襲撃<終>
「まずい!」
そうハージ・ジェルクが憂いた。
隣の壁に触れ、剣山を押し付けるようにその石でできた三角錐の棘を撃ち放つ。しかしそれはアリスに当たる前に砂となって地面にサラサラと落ちる。
それを見たハージ・ジェルクは地面をアイスクリームのように手で掬い、小さな玉にしてアリスに投げつける。そしてそれらはまるで元素が結合するかのようにアリスから少し離れた場所でくっつき、一斉にその針をアリスへ伸ばした。しかしそれらはアリスの鼻先で止まる。
次の瞬間、その壁が迫り出し、床と天井がアリスを挟み込むように近づいてくる。12層の鉄と炭素で構成されたそれらは微量の金、銀、銅及び珪素を含み、その質量はおおよそ人が支えられるものではない。それが9歳の身体能力しか持たないアリスであればなおさら。
それらは金属が擦れる時になる特有の音を鳴らしながら、アリスを隙間なく閉じ込める。
そしてじわじわ、じわじわと、確実に押し潰していく。それはまるで人が手に持った卵をゆっくりと時間をかけて潰していく行いに近かった。それらが完全に重なり合うその時、切断された。
長方形にされたそれらがもしパンなのであれば、サンドイッチを作るのに適切だっただろう。しかしそれらは鉄と炭素とそれら諸々で構成された物体である。人の食用には向かない。
長方形に切られた鉄は、整列した兵隊のようにアリスの後方に並び立つ。そしてさらに細かく、無数の凶器となって、射出された。
狭い路地、逃げ場はない。ハージ・ジェルク達は壁を作り、攻撃を凌ごうとする。しかしその無数の凶器はまるで統率の取れた部隊のようにその壁を削り、打ち破る。そして大蛇のように揺らいでその鉄と刃の体を持ってして、ハージ・ジェルク達を喰らう。
体を斬るような破るような抉られるような痛みが一斉に襲ってくる。
避ける事は愚か防ぐことすらできない。せいぜい、死なないように急所を守ることが精一杯だ。
一人の黒ローブが先んじた。
地面を蹴り、壁を蹴り、その槍をアリスへと突き下ろす。
しかしその判断は早計であった。彼はもっと考えるべきであった。なぜあのハージ・ジェルクが弟子である黒ローブやアスカノールに命令することなく、いち早く、自ら動いたのかを。それが意味するところを。
槍がアリスに当たる刹那の間、それは一瞬にして石灰へと変わり果て、その握力と月の速度に耐えきれず、ボロボロと地面に崩れ落ちた。
振り下ろされるは鉄槌。幅1メートルほどの円柱が黒ローブを打ち上げ、口を開けるように円柱は縦に裂け黒ローブを飲み込み、咀嚼する。
そして壁に叩きつけるように投げ出し、その顔を踏み潰そうとした時、ハージ・ジェルクがその間に壁を作り、少しの時間を作る。その隙に地面を隆起させ、血だらけで地面に落ちた黒ローブを回収した。
その姿を一瞥すると、他の黒ローブに言う。
「お前達では太刀打ちできなそうだな。邪魔にならないよう、早く捌けて」
「わかりました」
そう言って二人の黒ローブは地面に倒れている黒ローブを持ち上げると後方へと一歩飛び退き、アリスに背を向けた。そして路地を疾走する。全力の逃走。全霊の防衛である。
その光景をアリスは冷ややかに、まるでライオンに食べられる小動物を見るような憐れみのような、同情のような、冷徹な瞳で眺めみた。
何が捻じ曲がる音が路地に響いた。そしてそれは次第に勢いよく何かが閉まるようなぶつかるような音へと変えていく。
それは路地が形を変える音。アリスの錬金術によって、まるで幾億もの壁と柱が生み出され摩天楼のように逃げ場のない牢獄へと変わっていく音だ。
次の瞬間、ハージ・ジェルクの横を高速の何かが通り過ぎる。それは先ほどこの場から逃走を図った部下であり弟子である黒ローブの三人組だ。
全身を真っ赤に染め上げ、その手には獲物が握られているものの、抵抗できた様子は一切ない。
いくつもの武器によって構成された鉄の蛇が、巨大な四角形となり、黒ローブ達を壁に叩きつけ、まるで弾かれたピンポン球のように上空へと弾き飛ばし、再び地面へと叩きつける。そしてその巨大な四角形はいくつかの長方形の楔へとわかれ、三人の黒ローブ達の手足を貫き固定、その先についた鎖が引っ張り上げられ、突如現れた六角形の柱に拘束された。
その光景は否応なく神秘的で、絶対的で、断罪的である。
「随分とはっちゃけたな、200番。いや敬意を込めて『アリス』と呼ぼう」
それはハージ・ジェルクが道具であるホムンクルスではなく相対するに対等な相手と認めた瞬間であった。
「どうだ?初めて錬金術を使った気分は?」
アリスは答えない。
「だんまりか……まあ、それなら勝手に話を続けよう。僕が思うに人を成長させる感情は五つだ。悲しみ、喜び、狂信、後悔、そして殺意。この五つの感情はいつだって人を成長させる。精神的にという意味だけでなく、その肉体的強度、つまりは実力についてもだ。そして今の君は、そのうちの三つ、悲しみ、後悔、殺意の感情で成長している。ホムンクルスが本来使えない錬金術を使えるようになったのも、その成長に心臓……その『ルーゼルバッハの石』が応えた結果だろう。だが、急激な成長はいつだって痛みを伴う。成長期の子供が成長痛に悩まされるように、人であろうともホムンクルスであろうとも、唐突な変化は体が受け付けないものだよ」
アスカノールも通った道だ、と懐かしげに語りながら、剣を錬成し、くるっと回しながら無作法に構える。
アリスはどこか苛立たしげにハージ・ジェルクを睨み、小さく嘆息、声を低くして問う。
「……何が言いたいの?」
「簡単なことだ。君が『ルーゼルバッハの石』の力に耐えきれず、自壊するまで時間を稼げばいい」
「そう。なら私は、この身が滅びる前にあなたを殺します」
そう冷ややかにアリスはいった。そこにはすでに生きる意志はない。あるのは目の前にいる敵を葬り去るそれだけだ。
ハージ・ジェルクがその剣を振るった。壁を切り裂き、アリスの喉元にその刃が向かう。そしてその剣が壁から抜ける時、小さな金属音と共に、弾かれる。
そこにあるのは黒に青の光が走る金属、この世のものではない。未知の物質。この世に存在していない、存在してはいけない架空物質。それは原子同士の結合方法も違うければ、元素構成すらも違う。この世界と別の世界の物質であった。
「別の世界の物質か……厄介だな」
そう言ってハージ・ジェルクは一歩後ろへ飛び退く。しかしそれをよしとしないアリスがその黒に青の光が走る金属でその足を貫く。そして地面に打ち付けるようにその金属が地面へと打たれる。その痛みが全身に伝播する前に、ハージ・ジェルクは手に持っていた剣で自らの足首から下を切り落とす。血が溢れ、一瞬にして当たりを赤く染め上げる。
そしてその金属を縦横無尽に操って、攻撃してくるアリスの追撃を避けながら、近くの地面に足を押しつけ、切り落とした足の先を錬成する。
頬を掠める別世界の物質。それは壁にぶつかると反射し、反射し、反射して、ハージ・ジェルクを狙う。次第に路地は蜘蛛の巣が張り巡らされたような状態へと変わっていく。動きを制限されることを嫌ったハージ・ジェルクは隣の壁に触れ、その壁を取っ払うように破壊する。
となりの家屋の壁がなくなり、先ほどよりもより広く路地を使えるようになったハージ・ジェルクは崩れた壁を再び錬金し、細かな針状の砂へと変える。そしてそれを大気を操作し、風を起こしてアリスへと流す。
その様は小さな砂嵐のようで、視界を阻害する。
しかしそれがアリスの目の前に迫った時、まるで時間が止まったかのようにその砂は静止、空中で固定される。それはまるで至極当然のように行われていて、アリスは意も介さない。
そしてそれは砂よりも塵よりも細かくされ、その夏の夜風に乗って消えていく。
やっていることはもはや人の領域にいない。そう感じさせる力だ。
地面を蹴る。後方から迫る別世界の物質を剣で弾き、その反動を殺すように回転、前へと進む。そしてその剣がアリスの首を捉えた時、剣が弾け飛ぶ。
文字通り、弾けて飛んだのだ。手に握っていた剣が弾けたハージ・ジェルクはその予想外の出来事に反応することができず、その破片を防御することもできずに全身に浴びる。
岩盤をも最も容易く切り裂く剣は、見事にハージ・ジェルクの体を切り裂き、その体を貫通する。口から血が溢れ出る。地面が赤く染まった。しかし臆することはない。近くの物質で傷ついた体を補いながら、アリスへと近づきその手を伸ばし首を掴む。
「流石の『ルーゼルバッハの石』でもその首を折れば使えなくなるだろう?」
そう言ってハージ・ジェルクは後方から迫る別世界の物質をアリスの体で防ぎ、その手に力を込める。メキメキという音と骨が砕ける感覚をその手に覚えながら、さらにその力を強く、強く、強くしていく。
しかしアリスはその表情を一切変えない。影を落とした瞳で静かにハージ・ジェルクの目を見ている。その様はひどく不気味で、アリスという名の別の存在になってしまったようにすら感じる。
その首が完全に砕ける寸前、アリスは言った。
「大丈夫?腕、落ちてるよ?」
「何を……?」
そうハージ・ジェルクは自分の左腕を見た。そこにはまるで枯れ枝のようにからっ殻に乾き、干物のような状態で地面に落ちる自分の腕を見た。
声にならない。驚きと混乱と困惑が漏れたのだ。
腕の水分を抜かれたのだ。水分を抜かれた腕は風がふいただけで折れるほど脆くなり、地面へと落ちた。恐ろしいほどの応用力。つい先ほど『ルーゼルバッハの石』が覚醒したとは思えないほどの錬金術。並の錬金術師の比じゃない。
右腕を走る違和感。視線を向けるとそこには炭へと変わっていく自分の腕があった。
力を入れると自分の腕がパキパキと言いながらヒビがはいる。
腹部を走る衝撃。それは地面から飛び出る石柱がハージ・ジェルクを後方へと吹き飛ばした衝撃だった。吹き飛ばされたハージ・ジェルクは、まずは左腕を再生し、剣を錬成、炭へと変わった部分を切り落として錬金術で再生する。
別格の強さ、とでも揶揄すべきだろうか?その強さが現実離れというか、この世界の理から外れているのは確かである。これが『ルーゼルバッハの石』の力か。げにも恐ろしいな。
ふと後ろにいるアスカノールへと視線を向ける。
アスカノールをぶつけるか?しかし、先の戦いで消耗した彼女をぶつけても勝ち目はないか。それにもし錬金術の書き換えでも行われたら面倒だ。やはり、僕自身が戦うしかないか。
腕を切断するのに使った剣をアリスの方へと投擲。触れることもなく一瞬にして粉になる。
アリスの頬を血涙が流れる。
その光景を見てハージ・ジェルクは笑う。
「ははは、どうやら限界は着々と近づいてるみたいだな。さあ、どうする、アリス?」
その言葉にアリスは頬を流れる血涙を拭って、それを払うように手を振る。そして飛び散った血涙は空中へと止まり、静かに蒸発した。
溢れ出る溶岩が壁を作るように噴き出る。その溶岩壁がハージ・ジェルクの横を通る。沸騰した溶岩はボコボコとその熱を逃すように弾ける。それをヒョイっと避けて、再びアリスに視線を向ける。
そして雨が降る。溶岩の雨。熱を持った雨が降り注いだ。アリスは降り注いだそれを一瞥もすることなく蒸発させ、ハージ・ジェルクはそれらを空中で切り裂き、地面へと落とした。そして地面に降り注いだ溶岩は急速に冷却され玄武岩や流紋岩が形成される。
古都シルバルサの街の路地裏に溶岩由来のゴツゴツとした地形が形成される。
それは人にとって非常に歩きにくく動きにくい。
突き出るは鋭く尖った針のような岩。それらがハージ・ジェルクを囲うように格子状に三角錐の形で固定される。破壊しようと錬金術を使った時、それを阻害するように鎖がハージ・ジェルクの首に巻き付く。そしてそれを振り解こうと引っ張るもゴツゴツした岩に絡まるように固定されたその鎖を解くことは難しい。
ポタ、ポタと上から水滴が落ちてくる。鎖を錬金術で変形しようとした矢先に降ってきたその水滴にハージ・ジェルクの意識は持ってかれる。
ふと上を見た。そこには半径10メートルを超える大量の水の塊。そして驚く隙もなく、突如と現れた大量の水がハージ・ジェルクの頭上に降り注いだ。
それは空気中の水蒸気から作られた水。その水量は3トンにも達する。それが絶え間なく降り続け、その体を押し潰さんと叩きつけるのだ。
その重さに耐えかね、錬金術で鉄の傘を作り出し、上からの水を跳ね除け、その格子を破壊した時、その間を縫うように別世界の物質がハージ・ジェルクの体を貫く。その反動でハージ・ジェルクは再び格子の中へと戻され、壊された格子は再び再生、元通りになる。
そして体を貫いた別世界の物質はまた別の場所で反射し、再び格子の間を縫うようにその体を突き刺し、突き刺し、突き刺し、全身に別世界の物質が楔のように突き刺さり、ろくに動けなくなってきた頃、不意に地面が崩れる。
砂のようになった岩たちにその足首を埋もれさせながら、足が結晶化していく。その光景は最も悍ましく、そして美しい。そしてその結晶化現象が膝上にまできた頃、ハージ・ジェルクは錬金術で無理やり自分の足の骨を砕き、大斧で太腿の半分を残して断ち切った。
血がダラダラと流れ出るも。結晶化現象は地面と離れたことにより止まる。
不意にアリスが声をかけた。
「あなたに聞きたいことがある。今から言うことに正直に答えて」
「尋問官にでもなったつもりか?」
アリスはそんな言葉を無視して、言葉を続ける。
「お母さん……アンクレイ・ジェニパーはどこ?」
「ああ、彼女か。さあ、どこだろうな?案外、近くにいるかもしれないぞ?」
ハージ・ジェルクの腹部を少し離れた場所から抉り裂く。
苦悶の声が漏れる。
「早く答えて。私を逃すために囮になってあなたと戦ったことはわかってる。私が知りたいのはその後。お母さんはどうなったの」
「それを知ってどうする?もし生きてるなら会いにいくのか?その幾許かもわからない命で?」
鉄の傘を破壊し、頭の上の水を再びハージ・ジェルクへと叩きつける。その重さは全身を貫かれ、その力を逃すことのできない彼にとってはかなりの苦痛のようだ。
二十秒ほど水責めをしたあと、もう一度ハージ・ジェルクの上に鉄の傘を作り、問いかける。
「早く、答えて」
「それともまた助けてもらうつもりか?」
ハージ・ジェルクはそう笑った。
狂気的な笑い。さっきまでの仕打ちをもろともしていない様子だ。
「……」
「あー……視界がぼやけてきた」
「何も話すつもりがないなら別にそれでいい」
アリスはそう言って地面から四本の大剣を生成。それを前後左右から押しつぶすように放とうとした時、ハージ・ジェルクが口を開く。
「お別れの時間?悪いけど僕は未練がましくてね。まだこの世に居座りたいんだよ」
「ダメ」
「そう……でも、世界はまだ僕がこの世界に居座ることを許してくれるみたいだ。……血、出てるよ」
「え?」
それは悍ましい量の血液。見ただけで身の毛もよだつような光景だ。全身の血管という血管が裂け、その血管に沿うような形で皮膚や筋肉なども裂けて、その傷跡から噴水のように血が溢れ出し、全身を血の色へと染め上げていく。
その異常は明らかにアリスの体が壊れていく証拠であり、『ルーゼルバッハの石』がアリスの体を食い殺さんとばかりに犯している証拠でもあった。
アリスの意識が、一瞬、自らの体へと向かった時、ハージ・ジェルクは首に巻き付いた鎖を酸化させ、鉄の傘を支える柱にぶつけて無理やり破壊し、自らの体を貫く別世界の物質を破壊しようと錬金術で操作するも未知の元素、未知の法則、未知の存在で形作られたその物質を錬金するには別世界の法則を知るか、全ての錬金術を内包した特別な『石』が必要である。
そのためハージ・ジェルクは呼吸を一つ吸って、突き刺さった別世界の物質から体を引っ張り、引きちぎって脱出する。
砕けた骨や内臓、皮膚や筋肉を近くのもので保管し、切り落とした足も再び錬成し地面に立つ。
そして溶岩によって形成された複雑な地形を平すようにその間を錬金術で作り出した砂で埋め、地面を蹴り後方へと下がる。
アリスが先ほどまで空中でとどませておいた四本の大剣を射出する。風切り音と共に近づくそれの腹を錬金術で叩いて逸らし、地面に触れ、波のように波状する幾多の剣を生成、アリスの足元を突く。しかしそれは別世界の物質に一掃され、アリスに当たることはない。
二人の距離が十メートルほど開いた。
静寂はない。すぐにハージ・ジェルクが口を開く。
「アリス、お前を観察して気づいたことが二つある」
細い月が二人を照らす。
「一つはお前が人を殺すことを躊躇っているということだ」
「躊躇ってない……」
「見え見えの嘘をつくな。ならなぜ、捕虜にした僕の弟子を殺さないでそんな後ろで吊るしとく」
そう言いながら後ろの柱を指差す。
「今のお前なら、すぐに殺せるはずだ。生かす必要がない。あの魔導具使いや魔術師を襲った人間だぞ?少なからず僕なら殺す。できる限り酷く、見るもの全てに平等の恐怖を与えるように」
「……」
「二つ目はお前が一歩もそこから動かないことだ。手を振ることや口は動かしても、一度もそこから動こうとしていない」
アリスはこの戦闘が始まってからまだ一度も動いていない。一歩を踏み出さずに全ての攻撃を防ぎ、ハージ・ジェルクを拘束するまでに至っている。それだけを考えれば馬鹿げた戦闘力に感心するだけだが、殺し合いの中で一歩も動かないのは不自然と言わざる得ない。その力を誇示していると言えばそれまでだが、アリスはそんなことをするタイプではないだろう。それに状況に合わせ、動いた方が相手を追い詰めやすいのは自明の理だ。
「それはなぜか。答えは簡単、それは足元にいる女だ。その娘にお前は気を遣って戦っている。まるで宝石を守る兵士のように細心の注意を払って、傷はおろか汚れすらつかないように、戦っている。だから動かない。だから動けない。どうだ違うか?」
アリスは答えない。それは暗に肯定しているとも取れる行動である。
「図星か。それならあとは単純明快だ。アリス、お前自身を狙うのではなく、その女を狙えばいい!」
「そんなことさせない!」
ハージ・ジェルクがアリスが先ほどしたように無数の武器を錬成、リリア目がけて投擲する。アリスはその全てを叩き落とし、リリアを囲うように錬金術を使う。それに気づいたハージ・ジェルクが隣の建物を変形させ、ハンマーを振り下ろすようにそれを振るう。振り下ろされた建物大のハンマーは最も容易くリリアを囲おうとしていたものを破壊する。
リリアにその破片と重力に従い地面へと倒れてくるハンマーがその体を陰で覆う。そしてそれらは空中で静止し、一つの塊となりバスケットボールと同じぐらいの大きさになった頃、それをハージ・ジェルクへと打ち出す。圧縮されたそれは見かけによらず大きいな質量を持っており、それをハージ・ジェルクは先ほど錬成した武器のうち一本を取り、その衝撃を上へ逃すかのように振り上げ、バスケットボール大の塊を切断する。
二つに切断されたそれは、後方の地面を抉り勢いよく弾け、破片を降らす。
アリスが再びリリアを囲おうと錬金術を使うも、ハージ・ジェルクが意図的に錬金拮抗を起こし阻害する。
アリスの右腕が弾け飛んだのそれからすぐのことだ。まるで誰も持っていないホースのように、不規則に何かに撃たれたかのように暴れたのだ。それはアリスが意識しなくても条件反射のように起こり、骨がメキメキという音を鳴らしながら、軋んで曲がっていく。関節が意味不明な方向に折れ曲がり、筋肉が露出し、今や皮膚と少しの筋肉で繋がっているような状況となる。
絶叫が響くと同時に、アリスは歯を噛み締める。その瞬間、横から壁が飛び出してくる。それを細かくスライスして丸鋸へと錬成し、全てを同時に高速回転させながら投げ飛ばす。
地面や壁を走るように射出されたそれはハージ・ジェルクが作り出した錬金術の壁ももろともせずに火花を上げながら切断。その足元まで迫る。
しかしハージ・ジェルクはそれを意にも解さずに錬金術でレールを作って、丸鋸同士を当てることで無理やり相殺させる。
金属がぶつかり切断し合うその光景は随分と面白いものである。
そして細かく切断された金属はまるでワニがその大口を開けるかのようにして、地面ごとアリスとリリアにかぶりつく。地面を抉るその音は今までに聞いたことのないような音を鳴らしている。
アリスは口が完全に閉じる前に別世界の物質を剣へと錬成し、その口の端に当て、引き抜く。複数の金属による合金製の物体がまるでバターをスライスするかのように簡単に切断できる。
口の上部はその勢いで後方へと吹き飛び、口の下部はアリスが溶かし地面へと流し込む。
そして月明かりがアリスたちを照らすよりも早く青白い光が視界を染め上げた。
それは本能が忌避する甲高い音を鳴らしながら、路地裏を明るく照らす。
ーー<荷電粒子砲>ーー
亜光速の粒子兵器。錬金術の最終兵器。技術の極地。指向性の終わり。超破壊の光。
「さあ、試してみよう。お前の執念を。この攻撃からその娘を守り切ることができるかを!」
ハージ・ジェルクの手の中からその光は放たれた。
全てを蹂躙するその光は音よりも早くアリスたちへと向かう。その速度は人の感知できる領域にない。故に防ぐことは不可能。その上、この場に<荷電粒子砲>を止めることのできる人間はいない。存分にその脅威を振るうはずであった。
しかし<荷電粒子砲>がその猛威を振るうことはなかった。
空中に静止するは電荷を帯びた粒子の軌跡。周りを走る稲妻も、その衝撃で舞い散った砂埃も、大気中に波及する衝撃波すらも、静止している。まるで時間が止まったかのように、一切の動きなく。ジオラマの中にでも迷い込んでしまったかのように<荷電粒子砲>その脅威が文字通り形となって残っていた。
実に神秘的光景だ。
血を吐いた。赤く濁った血だ。視界が歪む。どこか夢現で意識がはっきりしない。だけどこれだけはわかる。もう私に残された時間は少ない。限界が近いのだ。
周りの音も今となってはぼんやりと聴こえるだけで、聞き取ることはできない。
膝から崩れ落ちたいが、もしそんなことをすればリリアがどうなるかは自明の理であろう。故に倒れることはできない。今はまだ、立ち続けなければいけない。
不意に視界の隅に一つの影を捉えた。まるで滑り込むようにして<荷電粒子砲>の後ろから現れ、走り出す。
アリスは咄嗟に先ほど地面に溶かした口の下部を錬成し、地面から針を生やす。極細の二メートル弱の幾千もの針が地面を覆い尽くし、走り込んできたハージ・ジェルクを襲う。
しかし、それを手に持った剣で自らの肉体に突き刺さる前に切断し、道を切り開く。後方から近づいてきた別世界の物質を剣の腹で軌道を逸らし、アリスの方へ向かうようにする。
アリスはまた別の別世界の物質を錬成し、ぶつけてその衝撃を相殺。空中へとその軌道をずらす。
ハージ・ジェルクの横腹を薙ぐように大剣が振るわれる。それは地面から生える針やこの場に存在する尽くを蹂躙し、その命を刈り取らんと迫り来る。
しかしそれを剣で切り刻み、前方から飛んでくる結晶片をその身で受けてもなおを前へと進む。そしてその刃がリリアへと届く。
アリスは咄嗟に鉄の壁を錬成し、リリアとハージ・ジェルクの間に挟む。しかしそれをまるでナイフで麻布を裂くかの如く、簡単に切り裂く。その隙に別世界の物質を錬成し、リリアを覆おうとするも錬金拮抗による妨害により両者の錬金術は不発に終わる。
まるで苦虫を噛むように歯噛みし、剣を破壊しようと錬金術で内部に水素を生成、破裂させようとするも、異変に気づいたハージ・ジェルクは剣に細かな穴を開け、水素を外へと逃す。二度も同じ手に掛かるほど間抜けではない。
先ほどまでハージ・ジェルクへの攻撃に使っていた別世界の物質を変形させ、リリアを覆おうとするも、もはやそんな猶予は残されていない。悠長にそんなことをしていれば、確実にハージ・ジェルクの躊躇なき刃がリリアを穿つだろう。
鮮血が舞った。眩しいほどの赤の血が。
鼻先で剣が止まっている。紙一重、その距離は誤差の範囲である。
刃を伝い血がリリアの顔を濡らした。剣は白く細い腕を貫いている。皮膚を裂き、肉を破り、骨を砕き、血に濡れて貫いている。すんでのところでアリスが自らの腕を盾にその攻撃を凌いだのだ。
ハージ・ジェルクは言う。
「実に誠実で純真だな、アリス。だがそれ故に疑うことを知らない。人間の言葉をそのまま受け取るその様は実にホムンクルスらしい。と言うよりもホムンクルス、その姿そのものだ」
落ちた赤い雫が。ポタポタと地面に残り残された時間を数えるように静かに厳かに。
鮮血が地面に染み込む。
ハージ・ジェルクの手がアリスの胸を貫いていた。その指が体の中へと減り込み、じわじわと中へ中へと進んでくるその感覚は実に気持ち悪く、気色悪い。そしてそれはついにはアリスの心臓である『ルーゼルバッハの石』へと触れた。
「どんな気分だ?敵の言葉を信じて、その心臓を掴まれた感覚は?」
アリスは自分の胸に刺さったハージ・ジェルクの腕を掴み引き抜こうとするも、9歳程度の身体能力しか持たない彼女にとって、成人男性のその力は岩を押しているに等しかった。
錬金術でその腕を切断しようとするも壁を造られ、妨害される。
先ほどのように腕から水分を抜こうにも、さっきの剣の破裂を防いだように対策されるのが関の山だろう。それは体を別物質に変質させることでも同じだ。
もはや打つことのできる手は限られている。もし生半可な攻撃をした日にはその全てを防御され、こちらの命を削るだけの結果になるのは目に見えていた。故に決断する。自らの命を捨ててでも目の前の敵を殺すことを。
次の瞬間、一本の剣がアリスの体を盾にハージ・ジェルクの胸を深々と突き刺した。
そしてその剣は二人の体を抉るように回転し、もう一歩前進、ハージ・ジェルクの身体を貫通し、その刃は背中にまで至る。
ハージ・ジェルクは笑った。
「ははは、そうか、自らの命すらもう惜しくないのか。まさか自分の体を盾に剣を刺してくるとは思わなかった。その執念、尊敬するよ」
体を伝い流れ出る血はいつになく静かである。
アリスは自分の心臓を掴むハージ・ジェルクの腕から自らの右腕を離し、短剣を錬成する。その瞬間、自分の心臓を握り締める感覚が体を打った。
脇を締め、小さくその短剣を突き出す。
右手でリリアへの攻撃、左手でアリスの心臓を握る今のハージ・ジェルクにとって、離れることもできなければ、攻撃を防ぎこともできない至近距離、もはやアリスの手に持つ短剣から逃れることはできない。
必殺必中の攻撃である。
揺れた。地面ではなく視界が。
世界が暗転。力なく地面に崩れ落ちる。手足の感覚がない。匂いも感じない。かろうじて音だけが聞こえる。ぼんやりとした水の中から聴いているような音だ。
地面に短剣が落ちる音が聞こえた。
今、アリスを支えるとのは自らを盾にその背中に刺した剣と自分の心臓を握るハージ・ジェルクの腕が支えになったいるからだろう。
「どうやら神経が焼き切れたようだな。それにしても思ったよりも時間がかかったな。それだけ彼女の作った素体が良かったってことか」
そんな言葉が声がうっすらと聞こえた。
もはやリリアを狙う理由は無くなったハージ・ジェルクはアリスの左腕に刺さった剣を抜き、その剣でアリスごと貫いた剣を切断する。しかしアリスはそのことを知覚できない。聴覚以外の五感全てを喪失しているのだ。そんな状態で状況を知ることができるのはコウモリか蛇か。少なからず特殊な能力を持たない一般的な肉体として創造されたアリスには到底不可能なことだ。
自分のでも呼吸が浅くなっていくのがわかった。
心臓が早く脈打ち、体が壊れる音が節々から聞こえてくる。
終わりを実感する。もはや自分にできることは残されていない。残り数秒の命を待つだけだ。
だが足りない。まだ足りない。あの世にゆくにはどうに手荷物が少なすぎる。
もちろん、このまま死ぬのは簡単だ。だが、それでは私が死んだ後はどうなる?ハージ・ジェルク達は私の心臓を手に入れて、その力を持ってして悪事を働くだろう。そしてその被害を被るのは死んだ私ではなく。残されて人たちだ。
もしそうなればこれだけの被害では済まないはず。もっと多くの人が死んでしまうはずだ。
親を亡くした子供達は辛いだろうな。だってホムンクルスの私でこれだけ辛いんだ。なら人間の彼らはもっと辛いはず。リリアお姉ちゃんだって、キリヤお兄ちゃんが倒れた時辛かったはずだ。そんな思いを知る人が溢れかえることになる。誰もそんなこと望まないはずだ。
いや、これは多分、自分の行いを正当化したがための都合のいい主張だ。
本当は違う。本当はただただムカつく。みんなをあんな酷い目に合わせて置いて、数日後にはそのことを忘れて私の心臓を使って、高笑いをしながら過ごすであろうこの男のことが気に入らない。
何も見えなくても、何も感じなくても、何もできなくても、目の前の男を葬り去ると心に誓ったんだ。なら全力全霊を持ってして、全てを代償にしても、意識続く限り、争い続ける。
そうアリスが心の中で叫んだ瞬間。
それに答えるようにして『ルーゼルバッハの石』が光り輝いた。赤い光はより一層、眩しく光り、その紋章が全身へと広がる。それは次第に体を超え、地面へと広がり、空中へと広がり、世界を覆い尽くすように広がっていく。
それはこの世界に住むものなら一度は聞いたことがあるであろう御伽噺。誰もが似非話だと笑い飛ばすような今や伝説となった忘れられた物語。
世界が入れ替わり、新たなる秩序と新たなる原理からなる世界再構築の錬金術。
ハージ・ジェルクは憂い感嘆と驚嘆と、そして羨望で歓声を上げた。
「世界変成の大錬金術……!!!」
それは世界の全ての物質を別の物質に置き換える大錬金術。酸素も窒素も水素も鉄も、この世を構成する全てのものが置き換わる。元あった元素は『ルーゼルバッハの石』によって錬成された元素へその姿を変え、今ある元素は一つ残らずその痕跡を消す。置き換わった元素が『ルーゼルバッハの石』によって新たな創造された元素なのか、それとも別世界に存在している元素なのかはわからない。
ただわかるのはその影響は酸素や窒素などで形成された大気や鉄や炭素を含んだ地表だけにとどまらず、植物や人間及び魔獣を含んだ全ての生き物、惑星の核やこの星の衛星はもちろん、この星が所属している惑星系、銀河系、銀河団、この世界に存在する全ての元素が入れ替わる。
新たな元素に置き換わった世界に、電子や光が存在しているかはわからない上に、そもそも原子が結合し、分子になるかすらわからない。もしかしたら原子が結合し、分子なることはなく。電子も存在せず、空気中の物質が完全に光を吸収する可能性だってある。
それにもし原子が分子を形成し、物質になったとして、生物が生きれるとは限らない。植物が生きるには二酸化炭素が必要だし、人間や他の生物もそのほとんどが酸素を必要としている。そして彼らが必要とするのはあくまで酸素や二酸化炭素といった物質であって、錬成によって新たに置き換えられた物質ではない。もし運よく置き換わった物質を体の中で酸素や二酸化炭素の代替として使えたとして、それが元の酸素達と同じ働きをするかは別問題だ。
そもそも新たに元素が置き換わった世界で体を構成する物質が変わった生き物達が、今までと同じくしっかりと生物として機能するかすらわからない。少なからず、レンガで作った建物がある日突然、藁に変わったのならどうなるかは想像に難くない。
世界が微振動を始める。
アリスの周囲を微小の黒と白の粒子が重力に逆らうように螺旋を描き広がる。地面が崩れ始める。大気にはその比率よりも軽い物質が飽和し始めて、重い物質は地面に砂よりも細かい状態となって溜まる。それがこの世に元々存在している物質なのか、それとも錬成によって生まれた新たな物質なのかそれを知ることは叶わない。
状況を知覚できない今のアリスにとって、聞こえてくるのは世界が終わる音だけであり、彼女自身はそれが自分のせいだということに気づくことはない。彼女はあくまで目の前の男を葬り去るだけの力を酷使しているだけであり、それが世界を壊す行為だと知る由もない。故にもしこの世界が滅びたとしても彼女が知ることは一切ない。無自覚から始まる世界の崩壊だ。
笑いながらハージ・ジェルク言った。
「ははははは、これが大錬金術か!まさかこの目で見れる日が来るとは!研究しがいがある!だが、このままじゃあ、研究どころの騒ぎではないな。惜しいがここまでだ、アリス。偉大なる錬金術師が作り出しし、魂持ちしホムンクルスよ」
そう言ってハージ・ジェルクはその手に力を入れた。心臓である『ルーゼルバッハの石』を強く掴み、引き抜こうとした時、その腕が砕け散り粒子となって消滅した。すぐさま近くの物質から腕を再生し、その心臓を掴み取ろうと腕を伸ばすも側面から黒の色付きガラスのような物が倒れてくる。
咄嗟に後方へと飛び退き、直撃を避ける。次の瞬間、地面に当たった黒の色付きガラスのような物体が地面に溜まった重い物質を巻き上げ、まるで雪のように降らす。そして高周波の音波を発生させ、周囲の物質同士の結合を破壊し、粘性を持った泥のような状態へと変えた。
そしてその色付きガラスのような物体はゆっくりとその音を静め、地面の中へと沈んでいく。
不意に月明かりが消えた。空を見上げると、そこには蛍光色の膜のようなものが世界を覆っている。それは上空の大気が置き換えられていくにつれ大きくなり、次第に街を覆うように広がっていく。
そしてそれは認識できないほど遅い速度で地面へと落下してきている。
世界の常識が変わり始めている。今、ハージ・ジェルクが見たものは全てこの世界とは明らかに違う世界のものだ。
ハージ・ジェルクは少しの嘲笑と苦笑いを浮かべ、頬を書く。
「これは本格的にまずいな。早く止めないと、実験どころか命に関わりそうだ」
そう言ってハージ・ジェルクは二本の剣を錬成する。
おそらく先ほどアリスから『ルーゼルバッハの石』を奪おうとした時、僕の手が粒子に変わったことからアリスへの攻撃は直接攻撃は全て、粒子になるか別の物質へ変換され、無力化されるだろう。
しかしそれはあくまで何の対処も行わなかった時の話であり、対処のしようがないわけではない。
物質の分解や結合、変換は全て錬金術の基礎であり、それらの行為は全て錬金術によって行われる。つまり、そこに魔術や魔法、その他の技術が干渉しないのなら、物質を別の物質へ錬成し続けることで錬金拮抗が起こり、行われるはずだった錬成はキャンセルされ、その攻撃はアリスへと届かせることができる。
もし攻撃が届くなら、あとは『ルーゼルバッハの石』を回収するだけで、話は終わる。
実に単純なことだ。
ハージ・ジェルクは走り出し、3歩でその間合いをつめる。
体を動かすことは愚か、聴覚以外の五感を失っているアリスはそれに気づくことはできない。
地面が砂状となった物質のせいで、歩くことが困難がために、近くの物質から一枚の岩石を生成、それを足場にアリスへと近づく。
それは先ほどまでの攻防が嘘のように簡単に近づくことができる。一本の剣をアリスの胸へと突き立て、縦に裂く。鮮血が流れ出し、『ルーゼルバッハの石』が露出する。ハージ・ジェルクがその心臓を回収しようともう一本の剣を振り上げた時、胸の傷が異常な速度で回復していく。まるで時間を逆再生したかのような状況だ。それと同時にアリスが血を吐く。『ルーゼルバッハの石』の影響が顕著に出ている。
体を治すために体が壊れる。随分な矛盾だ。
ハージ・ジェルクは再生する傷を冷静にもう一度開き、次はその傷が再生しないよう剣で無理やり、固定する。そしてもう一本の剣を『ルーゼルバッハの石』へと差し込み、テコの原理でアリスの体から回収を試みる。
それは到底、人の肉にくっついているとは思えないほど頑丈で、まるでいくつもの鎖に縛り付けられた巨像を引っ張っているかのような感覚だ。
みちみち、という音とともに肉が引き剥がれていく感覚を手に覚える。力の入れすぎか、肋骨が折れ、筋肉が断裂、肺が潰れる。しかし痛覚神経すら焼き切れたアリスは、すでに痛みすら感じていない。もはやその身をあるがままに委ねているだけであった。
掠れていく意識に残された少しの聴覚が自分の体から『ルーゼルバッハの石』が引き剥がされていく音をかき鳴らす。
「それでは良き旅を、アリス」
そう言ってハージ・ジェルクはその手に一段と力を入れた。最後の筋繊維が千切れる瞬間、ハージ・ジェルクの腕を一つの影が静止した。
その影はハージ・ジェルクの腕を掴み、その腕を焼き切る。肉の焼け焦げた匂いが全体に広がり、その断面からは煙が上がっている。
「随分と遅い到着だね?学者くん」
ハージ・ジェルクがそう微笑んだ。
不意に空を覆っていた蛍光色の膜が破れ、月明かりがその影を照らし出した。
黒い髪は夜の暗闇よりも暗く、その瞳が緋藍色に輝く。手にトランクケースを持ち、整然と佇むその姿はいつになく心強く見えた。
エンリはハージ・ジェルクの腹部をトランクケースで思いっきり殴り、その衝撃でハージ・ジェルクは後方へとふらつきながら吹っ飛ぶ。
アリスの胸に刺さった剣を抜き、支えを失い倒れそうになったアリスを抱き支え、
「ありがとうな、アリス。リリアを守ってくれて。あとは俺に任せて、少し休んでてくれ」
そう言った。
無責任な言葉だとは思う。本来はアリスが守られる側なのに、守ってくれたありがとうなんて、自分のミスや失態を晒し上げているようだ。だがそれでも言いたかった。この状況を見れば彼女がどれだけ頑張っていてくれたかぐらいわかる。彼女が抗ったからこそ、俺はここに辿り着くことができた。それだけの時間を稼いでくれたのだ。なら感謝を言わずに何を言う。
ふと彼女が微笑んだ気がした。そしてすぐにアリスは寝息を立て、エンリの腕の中で眠り始める。疲れていたのだろう。
エンリは腕の中で眠るアリスの頬についた汚れを拭った。
空間に広がった紋章が収縮を始め、『世界変成の大錬金術』もアリスが眠り、『ルーゼルバッハの石』が落ち着きを取り戻したことで、錬金術がキャンセルされ、物質の錬成が中止される。
腰を下げ、足元で横たわるリリアを一瞥する。服が血に濡れ、赤く染まっているものの呼吸はしており、気を失っているだけのようだ。心臓を貫いたであろう傷口もなぜか再生を始めており、そこまで大事には至っていない。おそらく封霊体質のおかげだろう。今はそう推察するしかない。少なからず、無事であったことは素直に喜ぶべき事柄だろう。
そしてエンリはアリスの方へと視線を戻し、小さく呟く。
「『ルーゼルバッハの石』……なるほど、これが狙いか……」
そう言ってハージ・ジェルクの方を見ると御明察とでも言いたげな、表情でこちらを見ている。
『ルーゼルバッハの石』、神話の時代、五人の偉大なる大錬金術が一人、ルーゼルバッハ・ハージの手によって作られた原初の賢者の石にして、世界に五つしか存在していないη級の賢者の石。
不変にして不滅、無限の錬成と全ての錬金術を内包した緋色の賢者の石。
数十年前に盗難被害に遭い、その後行方が分からなくなっていたが、どうやら『賢者の天秤』が所有していたらしい。確かにこれなら国際的犯罪組織がアリスを狙う理由も、彼らがその姿を公に晒すだけの価値がある。
むしろこれだけの代物を狙いながら、これまで街の一つや二つ滅んでいないところを見るに、『賢者の天秤』に対して随分と生ぬるい、なんていう感想すら抱いてしまう。それほどまでに『ルーゼルバッハの石』は価値があるのだ。
「どうする?殺し合うか?あの魔導具使いと同じ場所に送ってあげるけど?」
「望むなら。だけどひとつ訂正させてくれ、残念ながらリアナたちは死んでない。ここにくる前に延命してきた。そのせいでアリスを助けにくるのは遅れたけど」
「なるほど、なら僕が俄然有利だな。生きているなら早く医者のところに連れてってやりたいだろう?それに君は今、アリスを抱きかかえ、足元にはアリスを守ろうとした女。それに対して僕は、さっきの戦闘で体力を消耗しているが、戦えないほどじゃない。まだ余力はある。それにこっちにはアスカノールもいる。長時間の戦闘に耐えれないだろうが短期間、部分的戦闘は可能なはずだ」
「なるほど、アスカノールっていうのは君の後ろにいる、人間のような生き物のこと?」
「ああ、そうだ。いい出来だろ?」
「うん、まあ、悪くない。魔獣と混ぜたのか?」
「そうだ。魔獣と人を融合させた。錬金術による人類の進化だよ」
「お前はそれを人類の系統樹に載せるつもりか?もしそのつもりなら、やめといたほうがいい。載せたところでそこが終着点だ」
「その言葉、褒め言葉として受け取っておくよ」
「ポジティブだな」
エンリはそう笑った。
「さて、それじゃあ僕は帰るとするよ」
「いいのか?殺し合わなくて」
「ああ、君がアリスを抱いてる時点で、『ルーゼルバッハの石』の回収は困難だろう?大人しく帰って、アスカノールの調整でもするさ」
そう言ってハージ・ジェルクは体を180度回し歩き出す。その背後を追従するようにアスカノールもまた歩き出す。
そしてエンリは言う
「ハージ・ジェルク、近いうちに会いにいく」
それに対してハージ・ジェルクはどこか楽しそうに頬を吊り上げて笑い言った。
「そうか、ならパーティーの準備をして待ってるよ」
そういうとその影は夜の闇に消え、世界に静寂が訪れる。
残された先ほどまでの戦闘でできた激しい戦闘跡と傷を負った幼い少女だけだった。
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