お客様の中に神様はいませんか?
「お客様の中に神様はいませんか?」
高度3万3千フィート。輝くような青い海の上を亜音速で飛行する旅客機の中、百余名の搭乗客に対し、そんなアナウンスがなされた。
「はあ? いきなり何だ?」
「神ってどういう事?」
「神様が必要な程の何かが起きてるって事じゃない? ははは」
「何をふざけた事をアナウンスしているんだ! 縁起でも無い!」
「何の冗談? それとも何かのサプライズかしら?」
「きっと結婚式よ。そのサプライズ演出よ」
冗談か本気か分からないそのアナウンスに対し、客室は一気にザワついた。すると一人の男性が音もなくスッと立ち上がり、客室前方へと静かに歩いていった。その様子を目にした客らは一瞬で静まり返り、「あれが神様ね」と、「というか神父様かしら?」と、「なら結婚式のサプライズで決まりだな」と小声で噂し始めた。
「私に何かご用ですか?」
使い古したという表現が似合う黒いスーツに黒のループタイ。これまた使い古した黒い靴に黒い帽子。青白い肌とヨレヨレの白っぽいシャツ以外は全て黒という装いの初老の男性は、少し頬がこけた顔に優しい笑みを浮かべ、語りかけるようにして言った。
「……」
ブロンド髪した制服姿の若い女性は一切反応する事無く、半ば放心状態のまま床にへたり込むようにして座り込んでいた。
「私に何かご用ですか?」
男性は少し強めに言った。すると女性はハッと気付いて顔をあげ、おもむろに男性の顔へと目を向けた。
「えっと…………」
「神をお探しと聞いたのですが」
「神?…………あ、ああ! そうです! で、では、あなた様は神様ですか!?」
「はい、私は神です」
男性の黒衣には埃か手垢か判別出来ない薄い汚れが散見出来、肩まで伸びた髪は妙な艶を放ち不規則に波打っていた。その風体は清潔感を感じさせるものでは無かったが、却ってそれらの要素は男性を神らしく見せていた。
「ああ、私達は何と幸運なのでしょう」
女性は瞬時にして満面の笑顔を見せた。そして男性に向かって祈る様にして手を組み跪き、崇めるような眼差しで以って男性を見つめた。
「それで何があったのですか?」
「はい、実は原因不明の故障が多発し、もうどうする事も出来ないと、先ほど機長から話がありました……」
女性の顔からは笑みが消え、目には涙が溢れ始めた。
「何とそれは大変だ。で、具体的にはどのような?」
「実は……」
「さあ、何があったのか仰って下さい」
「実はトイレが壊れたんです」
女性は訴えるようにして言った。
「?」
「トイレが壊れたのです」
「……」
「どうかしましたか?」
「あ、いや、失礼…………えっと、トイレが壊れた? という事ですか?」
「はい、トイレが壊れました」
男性は困惑し眉をひそめた。
「あの……トイレが壊れた……という事ですか?」
「はい、トイレが壊れました」
「……」
「何か?」
「いえ、それほど深刻な話でもないような。てっきり私は墜落でもするのかと」
「いいえ神様、その認識は間違っています」
「というと?」
「恐らくは後10分程もしないうちに、機内には地獄絵図が描かれる事になるでしょう」
「これはまた大袈裟な。ははは」
「笑いごとではありません!」
「おっと、これは失礼。で、具体的にどうなるというのですか?」
「もうすぐウンコが溢れだします」
「……?」
「もうすぐウンコが溢れだします」
女性はあたかも「もうすぐこの世の終わりが来る」と、そんな言い方をした。
「えっと……それはトイレが使えなくなるという事ですか?」
「いいえ、違います」
「う~ん、よく分からないのですが」
「トイレが使えなくなるのではなく、細かく砕かれたウンコが客室内を縦横無尽に舞うというような、そんな事態がもうすぐ起こるのです」
「なんと! それは大変だ! では今直ぐにでも近くの空港に緊急着陸を」
「着陸しようにもこの飛行機が着陸できる最寄りの空港までは最低でも3時間はかかります」
「なるほど、万事休すといった所ですね……」
「ええ、ですので藁にもすがる思いで神様が乗っておられぬかと聞いてみた次第です」
「なるほど、そうでしたか」
「そして幸運な事に、この飛行機には神様が乗っておられました。ああ、私達は何と幸運なのでしょう」
女性は輝かせた目で以って、まるで意中の男性を見るかのような情熱的な眼で以って、目の前に立つ初老の男性を見つめた。
「では神様、どうかこの飛行機をお助け下さい! どうかご慈悲を!」
「とりあえず立ちなさい。跪く必要はありません」
「いえそんな」
「原因は分かっています」
「おお! 流石は神様! ではどうすれば助かるかも分かるのですか? ぜひに教えてください!」
「いいえ、それは分かりません」
「ああそんな……。では原因は何なのですか?」
「私です」
「?」
「私は貧乏神。きっと私が搭乗しているからこそ、そのような故障に見舞われたのでしょう」
「……」
「そしてあなたが欲っしたのは西洋の神だったのですね。どうやら私はお呼びではないようだ。ではこれにて失礼」
◇
「あら? 神父様が戻ってきたわよ」
「じゃあきっともうすぐね、楽しみだわ」
事情を知らない乗客らは、いつサプライズが行われるのかと待ちわびていた。すると何処からかゴゴゴと唸る様にして、低い地響きのような音が鳴り始めた。
「あら? 何の音かしら?」
「きっとサプライズ開始の合図じゃない?」
乗客らが拍手の準備を始めたその瞬間、「ドンッ!」という鈍い音が機内全体に響き渡った。すると客室内には雨粒状の何かが縦横無尽に舞い始めた。
「……?」
「ヒ、ヒッ、ヒーッ!―――――――」
「ギ……ギャ――――――――――――ァァァァァ!」
「縺�s縺薙′螳吶r闊槭>蜿」縺ョ荳ュ縺ォ蜈・縺」縺溘◇―――!」
客室内には瞬時にして、阿鼻叫喚の地獄絵図が描かれた。勿論その絵図の主な色は焦げ茶色。壁も窓も天井も床もシートも服も頭も顔も手も足も、あらゆる全てが焦げ茶色。それも匂い付きという手の込んだ絵であり、それは乗客らの予想とは大きく異なりはしたものの正しくサプライズであった。
誰が望んだ訳でも無いサプライズ。逃げ場の無いそのサプライズ。乗客がその天空の檻から解放されるのは、凡そ3時間後の事である。
◇
容赦なく照りつける太陽は、滑走路に陽炎を立たせていた。鳥肌が立つ程に冷房が効いた空港のロビーでは、沢山の荷物を抱えた大勢の人達が帰りの飛行機を待っていた。その大勢の人の中、寝癖の残るブロンドの髪した男の子は滑走路に面した窓ガラスに張り付くようにして、たった今着陸した飛行機を食い入るようにして見ていた。
「ねぇママ見て見て、飛行機」
「ほんとねぇ、かっこいいねぇ」
滑走路の端まで使って充分に減速し終えた飛行機は、男の子がいるターミナルへと向かってタキシングしてゆく。
「すごいおっきい」
「ほんとねぇ、大きいねぇ」
ターミナルの間近までやって来た飛行機は、前輪を沈める様にして重々しく停止した。それを見計らったかのようにして、付近で待機していた1台の大きな車両が飛行機の側面へと向かって走って行く。
「大きい階段が動いてる」
「あれはタラップ車って言うのよ」
飛行機の真横へと位置したタラップ車は、その背中に担いだタラップを飛行機側面の扉へとギリギリまで寄せてゆく。
「階段が飛行機にくっついた」
「ほんとだね」
傍目には機体に当たっている程寄せられたそのタラップを、作業着を着た一人の男性が駆け上がっていった。
「誰か階段をのぼってる」
「あの人が飛行機の扉を開けてくれるのよ」
扉の前に立った地上作業員は重々しく扉を開けた。
「ドアが開いたぁ」
「開いたねぇ」
全開まで扉を開け放った作業員は、まるでその場から逃げるようにしてタラップを駆け降りて行った。
「ママ見てっ!」
「どうしたの?」
「飛行機から神様達が降りて来たよ!」
「神様?」
男の子は指差しながらに言った。その指差す先にはタラップの一段一段を踏みしめるようにしてゾロゾロと降りてくる乗客らの姿があった。
「あらやだ、ほんと神様みたいねぇ」
親子2人が見つめる黒と茶色の地味な色した集団は、皆が達観したかのような悟ったかのような柔らかで穏やかな表情を見せ、また誰ひとりとして口を開かず黙って歩いていた事もあってか、それはまるで仏と呼ぶに相応しい雰囲気を醸し出していた。
「うぉ! 何だあの連中は!」
「神だよ神!」
「おお! 神々が降臨したぞ!」
「何と神々しい姿だ!」
「見開いた目がこの世の全てを見通しているようだ!」
「ほんの少し上がった口角がこの世の全てを慈しんでいるようだ!」
そんな乗客らの姿を目にしたのは親子2人だけでは無く、空港ロビーにいた他の人達の目にも自然と入る事となり、その人達も親子同様に彼らをそう評した。一見すると神々しく見える集団は異様で特異な集団でもあったが、皆がそう評する程に彼らの容姿と醸し出す雰囲気は神々しかった。
そんな風に評されてるとは梅雨ほどにも思っていない乗客らが真っ先に向かった場所。それは空港内に急遽設置されたシャワールーム。神々と呼ばれた乗客達はそこでソレを洗い流し匂いを洗い流し、止まる事を知らぬ涙を流し続けたという。
いや、その中で1人だけ笑っていた者がいた。それはたまたま乗り合わせた本物の神。その神にとってもその日起きた事は非常に稀有な事例ではあったが、その神の特性上、周囲で負の出来事が起こるは日常的な事。故に何ら嘆く事も悲しむ事も無く、むしろ思いがけず髪も体も服も何もかもが無料で洗えるその事を喜んでいた。そう、今日のその出来事は殆どの人にとっては望まぬサプライズであったが、その者にとっては嬉しいサプライズとなった。
乗客達は知らない。自分達の中に本物の神が居た事を。そしてその神がその日の出来事の元凶である事を知らない。知っているのは客室乗務員の女性ただ一人。だがその女性は余りのショックでその日の全てを忘却の彼方へと追いやってしまった。故にその日その場に本物の神が居た事を知る者は誰一人としておらず、結局その日の事は原因不明の整備不良とされ、真相は闇の中となった。それはまさに"神のみぞ知る"と、そういった所だろうか。
2021年08月22日 初版