94 赤眼の銀狼《Side.黒魔女天使》
蛇に睨まれた蛙。
文字通り、赤い蛇目に睨まれたシルヴァは、一歩も動くことが出来なかった。
そして、シルヴァの目は生気を失っていた。
(やっぱり僕はダメだ。お父様の言う通り、肝心な時に怖じけづいてしまう。もっと勇気が欲しい…アルベルト…助けて)
『フシュルルルルル』
黒蛇の口元から冷気が漏れる。
「ううぅ…」
シルヴァは麻痺が解けたように、その場に尻餅をついた。
冷気が湖に波紋を作る。
波紋の数が徐々に増え、そこから無数のミズチが飛び出した。シルヴァは尻餅をついたまま動かなかった。動けないでいた。
それでもやはり津波同様、ミズチもシルヴァを避けて行く。
そして後ろの壁に当たると水に戻った。
しかし、その事にシルヴァは気付かない。恐怖のあまり周りが見えていなかった。
(怖い!勝てない!体が動かない!一人じゃ無理。
助けてアルベルト!)
シルヴァはガタガタと震え始めた。
(誰か助けて!)
黒蛇はゆっくりと水面から伸び上がり、シルヴァの目の前に顔を寄せた。
「ひっ!」
恐怖により、自ずと声が漏れていた。
(誰か助けて!)
「誰か…」
やっとの思いで口に出した、その声を聞き駆けつけてくれる者はいない。
いつも助けてくれるアルベルトは、シルヴァを信じて犠牲となった。
自分の心の弱さを知っているシルヴァは、寂寥感に苛まれる。
シルヴァは、恐怖のあまり黒蛇から視線を逸らした。
その時偶然にも、半分壊れた祠が目に飛び込んできた。
『勇気を……諦め……』
祠がほのかに光った気がした。
声が聞こえた気がした。
するとシルヴァは暖かい風に包まれた。
それは確かだった。
「誰?…」
(心が軽くなった気がする。暖かい)
シルヴァの目に生気が戻り始めた。
(そうだ。諦めたらダメだ!アルベルトを、みんなを守らなくちゃ!アルベルト!勇気を分けて!)
『グオオォォォォ!』
黒蛇が蛇目を光らせると、大きく口を開けた。
そして目の前の大きな口が、激しい音を立てて閉じた。
それは黒蛇の意思ではなかった。
丸呑みしようと大口を開けた黒蛇の顎を、シルヴァが蹴り上げたのだ。
シルヴァは、恐怖を振り払うかの如く大声を出した。
「ワオ〜〜〜〜ン!」
〜〜〜
黒蛇は思った。
目の前の小さき者は、何故無傷なのか。
黒蛇は考えた。
目の前の小さき者に、何故恐怖を感じるのか。
黒蛇は憶断する。
目の前の小さき者を、排除するべきだと。
黒蛇は激昂する。
目の前の小さき者に、怯えてしまった自分に。
黒蛇は、目の前の小さき者をひと飲みにするべく、唸りながら口を大きく開けた。しかし顎に衝撃を受け無理矢理それを閉ざされる。
遠吠えが聞こえた事に気が付き目を開けると、目の前には逆さまの祠が見えた。
鈍い音と共に意識が飛ぶほどの衝撃を受けた黒蛇は、無理矢理口を閉められ、その反動で大きく頭を後ろへ退け反らせていたのである。
黒蛇は考える事をやめた。
目の前の小さき者が、全てから解放してくれる事を期待して。
〜〜〜
大声を出したシルヴァは完全に吹っ切れていた。
足に力を溜め、黒蛇の顔目掛けてジャンプした。
のけぞり、頭から湖に向かって倒れる黒蛇の顔の側まで飛ぶと、空中で体を捻り、左の頬を殴り付けた。
硬質な音と共に、コールタールのように黒い液体がシルヴァに降り注いだ。
黒蛇は、目前まで迫っていた黒い水面に落ちる事なく、殴られた勢いで反対側の美しい湖へと落下した。
すると黒蛇は体中から煙を上げて、のたうち回り始めた。
『グワァァァァァァァァァァ!!』
体中に纏わりつく黒い呪いは、美しい湖により浄化されつつあった。
徐々に動きが鈍くなると、赤黒い目の光りも収まり始めた。
しかし運悪く、その場にはシルヴァがいた。
左の頬を殴った際、牙まで殴っており、その牙を貫通させて腕が挟まっていた。
直ぐに抜く事も可能な筈が、黒い呪いを全身に受けてしまい、美しい湖により浄化されるのと同時に、体の自由を奪われていた。そして、身動きの取れぬまま、黒蛇と共に湖へと引き摺り込まれてしまった。
呪いが降りかかったシルヴァも、その湖では例外なく浄化されていた。
「うわ〜〜〜!!」
体の自由は効かず、全身を激痛が走り抜ける。
シルヴァの意思と反して、湖の清らかな力に怒りを覚えた。
「グロロォォォォォォ!!」
呪いが解け、静かに湖の底に沈むリヴァイアサンとは対照的に、シルヴァは呪いを取り込み一気に放出した。
「ガァァァァァァァァ!!!」
それを受け、美しかった残り半分の湖までも、一瞬で黒く濁り、リヴァイアサンも再び黒蛇へと戻ってしまった。
それとは逆に、力を使い果たしたシルヴァは、獣化も狂化も強制的に解除され、腕を挟まれたまま黒蛇の横で力なく、黒い水中で漂っていた。
「シルヴァ〜〜〜!」
遠のく意識の中、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
目を開けると黒蛇の目が見えた。
しかしシルヴァの右目は何も見えなくなっていた。
狂化が解けても、シルヴァの右の白目は黒いままだった。
(力を使い過ぎた…)
シルヴァは知っていた。
赤の王は満月時にのみ、犠牲なしで力を貸してくれる。英霊の牙も満月に使用すれば、召喚が可能になる。それ以外だと、対価として血の犠牲を必要とする。
ただ一人、シルヴァを除いては。
シルヴァの狂化は血の犠牲は必要としない。
しかし、父ヴォルフには満月時以外、狂化を使うなと、きつく言われている。
何故か。
それは、己の命を削るからである。
満月の加護も無く、身に余る力を長時間使用し続ける事が、どれほど体に負担がかかるのか。
これは王の呪いだ。
生まれた頃からシルヴァには、王たちの呪いがかけられている。
それは裏の世界に来ると、より明白となる。
周囲のシルバーウルフたちは、銀髪が茶髪へと変化した。それと同時に力を失い、ステータスが半分以下にまで落ちてしまった。
しかし、シルヴァはそのままであった。
他の者たちが弱くなり、シルヴァだけが強いまま。
王たちに愛されているのだと、強いシルヴァはみんなに頼られる事が増えた。
勇気が無く自信が無かったシルヴァも、頼られる事で変わっていった。
強くなったと勘違いをして。
心の強さは変わらないのに。
(勇気を出したけど、僕はやっぱりダメだった)
目の前の黒蛇には手も足も出なかった。とシルヴァは思っている。後一歩だった事を、シルヴァは知らなかった。
その時、黒蛇が水面に向かい始めた。
(力が出ない)
シルヴァは黒蛇とともに水面から出た後も、呪いに引き寄せられ牙から抜け出せないでいた。
ジワジワと呪いが体を蝕み始めた。
「シルヴァ!?」
自分を呼ぶ声がした。
「シルヴァ!」
顔を上げると心配そうな表情で、シルヴァを見つめる女性がいた。それは以前、アバドンに呪われていた際、救ってくれた女性に似ていた。
「(逃げて)」
声が出なかった。そしてシルヴァは、気を失ってしまった。
〜〜〜
気が付くと、シルヴァは地面に寝ていた。
体を蝕む呪いも消えていた。ぼやける視界にフランが映った。しかしやはり、右目は見えなかった。赤の王の呪いは消えてはいなかった。右目を瞑り手を当てた。
「フラン?」
シルヴァは、右目を押さえたまま体を起こした。
「シルヴァ様。良かった気付かれましたね」
「蛇は!?」
「ヒメ様が退治なさいました」
フランの隣にゴスロリの女性が立っていた。
記憶の断片に現れる女性。彼女が聖女であるヒメだと直ぐに分かった。
「ヒメ様?あのっ、そのぉ。お初にお目にかかります!私共の村を救って頂き誠に…」
「良かった!」
ヒメはシルヴァに抱きついた。
「貴女は覚えてないだろうけど、会うのは二度目だよ!」
傷だらけのヒメを見て、何も出来なかった心の弱い自分への苛立ちを、彼女にぶつけてしまった。
「そうです!まだ二回しか会ってない!二回とも僕を救ってくれた!何も知らない僕を…そんな僕なんかのために、こんな危険な場所にまで来て!怪我までして!どうして!」
「私の命を救ってくれた大切な人たちの、大切な人だから。それに私がそうしたかったからね。そうだ!アルベルトさんが大怪我してるの!迎えに行かなきゃ!」
「私なら大丈夫です」
声のする方を振り向くと、アルベルトが階段から降りて来るのが見えた。肩には、アイマスクをつけたコウモリが乗っている。胸の傷も火傷の跡も綺麗に無くなっている。潰れていた目も回復していた。
「よかった!目も、元通りになったんですね!」
そして、この時シルヴァは気付いた。右目が見えている事に。
(どうして?王の呪いは?まさかヒメ様が抱きついた時に祓われた?)
シルヴァは目を瞑り心を鎮める。
すると、心の中に王たちの気配はあった。しかし今までとは違い、暖かく感じる。
「これで握手が出来るね!」
目を開けると、ヒメが傷の癒えた手を差し出していた。やはり右目が見えている。
自然と涙が流れた。
(ヒメ様ありがとうございます!)
シルヴァは片膝をついた。
「ヒメ様!僕はシルバーウルフ族の
〈シルヴァ・ガル・レボォーネ〉!
ヒメ様に忠誠を誓い、全てを捧げます!」
「ちょ、ちょっと全て捧げないで!」
シルヴァは誇らしかった。そして思った。
額に誓いの印を受けた相手がこの人で良かったと。