折れ木
「なんですか、あれ!?」
そう慄いたのはセレンだ。
空に浮かぶ禍々しいまでの神聖。黒く炎ようにゆらめく不定形な体。見るだけで狂気に落ちてしまいそうな感覚。空へと昇っていく雨のような赤黒い霊力。紅く染まり切った真紅の空。血よりも紅く鈍い紅き月が地上を照らす。
「レンヴェルク……」
リアナが小さく呟く。
その言葉にセレンはギョッと目を向く。
「レンヴェルク!?封印されてた神話時代の邪神!?復活しちゃったんですか!え、嘘ですよね、エンリさん?」
どこかすがるような視線をエンリに向ける。
それに対してエンリはどこか落ち着いた様子で、笑顔を浮かべながら言う。
「もちろん……」
「もちろん?」
「本当だ」
その言葉にセレンは呻くような情けない声を上げ、肩をおとす。信じたくはないようだが、頭では理解してしまっているらしい。その証拠に、セレンは自然と腰に携えていた剣を抜き、構えている。
「勝てる見込みはあるの?」
気を落としているセレンをよそに、リアナが聞いてくる。
それに罰の悪い様子で気まずそうな笑顔を浮かべながら、エンリが言う。
「ゼロじゃない」
「でも、限りなくゼロに近い、と……」
「まあ、そうだな」
その会話に割り込むような形で、地上近くにまで、降りてきたレンヴェルクが口を開く。
「楽しそうな話をしてるな?」
レンヴェルクという神が発したことに込められた霊力が大気に響き、3人の体を締め上げるような感覚を味合わせる。
リアナは軽い目眩と自分の呼吸が早く浅くなっているのを感じる。心臓もまるでビートを打つように早く強い。感じることのできない強大な力が自分を蝕んでいるのを感じた。
隣で何かが崩れる音がした。視線を向けるとそこには膝から崩れ落ち、まるで全身の血管が裂けたように血が滲み溢れ、血涙を流し、耐えるようにして心臓の位置の服を握り込むセレンの姿があった。
「大丈夫!?」
「だい、じょうぶ……!」
リアナは咄嗟にセレンに駆け寄り手を伸ばす。しかしセレンは気を使わせまいと差し伸べた手を取ることなく抜いた剣を杖代わりに立ち上がる。
しかしセレンの状態はどう見ても大丈夫ではない。
咄嗟にリリアの顔を見た。そこに優しい表情で穏やかに寝息を立てる聖女のような女性がいまだに眠っているだけ。セレンのようになっている様子はない。それに多少の安心感を覚える。
次の瞬間、リアナたちを春風のような暖かな魔力が渦を巻くようにして、体を吹き抜けた。するとまるで濁った水が濾過されるように、先ほどまでの動悸や目眩、早くなっていた呼吸までもが落ち着きを取り戻し、先ほどまで、死にかけの魚よりも青い顔をしていたセレンまでもが、その調子を戻している。
「面白いな、人の魔力に干渉できるのか……」
その声はレンヴェルクのものだった。視線の先にいるのはリアナとセレンよりも一歩前にいるエンリ。その口調は嘲笑するでも、馬鹿にするでもなく、彼を心の底から感心しているようだ。
「さてどうかな?」
エンリは適当にはぐらかす。
セレンとリアナはレンヴェルクの言葉の本当の意味を理解できなかったが、エンリが何かをして助けてくれたことは理解できた。
セレンが口の中に溜まった血を吐き出しながら、背を二人に向けたままのエンリに話しかける。
「ありがとうございます、エンリさん」
エンリはそれに特に答えることはなく前を見ている。
視線の先にいるのはやはりレンヴェルクだ。
「人は時に愚かで、時に聡明だ。言っている意味がわかるか、エンリ……?」
「人は時に愚かで、時に聡明だ?馬鹿馬鹿しい。人は等しく愚かで、等しく聡明だ。どちらも同じ人間だよ、レンヴェルク。結局はただの選択だ。選択が結果的に人を愚かにも聡明にもする。そして俺が、やっていることは間違いなく聡明な行いだ。この意味がわかる、レンヴェルク?」
その返答にレンヴェルクは頬を釣り上げた。
不定形な右腕がエンリに向けられる。瞬間撃たれる黒い炎を金色の炎で撃ち落とす。
地面を蹴る。
『空絶』
重なった空間が内側へ進むように吐き出される。余白空間が純粋な威力となってレンヴェルクの体を打つ。
しかしすぐさま、再生し、半月状の黒い炎の刃を放つ。それは周りの物を黒い炎へと変えながら、迫り来る。
エンリは舌を打ち、世界に線を引く。そこから溢れ出す魔力の奔流が半月状の黒い炎の刃を掻き乱し、打ち消す。
レンヴェルクが地面を叩きつけた。地面が隆起し、火の粉が飛ぶようにして当たりに黒い炎のアーチができる。そしてそのアーチは次第に黒い炎の渦となり、エンリとセレン、リアナとリリアを飲み込んだ。
黒い炎のアーチがリアナの背中から燃え上がった。咄嗟にリアナは抱えていたリリアを守ように覆い被さる。しかし黒い炎がリアナたちを焼くことはない。寸前にセレンが黒い炎のアーチを受け止めたのだ。
エンリもまたリアナたちに降り注ぐ黒い炎の攻撃を防ぐ。しかし、攻撃は止まず、その数も威力も増すばかり、そして、その動きは明らかにエンリやセレンを狙う物ではなく。リアナたちを、いや、リリアを狙うものであった。
不意に声が聞こえた。
「セレン、後ろ!」
リアナが叫ぶ。セレンの背後に亀裂が走った。それは空間を砕くほどの威力を持った強大な力の黒い炎のは圧縮攻撃。音も光もなくただただ全てのエネルギーを攻撃力として使っている。
近づいてくる攻撃にセレンは避けれないと判断。攻撃を受け流そうと剣を構えた。
構えた剣の刀身がゆらめいた。そしてそれは黒い炎となってセレンの腕を焼く。それは激しい痛みとえも言われぬ不快感がセレンを襲う。脳内を直接侵されるような知らない記憶が流れ込み、絶え間ない苦しみと後悔、不安、恐怖の感情が増幅されていく。
セレンが叫ぶ。声にもならない声で。
しかし、その瞳から闘志が失われることはない。黒い炎となった剣の代わりに座標魔術で新たな剣を呼び寄せ、黒い炎で焼かれた腕で握る。
冷や汗をかき、苦痛と濁流のような感情を押し殺しながら、迫ってくる黒い炎の攻撃からリアナとリリアを守ろうとする。
黒い炎の圧縮攻撃がとセレンの握る剣が激突する。座標魔術でできる限り、攻撃と威力殺し、焼かれた腕で攻撃を凌ぎ切る。
そして攻撃を凌ぎ切ると同時に、セレンは見てしまう。圧縮攻撃の後ろで黒い渦が晴れ、レンヴェルクが不気味にこちらをのぞいていることを。
そして黒い炎の圧縮攻撃が寸前にまで迫った時にセレンは理解する。この攻撃を凌ぐことはできないと。
ゆっくりと周りに攻撃の衝撃波が波紋となって広がり、空気中の塵や埃、地面にあったものをまるでスロー再生にしているかのようにゆっくりと、破壊していく。それが何かを理解できたのは彼女が極めて優秀な魔術師で軍人であったからだろう。
それはこの圧縮攻撃を凌いだとしても衝撃波はゆっくりと周りのものを破壊するだろう。
レンヴェルクはその表情のない顔で笑って見せた。
そしてまた、エンリも不敵に微笑んだ。
走り出すエンリ。リリアとセレンの首元を掴み、リアナへ投げ渡す。
理解できないままリアナは投げ渡された二人をキャッチし、衝撃波の方へ走るエンリを見送る。
「エンリさん!?」
そう叫んだのはセレンだった。
衝撃波がエンリの腕に触れた瞬間、表面が破壊されていくのが見えた。だが、エンリは直進をやめない。レンヴェルクへの最短距離を進み続ける。
レンヴェルクが黒い炎をエンリに差し向ける。エンリはその攻撃を避けることはしない。ただ一心に前に進むだけだ。そして二人の距離が三歩ほどに迫った時、レンヴェルクは何か策を弄していると判断、一点集中の十字の黒い炎がエンリの眼前へと迫った。
だが、その攻撃がエンリの顔を焼くことはない。眼前に迫った十字の黒い炎はトランクケースに阻まれた。
その事実がレンヴェルクを一瞬混乱させる。
まさか、トランクケース如きに攻撃を凌がれるとは思わなかったのだろう。
だが、その隙がエンリが望んでいた。エンリが待ち侘びていた一瞬の隙。
エンリは魔法で生成した五本の光の短剣をレンヴェルクを囲むように地面に突き刺す。それは、先ほどまで周りを破壊していた衝撃波を排し、黒い炎の勢いを弱めた。
地面に広がる魔法陣。いや魔法陣ではない。本来、陣を持たない結界術が練り込まれた神秘的幾何学形。そして本来、言葉を持たない境界術の文言が刻まれている。
エンリが目の前のトランクケースを押し出した。
押し出したトランクケースはその鍵が解かれ、徐々に開きながら、レンヴェルクの顔面を砕き割り、内側をレンヴェルクへと向け、後ろへと回る。
そして、エンリは自らの懐から朱色の紐が結ばれた黒い木の枝を取り出す。
それを見て、最初にことを理解し叫んだのはセレンだ。
「あああぁぁあぁああ!!!!」
まるで国宝に匹敵する神話の時代の遺物を目の前にしたときのような驚きようにリアナはビクッと肩を揺らす。
「あ、あ、あれ!城に展示されてた『コンサンニュの折れ木』じゃないですか!?」
コンサンニュの折れ木といえば、以前、エンリやアリスたちとシルバルサ城へ遊びに行ったときパンフレットで見た記憶があるな、とリアナは逡巡する。そして、ことの重大さを理解して、目を大きく見開いた。
「あの男、人と盗むかどうか聞いといて、自分が盗んだの!?」
そんな叫びと共に、エンリはコンサンニュの折れ木を頭を砕き、黒い炎の勢いを弱め再生力を落としたレンヴェルクへと深々と突き刺した。
そして、それと同時にコンサンニュの折れ木に火をつけ、右足で地面に弧を描き、魔力を流し込んだ。
『なるほど、面白いことを考える……」
頭部の生成を終えたレンヴェルクがそう呟く。
黒い炎の腕が刃の形をとった。それをエンリの腹部へと突き出す。エンリはそれは素手で掴みとり、その腕に何個かの文言を刻む。
手のひらが焼けていく音と匂いが鼻につく。壮絶なまでの痛みと不快感が襲う。
だが、所詮はその程度だ。
コンサンニュの折れ木が燃え尽きた。
同時に、先ほどまで一帯を支配していた爆発的で絶対的な霊力の圧迫感が消えた。
エンリが魔力をぶつけて掴み取った黒い炎の腕の刃を握りつぶし、胸部を水の槍で突き刺し、内部から水蒸気爆発をさせる。
レンヴェルクの上半身を吹き飛ばし、追撃をかけようとするも、吹き飛ばなかった下半身から触手のような無数の黒い炎が空間を薙ぐように無差別に辺りを蹂躙する。
それを重力魔法で押し潰した。
そして生命活動が維持できないほどの重力下でレンヴェルクは何事もなかったように、その体を再生させ、
「私の力を制限したか……それだけの実力がありながら実に実直な戦い方をする奴だ」
そう、エンリを褒めた。
「こうでもしなきゃ、戦いにならないだろ」
これでやっと対等だ。いや、対等ではない。未だ劣勢、あくまで勝てる見込みが生まれただけだ。そう、ここまでして、やっと戦う準備ができたのだ。ようやくその差が爪先が掠める距離にまで近づいたのだ。
「今までは、あくまで私の力を制限するための気を疑っていたわけだ。だが、あくまで制限したのは世界を塗り替え、侵食する神の権能のみ。際して、幾分か力を削がれるが、それもまた微々たるものだな」
レンヴェルクが静かに語る。
「さて、ここからが本番か?」
「ここからが本番だ」
エンリはそう答えた。
今、俺は最悪の中の最善手を行っている。行っていると信じたい。
リアナが眠っているリリアを抱き抱えた。
そしてセレンがエンリの隣に並び立つ。
「これからどうするつもりですか?」
「レンヴェルクをもう一度封印する」
「できるんですか?」
「少なからず、知識と技術はある。ないのは経験と準備だけだ」
「成功率は?」
「どうだろうな?神様にでも聞いてみてくれ」
セレンの言葉に曖昧に答えるエンリ。
後ろからリリアが口を開く。
「封印の成功失敗は置いておくとして、封印自体が機能しない可能性はないの?さっきも、リリアさん?がレンヴェルクを倒した後に、復活したでしょ」
「機能しない可能性もあるが、少なからず、神話の時代から今日まで封印は機能していた。その事実に賭けるしかない」
そう賭けるしかないのだ。
ここから先は全てが無駄になるかもしれない。一世一代の大博打である。
「リアナ、リリアをとりあえず安全な場所まで連れてってくれ」
「わかったわ」
「セレンは、悪いが地獄に付き合ってもらうぞ」
「了解」
セレンが焦げた自分の腕にどこから取り出したか、包帯を巻きながらそう答えた。
「できる限り、レンヴェルクの力を削ぐ。魔術を当てる、使わせるでも体を再生させるでもなんでもいい」
「なるほど、ダメージを与えればいいわけですね」
「そう言うことだ」
「やることは単純ですね」
「できるか?」
「最近は失敗続きですからね、ここで巻き返してみます!あと、コンサンニュの折れ木の件はあとでたっぷり聞かせてもらいますからね!」
そうセレンが地面を蹴った。
どうやら聖遺物を盗ん……拝借した件、有耶無耶にできるかと思ったら、そうもいかないらしい。
「私もリリアを安全な場所へ置いたら、戻ってくるわ」
「ああ、リリアを頼む」
「任せなさい」
そう言ってリアナはリリアを抱えて、走り出す。その背後を追う黒い炎の帯を叩き落とし、エンリは青い光の炎で燃やしてみせた。リリアの背中が見えなくなるのを見送って、少し離れた場所へ落ちているトランクケースを拾い上げ、一歩また一歩と歩き始めた。
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