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親娘

 風が人影を隠していた埃を払った。

 現れるは黒髪の少年。細身でありながら意外と筋肉質。手にはトランクケース。その目には極彩色の光は宿っている。


 「来た……!」


 ハージ・ジェルクがそう呟いた。

 その言葉にアリスもまたその少年に気付きその名前を呼ぶ。


 「エンリ、お兄ちゃん……」


 エンリは悠然とまるで重力に逆らうようにして少しずつ、地面へと近づき、静かにホコリの一つも立てずに地面に着地した。

 そして周りを一通り見渡した後、アリス……いや、アンクレイ博士の元へと歩み寄っていく。

 彼女の近くに腰を下ろし、言った。


 「お久しぶりです、アンクレイ博士」

 「……アリスが君の名前を、呼んだ時、まさか、とは思って、いたけど。まさか本当に君に、会えるとは思って、なかった」


 二人の会話に驚いたのはアリスだけではなく、ハージ・ジェルクもまた目を丸くした。

 予想外の交友関係。二人の間に面識があるのは今初めて、二人は知った。


 「俺ももう一度あなたに会えるとは思っていなかった」

 「私も……最後に会ったのは」

 「俺が家を追放される前、あなたのお腹にまだ子供がいた頃だ」

 「そう……随分と成長したわね。あの時はまだこんなに小さかった」


 そう言ってアンクレイ博士は手で当時のエンリの身長を表現する。

 その光景は単なる知り合いというよりも姉弟のような師弟のようなそんな感覚さえ覚える。


 「あなたは随分と歳を取った」

 「まあ、色々あったからね」

 「そう見たいですね……その傷、どうしますか?」


 エンリはアンクレイ博士の失われた下半身を見ながらそう言う。傷の治療、再生の有無を本人に聞いているのだ。そしてそれは暗に治療しないという選択肢も同時に提示していた。


 「そうだな……治療は、しなくていいよ」

 「それはつまり……」

 「ああ、そういうこと。私はここまで」

 「いや!なんで!?どうして!?」


 そう叫んだのはアンクレイ博士の傍で涙を浮かべているアリスであった。


 「エンリお兄ちゃん、お母さんを助けてよ!前、みんなを助けてくれたみたいに!お兄ちゃんならできるでしょ!?」


 その言葉にエンリは無言で答えた。

 確かにエンリが手を貸せば三十分は延命できるだろう。その間に地上に戻ることができたのなら、彼女を救える可能性は十分にある。だが、それはできない。できないのだ。

 エンリはすでに気づいてしまっている。その博識さゆえに、その思慮深さゆえに、もしここでアンクレイ博士を救えばその結果がどうなってしまうかということを。

 アリスもまたその聡明な頭脳で理解できていた。だが心が理解を拒んでいたのだ。

 アンクレイ博士が泣き縋り付くアリスを支えるように手を背中に差し伸べ、エンリの方を向いて話しかける。


 「エンリ、一つ頼み事をしてもいいかな?」

 「なんですか?」

 「アリスを……頼んでも、いいかな?」

 「……あなたが望むなら」

 「ありがとう」


 小さく風が吹き抜ける。

 一瞬の静寂の後、エンリがその重苦しい空気を払うようにして口を開く。


 「一つ、あなたに聞いておきたい」

 「何?」

 「今、俺があなたに頼まれたのはここにいるホムンクルスのアリスですか?それとも、あなたの()()()()()()……アリス・ジェニパーのことですか?」

 「……そうか、君は気づいたんだね」

 「え……?」


 アリスが小さく声を漏らす。

 二人の会話の内容がよくわからない。

 しかし二人はその声に気付きながらも答えることはない。


 「もちろん、ここにいるアリスのこと」


 アンクレイ博士はアリスの頬をそっと撫でる。


 「そうですか……アンクレイ博士、あなたのやったことを責めるつもりもその資格も俺にはない。だけど、その事実だけは、アリスにしっかり伝えるべきだ。俺ではなく、あなたの口で直接」

 「……ええ、そうね」


 その言葉を聞くとエンリはアリスの頭を撫でて立ち上がる。

 そして一言つぶやく。


 「悪いな、アリス。博士を助けられなく。あとで迎えに来る」


 その言葉はいつになく真剣で、その時見えた彼の背中は今までにないほど怒っているように見えた。それは元凶であるハージ・ジェルクはそれとも救えぬ自分自身か。

 少なからず、エンリを責める気にはなれなかった。

 エンリはトランクケースを持ち、二人に背を向けた。そして立ち去る前に、アンクレイ博士に向かって言う。


 「アンクレイ博士、あなたから貰った本、今も読んでいますよ」


 その言葉にアンクレイ博士は少し驚いた表情を見せ、そして優しくはにかんだ。


 「そう……なら、これからも励めよ、異端の天才」


 エンリは小さく手を上げるだけで返事をすることはなかった。

 そして遠くの方の瓦礫の上で腰をかけことの顛末を見守っていたハージ・ジェルクの元へと近づく。

 二人は視線を合わせ、数秒間何も言わない無言の時間が挟まる。一体、何を考えているのか、それは当人たちにしかわからないが、ただ一つの事実として、その静寂を切り裂いたのはハージ・ジェルクの方であったということだ。


 「もうお話はいいのかい?」

 「ああ、十分だ。それよりパーティ会場は?」

 「どこでも。君が望むならここが会場だ」

 「そうか。なら静かな場所がいいな。二人の邪魔をしないで済むような」

 「それならちょうどいいところがある。ついてきて」


 そう言ってエンリとハージ・ジェルクは扉の方へと向かう。

 そしてハージ・ジェルクがその扉に手をかけた時、アンクレイ博士に向かって、


 「それではアンクレイ博士、良き旅を」

 「地獄の一等地を用意しといてあげる」

 「ははは、僕が一等地に住めるならあなたは城に住める」


 そんな笑い声が部屋の中に響いて、扉が重厚な音をたてて閉まった。

 二人の影はなくなり、遠ざかっていく足音だけで静か部屋に鳴り響いていた。


 「何から話そうか……」


 しばしの思考と静寂。何も言わないままのアンクレイ博士を見ているのはこのまま眠ってしまいそうで気が気ではない。


 「話したいことや話さなきゃいけないことはいっぱいあったはずなのにいざとなると、何を話したらいいのか」

 「なんでもいいよ、話したいこと話して」

 「そうね……なら、あなたの姉のことを話しましょう。私の犯した罪を」

 「私のお姉ちゃん……」

 「ええ、あなたの姉、彼が話していた私の亡くなった娘、アリス・ジェニパーのことよ」


 そこまで言ってアンクレイ博士は言い淀む。

 一つ息を呑み、詰まった言葉を吐き出すように自ら犯したその罪を告白し始めた。


 「アリス、私はこの『賢者の天秤』で死者の蘇生を研究してたの。事故で亡くした夫と娘を蘇生するために」

 「うん」

 「亡くなった二人に似せて体を作るだけなら、すぐにできたわ。自分でも驚くぐらい完璧に。もともと事故で亡くなった二人の体を修復したんだから当たり前だけど。だけど腕とか原型がない部分も完璧に直せた日には自分が天才かと見紛ったよ。ことはあまりにも順調すぎて私なら、死者の蘇生もすぐにできると思ってた。だけどダメだった。何度やっても何度やっても失敗。出来上がるのは失敗の末できた人の形をした肉の山。紛い物は作れても錬金陣によって呼応するだけの人形。一人芝居のような、まるで腹話術で遊んでいる気分だった。どんなに頑張っても二人の魂だけは錬成できなかった。今となっては当たり前よね。だって錬金術はそんなに万能なものじゃないもの。存在しないものは錬成できない。作れたとしてもまるで欠片のような存在だけ、到底、死者の蘇生に使えるようなものではなかったわ」


 死者の蘇生、それは今や失われた秘術。神話の時代にあったとされる奇跡。その奇跡が起こったとされる伝説もごく僅かであり、一時的なものを合わせても全てで5個しか現在でも伝わっているものはない。

 文献として残っているものはその中でもさらに一部で、完全に残されているものが一つ。欠損状態で残されているのが一つだけだ。

 絶大な力を持っていたとされる神や天使、悪魔に神獣、かつて存在していた様々な種族であっても死者の蘇生はその五例だけ、神秘時代とも言われる神話の時代において文献にて奇跡と記載されているのはこの死者の蘇生のみであり、他のものは存在していない。

 そんな代物を現代において再現できるはずもない。神ですら再現性のない現象だ。

 それこそ奇跡でも起きない限り、死者の蘇生など不可能だろう。


 「私は一からの死者の蘇生は不可能だとだけど結論づけたわ。少なかわず私の頭と技術では到底成し得ないものだと。これ以上は単なる時間の浪費になることも理解できた。だから私は一つの可能性にかけたの。娘のアリスは事故の時、まだ息があったの。もちろん瀕死の重傷、処置してもすぐに死んでしまうような状態。だから当時の私は気を失う前に、娘の魂を錬金術で近くにあった小瓶の中の仮想元素”インシデント”の結晶として錬成、その魂だけは失われないようにしたの。魂さえ残っていればもう一度会える可能性はゼロじゃなかったから」


 それは当時のアンクレイ博士ができる最低限の保険であったのだろう。

 でなければ、自らの娘の魂を他のものに移すなどという行為しないはずだ。だってそれは、自らの手で娘を殺す行為とそう大差はない。あまりにも残酷で、非人道的で、倫理に反している。


 「しばらくの間は下調べと基礎研究に徹した。この方法を試せるのは時間的にも技術的にも一度きりだとわかってたから。実験に実験を重ねて、ありとあらゆる可能性と状況を考慮し、仮想元素”インシデント”として結晶化した魂を再び解凍した。修復した体への定着を試みたの。本来ならこれで魂が体に定着するはずだった。もともと魂があった場所に、戻るだけなんだから拒絶反応は起きないとそう思っていたんだ。だけど、結果は違った。実際問題、仮説通りと言っていいのか拒絶反応は起きなかったんだ。だけど代わりに魂と肉体の乖離が起きた。魂を物質、仮想元素”インシデント”として錬金術で錬成してしまったがために、性質の変化が起こったんだ。多分あれは、私が慎重になりすぎて、時間をかけすぎたが故に、空間内の魔力が徐々に徐々に、アリスの魂である”インシデント”の結晶に取り込まれてしまったんだと思う。まあ、私は錬金術師で、エンリのように魔力に詳しいわけでもないから、実のところ、それが答えなのかどうかはわからないんだけどね」


 そう言ったアンクレイ博士の顔は悲しい顔を見せないように、どこか無理に作った笑顔を貼り付けているかのようであった。


 「ただ事実として、私は娘の蘇生に失敗した。ただそれだけ。その事実を受け止められていれば、こんな事実をあなたに伝えなくて済んだのにね……」


 アンクレイ博士は、小さく痛みにうめき、浅い呼吸をした後息を整え、弱々しい声でその真実を語る。


 「アリス、あなたの魂は私の娘のアリス・ジェニパーのものなの」

 「え……ま、え?私の魂は錬金術で錬成されたものじゃ……!」


 そう、アリスはアンクレイ博士から自分の魂は錬金術で生成されたものだと聞かされていた。だが、もしその魂が、他の人間のものだとしたのなら、全ての前提が覆る。

 魂とは流動的なものだ。その定義は魔法、魔術、錬金術、死霊術、魂魄法などで異なってくる。魔法であれば魔力を纏った四次元的存在だと認識されているし、魔術であれば、純粋なエネルギーの塊として認識され、そして錬金術であれば、存在しないもの、空想の産物、この世に存在できないものなどとされ、その技術形態や学術的文言の中に魂の文字は含まれない。

 この世に魂はあまりにも不確定的で不確かなもので不定形なものなのだ。そしてそれは魂自身にも当てはまり、存在していると思えば存在し、存在していないと思えば存在していない。そんな出鱈目なものであり、出鱈目なものだからこそ、魂の定義が流動的でもまかり通っている。


 「待って!魂には一人だけの情報しか残せないはず。もし私と亡くなったお母さんの娘さん、二人分の情報が入ったなら、それはもう魂じゃなく別の何、か。……え……まさか……嘘、だよね?」

 「そっか……あなたは『ルーゼルバッハの石』を持っているんだったね」


 『ルーゼルバッハの石』世界に五つしかないη級の賢者の石であり、不滅にして不変、その能力はありとあらゆる錬金術の内包。それにはもちろん錬金術に関する知識もまた全てが内包されていることを意味する。

 それはいまだに解明されていない謎だろうと人智では知り得ない知識だろうとも例外ではない。今この世界において、錬金術に関する知識でアリスの右に出る者は存在しないだろう。

 ゆえにその事実にも気づいてしまう。それは幸か不幸か。


 「アリス、あなたの魂は私の娘の魂を初期化することによって作られたものなの」


 その事実はあまりにも残酷であまりにも突拍子もなく感じた。


 そもそも魂に関する実験は基本的にタブーとされている。これは魔法、魔術、錬金術、他如何なる学問においても同じである。

 その理由は至極単純、『怖いから』これに限る。


 かつて一人の研究者が自らの魂を他の人間の魂と融合させる実験を行った。元々マッドサイエンティストだと有名であったその男の奇行を周りは止めることもせずに、その様子を見るだけにとどめていた。当時は魂の研究が盛んであったがために、他の研究者たちの男のやる実験に興味があったのだ。そのため実験が行われた当日、研究室には多くの人間が集まっていた。そしてそんな中、実験が行われる。その結果は、失敗。研究室にいた15人中9人の魂を取り込み、その一部は負荷に耐えきれず欠如。失った魂への渇望が理性と思考能力、人間性を徐々に奪い、最後には魂蒐集家と呼ばれる怪物へとなった。


 そんな中行われた今回の魂の初期化。それはつまり人為的、人格または人間情報の削除。アリス・ジェニパーという情報が消され、魂という器の中にホムンクルス<アリス>としての情報が挿入されたのだ。ポジティブに考えれば、それはホムンクルス<アリス>の誕生に必要な絶対的プロセスであり、ネガティブに考えれば一人の人間、一つの魂の理、法則、流れを完全に断ち切り、独立させ、消滅させた。

 全てを歪めた。全てをだ。地雷原の中心で割れたガラスの引き、両手に煮えたぎった鋼鉄を持ちながら、ダンスを踊るどころかサーカスを開いているような蛮行であり、愚行である。


 そして、アンクレイ博士の独白はもう一つの事実をアリスに突きつける。それは、アリスは純粋な魂を持ったホムンクルスではなく人工的工作が行われた魂を所有しているということだ。

 人工的工作が行われた魂は確実にその形を変形させている。魂は何度も言うように流動的存在である。アンクレイ博士はそれを仮想元素”インシデント”の結晶として固体化させた。これは魔法でも魔術でも他の技術でも見られない極めて珍しく素晴らしい実験結果というえるだろう。錬金術という技術形態だからできた代物と言っても過言ではない。

 しかし、魂を固体化させたということは本来持っている流動性を失ったことを意味する。その大量の情報の負荷に耐えきれず、いずれは傷つき削られ、抉られて変形して、絶対的な異常を来す。すでに解凍されたしてもその影響は絶対に出るはずだ。そもそもが固体化し、魔力に触れたことによりその性質を変化させた魂だ。今までに類を見ないその事実は一体どんな結果をもたらすのか予想しようもない。

 それこそいつの日か魂蒐集家のような新たな怪物にアリスがなってもおかしくないのだ。


 そして初期化された魂は一体どこまでが正しくアリスなのだろうか。アンクレイ博士の亡くなった娘アリスの魂を持つホムンクルスのアリスという存在。あまりにも不完全で不自然な存在。

 初期化されようとも魂は亡くなったアリスであることに間違いはなく。だけどここにいるのはホムンクルスのアリスである。明らかに異常な状況である。その関係は姉妹のような明快さとそれはとは違う複雑さを併せ持っている。


 「魂の初期化はいわば、自らの手で怪物を作るような事。それが許されないことも、娘が望んだことじゃないこともわかってる。これは私の単なるエゴで、そこに正当性なんてものがないことは。でも、それでも諦めきれなかった。死者の蘇生が無理だとわかった時ですら、家族とまた会えることを願った。そして、あなたに会えた。アリス、あなたに」


 それは暗にアリスを自らの家族だと言っていた。

 そういうアンクレイ博士の声は徐々に弱くか細くなっていっているのが目にとれてわかる。


 「アリス、あなたは優しいから、自分の魂が他の人のものだと知ったら悩み苦しむでしょうね。多分、自分のためではなく、魂の持ち主であった亡くなった姉のために生きようとするでしょう。だけど、今生きているのは他でもないアリス、あなたよ。自分のために生きなさい。そして自分を責めないで、悪いのは私。全て私のわがままが原因なんだから、私を恨みなさい」


 アンクレイ博士は知っていた。これはどうしようもないほどの綺麗事だと。自ら蒔いた種をアリスへ背負わせるとどうしようもなく酷い人間だと自覚していたのだ。

 耳障りのいいことを言ったところで全ては自分が元凶。そんな人間が何を言ったところで心に響かないのは当たり前である。


 数秒の静寂。あまりにも静かで空気の動きが聞こえてしまいそうな空間で、その声が小さく響く。


 「ありがとう、お母さん」


 それがアリスの最初の言葉であった。

 アンクレイ博士は予想外の言葉に、目を見開き驚く。


 「私は今、生きてることが、お母さんと喋れることができて幸せだよ。確かにお母さんの話は驚いたけど、恨むなんてことはしない。それは私もアリスも望まないはずだから。それに私は大丈夫。お母さんの言う通り、この魂が自分のものじゃないってわかって悩んだり、苦しんだりするかもしれない。いつか、心を無くして怪物になって大切な人たちを傷つけるかもしれない。だけど大丈夫。私は一人じゃないから」


 そう優しく微笑むアリス。

 その笑顔はあまりにも力強く、華やかで、明るかった。

 どこか心の奥底にあったアンクレイ博士の不安がまるで曇天の空が澄み渡り青の晴天へと変わったかのような清々しさ。

 そこにはかつてのどこかオドオドしたような辿々しく控えめなアリスの姿はなかった。


 「困ったらみんなに相談するし、悩んだり苦しんでもちゃんと答えを出せる。私は前に向かっていける。重要なのは『傷つけるかもしれない』より『傷つけないようにする』って教わったから」

 「そっか……どうやら私の杞憂だったみたい」


 アンクレイ博士はにこやかに笑う。

 しかしその表情とは裏腹に、下半身から流れ出る血は次第にその量を少なくしていっている。


 「……そうだ。私と離れていた時の話をしてよ」

 「え?」

 「ダメ?」

 「ううん、何から聞きたい?」

 「ならまずはエンリとどうやって出会ったのか知りたいな」

 「エンリお兄ちゃんと?」

 「うん」

 「確かーー」


 二人はたわいの無い会話をする。親子が暇な時間に会話を交わすように自然に、まるでこれが別れの時なんてことを忘れているかの如く日常の一コマを切り取ったかのように。

 それはアリスにとってもアンクレイ博士に取ってもかけがいの無い時間であった。短く儚い時間であってもその時はあまりにも濃密で思い出深く、心に刻まれる。エンリとの出会い、レストランでのリアナとの出会い、『賢者の天秤』とエンリ達の戦い、セレンとの出会い、そしてキリヤ、リアナ、ヨラルとの『裏路地宿』での出会い。

 セレンと入ったお風呂、その後でリリアと作った料理、次の日にエンリとリアナと行った買い物。服をいっぱい買って、ぬいぐるみも買ってもらった。キリヤとエンリが大量の本を持ってきたり、ヨラルが倉庫からボードゲームを出してくれて二人で遊んだり、みんなでトランプしたり、ご飯食べたり、話したり、初めて見たメモリードームは綺麗で面白くて、不安で寝れないときはリアナが一緒に寝てくれた。間違えて、エンリの部屋で眠ったこともあったけど、お兄ちゃんは何も言わずに毛布をかけてくれた。


 この一ヶ月間。これはアリスの人生にとって2度と忘れることのできない一ヶ月であり、最も思い出が詰まった一ヶ月でもある。


 「それでエンリお兄ちゃんとキリヤお兄ちゃんが勝負を始めて、最終的にはエンリお兄ちゃんのシャボン玉が割れて、キリヤお兄ちゃんが勝って……

 「そっか……」


 何分ほどだろうか。五分か、十分か?それ以上か、時計がないこの部屋でその答えを出すことは難しかったが、確かに終わりの時間は近づいていた。

 体感で言えば5時間は話していた気分だ。

 傷口が消え、下半身の再生も終わっている。それでも回復の兆しが見えないのはおそらく、それが外見だけを取り繕った偽りの治療だからだろう。外から見れば、傷は無く、失った下半身もある。だが中身まで治ったかというとそれは別問題である。体力的時間的に見ても、アリスに心配をかけないよう、目に入る傷を治すことが精一杯であった。


 「あと、十年、生きれたら美人に育ったアリスを見られたのにね……残念」

 「十年なんて待たせないよ。五年で十分」

 「五年か……多分、一瞬なんでしょうね」

 「そうかも……」

 「本当に残念だわ」

 「うん……」

 「……アリス」

 「何?」

 「困ったらことがあったなら、エンリに言うのよ。彼なら必ず相談に乗ってくれるわ」

 「うん……」

 「辛いことがあったら一人で抱え込まないでね」

 「うん……」

 「あまり夜更かしはしないように」

 「うん……」

 「ご飯もしっかり食べるのよ」

 「う、ん……」


 アンクレイ博士がどこか不安げなアリスの頬を撫でた。


 「大丈夫、あなたは()()()だもの、心配ないわ」


 その言葉を聞いた瞬間、アリスの瞳から涙がこぼれ落ちる。大粒の涙だ。

 そして縋るように、祈るように、願うように言う。


 「いやだ!逝かないで!一人にしないで!」


 アリスはアンクレイ博士の胸に泣きつく。アリスの頭を優しい表情で撫でる。


 「大丈夫、私はずっとあなたを見守ってるわ。いつでも、いつまでも。それにあなたは一人にはならない。みんながいるんでしょ?」

 「……うん」

 「なら待っててあげて、エンリがあなたを向かいにくるのを」

 「うん。わかった。……もう少しこうしててもいい?」


 そうアリスはアンクレイ博士に抱きつきながら聞く。

 その言葉にアンクレイ博士は優しく「ええ」と短く返した。

 そして何分が経っただろ。アンクレイ博士が口を開く。


 「アリス、愛してる。大好きよ。この世界で誰よりも」


 アリスはその言葉に微笑み、その額を合わせて言った。


 「私も大好きだよ、お母さん。ありがとう」


 それと言葉を聞いてアンクレイ博士は眠りにつく。

 娘の腕に抱かれ深く長い眠りに。


 「おやすみなさい、お母さん」


 天井に空いた穴から差し込んだ光が二人を照らす。

 そこに無駄な音はない。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

ブクマや感想、評価などよろしくお願いします。

余談ですが、作中において魂の定義は流動的と説明されていますが、これは作中の時間軸的に魂に関する理論が確立していないためであり、実際には魂に関する設定がちゃんと存在しています。おかげで魂の初期化の脅威を説明することが難しかったため、ここで少し説明させてください。興味がない人は読み飛ばしてもらって大丈夫です。

簡単に説明しますと、この作品における魂は現実世界の量子のように0と1が重なり合った状態で存在し、重なり合った0と1の中にはさらに多くの0と1を内包しています。そのため、魂の初期化は人一人分の量子を書き換える行為に等しく、その結果、既存の法則になんらかの影響を与える可能性が高いです。

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