは聞こえなかったのか、聞いていなかったのか、ぐいとライナの腰を引き寄せた。
「このような家の者に挨拶など不要です」
「……」
「わたくしたちの父を殺めたのは、この男の親ではないですか!」
「お姉様!!!」
そう。リュシーとライナの伯爵家と、アトラン伯爵家は長年憎しみあっていた。
「では、我が母が亡くなった原因がそちらにはないと?」
睨みつけるのを止めないリュシー。淡々と告げるネイト。
ライナは、声が震えないように気をつけて言わなければならなかった。
「お姉様。ネイト様。お止めになって。人目がありますわ」
なおもリュシーは睨みつけていたが、ライナが姉の手に手を重ねると、やっと思い直したようだった。
「行きましょう、ライナ」
馬車まで姉と身を寄せあうように歩く。
なめらかな姉の服が手に触れて、ライナは複雑な思いに駆られた。
姉は伯爵家の当主であり、貧しいところなど人に見せるわけにはいかない。
爵位に見合った、爵位にふさわしい仕立てでなければ。
そう、分かってはいる。
分かってはいるのに、ライナの心はままならなかった。
もしライナが流行のドレスを着ていたら。
あのくるくると楽しげに回る踊りの輪に入って、きっと素敵な青年と出会っただろう。
そして今、ネイト様に傾いている恋慕の情など、きっと簡単に、その見知らぬ青年に注がれたのに。
敵の家の男などに、恋せずに済んだのに!
馬車に乗りこんで、ライナはリュシーに言った。
「お姉様。ネイト様は何もしていませんわ」
「その名前を聞かせないでちょうだい」
「わたしもお姉様も、何もしていませんわ」
「……そうね」
「わたしたちの親と、そのずっと祖先と、あちらの親と、そのずっと祖先のお話ですわ」
「……」
「憎しみあうなんて、もう……」
ライナは言葉を続けられなかった。姉が言葉をかぶせてきたから。
「わたくしは。」
姉はライナの手を、ぎゅっと強く握った。
「わたくしは、あなたが騙されていないか心配なのよ」
重なるリュシーの手は、小さく震えていた。
「あの家の男たちはお父様を殺したのよ。わたくし、……。ライナ、あなたまでお父様のように喪ってしまったら、わたくし、……ライナ、わたくしを独りにしないで、ライナ……」
リュシーはライナを愛してくれて、ライナもまたリュシーを愛していた。
幼いころ、二人は手を繋いで、歌を歌っていた。
幼いころ、二人はお花畑でいくつもいくつも花を摘んでは、お互いの髪にさしていた。
幼いころ、二人は並んで食事をして、寝るときも一緒だった。
いつも仲の良い姉妹だった。
いつまでも仲の良い姉妹でいられると思っていた。
馬車が止まった。屋敷に着いたのだ。
新月の中、荒れ果てた庭は見えない。点す灯火さえも惜しんで、真っ暗な玄関へと入る。
明日の朝は貴族らしく遅く起きて、そして昼にほとんど具のない薄いスープを一皿。
お姉様がネイト様を赦すことはきっとない。
ライナの想いが許されることも。
リュシーは大切な姉、今はもう世界にたった一人の家族、愛しているに決まってる。
でも、他に頼れる人もおらず、家は貧しくなるばかり。
ああ。
どうにもならない思いを抱えて、ライナは自室へ入った。
もうドレスも宝飾品もほとんどないドレッサー。
鏡の中のライナは涙を流していた。
ああ。
でも泣いているだけでは何も変わらないのだ。
貴族女性でも、家庭教師だとか相談相手だとか働いている人はいると聞く。
きっと苦しい今を越えて、生きる道が……
涙が止まってから、どれだけの時間が過ぎていただろう。
窓の硝子が小さく鳴った。
窓のそばへ寄れば、小さな灯火が見える。
急いで窓を開けると、そこには恋しい青年がライナを見上げて立っていた。
「ネイト様……!」
ネイトと初めて出会ったそのときも、新月の夜会だった。
お互い家同士が憎しみあっている、ということは知っていたけれど、相手の顔は知らなかった。
型落ちのドレスで所在なく佇むライナの近くに、踊り疲れたらしい様子のネイトがやってきたのが始まりだった。
はじめ、ネイトはライナがそこに居たことに気づいていなかったらしい。
少し一人で休みたいのに、令嬢がいては気が抜けないと思ったのか、踊ってきてはと促されたっけ。
「きみは踊らないの?」
「わたし、今はちょっと、踊りたくない気分なんです」
「そうか。それなら私と同じだね」
そんなふうに会話したと思う。
いつも踊りの輪を眺めるばかりの夜会で、あんなに楽しく話せたのは初めてのことだった。
もし、この人と、このかたの家と、婚姻を結ぶことができて、それが姉の助けになるとしたら……
ちょうど新しい曲が始まって、
「私と一曲、踊っていただけませんか?もしあなたが、踊りたい気分になっていたら」
「わたし、今ちょうど踊りたい気分になっていたんです。喜んで」
そうして手をのせて、広間の片隅でライナはネイトと踊った。
それが最初で、そしてそれきりになるとも知らずに、ライナはずっと踊っていられたらいいのにと思っていた。
もうすぐ曲が終わるというとき。
「離れなさいっ!」
姉の悲鳴のような声がして、そして現実がやってきた。
「離れなさいライナ!離れなさい!その男はアトランの殺人者よ!!」
そのときのネイト様は、ひどく青ざめていたと思う。
きっと、ライナ自身も。
「ライナ、泣いていたの?」
小さな灯火を掲げて、心配そうに見上げるネイトに、ライナは横に首を振った。
「いいえ。もう、大丈夫」
「ねえライナ。私はきみが望むなら」
ライナはネイトの頬へひとつキスした。
「わたし、あなたにひとつお願いがあるの」
ライナはネイトを見つめた。
ネイトへの恋情は、きっとずっと心にある。
でも、お姉様への愛情も、きっとずっと心にある。
恋はただ結末だけを眠らせて、愛はいつか返せるように抱いて、ライナはライナ自身で生きていく。
七日後、ライナは家を出て、老婦人の相談相手として働いていた。
ネイトに紹介してもらった仕事先だった。
ネイトは驚いたように、ライナに聞き返したものだ。
「本当に、それだけでいいのかい?仕事を紹介して欲しい、なんて……それも、私とも関係の薄い仕事先……」
応えずに見上げた新月の夜空は、やや白んできていた。
夜明けはもうすぐ。
男もすなる擬人化・女体化といふものを……えー……ごほん。
お読みいただきありがとうございました。
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