交渉
ハージ・ジェルクたち『賢者の天秤』による裏路地宿襲撃から一週間。
エンリ、セレン、リアナの3人は今、軍の基地にある一室にいた。
会議室の中には、複数の軍人が溢れんばかりに詰めかけており、さまざまな場所からありとあらゆる意見が飛び交っている。その内容はどれもアリスのというホムンクルスの所在についての事柄であった。
「一刻も早く殺して『賢者の石』を取り出すべきだ!」
「いや、『ルーゼルバッハの石』を心臓に持ったアンクレイ博士のホムンクルスならばその研究価値は並のものではない!殺すなどバカのすることだ!保護して、隅々まで研究解析すべきだ。うまくいけば、同じような個体を量産できるかもしれない!」
「バカだと!?貴様ら錬金術師どもはことの重大さがわかっていない!あのホムンクルスとジェルク・ヒュードとの戦闘で一体どれほどの被害が出ているかわかっているのか!?路地裏は大迷宮とかして、別の世界の物質があちらこちらに現れ、戦場となった場所の未知の物質は今のところ撤去の目処すら経っていない!もし、あれが有害な物質を生成するようなものなら、今頃、この街は特定侵入禁止区域に指定されているぞ!」
「なら、『ルーゼルバッハの石』を回収しそれだけを研究するのは?それならアンクレイ博士のホムンクルスは失いが再び『ルーゼルバッハの石』が『賢者の天秤』に落ちることは免れる」
「いやだめだ!アンクレイ博士のホムンクルスだぞ!?その価値がいかほどかお前も錬金術師ならわかっているだろう!」
「とにかく、こんな身にもならない会議は一刻も早く終わらして殺すべきだ。もし錬金術師どもがそれを阻止するのなら私の部隊を使った強行する!」
「これだから魔術師は嫌いなんだ。論理を学んでおきながら論理的思考ができない」
「論理的な思考ができないのは同意するが、魔術師のいう通りホムンクルスは殺すべき、これもまた事実だ。もしまた彼ら『賢者の天秤』があのホムンクルスの前に姿を表し、戦闘行為に及ぶかわからない。今回はたまたま、怪我人が出なかったからよかったものの、あれだけの戦闘力を有したホムンクルスはもはや『研究道具』ではなく『兵器』だ。一刻も早く『賢者の石』を回収し、軍の管理下に置くべきだ」
「だから、何度も言っているだろ!あのホムンクルスは殺すな!軍で研究実験をするべきだ!」
こんなふうにいつまで経っても堂々巡りの会議。はじまったの早朝五時だったのに、今や時計の針は九時を指そうとしていた。
今の状況としては、基本的に仲の悪い魔術師と魔法使いがアリスを殺すべきだと主張し、錬金術師がアリスを軍の管理下に置き、研究すべきだというっている。そしてまた別の錬金術師がアリスから『ルーゼルバッハの石』を取り出し研究したいと言っている。
どうやら軍もまた組織であり、組織という形式上、派閥いうものは存在してしまうらしい。それで今回、錬金術師の軍人の中でもアリスを殺さない派閥と殺す派閥で分かれてしまっているようだ。
その上、他にも「ホルマリン漬けにすべきだ」とか「殺すのがだめなら生命活動できない状況にすればいいのでは?」とか「『ルーゼルバッハの石』を持つホムンクルスという例外的すぎる存在だけに、幾つにも封印して生き埋めにした方が安全なのでは?」とか「そもそも一度の戦闘で処遇を決めるのが間違っているのでは?様子を見て問題ないならそのままで、問題があるのなら然るべき処分をすればいいだけでは?」とか、あれやこれやと、人道的な意見から非人道的な意見まで出てくる出てくる。
もしこの光景を子供達に見せたら、大人が子供みたいな喧嘩をしていると笑うだろう。内容はその限りではないが、その様はまさに子供の喧嘩だ。
少なからず襲撃から一週間、その傷跡は軍の頭をこれだけ悩まさせるほどには深く深刻なもので、そろそろ答えを出したいのも本音だろう。
そしてそんなところに一人の軍人が口を開く。
「というか、世界変成の大錬金術なんて世界の物質を書き換えるような錬金術が一介のホムンクルスが使えることが問題では?ホムンクルスの所有者があれを使って錬金術を酷使することもできる上に、それ単体で脅威となりうる。少なからず、存在しているだけでいつだって世界変成の大錬金術が使われる脅威にこの国だけでなく、この惑星に住むすべての人間が晒され続ける。そうすれば国どころか世界の安全保障に関わる。そのことを考えれば、議論の余地もなく『賢者の石』を取り出すことが最善では?」
その言葉に一同静まり返る。この場にいるのは皆、魔法使いや魔術師、錬金術師といった使い手である前に国を守り国民を守る一軍人であるのだ。その事実を思い出し、世界の安全を考えるのなら、世界変成の大錬金術を酷使し、人権を有さないホムンクルスへ行うことは一つしかない。
誰一人反論しない空間。
答えが決した。
「待ってください!本当に殺すつもりなんですか?アリスを」
椅子を蹴り上げるように立ち上がるセレン。
その声が先ほどまで雑多な声で騒がしかった会議室を整然と響き渡る。
「セレン中尉、静かにしたまえ。見ての通り結論は出た。これ以上議論の余地はない」
「彼女は魂を有している可能性があります!もし魂を持っているのなら、彼女を殺すのは殺人と同義ですよ!」
「もし魂を持っていたとしてもだ。一人のホムンクルスと世界が脅威に晒され続ける事実、どっちが大事かは議論するまでもないだろ?」
「しかし……」
「しかしではない!」
アリスを殺すべきだと主張していた恰幅のいい魔術師の軍人が机をグーで殴り、セレンを恫喝した。
「そもそも、ことの発端は貴様が『賢者の天秤』から渦中のホムンクルスを守りきれなかった結果だろう!?お前がジェルク・ヒュードを捕まえていれば、ホムンクルスが街の路地裏を迷路にすることもなかったし、別世界の物質が残されることもなかった!だが、お前がヘマをしジェルク・ヒュードとホムンクルスの接触を許した結果、ホムンクルスは世界変成の大錬金術を酷使するまでになり、この国は愚か世界までもが脅威に晒されているのだろ!本来なら何らかの処分が下されてもおかしくないぞ!ハンに感謝しろ!あいつのおかげでお前はまだ、今回の件に関われているんだからな」
「……」
何も言い返すことができずに肩を窄め、俯くセレン。
そのフォローに入るようにリアナが恰幅のいい軍人に食ってかかる。
「最近の軍人は随分とおかしなことを言うのね」
「どう言う意味だ?」
「だってそうでしょ?セレンがあの時、最後まで必死に戦った結果、アリスは逃れた。結果として、世界の脅威になったけど、民間人に死傷者は誰一人として出ていない。今は少なからずね。もしあの時ジェルク・ヒュードたち『賢者の天秤』に『賢者の石』が奪われていたら、一体どうなっていたでしょうね?今頃、この街は阿鼻叫喚の地獄かも?いやもしかしたら世界かもね?少なからず、世界への脅威の対象が変わるだけで、あなたの想像力の足りない頭を悩ませるのは変わらなかったでしょうね」
「黙れ!冒険者風情が軍のことに首を突っ込むな!そもそもなんで冒険者がいる!?」
「アリスを守るのが私が冒険者ギルドから受けた依頼だもの」
「協力要請を受けた冒険者の一人か。なら軍の指示に従うのが筋ではないのか?会議に口を挟む権利はないだろ?」
「もちろん、会議に口を挟む権利はない。だから協力要請を受け取った際の指令である『アリスを保護・警護する』という指示に従ってるだけ。ただそれが外部からだけでなく、内部からも守ると言うだけで、指示通りに動いてるだけ」
「無茶苦茶な……」
誰かが呟いた声が聞こえてきた。確かに無茶苦茶だ。屁理屈に屁理屈を足したような暴論である。だがまあ、アリスを守りたいと言うことを第一に動いているリアナにとって、理由など瑣末な問題なのかも知れない。
実際、アリスの処刑が決まるまでは黙っていたわけだし、おそらく人道的な結論に落ち着けば、特に何を言うわけもなくことは終わっただろう。確かに、一人の少女に世界を滅ぼすだけの力を持っていることは事実にしても、それをただ一度、自分や大切な人を守るために使っただけで、世界の脅威と決めつけ、その責任を押し付けるには、あまりにも早く、あまりにも重すぎる。
少なからず、今は時間がないだけで、議論され尽くしたとは思えないのも事実であった。
「ええい!こんな小娘と話していても埒が明かない!もしこれ以上、ホムンクルスの処刑を邪魔だてするなら、無理やり牢屋に放り込む!」
「やってみなさいよ。素敵な楽園へご招待するわ」
「リアナ!?」
恰幅のいい軍人とリアナが舌戦をする発端となったセレンはどこか気まずそうに、オロオロしながらリアナを宥めるようにその肩に触れる。しかし一度、切って落とされた火蓋が元に戻ることはない。
恰幅のいい軍人が会議にいる他の軍人に指示を出し、リアナがその大剣に手を掛けようとした時、会議室を弾けるような目一杯の音が鳴り響く。
それはエンリが手を打ち鳴らした音であった。
静まり返る。
恰幅のいい軍人の指示で動こうとしていた幾人かの軍人が、その場でまるで悪戯がバレた猫のように動きを止め、リアナもまたエンリの方を覗き見る。セレンもリアナを止めようとその肩に触れたまま、エンリを見た。そして他にも恰幅のいい軍人とリアナの言い争いを静観していたけど他の軍人たちまでもエンリの方に視線を向けた。
「二人とも一度落ち着こう。白熱しすぎだ。ここは会議室であって、闘技場じゃない」
そう言ってエンリは二人を宥める。
それに少し冷静になったのか、リアナは大剣から手を離し、恰幅のいい軍人もリアナを捕らえようとしていた軍人たちに下がるよう指示する。
そして両者、矛を納めたのを確認して、エンリが口を開く。
「さて、正直な話、アリスから『ルーゼルバッハの石』が抜かれようと抜かれないと、俺の知ったことじゃない」
「な!?」
「エンリさん!?」
何か言いたげなリアナとセレンを静止し、言葉を続ける。
「そこの太った軍人の言い分も十二分にわかる。確かに世界を守るために顔も知らないようなホムンクルスを殺すのわけないだろう。この会議室にいる一部の軍人が、アリスを研究したのもわかる。彼女はいわば次世代のホムンクルスの可能性がある。軍からすればその利用価値はいくらでも考えられる。新たな戦争兵器でも、人間の完全な代替も。だが、俺個人としてアリスを研究動物にさせるつもりも、世界を守るために、殺させるつもりもない」
「軍の会議に私情を持ち込むのか?ふん、笑い話もいいところだな」
「当たる前だ、効率だけで動くなら猿にだってできる。本能は生きることに特化した最も効率的思考だからな」
エンリはさも当然のようにそう言って退ける。
「それで、もしアリスから『ルーゼルバッハの石』を無理矢理にでも取り出したいなら、代わりに誰から心臓をもらう。それを移植すればアリスはこれからも生きていけるだろう。多少、錬金術が使えなくなったりするかもしれないが、少なからず殺される理由はなくなる。ああ、安心してくれ、取り出した『ルーゼルバッハの石』はアリスに移植した心臓の代わりにもらった人間にあげる。うまくやれば十分、心臓として機能をもたすことができるはずだ」
「そんな馬鹿な話あるか!なぜ、ホムンクルスなんかに心臓を移植せねばいけない!」
「道徳の話をご所望?それなら教会に行って神父にも聞いてくれ」
「違う!なぜホムンクルスをそこまでして生かす必要があるのか言っているんだ!たかが消耗品、捨て置けばいいだろ!」
「なるほど、生物の定義ついて話し合いたいわけだ」
「ちがっ……」
エンリは恰幅のいい軍人の言葉を遮って口を開く。
「そもそも、一般的に広く知られている生物の定義は主に三つ、肉体、意識、魂だ。これは元々、魔術の考えだったのが後に生物の定義として錬金術に流用され、その後一般的に広がった。だが、問題はここからだ。魔法においては生物の定義は、存在、自らに魔力等の力を有する、の二つのだけだ。その場所に存在していて、魔力とか霊力とか龍脈とかなんらかの自らの存在させる力を持っていれば、生物と扱われる。なら魔獣研究においての生物の定義は?一つは存在、もう一つは自らに魔力等の力を有する、そして目的を有すること、の三つ。最後のについては研究者の間でも含めるか含めないかで意見が割れてるが、基本的には三つ目も含めて、魔獣の研究者は研究や実験をおこなっている。そして、生物学ならどうだ?外界からの自己の確立、代謝、生殖の三つだ。他にもあるぞ、死霊術やネクロマンサー、精霊術に神聖術など、個々によって生物の定義は違う。これ以上話し続けると長くなりそうだからやめるけど、とにかく言いたいのは、殺したくない人がいるなら、それを守るのがそう思ったやつのやるべきことだろ」
この世界の命に対する考え方は人それぞれだ。いろいろな見解があるものをうまいこと咀嚼して生きている。だから今、目の間にいる恰幅いい魔術師の軍人のようにホムンクルスを道具として見る人間もいれば、俺やリアナ、セレンたちのようにホムンクルスを一人間として考える人たちもいる。
それはもはや育った環境や性格に起因するもので、人の形をした質の良い道具として扱うか、ホムンクルスが人と同じ形をしてるが故に、道具として扱うのを躊躇うかは、その人次第だ。
エンリは傍に置いてあったトランクケースの中を漁りながら、言葉を再び紡ぐ。
「それにアリスが世界の脅威だから殺す?馬鹿馬鹿しい。今更、この世界に脅威の一つや二つ増えたところで、大した問題じゃないだろ。一万が一万一になる程度の誤差だ。少なからず、一介のテロリストが<荷電粒子砲>を酷使することができて、山を降りれば、龍脈を辿って龍が現れたり、早朝の朝を歩けば謎の襲撃者に殺されかけたり、正体不明なんていう別次元の存在が……と言っても認識できないか。とにかく、結局のところこの世界はガラス玉に作った砂の城みたいなもので、いつどうなってもおかしくないってことだ」
そう言ってエンリは机の上に一つの小瓶を置く。
中には紫を基調に光の加減で虹色に輝く霧状の物体。完全に封が閉ざされ、その姿を除くだけでなぜか体が忌避感からか目を逸らそうとする。
徐に取り出されたその小瓶に会議室にいるみんなの視線を注がれる。
「これはヒュドラの吐息を一億分の一に希釈したものだ」
その言葉に全員が椅子を蹴り上げる勢いで立ち上がり、エンリから距離を取ろうと後ずさる。
「もちろん、一度封を切ればここにいる全員が吐き気、嘔吐、下痢といった基本的な症状を招き、他にも頭痛や幻覚、幻聴といった症状も起きる。あと思考力が低下して、何でもかんでも楽しくなれる。そしてこっちが、希釈していない100%純粋なヒュドラの吐息だ」
そう言って、机の上にもう一つの小瓶を置く。直視することができない。その姿を視界に入れただけで毒に侵されてしまいそうだ。
リアナがどこか悲痛な声で叫ぶ。
「なんで、あんたそんなもの持ってるのよ!?早く仕舞いなさいよ!」
「そうですよ!というか本当にヒュドラの吐息を持ってるとか、普通に引きます」
全員が全員、エンリもといヒュドラの吐息が入った小瓶から距離を取ろうと壁の方へ下がる。今、目の前にあるのが本物のヒュドラの吐息かどうかは確認しまくても本能でわかるのだ。それほどに危険な代物であるのだ。
エンリは何騒いでいるリアナとセレンを無視して、言葉を続けた。
「もし、この小瓶を開ければ、これから100年。ここを中心に半径十キロは生命が生存できない地域になる。わかるよな?」
「お、脅しのつもりか?」
「まさか君が、ハンの報告書にあった危険物を大量に持ち込んだ上に、最近、液体魔力を盗まれたっていう人間か!」
「……一度落ち着いて、話し合おう」
先ほどまであれだけ威勢が良かった軍人たちも今では、どこか怯えた様子だ。
「別に開けるつもりはないよ。ただ、言いたいのは脅威はいつだってそばにある。もしその気になれば誰だって、世界に牙を向けるってことだ。俺だけじゃない。ここにいる全ての人がそうなる可能性を孕んでる。もちろんここにいない人もだ。今公園で遊んでる子供が将来は、ハージ・ジェルクのように<荷電粒子砲>を使えるようになるかもしれないし、神話の時代の存在が復活して、世界に宣戦布告する可能性だって十二分にあるだろ?だから、今更、アリス一人殺したところで、世界はそう変わらないってことだ。これでもまだアリスを殺す理由がある?」
エンリは机の上に置いた小瓶をしまい。壁ギリギリまで逃げていた人たちが恐る恐る椅子に座る。全員が落ち着いたのを確認してエンリはもう一度話し始めた。
「それに考え方を変えれば、アリスという大錬金術を酷使できるホムンクルスがハージ・ジェルクという<荷電粒子砲>を扱う世界的テロリストから『ルーゼルバッハの石』を守ると考えれば、悪い条件じゃない。それとアリスを殺して無理矢理にでも『ルーゼルバッハの石』を取り出すなら、その時、もう一度アリスの手によって大錬金術が酷使される可能性が高いから。どうも『ルーゼルバッハの石』は彼女の感情や意志に呼応してる気がしてならない。今回の戦闘に関しても路地裏が迷路のように作り替えられた時、その範囲にいた人は皆、戦闘の中心から一番遠い場所に移動させられていた。多分、『ルーゼルバッハの石』が彼女の意志を汲み取って、周りの人を避難させたんだろう。なら、もし彼女が「生きたい」と望んだのなら、一体、『ルーゼルバッハの石』何をするだろうね……」
エンリはそう不敵に笑った。
そうこれは脅しではない。忠告だ。最初に言った通り、俺は『ルーゼルバッハの石』をアリスから取り出そうと取り出さまいとどちらでも構わない。だが、もし取り出すのなら相応の覚悟が必要だ。それはアリスが正真正銘の世界の敵となり、この世界に厄災を振り撒くという覚悟が。
彼女は実に不安定な状態なのだ。彼女はホムンクルスだ。その事実は変わりようがない。いかに魂を持とうとも意志を持とうとも人間には決してなれない。ゆえに彼女はその内面にホムンクルスの純真さと人間の弱さを併せ持つ。
ハージ・ジェルクと対峙して彼女は一体、何を思っただろう。どんなことを望めば、大錬金術なんていう自らの身を滅ぼすのような錬金術を『ルーゼルバッハの石』は許容したのだろう。殺意だろうか?敵意だろうか?憎しみだろうか?もしくは自らの死を望んだのだろうか?
自分の前で身近な人が次々と傷を負い倒れていく姿を彼女はどう思ったのだろう。悲しかったかもしれない。苦しかったかもしれない。怖かったかもしれない。それとも後悔していたかもしれない。
俺にはアリスにその答えを聞くなんてことは怖く出て来ない。
彼女は純粋だ。純粋ゆえに恐怖も後悔も殺意も悪意も全てをその人間の弱い心で受け止める。その時、彼女は壊れないで済むだろうか?人間の弱い心で。フィルターに通さないで受け取る世界を恨まないで済むだろうか?
だから彼女には時間が必要だ。人間の心を持つホムンクルスには世界に慣れる時間が。
だから人が必要だ。善意と悪意が溢れる世界で楽しいと思えるように。
だから居場所が必要だ。彼女がこの世界で帰る場所があるように。
だから光が必要だ。暗闇をゆくことになっても先を照らすことができるように。
いつか必ずアリスはこの世界に絶望し、恨む時が来るだろう。その時、隣に立っているのは多分、俺やリアナ、キリヤたちじゃない。顔も名前も知らないような誰かだ。
だから今のうちに教えておこう。絶望し恨んだ世界を、再びこんなにも素晴らしく美しい世界だと言えるように。
それが今の俺たちになすべきことだ。
エンリはそう静かに思う。
先ほどまでうるさかった会議室が静かになり始めた。どうやら最終決定が下されたらしい。
最後の脅……忠告が聞いたのかどうかはわからないが、元々、要保護対象だったことも功をそうし、処刑の結論は見直され、結果として何枚かの書類と緊急時以外において、民間人が多くいる場所や公共施設などの場所、軍や保護者の見えない場所及び許可なく錬金術を使わないという制限のみで済んだ。一応、今回の件……『賢者の天秤』がこの街に潜伏し、いつどこでアリスを狙うかわからない今、事が片付くまで、他にも幾らか行動に制限がつくようになるらしいがまあ許容範囲内だ。これ以上を望むのは流石に高望みし過ぎだろう。
今回はアリスの処刑を取り下げることだけができた良かったということにしよう。
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場所は変わってキリヤが務めるシルバルサ魔法医学研究所。時刻は午前十一時三十分を過ぎた頃。
シルバルサ魔法医学研究所はその名前にこそ研究所と入っているが、実際のところは研究者や研究者兼医者が多く在籍する大学病院のような場所であり、その設備は周りの研究所が唸るほどのものである。その上、在籍している教授や研究者、医者たちのその奥は何らかの功績を上げ、研究所にスカウトされた人間か、その能力を教授らに認められ推薦された人間ばかりである。いわば天才と呼ばれる人間が多く在籍している王国においても権威の高い研究所であった。
そして能力ばかりを重視するばかりに、研究所にはなぜかコーヒーで風呂に入る研究者や着ぐるみ姿で過ごしている医者だったり、一癖も二癖もあるいわゆる変人が多く集まっているのだが、その能力は確かである。
そんな場所に今、アリスとキリヤはいた。
一体誰が置いていったのか、部屋中に散乱した大量のワニの模型の隙間に用意した椅子にアリスを座らせ、その前でワニの背中に腰掛けるようにキリヤは手に持ったカルテと睨めっこしている。
なぜ本来なら基地で拘束されていてもおかしくないアリスが平然とその処遇が決まる会議の前に、キリヤの勤める研究所にいるのか、それは今から遡ること一週間前の『賢者の天秤』に襲撃された夜のことだった。
心臓を貫かれたり、肺に穴が空いたり、その他いろいろ多くの傷を負ったリアナたちは緊急で軍の医療施設へと担ぎ込まれ、一番傷の浅かったキリヤさえ3時間もの間、生死の境を彷徨い医者が付きっきりで治療を受けた。
キリヤが最後に見た景色は、リリアがアリスを連れて逃げていく姿。そこから先は記憶がない。目を覚ました時、僕を治療してくれた先生が『ここに運び込まれる前に彼が延命処置をしてなかったら、今頃みんな仲良くあの世行きだよ』そう言っていたのを覚えている。
それを聞いた瞬間、名前を聞かなくてもそれが誰なのかわかった。
会ったら感謝を言わなくちゃいけないな、と思ったのも束の間、エンリが全身に包帯を巻いたアリスを抱きかかえ、病室にやってきたのだ。
僕は混乱した。だってアリスはどう見てもベッドから動かしていいような状態でもなかった。そのアリスがどこか安心したような様子でアリスに抱きかかえられまた別の怪我人の部屋に入ってきたのだ、混乱の一つや二つする。
そして彼はベッドの上で包帯を巻かれ、輸血を受けている俺に対して言ったんだ。アリスを守ってほしいと。
彼は多くは語らなかった。しかしその眼差しは真剣で何か重大な問題に直面しているのはわかった。そしてそれはアリスの今後を決めるような重大なことだと理解もできた。でなければ、全身に包帯を巻いている怪我人をベッドの上で動くこともままならない医者の前に連れてこないだろう。
僕はそれを快諾し、エンリはありがとう、と笑った。
軋む体に鞭を打ち、車椅子へと乗り換え、僕は自分の勤める研究室へ行くように言った。あそこならアリスの健康診断も可能だし、意識が戻った今、自分自身で治療することもできる。そうなれば設備が揃っている。その上、研究所という性質上、多くの危険な物質や秘密を保持するため、波の軍の基地よりも強固なセキュリティーと警備が引かれている。あそこほど最適な場所もそうない。
道中、話を聞いた。全員の命がひとまず助かったこと、アリスがハージ・ジェルクと戦ったこと、その際『賢者の石』を覚醒させ、世界を塗り替えるような錬金術を使ったこと、それを途中で止めたこと、その錬金術を使ったのがアリスだとバレたこと、治療受けた際ホムンクルスだとバレたこと、そしてすでにエンリが想定していた事態がより最悪の形で実現してしまったこと。つまり軍がアリスというホムンクルスの処遇を語り始めたということ。
おそらくこのままではアリスが理不尽な扱いを受けるだろうと察したエンリがいち早く、軍が礼状や処遇の答えを出すアリスへの拘束力を持たないうちに、保護したかったのだろう。実際、アリスを研究所へ向かいれた1時間後にはアリスを拘束すると何人かの軍人が研究所にやってきたが、たまたま研究所に泊まっていた同じ研究室の別の研究員とエンリがあんま口に出せない方法で追い返してた。
何でも相手が非合法的手段で来るならこっちはより非合法的手段を使うと言っていた。
そのあとは軍人を追い払ってくれた研究員と朝になって研究室にやってきた他の研究員たちに匿ってもらい。二日後にはエンリとセレン、ヨラルが頑張って処遇決定までの間、二人の軍人の監視を研究室近くの廊下に配置する条件でとりあえずの自由は確約できた。
これがアリスが今、この研究所にいる理由である。
そして健康診断を受けているのは、『賢者の石』の覚醒なんていうよくわからない現象による影響がないか調べるためである。キリヤは錬金術師ではないため、専門的なことはわからないにしても、これでも医者である体に問題があれば些細なことでも気づく自信がある。
しかし、そうは意気込んでみるものの特に問題らしい問題は見当たらず、ハージ・ジェルクとの戦闘でついた傷もいつの間にかまるであの出来事が嘘のように綺麗さっぱり治って、至って健康体そのものである。
それ自体は非常にいいことなのだが、エンリの話を聞いた限り、その『賢者の石』の覚醒と大錬金術の酷使は相当の負担がかかるらしい。そうなれば何の影響も見られない今のアリスの状態に多少首を捻りたくなるのも事実である。まあ、こればかりはエンリが来てから相談してみるしかない。
「ちょっと何?このワニの群れ!」
そんな声が聞こえてくる。
振り返るとそこには高身長の男が立っていた。胸元を大きく開けたピンクのシャツを羽織り、白いズボンを履いた彼の手には黒の有名スイーツ店の袋が握られていた。
「僕が聞きたいぐらいですよ。アリスを連れて朝食を食べに食堂に行って戻ってきたらこれなんですから」
「多分、ウルちゃんの仕業ね。昨日、帰る時に色々倉庫の方に運んでたから」
「なるほど、ウルさんか……」
「ま、あとで私が片付けるよう、言っとくわ」
「お願いします……」
そう言ってキリヤは再びカルテに視線を落とす。
「アリスちゃん、そこでチョコ買って来たから一緒に食べないかしら?最近流行りのやつなのだけど」
「……食べる」
アリスはぴょんと椅子から飛び降りて、高身長の男の方へと近寄っていく。
そこには警戒している雰囲気はまるでない。男が用意してくれた椅子に座り、机の上に置かれたチョコが入った紙袋を楽しそうに眺め見ている。その光景はリアナのような姉と妹のような関係というよりはリリアのような母と子のような関係を想起させる。
オルト・ウェルズ。それが男の名前であった。
彼は一週間前、キリヤとアリスたちがこの研究所にやって来た時に研究所に泊まっていた研究員であり、エンリとともに軍人を追い返した研究員であった。
最初こそオルトを警戒していたアリスだったが、色々なお菓子や本を持ってきたり、何度も軍人から匿ってくれている姿を見ていくうちに、彼女の母親であるアンクレイ博士と同じ研究員ということもあってどこか似たものを感じたのか、少しずつ心を開き、今では一緒にチョコを食べるぐらいの関係性にはなっていた。
「チョコって美味しいけど、食べ過ぎると頭痛くなるのよね。どうにかならないかしら?」
「チョコ食べなければいいじゃない?」
「いやよ。私の体は砂糖と可愛いものと愛でできてるんだから」
「なら仕方がないね……」
「そうね、甘んじてこの痛みを受け入れることにするわ。どう?キリヤくんもこの痛みを共有してみない?」
そう言ってオルトはワニの背中でカルテを見ていたキリヤにチョコの箱を差し出す。その中からいただきます、と小さく会釈して適当なチョコを受け取り、口の中に入れる。
ほろ苦いチョコの中からトロッとした甘いチョコが溢れ出てくる。口の中でミルクココアが作られるような味だ。確かにこれは人気になるのもわかる。
「どうかしら?この苦しみを共有できた?」
「さっきから表現の仕方が重いです」
そう言ってワニの背中から立ち上がり、背伸びする。
カルテを自分の机の上に置く。
「健康診断はもう終わり?」
「うん、もう終わり。至って健康な体だよ。教科書に載せれるぐらいだ」
「本当?」
「もちろん」
キリヤはそう笑う。
文字通り傷一つないそれ身一つで芸術を体現したような人間の完成体とも言える体をしていた。
不意に部屋の扉が開いた。
「オルト博士、少しいいですか?」
「あら何かしら?」
「今度、王都で行われる学会の資料の確認をしてほしくて」
「わかった、すぐに行くわ」
そういうとオルトは席を立ち、人気者は忙しいわ、と言いながらアリスにウィンクをし部屋を出ていく。
学園にいた時もそうであったが、やはりこの時期になると大きな発表会や学会が多くなり、その準備やらで忙しくなるのはどこでも変わらないらしい。
まあうちの研究室の研究員たちはオルトさんと自分を抜き、大半が夏休みの最終日に宿題をやるタイプの人ばかりなので、さらに騒がしくなるのはもう少し後のほうだろう。現に研究とはなんら関係ないワニの模型で部屋を覆い隠すぐらいには自由を満喫しているようだ。
しばらくして扉をノックすると音と共に一人の軍人が入ってくる。
「キリヤさん、少しいいですか?軍からあなたへ連絡です」
「今行きます」
そういってキリヤは扉の手前で待っている軍人の元へと向かう。
そして部屋を出る前に振り返って、アリスの方を見る。
「いい、アリス。何かあったら大きい声出すんだよ?」
「わかった」
「残ってるチョコ全部食べてもいいけど、お昼ご飯のことも忘れないでね?」
「うん」
「あと、地面にいっぱいするワニには触れないで、もしかしたら噛むかもしれないから」
キリヤがそういうとアリスが小さく笑みを浮かべ、大丈夫と言う。その姿を見たキリヤは、じゃ少し待っててね、と部屋を出ていく。
部屋の壁は部屋と部屋を隔てる壁は普通の不透明なごく一般的な壁であるが、廊下と部屋を隔てる壁は、昔、ある研究員が秘密である実験をしており、その時に起きた事故から何でもガラス張りに変わったらしい。
ゆえに廊下から部屋の中を見ることができて、何か異変があれば、廊下の前に立ちアリスを監視している軍人はもちろん、その前を通りかかる他の研究員だって気づくことができるだろう。
そうキリヤはどこか安心して、自分を呼んだ軍人の後ろをついて行った。
カチ、カチ、壁にかけられた時計が時を刻む音が部屋の中を反響する。
今思えば、この研究所に来てから初めて一人になったかもしれない。アリスはそんなことを考えながら、オルトが残していったチョコを一つ口に含む。
舌の上でコロコロとチョコを転がしていくうちに、少しずつ味が変わっていく。最初は普通のチョコの味だったのが、ホワイトチョコ、ストロベリーチョコ、オレンジチョコ、バニラチョコと変わっていく。そして最後に丸かったチョコが割れて中からチョコクッキーが溢れ出す。
廊下の方を見れば前を行き交う人たちの姿が見えるけど、どこか音のないこの部屋は物悲しく感じた。
「ホムンクルスであろうとチョコを大量に摂取すれば虫歯になるぞ」
それは本来聞こえてきてはいけない声、この場にいるはずのない人間の声であった。
アリスは咄嗟に声が聞こえた方へ振り返る。
そこには目から頬まで裂け、左目に十字の焼き傷がある男、ハージ・ジェルクその人であった。
「だ……!!」
「あっと、大声は出さないでくれた方が助かる。別にことを荒立てにきたわけじゃないんだ」
アリスが大声を出そうとしたのを見計らって、ハージ・ジェルクはそう言う。
一体どうやってここに入ったの?扉が開く音が愚か、足音さえ聞こえなかった。そもそも廊下の前で立っている軍人さんの前をどうやって通ってきたんだ。彼は見間違いないほどには特徴的な顔をしているだろ。
そんな疑問がアリスの頭の中で巻き起こり、大渋滞を起こす。しかし考えても考えても至高の泥沼にハマるだけで答えを見つけられそうにもない。
「一体、何しにきたの……?私を殺しにきた?」
「君を殺しに?まさか。今回来たのは別の理由……でもないけど、まあ殺しに来たわけじゃないよ。ちょっと話し合いでもしようかと思って」
「話し合い?」
「そう、話し合い。……というかなんでこんなにもワニの標本が?」
ごもっともな疑問に首を傾げ、ハージ・ジェルクはアリスと会話をしながら部屋の中を物色する。適当な資料を手に取って中を覗き見ては元の場所に戻し、また棚からファイルを取り出して見てはまたしまう。そして机の上に置いてあったカルテを手に取り、中身を読む。
十秒ほどだろうか、大方の内容を流し読みしたハージ・ジェルクはどこか楽しげにアリスに話しかける。
「これは君のカルテだろ?見ただけですぐわかる。まるで芸術だ。ありとあらゆる数値が最も適した位置に存在している。数値が理論値に存在しすぎて逆に異常と言わざる得ないほどには」
「雑談はいい、本題に移って」
「まあ、そう言わないで、会話は人間において重要な行為の一つだ。それが今日の天気や明日の夕食が内容のような雑談であろうと国の行く末や学術的に重要ような会話であろうと、本質は単なる言葉と言葉のキャッチボールだ。話す人間によってその意味は大きく変わる。例えば明日の天気が雨だと友人二人に話したら、画家の友人は雨の絵が描けると喜び、もう一人の大道芸人の友人は外で芸ができないと嘆くかもしれない。些細な会話であろうとそこに意味を見出すのはいつだって聞き手次第だ。違う?」
「どうでもいい。私はあなたと会話したくない」
「うーん、辛辣だな。アンクレイ博士は尊敬していたが決して仲がいいとは言えなかった。それはどうやら親子ともども同じみたいだね。まあ、いいや、君との会話は十分楽しめた。そろそろ本題に入ろう」
そう言ってハージ・ジェルクはカルテを机の上に投げ置き、何の背中に腰を下ろす。
腰を下ろしたワニの目が赤く光る。
「まず最初に、君に謝らないといけないことがあるんだ」
「謝らないといけないこと?リリアお姉ちゃんたちを殺そうとしたこと?」
「いや違う。君の母親のことについてだ」
アリスが殺気立つのがわかる。
しかしハージ・ジェルクはそれを気にしないで話を続ける。
「端的に言えば、彼女は生きてるよ。今もまだ」
「それは本当?」
「ああ、本当だ。会わせることだってできる。だが、会いたいなら条件がある」
「条件?」
「そうだ。君の心臓つまり『ルーゼルバッハの石』をくれればいい。もしこの条件が飲めるのなら、君とアンクレイ博士が三十分間、会えるよう調整しよう」
「それは私を殺すことを諦めたってこと?」
「今のところは」
「そう……」
アリスは俯き黙りこくる。
もしもう一度、お母さんに会えるのならこの命を投げ打ってでも会いたい。だが、もし心臓を渡せば、その結末が最悪のものになるのは目に見えている。私はすでにこの『ルーゼルバッハの石』が持っている力を知ってしまった。ハージ・ジェルクら『賢者の天秤』にこの力が渡ればその凄惨たる世界を想像するのは難しくない。そしてその被害を受けるのは私ではなく、私以外の人たち。
無関係の人間に大きな厄災を残すことになる。
自らの心情と世界。どちらが大事かなんて天秤にかけるまでもない。だがそれでもハージ・ジェルクが持ちかけたこの取引が魅力的に感じるのはホムンクルスにはない心がある証拠だろ。
今になって思う。自分が普通のホムンクルスであればどれだけ楽であったか。一言命じられるだけでそれを実行できるのだ。自分の意思とは関係なく。単なる道具として無情にも切り捨てることができる。それができれば、今の苦悩はなかっただろう。
ワニの目が先ほどよりも強く赤く輝いている。
まるで力を溜めているようだ。
その光景にアリスもハージ・ジェルクも気づくことはない。
「別に今ここで答えを出せって言ってるわけじゃない。そうだな……三日後の新月の夜までを期限としようか。それまでに答えを出してここに来てくれ」
そう言ってハージ・ジェルクは一枚の封筒をアリスに渡す。そして付け加えるように言葉を続ける。
「あっと、もし三日後の新月の夜が過ぎて、陽が登ったら、その時は君の身近な誰かが君のそばからいなくなるかもね?例えば、前回君を庇って刺されたあの娘なんかちょうどいいかもね?」
それは純然たる脅しであった。その瞳には狂気の笑みが浮かんでいる。
その言葉にアリスは目つきを鋭くして、
「もし私の大切な人たちに指一本でも触れたら、次の日からは土のベッドで夜を明かすことになる」
「それは怖い。枕と毛布でも用意しとくよ」
そんなジョークを言った瞬間、ハージ・ジェルクが座っているワニの目が強く赤く光った。そして次の瞬間、口からまるでドラゴンのように炎を吹き出す。炎は射線上にあった他のワニの模型を溶かし、ドロドロの泥細工のようにしてしまう。
上に座っていたハージ・ジェルクは突然の出来事にあっつ!、と叫びながら横へと逃れて、アリスも椅子を蹴り上げるように立ち上がり、後ろへと一歩後ろに下がる。
そして五秒ほどして炎が止まると同時に火災報知器が作動し、天井から水が降ってくる。
「なんでワニが火を吐くんだ!これだから魔法使いや魔術師は嫌いなんだ!あいつらは何するかわからない!」
そんな言葉と異変に気づいたキリヤと二人の軍人が部屋の中に入ってくる。
「アリス、大丈夫か!?」
「う、うん、大丈夫」
そう言ってアリスはジリジリとキリヤたちの方へと近づき、その後ろに立つ。
そしてキリヤがハージ・ジェルクを睨んだ。
「ハージ・ジェルク……」
「一週間ぶりだな、魔法使いの医者。ここは君の研究室か。なんというか、ワニの模型は片付けたほうがいい。なんでこんな危険物がここにあるのか理解できない」
いや、それは本当にそう思う。どうやらこのワニの模型は火炎放射器がついたものらしい。一体何をどう思って火炎放射器付きのワニの模型を部屋に敷き詰めたのかは知らないが、おかげで部屋の異変に気づけたのも事実であった。一応ウルさんには感謝すべきだろう。
そんなことを頭の片隅で考えていると二人の軍人のうち、一人が裏返った声を張り上げる。
「ジェルク・ヒュード、貴様を逮捕する。大人しく手を頭の裏にまわし、膝を地面につけ!」
「うるさい、雑兵。不愉快だ」
そういうとハージ・ジェルクは地面から岩へと変えて槍を構えている二人の軍人をガラスの壁へと叩きつける。骨が砕ける音と共にガラスにヒビが入る。しかしそれでも割れないのはここに使われているガラスが魔法で強化された超強化特殊ガラスだからだろう。
「せっかく、誰にもバレないようきたのにこれじゃあ、意味がない」
ハージ・ジェルクがそういうと体が霧散し始める。それは肉体の状態変化。エンリとの初めて戦った時に見せた危険度が極めて高い技であった。
その光景を信じられないもののように見るキリヤとアリスに、
「あの学者くんと戦って以来、練習してるんだ。かなり様になっただろ?」
すでに足と胴体の半分は霧へと化している。その霧化が胸を超え首の部分にまで差し掛かった時、言った。
「そうだ、学者くんに伝えといてくれ、『パーティーの準備はできた。いつでも歓迎する』って」
その言葉を言い終わると同時にハージ・ジェルクの体は完全に霧へと変わり、姿を消した。
残されたのは火災報知器から出た水で水浸しになった部屋と、ワニの口から吹き出された炎で溶けた物たちだけである。
キリヤはアリスに尋ねる。
「大丈夫だった、アリス?なんか変なこと言われたり、されたりしてない?」
「うん、大丈夫。何にもなかったよ……」
アリスはそう言ってハージ・ジェルクからもらった封筒を服の中に隠した。
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