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混乱

 シルバルサ基地の一室。白のカーテンにベッドと申し訳程度の机と椅子だけが置かれた小さな部屋にエンリとアリスはいた。ここはいつかの襲撃で宿が壊れてしまったエンリやヨラルたちのために修繕が終わるまでの間、貸し出された部屋の一つであった。

 手狭でお世辞にもいい部屋とは言い難いが、泊まる場所がなく野宿するよりもマシである。


 テーブルの上には初心者向けの錬金術の教本が置かれており、その傍らにはペンとノートも置かれていた。今、行われているのはエンリによるアリスへの錬金術の勉強会であった。

 三日前、アリスの処遇に関する会議が終わった後、アリスに会いにいくと自ら錬金術の勉強がしたいと言ってきたのだ。もとよりアリスには、『ルーゼルバッハの石』ではなくアリス自身の意思で錬金術を、使えるよう基本的なことは教えようと思っていたので、困りはしなかった。もしろ、自分からそう言ってくれてありがたかったぐらいだ。


 錬金術を勉強する彼女はすごく真剣で勉強を教えている俺の方が、気を引き締めなければいけないなと思わせてくれる。おかげで、飯時や就寝時間などの時間以外はそのほとんどがアリスの勉強会につきっきりだ。

 だがその甲斐あってか、たった三日というわずかな時間だが、とりあえず、錬金術の基礎、さわりの部分は教えることができた。アリスの飲み込みが早いおかげだ。


 そしてそれだけ一緒にアリスといれば、嫌でも彼女の雰囲気の変化に気づけた。

 焦っているというよりも鬼気迫る、切羽詰まるというような雰囲気がアリスからは感じられたのだ。まるで何かに脅されているようなそんな感じだ。もちろん、俺に気づけたということは、セレンはリアナ、リリアたちが気づかないわけもなく。アリスを元気づけようとセレンとリリアは朝から二人で、ケーキを作るための買い出しに出ていった。

 リアナもまた頑張っているアリスのために、買い出しの時に買って、襲撃の際に布が破けてしまったぬいぐるみの修理に勤しんでいた。なんでも裁縫は初心者だというのに、夜中まで本と睨めっこしながら頑張っている姿は、本当に尊敬に値する。やはり口は悪いが面倒見はいいのだ。


 そんな感じ、皆、アリスのことを気にかけていたのだ。

 だがアリスが不自然なほどいつも通り過ごしているせいで、どこか触れづらいのだ。

 まあ、こうなった理由は容易に想像できた。


 エンリはコップの中で十分ほどお湯の中に浸されていたコーヒーパックを取り出し、中にミルクと砂糖を適当に入れて、かき混ぜる。

 そしてぬるま湯になってしまったコーヒーを飲んで、口を開いた。


 「アリス」

 「なに、エンリお兄ちゃん?」

 「その……大丈夫か?」

 「え?」

 「目の下、クマできてるぞ。ここ最近寝れてないんだろ?」


 そういうとアリスは軽く目の下に触れ、窓ガラスの方を眺めみた。

 そこに映った自分の目の下には確かにクマができていて、どこか疲れたよう表情をしていた。


 「原因は、まあハージ・ジェルクだろうな」


 その言葉にアリスは押し黙った。

 三日前、エンリたちがアリスの処遇について会議を行なっていた際、ハージ・ジェルクがアリスに会いにきていたことはもちろん知っていた。

 報告によれば研究室にアリス以外いなくなった際に、部屋の中に侵入、最終的にはワニが火を吐き、異変を感じた警備の軍人とキリヤが駆けつけ、軍人をガラスに叩きつけた後、逃走したとのことだ。ワニが火を吹くという状況がいまいちよくわからないが、まあ報告書にそう書いてあるならワニが火を吹いたのだろう。

 報告書には他にもハージ・ジェルクとアリスの会話について記載があるが、そこに書いてあるのはてんで特に意味のない世間話のみ、正直、あのハージ・ジェルクが危険を冒してまでアリスに会いにきたのだ。何か重要な話をしたに決まっている。しかし、会話の内容を知っているアリスが、何も語らないのならそれが真実とする他ないのも事実だ。


 「別に人間生きれば、人に話したくない秘密を一つや二つ持ってるものだ。俺だって人に言えないような秘密は山ほどある。多分、報告書に書かれた会話内容。あれは真実じゃないんだろ?」


 アリスはしばしの無言の後、静かに首肯した。


 「まあ、だよな」

 「ごめんなさい……」

 「何、アリスが謝るようなことじゃないさ。話したくない話は無理に話すもんじゃない。そのままに秘密にしてればいい。それに内容はおおかた予想がつく。どうせ何か交渉ごとでも持ちかけられたんだろ?」

 「わかるの?」

 「まあな。俺がハージ・ジェルクの立場なら同じことをするだろう。それだけアリスの……『ルーゼルバッハの石』の脅威を理解してるんだ。無理やり来ないところを見るに『ルーゼルバッハの石』がアリスの意志を汲んでることも察してるだろうな。つくづく優秀な錬金術師だ。まあ流石に、ハージ・ジェルクが提示した条件はわからないけど、アリスに望んでることは多分『ルーゼルバッハの石』の譲渡だろな……」


 アリスは何も言わなかった。

 『ルーゼルバッハの石』の譲渡。それはつまりアリスの心臓を渡し、自ら死を受け入れろと言っているようなものであった。

 その無言の肯定にエンリは何をいうわけもなく、どこか騒がしい窓の外を眺め見る。


 「別にアリスがそれでいいなら、俺は止めない」


 その言葉にアリスは少し驚き、エンリの方へと向き直る。


 「意外か?」

 「うん、少し……反対されると思ってたから」

 「まさか!自分で決めたことなら反対しないさ。人間、人の言いなりになるより、自分の心に従った方が、自分らしい生き方ができる。それに何を食べ、何を着て、何を学び、何を為し、何を選択するかはいつだって自分次第だ。他人に指図されていいものじゃない。他人の選択に縛られる人生はつまらないからな」


 ああ、そうだとも、自らの生き方は自らで決める権利と責任がある。そこに誰かの意思が介入してはいけない。絶対的不可侵の選択を持ってして自らの未来を決めるべきなのだ。

 実際それをできる人間は少ないし、全員がそんな生き方をすれば、エゴとエゴのぶつかり合いで、争いが生まれるのはわかってる。だが、人生において一度くらいは、未来を決めるような重大な選択の時ぐらいは他人の言葉や考えに惑わされず、自分の気持ちを優先していいはずだ。でなければ単なるマリオネット。良くて劇を演じる役者だ。


 だから俺はアリスが進むと決めたならそのまま進み続ければいい。少なからず、俺はそうしてきたし、これからもそうして行くつもりだ。

 それに俺が守りたいのは『ルーゼルバッハの石』ではなくアリス本人だ。極論、『ルーゼルバッハの石』がハージ・ジェルクの手に渡ろうが、軍の手に渡ろうが、アリスが無事ならばそれでいい。もしアリスがハージ・ジェルクへ『ルーゼルバッハの石』を譲渡するというならそれはそれで、厄介ごとが一つ片付いたと考えられる。もちろん、ホムンクルスの心臓に当たる『賢者の石』が抜かれるのだから、その対処は考えないといけないが、まあどうとでもなるだろう。

 こう見えて俺は問題の解決が得意なのだ。


 「それに、これから死ぬって奴がわざわざ時間を使って錬金術の勉強をするわけないからな。何かするつもりなんだろ?」

 「……そこまでわかるんだ……」

 「そりゃあ、学者だからな。推論や仮説を立てるのは得意なんだよ」


 そうエンリは自信げに胸を張る。

 そしてふと思う。今、アリスは錬金術の勉強をしている。つまりそれは、これから錬金術を使って何かをするということだ。だが、今のアリスは軍から出された条件によって自由に錬金術を使うことができない。普通の人間なら簡単のそのルールを破るかもしれないが、アリスはホムンクルスだ。人間よりも純粋で純真だ。約束を守るというのは気質というよりもホムンクルスの本能と言い換えてもいいだろう。

 そうなると錬金術を制限する条件は邪魔になってくる

 しばしの思考の後、エンリが口を開く。


 「アリス、今から誰の許可もなく自由に錬金術を使っていいよ」

 「え?いいの……?」

 「ああ、錬金術を勉強してなにに使おうとしてるかは知らないけど、まあ穏やかなことじゃないだろ?ならわざわざ許可が必要なんてめんどくさい。最初から自由に使えた方が楽だ」

 「でも、軍の人たちに怒られちゃんじゃ……」

 「人間は所詮、結果論でしかものを語らない生き物だ。過程や方法なんて結果が良ければ些細な問題なんだよ」

 「えぇ……」


 そうアリスがどこか呆れたようにエンリを見た。

 次の瞬間、窓から拳大の何かが投げ込まれる。エンリは咄嗟にトランクケースで飛び散るガラス片をガードし、アリスを抱きかかえ、窓から離れた壁側へ避難する。


 「な、なに?」

 「何かの塊が投げ込まれた」


 状況が読み込めず混乱するアリス。

 エンリは腰を下ろし、床に転がっている塊を眺め見る。


 「鉄だ……それも何かから引きちぎられて、力任せに固められてる。まるで子供の泥団子だ」

 「鉄?」

 「ああ、もしこれを魔法や魔術に頼らず、素手でこれをやったなら常人じゃない。化け物かゴリラの仲間だ」


 そういうとエンリは立ち上がり、警戒した足取りで、窓の方へと歩み寄る。

 そしてその情景を目の当たりにする。人に似た何者かたちが跋扈する光景を。そのもたちが皆が皆、人とは思えないほどにその体を変質させながらも、軍服や人の顔をしていることから元は人間であることが理解できるが、脳が忌避するようにそれを理解することを拒んでいる。

 どうやら多くの軍人が休憩中だったのか、誰一人として武装している人間はおらず、魔法や魔術、錬金術など各々で鎮圧しようとしているものの、それらを酷使する前に、ことごとく化け物たちに蹂躙されていっている。


 一匹の化け物が、軍人の首を噛む。鮮血が飛び散り、隣にいた軍人の目を潰し、視界を奪われたその軍人もまた、後ろにいた別の化け物の脇腹を噛みつかれ、地面へと倒される。地面に倒れた軍人は化け物の首を掴み、無理矢理、自分の脇腹から引き剥がし、思いっきり頭突きをする。どうやら骨格までは変わっていないのか、化け物はよろめきながら大きな隙を作る。そしてその隙に他の軍人たちが化け物の四肢を魔法で拘束、地面へと固定する。


 緊急時でもこれだけ慌てず対処できるのを見るに、この街の軍人が相当、場慣れしているようだ。


 脇腹を噛まれた軍人は、他の人に支えられながら立ち上がり上着で患部を押さえつけ止血を行っている。

 そして、すぐに脇腹を噛まれた軍人が苦しみ始める。地面に伏して、血を吐き出しながら、人間とは思えないほどの異常な筋肉の発達と骨格の変化を起こし始める。瞳に赤の軌跡を宿し、まるで新たな命の芽吹きを知らしめるように咆哮した。

 その姿はまるで魔獣のようで、かつてエンリが目にしたヨラルの姿に酷く酷似していた。肉体の著しい強化、血管が浮き出ており、その色は赤黒く、その雰囲気は人というよりもより本能的に、魔獣へと近くなっている。


 「これはヤバそうだ……」


 エンリは一人でにそう呟く。

 よくよく見ると先ほど首を噛まれ鮮血を撒き散らしていた軍人が、沸騰した血で他の軍人を焼きながら元気に跳ね回ってる。

 どうやら認めたくはないが、最悪な事態が起こったらしい。

 これは明らかにバイオテロ。以前、ヨラルに注射された薬<DBB>『人を魔獣へと変える薬』が何者かによって無差別に散布されたのだ。一人ひとり、別の能力を有し、別種の進化が行われているように見えるが、あまりにも共通点が多すぎる。もはや疑う余地はないだろう。

 断言してもいいはずだ。


 エンリは窓の外を見ながら、思考する。今こうしている間にも広場の軍人たちは次々と襲われアラな化け物へと姿を変えていっている。その様はまるで阿鼻叫喚の地獄だ。

 この地獄の様を止めたいのなら、感染しているとも思われる人間を全員殺せば事態はすぐに収束するだろう。だがそれは道徳的にも良心的にもあまりやりたくない。そもそもその行動は俺の信念に反する。そうなると今、行える行動は限られてくる。

 第一にアリスの安全の確保だ。ホムンクルスであるアリスが襲われた場合、一体どんなことになるか全く想像できない。何も起きなければそれでいいが、そんなことはないだろう。


 次にすべきことはキリヤとの合流だろう。以前、キリヤと話した時、この薬のデータを元に研究の片手間、特効薬とワクチンを作ってると話していた。それが完成したかどうかは知らないが、今後確実に特効薬が必要になってくる。そしてその製造に最も近いのは確実にキリヤだ。

 軍も薬のデータを持っているだろうから、盗まれた際に特効薬の開発着手はしているだろう。むしろ薬の製造と同時に、特効薬の開発も同時に行っていたはずだ。だが、薬があくまでサンプル、完成品でなかったところを見るに、特効薬も完成しているとは思えない。

 しかも、軍での特効薬開発はこの街ではなくこの街の外で行われている。となると今回、散布された薬が完成品だろうと完成品から逸脱された派生薬であろうと、その情報を得ることができないのは大きなデメリットだ。だがキリヤ、この街の中にいて、今回、散布された薬のデータを得ることができて、尚且つ特効薬の開発を研究の片手間といえど行っており、その上、この街にある研究所で働き、その施設を使うことができる。そうなるとやはり、この街で最もこの事件の解決に近い男はキリヤということになるだろう。


 「エンリお兄ちゃん、外、何か騒がしいけど何かあったの?」


 そう言ってアリスが近づいてくる。

 エンリはどこか罰の悪そうに首を傾げながら、


 「うん?まあそうだな、アポカリプス劇場の一ページ目って感じの光景が広がってる。……あっと、あんま見ない方がいい。見てて気分のいいもんじゃない」


 そう言ってエンリは窓の外を見ようとしたアリスの目を手で覆った。

 それにアリスはどこか不満げだが、あまりにも救いのないこの惨状を純真無垢なアリスの目に触れさせたくはなかった。

 そんなことしている間に、一匹の化け物がこっちを見た。


 「これはまずい!」


 化け物がエンリたちがいる部屋に向かって跳躍。異常なジャンプ力で一秒もかからず4階にある部屋の窓枠にへばりついた。中へと侵入しようとしてくる化け物の迫力は想像異常だ。

 エンリは咄嗟にアリスを後ろへと突き飛ばし、飛びついてきた化け物をトランクケースで撃墜する。


 「エンリお兄ちゃん!」

 「大丈夫、離れてろ!」


 化け物は地面を弾くように受け身を取り、壁を蹴って再びエンリへと飛びつく。エンリは化け物との間にトランクケースを挟み、前へ思いっきり押し出す。トランクケースは化け物の顔面を激突、何かが潰れる音と共に化け物を後方へと吹き飛ばし、壁にヒビを入れる。

 だが、化け物にはそれほどダメージがないのか、すぐさま床を蹴ってエンリに再び突撃。狭い室内を縦横無尽に跳躍し、急襲。

 エンリは咄嗟にトランクケースを間に挟むことで噛まれることを阻止する。しかし、その勢いは衰えず、そのままエンリを押し倒して、床へとぶつける。その上、代わりにお気に入りのトランクケースが化け物の唾液でべちゃべちゃである。


 「行儀の悪い客人だ。部屋に入るならせめて窓からお願いしたいもんだね!」


 そんな悪態をつきながらエンリは化け物とのトランクケース越しの力の押し合いを行う。

 その場仕立ての強化魔法とはいえ、魔法で身体能力を強化している俺と張り合うとは随分な力の持ち主だ。今のところ、筋力は拮抗しているが、このトランクケースの押し合いで勝ったところで、この狭い室内で戦うのはどうも武が悪いな。

 そんなことを考えていた次の瞬間、一本の鉄柱が化け物の脇腹を押し砕き、窓と壁を破壊しながら外へと弾き飛ばされる。


 エンリはその光景に驚き、咄嗟に鉄柱が伸びてきた方を見る。

 そこには先ほど鉄柱の前で汗をかきながら少し疲れた様子のアリスの姿があった。

 どうやら先ほど投げ込まれた鉄の塊を錬金術で鉄柱に変えたらしい。それも意識的に、それもエンリが襲われているという緊張状態で使った初めての錬金術は相当以上に集中力を使ったらしい。まあ練習以外で、これだけ咄嗟に錬金術を使えるのならこれまでの勉強の成果は十分だろ。



 「はぁはぁ、だ、大丈夫?」

 「ああ、ありがとう。いい錬金術だった」

 「……ありがとう」


 褒められてこそばゆいのかアリスは頬を赤く染めて、目を伏した。

 そしてしばらくして、冷静になったようで、


 「さっきの何?」

 「元人間の現魔獣の何かだよ。何これから、いっぱいあれと同じのが見れる」

 「ほ、他にもいるの?」

 「よりどりみどりだ。とりあえず、この部屋を出て、キリヤの元に行こう。今日は多分研究所にいるはずだ」

 「リアナお姉ちゃんは?」

 「多分途中で会えるだろ。この程度で死ぬならハージ・ジェルクたちにとっくに殺されてる。ヨラルたちも同じだ。リリアもセレンがついてるから大丈夫だろう。まだ街中がこうなったとも決まったわけじゃないしな」


 そう言ってエンリは適当な布でトランクケースについた涎を拭い。アリスの手を引いて扉の前まで向かう。

 そしてエンリが扉を開けようとするより先に、ドアノブが周り、扉が開く。

 その先には脇腹を抉られ、息も絶え絶えなセレンが立っていた。その傷は魔獣へと変質した人間たちにつけられたものではなくもっと人為的、戦闘行為でついたものだとわかる。

 セレンは息も整える間もなく叫ぶように言う。


 「エンリさん、大変です!リリアさんが誘拐されました!」

 「は?」


 災厄の悪夢『紅き月の夜』が始まるーー


ーーーーー


 それはあまりにも静かであまりにも平和な一日。何かが起こりそうな気配すらない凡夫な日常。空は晴れ、白い雲が流れていく。子供達が公園まで競争し道を駆け、住民が露店や市場で買い物をし、シルバルサ城前の広場には多くの観光客が集まり、街を警備する憲兵たちですら、どこかうとうとしてしまうような心地のいい日だ。


 セレンとリリアは三日前からどこか元気がない様子のアリスを元気づけるため、美味しいケーキを作ろうと買い出しに出ていた。

 エンリを襲撃した人間の目的もわからず、『賢者の天秤』がアリスではなくその周囲の人間を狙う可能性がゼロではない今、外に出るのはあまり褒められたことではないが、そのための買い出し担当のリリアと護衛のセレンである。

 二人は混雑する街中で逸れないようにどうにか人混みをかき分けて、材料を買い集め、今は帰路についているところだった。


 家は『賢者の天秤』の襲撃で壊れてしまったため、今は基地の宿舎を借りて住んでいた。

 直るまでにはおおよそ一ヶ月ほどかかるらしい。ヨラルは軍からも保証金も降りて宿を新調できると喜んでいたが、エンリは自分の部屋に乾燥させていた薬?の材料が全て炭になっていたと嘆いていた。

 他にもセレンやリアナなどの私物もダメになったものがあったが、それはまあ本当に些細な量だ。


 「それにしても今日は本当に人が多いですね……」

 「そうですね。これだけ人が多いと動きにくいですね。何かあると悪いですから、逸れないように注意してください」

 「はーい」


 祭りや祝い事がなくても観光地という性質上、今日のような休日は人がごった返すことも珍しくないが、それにしても人手が多いのは自明の理であった。

 そして一瞬の静寂が訪れる。風が吹き止んだ。


 悲鳴が聞こえた。街中を反響する悲鳴。恐怖を増長する悲鳴だ。

 最初は一人だった悲鳴もいつしか、複数人となり、今では広場の方からカエルの合唱のごとく聞こえてくる。

 不意に人の流れが変わる。まるで何かから逃げるように街の中心から街の外側へと移動していく。その力に逆らおうものなら一瞬で押しつぶされてしまいそうだ。人の形をした濁流とでも評するべきだろうか。


 「きゃあ!」


 その言葉にセレンは振り返る。そこには人混みに流されていくリリアの姿がある。

 セレンは咄嗟にリリアの腕を掴み、自分の近くに引き寄せる。そして流れる人混みの端の方へと移動し、近くの建物の下に入る。


 「大丈夫ですか?」

 「ええ、なんとか。ありがとう、セレン」

 「いえいえ、これぐらいお安い御用です。とりあえず、この場所は危険です。人混みを避けて路地裏から基地に戻りましょう。あそこならアリスさんが迷路状にしたのでみんな避けるはず」

 「わかった。でも道わかるの?」

 「任せてください!こんなこともあろうかと基地までのルートは暗記してきましたから。この街なら目を瞑ってでも歩けますよ!」


 そうセレンは胸を張り上げて自分の胸を叩く。そこにはただならぬ自信が見える。

 迷路状になった路地裏は基地に戻るまでもルートも限られているため、変な場所から入るとどんなに頑張っても基地に着くことはない。そのため基地へ行くことができる路地に着くまではどうしても人で混雑しているメインストリートを歩かざる得なかった。

 そのため再び逸れないようセレンはリリアの手を握り、扇動する。

 大量に流れていく人混みの中、いまだに悲鳴は聞こえてくる。正直な話、今すぐにでも状況を確認しに行きたいが、今はリリアの身の安全が一番だ。流石に『賢者の天秤』に狙われる可能性がある人間を放っていくわけにはいかない。


 「ぎゃあぁああぁ!!!?!」


 そんな絶叫がすぐ後ろで聞こえた。

 振り返るとそこには一人……いや一匹の化け物がいた。

 理性を失い知性を失い、本能のまま動くその姿はまるで獣で、瞳から残る赤の軌跡にはどこか見覚えがある。異常に発達した筋肉は人のものではない。異常に伸びた爪は人のものではない。異常に生えた歯は人のものではない。

 口からは蒸気が溢れ出し、その体内温度の高さが垣間見れる。体から溢れる魔力は魔獣のように荒々しく、直感が判断する。今すぐにでも排除すべきだと。


 一匹の化け物は若い男に飛びつきその鋭く長い爪を男の胸に突き刺し、押し倒して、壊れた靴から見える裸足で石や燃える木々の上を歩いても傷がつくことがなさそうな足で男を踏みつけた。

 そして肩に噛みつき、肉を食いちぎった。筋繊維がちぎれる音と若い男の悲鳴が頭の中に響いた。白い骨が露出し、地面を赤く染め上げる。

 その光景は軍人で血や傷を見慣れているセレンですら目を覆いたくなるほどの光景だ。

 明らかな異常に、それを見た人々は恐怖に心を支配され、パニックを起こし前へ前へ、できる限り化け物から逃げるように、走り出す。


 逃げ惑う人々をどこか滑稽とでも笑いたそうに化け物はその口元を歪め、別の人間に飛びつき、その首を噛みつく。


 「リリアさん、ごめんなさい!少し付き合ってください!」


 そういうとセレンは腰につけていた剣を抜く。

 流石にこの状況は国の守る一軍人として看過できるものではなかった。リリアを守ることも大事だが、市民を守ることもまた軍人の義務である。

 セレンは一息、呼吸を吸って問う。


 「もし言葉が通じてるなら今すぐ投降し地面に伏せてください。それを行わないようなら、軍の第一特記権利のもと拘束及び逮捕します」


 人を襲っている目の前のあれを人として扱っていいものか悩ましいが、形が人である以上、どうにも市民に剣を向けるのは罪悪感がすごい。しかしそんな感情もすぐに消えて無くなる。


 化け物が跳躍する。その跳躍は優に三メートルは飛び、地面を砕く。

 鋭い爪が振り下ろされる。セレンは剣で受けようと一瞬、自分の前に剣を構えるも、嫌な予感がして、防御を止め横にずれて攻撃を避ける。次の瞬間、セレンがいた場所の地面がまるでフォークで黒板を引っ掻いたような鋭い音を鳴らしながら、熱したナイフでバターを切るかのごとく切り裂いた。

 その破壊力は風圧だけで、扇状に五メートルの傷をつける。もし剣で受けていたのなら、剣ごと胴体を縦に分割されていただろう。恐ろしいと言わざる得ない。


 地面を切り裂いた化け物はすぐに体を切り返し、足で地面を抉るように横に避けたセレンの方へと飛びついてくる。

 セレンは化け物に向けていた刃を自分の方へ向けるように捻り、柄を突き出して、その刃先を鞘に入れる。そして飛びついてきた化け物の勢いを利用し、セレンはその柄を勢い任せに額へとぶつける。鈍い音が響き、化け物の動きが鈍る。その瞬間、刃先の鞘を刃の上を滑走させるように走らせ、その刀身をしまう。強い衝撃を受けた化け物は目を反転させ、地面へと伏せる。

 その肉体が変わってもどうやらやはりベースは人間のようで、脳震盪等の事は起こり得るようだ。

 現に今、行った技も非殺傷戦闘術として軍で多く普及している技の一つだ。

 念の為、目が覚めても暴れないよう座標魔術で拘束しておく。このまま軍に引き渡せば、とりあえずは一件落着だろう。そうセレンが一息ついた時、リリアが叫ぶ。


 「セレン、後ろ!」

 「な!?」


 セレンは咄嗟に振り返り、襲いかかってきた若い男との間に剣を挟む。その若い男は先ほど今、拘束した人のような魔獣のようなやつに襲われていた人間であった。


 「これって、感染するタイプですか!?報告書に書いてなかったんですけど!?」


 この人たちの状況には覚えがある。瞳が赤く光り軌跡を残し、筋肉等の異常な発達、まるで”人”が”魔獣”になったよう。ここまでなら覚えがあるのだ。しかし、爪の異常な発達と歯の上顎までびっしりと敷き詰められた歯、これには私の関知していない。

 だが言い切れる。これは明らかに人為的で、原因は極秘に軍の研究所で研究されていた『人を魔獣へと変える薬』、名前は<DBB>、その仕業に違いないと。

 <DBB>のサンプルを盗んだのが『賢者の天秤』とわかった時、報告書には一通り目を通したが、あれはあくまで試作段階であり、筋肉の増強に伴う身体能力の向上効果はあってもそれ以外に、他の人間に感染させたり、他の部位の発達を促す報告はなかったはずだ。

 そのため『人を魔獣へと変える薬』というのは名ばかりで、どちらかと言えば『人から理性を奪い身体能力を向上させる薬』程度の認識しかなかったが、どうやら改めなければいけないらしい。


 「セレン、大丈夫!?」

 「なんとか、リリアさんは危ないので少し離れてください!」


 セレンはそういうと膝を突き上げ、襲いかかってきた若い男の腹部を抉るように膝蹴りを入れる。その痛みに一瞬怯んだ隙に、若い男の足を座標魔術でその場に固定し、力づくで無理やり押し返し、逆に若い男に馬乗りになる。

 そして剣の鞘を若い男の鳩尾へと当て、思いっきり地面へと突き刺すつもりで突き落とす。若い男は無理やり空気を吐き出される。臓器や骨格が変化しない限り、人は基本的に正中線が弱点だ。正中線上に攻撃をすれば、基本的にどこを攻撃しても痛いし、怯む。


 若い男は大口を開けて苦悶の声をあげた。

 瞬間、魔力の収束を感じた。夥しいまでの熱量が若い男の口の中を渦巻いたのだ。


 「まずい!」


 セレンはそう憂い大きく後ろへと仰け反る。

 放たれるは吸い込めば肺を焼くほどの火炎放射。大気が焼ける音と匂いがする。

 炎球は上空十メートル付近で爆発。空間に波及し周囲に火の粉と光量、そして衝撃を与える。窓ガラスが割れ地面へと降り注ぎ、レンガ造りの地面が衝撃で隆起する。内臓が揺れるようなその攻撃は到底、並の魔力の持ち主が打てるものではなかった。

 第二射目の魔力が収束し始める。


 「あぁ、もう!」


 座標魔術で無理やり、魔力を別座標へと転移させ、魔力を発散させ続ける。

 そしてセレンは若い男の胸にまるで撫でるかのように優しく手を添える。


 「ごめんなさい!」


 そうセレンは断り、放つは魔力の波動。魔法使いや魔術師がよく使う護身術であり、軍が訓練の際に教える近接戦闘術の一つ。


 ーー波魔ーー


 そのものだった。

 心臓に撃ち放たれた魔力の波動は一切のロスもなく男の体を伝い、心臓を穿つ。

 男はその痛みに悶絶し、すぐに動かなくなる。気を失ったのだ。セレンはそのことを確認すると、口元の座標魔術を解除し、魔力を転移を止め剣を納める。

 効果があるかどうかはわからないが、念の為、口が開かないよう座標魔術で固定しておく。


 辺りを見渡す。

 いつの間にか、周りには今拘束した二人の人間のようにその体を魔獣のように変化させた者が跋扈する。どうやら、拘束した人たち以外にも同じように化け物になった人がいたようだ。しかし考えてみれば当たり前である。悲鳴が聞こえてから、私がこの拘束した人たちと会うまではおよそ、一分から二分、その間に何人の人間が襲われていたか。もし本当にこの状態が感染するのであれば、その影響は大きいはずだ。

 その姿は一人一人違く、明らかに別々の変化が起こっている。この様をなんて形容すべきか。短略的に語れば彼らの状態は『進化』が起こっているように感じる。

 とりあえず、もはや私一人の力ではどうすることもできないところまで来てしまっている。一度、基地に戻り、情報を精査すべきだろう。街全体に今みたいな状態が起こっているなら、すでに既知では対策の協議が始まっているはずだ。他にも冒険者ギルドだって、動かないわけがない。そう考えてもやはり、一度は基地に戻り、情報の精査するのが正解だ。


 「まるで『ロールズエッジの人体実験』みたい」


 そう一人ぼやいた。

 『ロールズエッジの人体実験』それは一人のイかれた魔法使いが起こした史上最大の生物兵器実験であり、のべ三十万人が犠牲となり一つの街が焼却処分された悪夢とも評されることのある最悪の事件であった。あの時は自己進化をする化け物などではなく、腐乱者(ゾンビ)であったが、人が人を次々と感染させて行ったり、自発的に人を襲っているのはあの事件と類似するところがある。


 そんな特に意味のないことを考えながらセレンは後ろを振り返り、リリアの手を取る。

 もしこんな状況ではぐれようものなら、次会うときは会話のできない状態で会うことになるかもしれない。今の自分に守れる人数は少ない。ならばその少ない人数を全力で守るのが今の私にできることである。


 「リリアさん、これから基地まで全力で逃げます。壁を蹴ったり、回転したりするから酔うかもしれませんが我慢してください。もし我慢できなかったら、吐きながら着いてきてください」

 「え?それってどういう……」

 「行きますよ!」

 「え、ちょ、待っ……」


 リリアが言葉を言い終わる前にセレンは強くリリアを腕を引き、走り出した。

 阿鼻叫喚のメインストリートを颯爽と駆ける。

 目の前から手が異常に長い化け物が襲いかかってくる。セレンは化け物の手の平を思いっきり踏み抜くつもりで踏みつけ、剣の腹で化け物の腕を折る。そして襲いかかってくるときの勢いを残したまま体勢を崩した化け物の顔面を狙って蹴りを入れる。鼻が折れる感触を感じる。

 一瞬感じた殺気にセレンはリリアの足を払う。次の瞬間、リリアの首があった場所を蠍のような骨格を持った鞭のようにしなる尻尾が薙いだ。風切り音と白の軌跡を残し、周囲の建物を容赦なく破壊する。

 その尻尾はすぐに持ち主の元まで引き戻され、2回目の攻撃が飛んでくる。セレンに支えられるように地面に倒れているリリアを狙った上から下への振り下ろし攻撃だ。


 再び風切り音と白の軌跡が残る。その威力は脅威だが、その速度は見えないほどではない。少なからず、少し前に戦ったあの『賢者の天秤』の化け物であるアスカノールの攻撃に比べれば、亀の走りを見ている気分だ。

 振り下ろされた尻尾を剣で横へと受け流し、その威力で砕けた地面にその尻尾を座標魔術で固定する。

 流石にこの量を、一人一人慈悲の心を持って倒すのは無理だ。多少雑に戦うのも仕方がないことだろう。


 「大丈夫ですか、リリアさん?」

 「うん、大丈夫だよ」

 「よかった」


 そしてセレンはリリアを連れて再び走り始める。

 目の前に壁のようなに連なる化け物たちを近くの瓦礫を座標魔術で転移することで蹴散らし、地面に潜っている化け物を壁を蹴ってやり過ごし、目が異常に発達した化け物の肋骨を折って前へと進む。


 目の前に頬と首に赤の鱗を持った四足歩行の女が血塗られた口を舐め回しながらまるで炭のような黒の煙を吐いていた。そしてその黒い煙に触れたものはあまりにも急速に酸化し始める。もしあの煙を吸い込めば、人にとっては致命的な毒となり得るだろう。生命活動に必要な酸素はもちろん、それ以外の酸素も奪われるのだ。その結末は考えなくても容易に想像できる。


 四足歩行の女がこちらを見た。

 完全に目が合った。

 どうやら次の標的は私たちのようだ。


 四足歩行の女が近くの鉄の支柱に噛みつき、酸化させ、噛み砕く。そして口の中で酸化させた鉄の支柱を咀嚼しながら、セレンへと走り寄ってくる。まるで蜘蛛のように壁を四足歩行で走り、近づいてくるその様は忌避感を覚える。

 口から咀嚼された鉄支柱が射出される。円を拡大させるように広がるその攻撃に逃げ場はない。セレンは自分達に当たるものだけを的確に剣で撃ち落とし、地面に落ちていた棒術に使えそうな木材を蹴り拾い、四足歩行の女とは関係のない前方に全力で投擲する。

 次の瞬間、投擲された木材が四足歩行の女の頭蓋に直撃する。めり込む音が生々しく響く。


 四足歩行の女は壁から地面へと落ちるも受け身を取って、周囲のものを酸化させながら地面を蹴る。突進してくるかとセレンは体ごと振り向き、リリアを後ろに隠す。

 しかし四足歩行の女は左手を軸に体を回転させ、酸化させた地面に足を踏み込み、瓦礫を飛ばす。そしてそれに紛れるようにして同時に口から黒い煙によって形成された黒煙の刃を飛ばしてくる。

 セレンは飛んできた瓦礫の一部を座標魔術で飛んでいく反対方向へ変更する。それでも撃ち落とせなかった瓦礫は近くの石をy方向に伸ばして防御する。しかしそんな石の壁も黒煙の刃には意味をなさず、その切り口を酸化させ切り刻み、セレンたち目指して飛んでくる。

 剣もまた金属である。受ければ刃ごと切断されるのは目に見えていた。


 そのためセレンは目の前の何もない空間を剣でひと撫で、空を切った剣は大気中に風切り音を鳴らし不規則な一瞬の空気の乱れを生み出す。その空気の乱れを座標魔術で黒煙の刃たちのそばに座標移動させることで空気の乱れの収束によって黒煙の刃を破壊する。

 所詮は煙を刃状に生成したものに過ぎず、対抗策は十二分に用意できる。昔から煙には風と相場は決まっているものだ。


 黒煙の刃が破壊されたのを見た四足歩行の女はセレンには敵わないと判断したのかその体を180度、回転させ逃げの態勢に入っている。壁を這い遠ざかっていく四足歩行の女にセレンは先ほど、投擲した木材を座標魔術で操作し、その長さを延長、延長した勢いを使ってその脇腹を突き刺した。四足歩行の女は予想外の場所からの攻撃に対処できずに、その攻撃をモロに受け宙を舞う。それに追い打ちするようにセレンは座標魔術を使い木材を空中に座標移動させ、突き落とすようにその腹に抉り込ませる。

 砂埃を上げながら地面に激突した四足歩行の女。一瞬よろめきながら立ちあがろうともするもセレンがその足と口を座標魔術で固定し、これ以上被害が出ないようにする。


 その間もセレンたちは足を止めずに走っている。

 どこか疲れたように小さく息を弾ませるリリアに対して、走りながらこれだけ立て続けに戦闘を行なっても息を切らさないセレンを見ていると流石は軍人だと言いたくなる。それだけ基礎的体力が多いのだろう。

 セレンは一瞬振り返り聞く。


 「リリアさん、まだ走れますか?」

 「え、ええ、まだ、もう少し、は」


 そう言ったもののその息は絶え絶えである。


 「あと少しなんで頑張ってください」


 もしできることなら背負ってあげたいが、道すがら目についたやつは片っ端から拘束しているとはいえ、自己進化を繰り返し化け物はその数を指数関数的に増やしていっている。流石のセレンもそんな状態で左手の剣を離すこと憚られる。

 セレンはどこか心の片隅に申し訳なさを感じる。

 そしてその思いが現れたかのようにセレンはリリアの腕を強く握った。瞬間、その右腕から先ほどまであったリリアの手の感覚がなくなる。まるで先ほどまであったものが霧になって手の隙間から逃げていったような感覚だった。

 リリアを引いていた分、行き場の無くした力で前方に一瞬倒れ込みそうになるが、左足を思いっきり踏み出して、体勢をどうにか立て直す。そして同時に後ろを振り返った。


 そこには何者かがリリアの左腕を掴み、口を塞いで蜃気楼のように空間に溶け込んでいく姿が見えた。

 あまりにも理解し難い状況に一瞬脳が理解を拒む。しばしの思考の停止の後、思考の加速が始まる。

 状況は至極単純だ。この混乱の最中、何者かがリリアを誘拐しようとしている。それだけは変わらない事実であり、あまりにも衝撃的事実だ。


 顔は影になり見ることは叶わないが、そのローブや体格からして、おそらくエンリを襲った襲撃犯だろう。


 セレンは咄嗟に剣を抜く。本能が理解する。目の前のリリアを誘拐しようとしている人間は明らかに同じ人種。戦い慣れている側の人間だ。薬によって魔獣へと変質し自己進化をして人を襲ってくる市民たちとは違う。

 リリアの手の感触がこの腕の中からなくなるまでその姿は愚か気配すら感じなかった。

 鮮やかそう言わざる得ない。手慣れてるとでも言うべきだろうか。誘拐になんら躊躇がない。今だってリリアを盾にするようにして立っている。まるで誘拐や人質のお手本を見てるようだ。


 警告はない。セレンは刹那の時間に蜃気楼のように消えていく誘拐犯の首を狙って刺突を繰り出す。迷いはない。迷っていたらリリアが誘拐されるどころか、その隙の殺されかねないと思ったのだ。

 誘拐犯は短剣の腹でその刺突を弾き、逆にセレンの目を狙い斬り払う。

 剣を戻している時間はないと判断したセレンは攻撃から逃れるように一歩後方へ足を引く。しかし誘拐犯はそれを狙っていたかのように短剣を切り返し、セレンの左手首を切った。

 血がどくどくと溢れ出てる。その光景を見たリリアが心配そうにセレンの名前も呼ぶも、その言葉は誘拐犯に口を塞がれているため籠もって声にならない。


 誘拐犯は再び剣を切り返し、セレンの頸動脈を狙う。

 セレンは腰を落とし、下から掬い上げるように剣を振り抜くも、誘拐犯の足は蜃気楼のようにゆらめいて攻撃が当たらない。もはや誘拐犯とリリアは体の一部と頭だけを残し、他は蜃気楼のように世界に溶け込んでいっている。


 座標魔術『三叉降臨』


 セレンは剣を地面に突き立て、三方向からの同時攻撃を行う。

 心臓を狙った同時攻撃を誘拐犯はやはり蜃気楼のように姿を消してその攻撃を避ける。そして、誘拐犯は短剣をセレンに目掛けて投擲する。

 突然の投擲攻撃に一瞬、驚くも普通に剣を振り上げ弾き、短剣は少し離れた地面に突き刺さる。

 意図の読めない攻撃に不気味な感覚を覚えると同時に、紅蓮の炎が視界の隅に映った。


 炎飛『紅蓮の廉槍』


 触れただけで全てを融解させる紅蓮の炎の槍だ。

 その刃先が地面に触れ、ばちばちと火花を飛ばし、地面が融解している。

 もし全力で紅蓮の槍を振り抜けば、このメインストリートはもちろん直線上にある二十キロのものが文字通り蒸発するだろう。

 あんなものをこんな街中で震わせるわけにいかない。ここには魔獣へと変えられた市民もいれば、そのほかの一般市民だっている。もし無差別に攻撃をされたら、その被害は想像したくもない。


 セレンは座標魔術で紅蓮の槍の破壊を試みる。一瞬その形をゆらめかせるもののすぐに形を戻し、その膨大な熱量をその手に握っている。

 そして誘拐犯はゆっくりと紅蓮の槍を振り上げて、太陽に突き立てるようにその刃先を天へと掲げた。

 槍は振り下ろされる。


 振り下ろされた槍は紅蓮の炎の軌跡を作り飛ばした。

 空気が焼ける音が聞こえる。地面に落ちた石が一瞬のうちに蒸発し紅蓮の炎の軌跡に向かうように暴風が吹き荒れる。


 「くそ!!」


 そんな悪態をつきながらセレンは座標魔術で暴風と熱の隔離を行い、飛んでくる紅蓮の炎の軌跡に自らの剣をぶつけた。全身が文字通り焼けるような痛みに襲われる。今生きてるのは座標魔術でその爆風と熱を上空に放出しているためであり、もし一瞬でも気を抜けば、この体は瞬きのうちに炭化してその生涯を終えることになるだろう。

 今もセレンが襲えられなかった暴風と熱で近くの燃えやすいものが発火し、熱暴風により、引き寄せられるかのようにして建物たちが崩れ、紅蓮の炎の軌跡の方へと物が飛んでいく。そしてある一点を超えた瞬間、姿形残さず気体へと変わる。


 思い出すのは数日前のエンリとの会話。なんでも彼は『賢者の天秤』が襲ってきたその日、朝の襲撃犯と同じ人間に夜再び襲われて戦ったらしい。その最中にこの炎飛『紅蓮の廉槍』を使ってきて避けたり防いだりして戦ったと、特に自慢するわけでもなくごく普通の出来事して話していたが、それが一体どれほど凄いことかは、今、これだけ全力で戦っている自分の姿を見れば少しは理解してくれるだろうか?

 軍の中でも炎飛『紅蓮の廉槍』を使う人間は少なくないが、これだけ威力を発揮できるのは、ごく僅かの限られた人間のみだろう。おそらくこの街にいる軍人で同等の威力を発揮できるのは思いつく限り二人だけだ。


 不意に誘拐犯が地面に紅蓮の槍を突き刺した。

 その瞬間、高圧、高温の火柱が噴き上がる。その火柱は誘拐犯を中心にその数を増やしていっている。

 なんとか視界内の火柱は座標魔術で上空へと転移し続けているが、流石にこれだけ並行して座標魔術を使うのは堪える。

 セレンはすでに座標魔術による暴風や熱の隔離を行っている上に、幾人もの魔獣へと姿を変えた人間を現在進行形で拘束し続けている。元々魔力消費が多い座標魔術がかけるセレンへの負担は相当なものだ。少なからず、その限界はすでに近づいてきている。現に今だって、どうにか火柱を転移し続けることができているが、これ以上、増えればいつかセレンの魔力量を超え、限界点に達する。そうなれば被害が出るのは火を見るよりも明らかだ。


 誘拐犯は手に持った紅蓮の槍をセレンに向かって投擲する。

 そしてまるで鍔迫り合いになっている紅蓮の炎の軌跡を後押しするように、剣にぶつかる。

 剣が一瞬、赤く熱を帯び、次の瞬間、発火する。

 魔法付与がされているから今なお、剣の形を保っているが、もしこの剣が普通の剣であったなら、今頃、私の体ごと燃やし尽くされていただろう。


 揺らいだ視界で誘拐犯の姿がもうすでに認識しづらいほどに世界に溶け込んでいて、リリアもまたその姿が認識しづらくなりつつあった。

 セレンは剣に魔力を纏わせ耐久力を上げ、座標魔術で空間を湾曲させる。そして紅蓮の炎の軌跡と紅蓮の槍を座標魔術で無理矢理に半分に切り裂き、四つへと分裂した炎たちは湾曲した空間内の中心に向かうように動き、自らの体にぶつかるようにしてぶつかり合う。そして炎を散らし、自らの熱量と魔力に耐えきれずに、自壊、その暴走的熱量と暴力的魔力は自壊の中心点となる一点に集中し圧縮される。


 誘拐犯はすでに紅蓮の槍を手放し、魔力の供給も制御もない。あとは蝋燭の消える瞬間のように一瞬にして最大の輝きで世界を照らし消えるだけだ。

 セレンがその圧縮された一点に向けて剣を突き刺した。座標魔術によって無限の体積を与えた剣内部に強制的にその圧縮された魔力たちを転移させ、ついでにあたりの火柱たちも剣の中に転移させる。そして脇目も振らずに全力の投球。座標魔術でその速度を指数関数的に加速させ、転移を繰り返す。


 数秒して、空の彼方で一つの太陽程に眩い火球となって爆発。空間を湾曲させたためにその爆発範囲は非常に小さい。しかし、その威力を殺せるわけもなく。爆発の中心点から一キロ圏内の全ての雲を蒸発させ、空に大穴をあける。

 地上にもその衝撃と真夏の南国の島ほどの温風が不規則に吹きつけた。

 もしあんな物が地上で爆発してたら……身震いしてしまう。

 エンリが以前会議で話していた「脅威はすぐそばにある」あの話はあながち間違っていないのかもしれない。


 そしてセレンはそんな思考を置き去りにするかの如く、空に火球が今なお輝き、温風が吹き付ける中、走り出す。

 予備の剣を基地から座標魔術で召喚し、いつの間にか溢れかえっている化け物たちの猛攻を交わしながら、リリアへと手を伸ばす。


 誘拐犯が使っている魔法はわからない。だが今、行われている魔法の酷使は確実に自分とリリアの二人だけ。もし私が座標魔術で無理やりその間に割り込めば、未知の変数により中断される可能性が高い。

 できればリリアさんへの負担が大きいためにやりたくないが、そうも言ってられない。もしここでこの誘拐犯を逃せば、この街の現状からして確実に捜査は遅れる。そうなればこの誘拐犯が何を企んでいるかは知らないが、ろくなことにはならないだろう。

 だってこの誘拐犯がエンリさんを襲った人間と同じならば、この人間は液体魔力を持っている。そして盗まれた液体魔力が使用された事件や事故が起きていない今、このあとそれが起こる可能性は高い。もし事件が起きればそれに誘拐されたリリアさんが巻き込まれる可能性は高くなるだろう。


 風が吹き抜けた。

 伸ばした手が届くまであと数センチのところでリリアが叫んだ。


 「セレン!」


 その言葉にセレンの意識は思考世界から現実世界へと引き戻される。

 セレンがリリアに触れる寸前、リリアの胸に穴が開く。蜃気楼のように世界に溶け、反対の景色を鮮明に見せる。

 そしてその胸の穴から飛びてくるは短剣を持った誘拐犯の刺突。セレンは紙一重で体を横に倒し避ける。首からは小さく一筋の鮮血が流れる。もしリリアが声をかけてくれず、あのまま手を伸ばしていたら確実に頸動脈を切り裂かれていただろう。


 奇襲に失敗した誘拐犯は実体を消した足を横に薙ぎ、セレンの体内で実体化させ、世にも珍しい脇腹への直接的な蹴りを入れ、横方向へと蹴り飛ばす。その衝撃で脇腹の肉と皮膚が抉られる。

 セレンは顔を顰め、小さく苦悶の声を上げたあと空中で姿勢を整え、地面に剣を突き刺す。

 完全に相手の方が上手だ。時間を掛けて姿を消していたのもわざとだ。焦った私が距離を詰めて的ところで、奇襲を仕掛け殺し、リリアさんの誘拐の知らせを遅らせるための作戦だ。

 その気になれば一部ではなく体全体を一瞬で蜃気楼のように姿を消すことができるのだろう。

 ゆえに奇襲に失敗した今、誘拐犯はゆっくり姿を消す理由は無くなった。これ以上時間を掛ければ魔力の消費も増え、軍の増援が来る可能性もある。おそらく、ここから先は私を殺すことを諦め逃げに徹するだろう。今からリリアさんに駆け寄ったところで間に合わないのは目に見えている。ならば!

 左手を勢いよく突き出した。


 『導鎖繋線(どうさけいせん)


 一本の鎖の線がセレンの手から蜃気楼のように消えていくリリアへと走る。

 大気を裂くように走ったその鎖は、リリアの姿見えなくなる寸前、まるで凪いだ水面に石を投げ入れるかのように魔力の波紋を見せながらリリアの体の中へと入っていく。

 そしてその瞬間、リリアの体は誘拐犯とともに完全に見えてなくなり、そこには最初から誰もいなかったかのように、街の喧騒だけを残し、姿形を消していた。

 セレンは脇腹を庇うように立ち上がり、リリアを誘拐犯から助けられなかった焦燥感と罪悪感に苛まれながら、このことを少しでも早くエンリたちに使えるため、全身が焼けたように痛む体に鞭を打ち、基地へと急いだ。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

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