襲撃<起>
その日のエンリは珍しくいつもよりも一時間ほど早く起きた。
リアナたちと買い物してから一週間、その間『賢者の天秤』や第三者からのアクションは一切なく。セレンたち軍の懸命の捜索も虚しく、一向に彼らの足取りは掴めないまま時間だけが過ぎていた。
唯一進展があったことといえば、アリスがだいぶ、この宿での生活に慣れてきたことぐらいだろう。その中でいまだに感情の起伏は乏しいものの、それでも時々笑ったような表情をするようになったのは嬉しい限りだ。
机の上に乱雑に置かれた大量の資料と走り書きのメモたちを横捌け、トランクケースを乗せる。ここ最近、中の整理整頓を怠ったためか、中が荒れに荒れ果てている。今度、トランクケースの中を綺麗にすべきかもしれない。
時計を見ると針は8時過ぎを指し、秒針がカチカチと進む。
おっとまずい、とエンリはトランクケースの蓋を閉め、ベッドの上に掛けてあった上着に腕を通し、部屋を飛び出る。
今日はこれから軍の『賢者の天秤』に関する報告会が行われるのだ。ただでさえ、今日は早く起きろとリアナに念を押されていたのに、遅刻なんてしたら、彼女に何を言われるかわかったもんじゃない。
始まるのは9時からだ。今から行けば、十分間に合う時間だろ。
階段を降りと、そこにはアリスとキリヤの姿がある。
「あれ、エンリ?」
「おはよう」
「ああ、おはよう。どうしたの?今日は君にしては珍しく朝早いね」
「ほら前に話したやつさ。今日は軍の報告会があるんだよ。それに俺とリアナが招待されたってわけ」
「昨日話してたやつか。何か有益な情報があるといいね」
「どうだろ?正直な話、ここ一週間、動きがなさすぎたから情報という情報すら出ない可能性すらあるよ。まあ、こればかりはセレンたち軍人に期待だな」
「ははは、まあ、頑張ってきてよ」
「ほどほどにね」
そう言ってエンリは玄関の扉を開ける。
突如開けた視界と朝日の眩むような光量は一瞬、エンリの視界を白く染める。エンリはどこか忌々しく目を細め、外に一歩踏み出す。その時、後ろから、アリスが、
「気をつけてね」
そう声が聞こえた。
エンリは、軽く返事をし、手を振った。
ーーーーー
少し油断しすぎていた。いや少しというにはいやささ厳しい傷だ。訂正しよう。大いに油断していた。それはもう、今まで幾多の戦場を超えた人間とは思えない油断ぶりだ。リアナにこのことを話したら一生、笑いものにされるだろう。彼女と合流する前でよかった。これで合流した後だったらもう目も当てられない。
しかし、それにしてもだ。まさか、第三者の介入がこれほどまでにきついものだとは思わなかった。ヨラルに研究所から盗み出した薬を投与して以来、動きがなかったものだから、隠密に徹していると思っていた。
だが違った。気を狙っていたのだろう。俺が一人になる瞬間を。
そしてその実力も見誤っていた。その実力はハージ・ジェルクに負けず劣らず、少なからず、簡単に行く相手ではない。むしろ、魔法を使った戦闘という面においては、他の人間より群を抜いているだろう。卓越した技術はこちらを混乱させると、改めて教えられた。これは生身の人間と相対して初めて得られる教訓でもあるだろう。
ーーーーー
それはもう気持ちのいい日であった。先日までの猛暑が嘘のように過ごしやすい温度に、心地の良い風。こんな日は窓際の席でパンとコーヒーを嗜みながら、研究の続きをしたいぐらいには気持ちいい日だ。
エンリは路地を抜けメインストリートへと足を踏み入れる。朝早いというのに人通りは多く、朝特有の光景である荷馬車が多く行き交っている。
露店から香る美味しそうな匂いが朝食を食べ損ねたエンリの鼻腔をくすぐる。
小腹の空いた腹に何か入れてもいいかもしれないが、それで遅れてリアナにどやされるのは勘弁だ。
ふと視界の隅に映る黒い影。エンリは足を止め、視線を向ける。
そこにいるのは朝の影に紛れるように立つ古いローブを羽織った人影。その人影がじっとこちらの様子を伺うようにこちらを見つめる。
馬車が一台通る。ガタガタと荷台を揺らし、目の前を通り過ぎていく。人影の姿がなくなっている。
一体なんだったのだろう?そんな疑問を抱えながら、目的地へ向かおうと爪先を前に向けた時、妙な違和感を覚える。
腹部から広がる淡い熱。じわじわと広がる赤の鮮血は服を次第に染めていく。痛みが脳に届いたのはその事実に気づいて数秒後。誰かに攻撃されていると気づいたのはすぐの出来事だ。
腹に突き刺さった短剣を握るは男の手。古傷がいくつも見受けられ、数多の戦場をくぐり抜けたのであろう。その手を見ただけでそれが只者でないことがわかる。ただ、それ以上の疑問が脳内をこだまする。
短剣を握り、腹部にその刃を突き立てた手は存在している。しかしそこから先、つまりは手首から先がまるで陽炎のようにゆらめき掻き消えて、その姿を確認することができないのだ。
エンリは咄嗟に、短剣を握る手を掴み魔法で焼こうと試みるも、まるで霧をつかんだかのように実感が無く腕がすり抜ける。
そして短剣を握る手はその短剣をまるで鍵穴に鍵を刺し回すように腹を抉りながら引き抜き、その姿を消して見せる。
広がった傷穴からは血が溢れ出し、痛みが体中へ広がっていく。
何が起きた?いや、何が起きたかは明白だ。俺は今、何者かに攻撃をされている。『賢者の天秤』ではない第三者の攻撃だ。敵の攻撃から魔力を感じた。それが魔法によるものかそれとも別のものかはわからないが、少なからず錬金術ではない。新たな敵。
俺を狙ってきたということは、何かしら用があるのだろう。それが俺自身なのか、俺を取り巻く状況なのかはわからないが、どうも敵からしたら俺を殺したいほど邪魔な存在らしい。
こういうのはまずは対話からって相場が決まっているものじゃないのか?まさか早々に殺しに来るなんて、命を奪うことに抵抗がない。その手の事柄に随分と慣れているな。暗殺者か何かか?
いや、暗殺者に殺される覚えはない。『賢者の天秤』も俺を殺すのに錬金術師以外の人間を使うとは思えない。となると考えられるのはヨラルに人を魔獣に変える薬を投与し、キリヤの同僚を殺した人間。もしくはその関係者だろう。
一瞬、感じる気配。エンリは咄嗟に前方へハイキックを繰り出す。しかしそこには気配こそ感じるものの人の姿はなく空中に浮くように存在している腕だけが視界に映る。その腕は手慣れた様子で手に持った短剣をエンリの左太腿を突き刺す。律儀に刺した後に刃を横に倒す動作付きだ。
左足の力が抜け、体勢が崩れる。
その気を逃さまいと短剣を持った腕が下から上へ振り上げるように喉に向かい刺突を繰り出す。
その攻撃をエンリは左手の甲で短剣の腹を叩き、軌道を逸らす。空中に浮かんだ腕は短剣を弾かれたことにより、その軌道が横へ膨らんだ結果、生まれた隙を打ち消すように、その姿を再び陽炎のように消そうとするも、エンリが消えるまでの一瞬に左手を掴み取り、そのまま、膝を突き上げ腕を折る。
メキメキという鈍く低い音が朝の街の中をこだまする。追撃をしようとするも、やはりその姿は消えて無くなってしまう。
エンリは一度後方へ飛び退き、辺りを見渡す。
人の多い朝のメインストリート。もしここで俺が死ねば、いや死ななくてもこの場で倒れ瀕死の重傷を負ったとしたら、それはもう混乱するだろうな。白昼堂々、何者かに襲われたのだ。明日の朝刊の一面を飾ってもおかしくない。ともあれば、そういった情報が『賢者の天秤』に届く可能性は高いだろう。
しかしその状況だけは避けたい。もしそうとなれば、アリスを守る人間が一人減ったことを奴らに知られることになる。そうなればアリスが狙われやすくなるのは必然。実に最悪の事態だ。
脇腹に軋むような痛みが走る。
一体、ダメージを食らったのはいつぶりだろう。最近は戦うにしても相手が良かった。正体不明もハージ・ジェルクの錬金術も既知のものであった。それに対し、今回は相手は愚か、その攻撃方法、姿すら見えないと来た。未知の相手と戦うのが実に大変だと思い出させてくれる。この感覚が研ぎ澄まされていく緊張感を味わうのも久しぶりだ。
まあ、それにしても油断しすぎた気がするが。それはこの際、無視しよう。
瞬間、弾くような斬撃がエンリの二の腕を切り付ける。皮膚一枚切られ、鮮血が滲む。
魔力は感じる。気配も感じる。なのに攻撃の予備動作に気付けない。まるで既に最初からそこにあったかのように何も感じないのだ。実体化した時に起こる空気の揺らぎこそ感じても、その時はすでに攻撃が行われたその瞬間である。一切のズレはない。
先の攻撃でカウンターができることは確認済み、今回の攻撃は右腕のみで左腕は攻撃へ参加していない。ダメージはリセットされていないと考えるのが妥当だろう。となると、分身系の魔法や人形等の操作系のものとも違う。本人に作用する何かか。
しかし先ほどのハイキックのような物理攻撃が聞かないとなると、おそらくこの空間に作用する全ての魔法や魔術、錬金術を打っても魔力たちを消費するだけで、効果は望めないだろう。つまりはほぼ全ての魔法たちが意味ないということだ。
境界術を使って無理矢理、相手に攻撃を当てようとも思ったが、敵の攻撃が空間に作用するのか、時間に作用するのか、次元に作用するのか、それともまた別の何かに作用しているのかわからない上に、敵の場所が特定できない今、その効果を敵だけに向けるのは実に難しいだろう。
正体不明と同じようにあの空想世界に引き摺り込んでもいいが、アリスが狙われている中、筋肉痛で体が動かないなんていう間抜けなことになりたくはないな。
となるとできることは限られてくるな。かなりの荒技になるが、現状これが最も最善の道だろう。
空間魔法『歪な歪みの歪なうねり』
それは魔法を使った者の周辺の空間が激しくそして不規則に動く海上の波のようなものを空間に起こす魔法である。
空間の歪みは術者本人にすらいつどこでどう起こるのかわからず、互いにその歪みはぶつかり合いながら、穏やかになったり激しくなったりを繰り返して、次第にその力を増幅させていく。最初はさざなみ程度だったものがいつしか嵐の海の波の如く、荒れ狂うことだってそう少なくない。時にはまるで空間が軋むかの如く、捩れ螺旋構造を描くこともある。
そしてこの空間内に存在している人間は皆、例外なく視覚や嗅覚など全ての感覚器官が、高性能すぎるが故に異常な空間のうねりを敏感に感じ取り、その感覚を狂わす。体の中や頭の中をシャッフルされる感覚が味わえることだろう。
しかし、何も俺だって別に、こんな人の多いメインストリート。それも気持ちのいい朝に考えなくこの魔法を発動したわけではない。もし敵の使っているものが夢幻魔法やそれに相当するものであるのなら、不規則に歪む空間で使うのは神技に等しいことである。おそらくそんなことをできる人間は限られているだろう。
周りの人間に多大な迷惑を与えるが、ご容赦願いたい。
エンリの予想通り、敵がその姿を表す。
茶色ローブにガタイのいい体。腰からは一本の剣が下げられている。
どこか不敵な笑みでエンリは頬を吊り上げてみた。
「逃げるなよ?」
そう、エンリが笑う。
振りかぶったトランクケースが地面へぶつかり、次の瞬間、地面が隆起し、六本の石柱が突き出す。それは空へ広がるように地面に突き刺さり、その間には薄い膜が張り巡らされている。三重にされたその薄い膜は幾何学模様を写し、それが結界術による結界だと一度でも結界術師と対峙したものならわかるだろう。そしてそれが決して人を逃さないように作られているとも。
水碧魔術『天穿宝賀乃龍神様』
空が吠えた。
それはもう獰猛に、そして強かに、人が動物としてその身に刻まれた自然の恐怖を体現するように。
晴天の空に一匹の竜が駆ける。
瞬間、青空に幾万幾億の水の糸が張り巡らされる。そしてそれは茶色ローブの男を縛り上げ、天を駆ける竜に固定した。それと同時に空間の歪みが収まり、正常な状態へと戻る。
エンリはトランクケースを地面に置き、椅子のようにしてその上に座る。
突然始まった戦闘に周りの人間は安全なところまで距離を取り、エンリたち二人を見守っている。つい最近、似た光景を見た。
「さて、聞きたいことはいろいろあるが、まず最初に聞いておきたい。なんで俺を狙った?まさか、ただ通り魔だなんて言わないよな?」
エンリの問いかけに男は何も答えない。
男は自らの腕や脚を動かし、水の糸から逃げ出そうとするもエンリが静止する。
「あぁ、待って待って。無理に抜けない方がいい。もし無理やり抜けようとしたら、上にいる竜が怒る。あいつはすっごく短気だ。糸が一個でも外れたら、腕と首が飛ぶと思っておいた方がいい。とりあえず、動かないで大人しく尋問を受けた方がいい。それにその結界だって抜けられないはずだ」
その言葉に男は動きを止め、ローブの影で隠されその表情はわからないが、口が動くのがわかった。
「わざわざ、お前を殺す理由をいうと思うか?」
それはひどいダミ声だった。魔法か薬で声を変えているのか聞き取るのも一苦労である。わざわざ声をかける細工を自分に施しているということはこうなることも予想通りということか。
エンリは魔法で近づかないように風を起こし、そのローブを剥ぎ取る。
そこには顔と言えるものはなく。影が表情を作っているだけの不気味な存在がいるだけだ。
「なるほど、こうなることもお見通しか。随分と計画的だな?その調子だと、やっぱり、ただの通り魔じゃなさそうだ。何か目的があって、俺はその通過地点といったところかな?さて?それが『賢者の天秤』かそれともまた別の目的か、どっちだろうな……」
まあ十中八九『賢者の天秤』ではないだろう。となるとやはり別の目的があると思うべきだが、全く想像がつかない。家の人間が俺の存在に気づいて、刺客でも送ったか?なら、こんな人間は使わないだろう。多分、もっと見知った人間が来るはずだ。兄弟の誰かか、親族か、少なからず身内の中から送るはず。
そんな思考を繰り返していると男が口を開く。
「お前はどうだ?」
「何が?」
「お前は俺と戦う理由があるのかと聞いているんだ」
「ふむ、殺しに来といて随分な物言いだな?正当防衛は十分な理由になるだろ?」
エンリは腹部の刺された傷を眺め見ながら会話を続ける。
「こっちは街に来てから、一ヶ月経ってないっていうのに、今のところ、誰かと殺しあってた思い出しかないんだ。おかげで周りからは自称学者なんて言われる始末。こちとら別に荒事に慣れているだけで、好きなわけじゃないんだよ」
「どうだか。お前は好き好んで面倒ごとに頭を突っ込んでいる気がするが」
「もしそう見えているなら、少し不服だ。まるで俺が物好きみたいな言い方だな」
さて、どうしたものか。今までの会話から見るに、相手は最低限俺の名前を調べており、俺がいろいろな面倒ごとに巻き込まれていること知っているらしい。となると俺の個人情報はそのほぼ全てが知られていると考えていいだろう。家を追放される前のことはともかく、今泊まっている宿や、俺が冒険者ギルドで冒険者登録を行ったこと。キリヤやリアナたちと親しいことはバレていると考えた方がいいかもしれない。
つまりはどこから俺の情報がダダ漏れか、もしくはそれらを簡単に知ることができる立場にいる人間ということがわかる。
しかしそれ以上に整理できる情報は少ない。だが少なからずこれだけ計画的に俺を狙ってきて、わざわざ声も顔も得意されないようにしたということは俺の実力を知っている可能性が高いな。やっぱり、俺に関する情報を知ることができる立場という方が現実的か。
まあいい。とりあえずセレンの場所にでも連れて行こう。話はそれからでも遅くないはずだ。
エンリはトランクケースから立ち上がり、太ももに感じた痛みに少し顔を顰めながら、男の方へと近づいていく。
こんな時に霊薬の一つでもあれば、すぐに治すことができたのだが、あいにく、霊薬は長らく必要のいらないものだったために作り置きしないでおいたら、前回リアナに使ったので売り切れてしまった。いまは、そんな霊薬のため、自分の部屋で絶賛、材料を乾燥中だ。できるのはあと一ヶ月後ぐらいだろう。
他の霊薬を作ろうにも材料が足りないので、作れない。面倒だと霊薬作りをしなかった過去の自分に苦しめられているのが現実だ。備えあれば憂いなしという諺があるが、身をもって味わっているよ。
不意に男が口を開く。
「一つ、教えておこう」
何か情報でも落としてくれるのかと、足を止め、男の言葉に耳を貸す。
「お前は俺の魔法を、夢幻魔法やそれに近しい魔法だと考えているだろ?」
「違うのか?」
「ああ、違うとも。大いに間違っている。重大な過ちだ」
「ならなんの魔法?」
男は両手を開いたり閉じたりし、乾いた笑いを空気に溶かした。
「はは、今から身をもって味わえ」
風切り音。視線が自然と音の方へと引き寄せられる。
目の前に迫るは高速の石柱。長さ10メートルはあると思われる巨大質量物がエンリに向けられ放たれたのだ。それは街中で出せる速度を優に超えている。物理的以外の力が働いているのは明白だった。
轟音が鳴り響いた。それがエンリと石柱が激突した時になった音なのは言うまでもない。
しかし、それだけの音を鳴らすほどの衝撃でありながら石柱は止まらず、エンリをつれ、さらに数メートル進み、建物へとぶつかり、破壊し、やっと止まる。
パラパラと建物の残骸が地面へと落ちる。その光景は当然のように衝撃的で到底人が生きているような衝撃には見えない。いわばトマトを全力で地面に投げるような所業だ。そう思うのは当然と言える。
男は静かに言う。
「どうだ?」
建物が崩れた音が響く。柱か何かが崩れ地面に落ちたのだろう。砂埃が再び強く宙にまう。
瞬間、竜が静かにそして確かに、明確な殺意を持って吠えた。
天を駆ける竜に接続された水の糸がまるで森で奏でられるハープのように緩やかで神秘的で優美な音を鳴らした。
しかしそれはありとあらゆるものを削り砕き変化をもたらし、自然に支配されたこの世界に存在する全てのものに恵みと破滅をもたらす流体製の竜の目覚めの音であることを知る人間はいない。
降り注ぐは天をも覆う大量の水の針。長細く一本ではダーツの矢にすら満たない。それこそ髪の毛ほどの太さしかない。しかしその数は到底数えられるものではなく。雨粒ほどというべきか、いやそれよりも多いかもしれない。
そしてそんなものが地上……男の方へと降り注ぐ。その威力は見るからに人に向けていいものではない。というか個人が使っていい魔術の威力ではない。どう見ても複数の魔術師がやっとの思いで使う魔術。それもこれは守りが強固な要塞などに使うことが目的された攻城魔術に近いものだろう。でなければこれほどの威力にはなるわけがない。
男の体を水の糸が包み込んだ。それはまるで繭に包まった蚕のように優しく、それでいて蜘蛛のような獲物を逃さんとする絶対的殲滅の意志が垣間見える。
水の糸は絶え間なく流動し、触れるもの全てを粉にする。それは嵐の夜の川のようにありとあらゆるものを咀嚼する魔物。破壊の権化である。
男は小さくほくそ笑み、頭の片隅に過ぎったエンリへの畏怖を払拭するように自分に語りかける。
大丈夫、この程度なら問題ない、と。
大量の水の針が降り注ぐ前に男はその姿再び消す。水の繭をするりと抜けて、結界すらもものともせずに、外へと抜け出してみる。
その顔には影しかないものの額に映る冷や汗が彼の状況の危険性を示していた。
「くそ!なんで、俺が戦う奴はみんなこうも殺意が高いんだ!」
そんな声が崩れた建物の方から聞こえてきた。
舞った砂埃を風が散らす。その後ろから姿を表したのは、腹部を木片に貫かれ、頭から血を流す黒髪の少年。
エンリの姿であった。
顔を顰めながらエンリは男の方へと歩を進める。腹部に刺さった木片を引き抜き、トランクケースから取り出した適当なガーゼと薬草を詰め込み、頭から流れる血を振り払う。
霊薬ほどではないが無加工の薬草にだって多少の薬効はある。それこそ薬草と呼ばれるぐらいには効果があるのだ。むしろ擦り傷や軽い切り傷には薬よりも直で薬草を塗りつけた方が早い時もある。霊薬や薬、ポーションといったものたちのように傷口は塞がりすぐに完治することはなくても、少なからず化膿する可能性は低くなるはずだ。
しかし困った。こうも予想のつかない相手と戦うのはいつぶりか。
男は自分が使う技のことを魔法と言っていた。それは暗に男が自分は魔法を使うと示したと言っていいだろう。だが、その事実が俺をさらに悩ませる。
もしあれが本当に魔法ならば、一体なんの魔法なんだ?男は自分の魔法が夢幻魔法であることを否定した。となれば、考えられる可能性は少なくなる。幻影魔法や投影魔法、いくつかの魔法の複合が考えられるが、幻影魔法は姿こそ蜃気楼のように消すことができるが、その実態までも失うことはない。投影魔法も、自分を別の場所へ投影することで姿を消せるが、それは蜃気楼というよりも、瞬間移動や座標魔術のように一瞬で場所を移動するので蜃気楼のような消え方はしない。
複合魔法だって、いくつかの魔法を組み合わせたのなら、『複合魔法の修正点』と呼ばれる複数の魔法を組み合わせたときに起こる矛盾の整合性を擦り合わせた部分があるはずだ。だが男の魔法にはそんな部分見当たらない。完全に一つの魔法として完成されている。
となる考えられる魔法は俺が知らない魔法か、もしくは俺が森にいる間に作られた新たな魔法。
個人的には後者であったほうが新しい魔法の研究しがいがあって、嬉しいが、前者の俺の知らない魔法の場合、一応学者を名乗っている以上、間違いであってほしい。
そんな思考の最中、轟音が響いた。地響きと共に水の針が、結界内を集中砲火する。一瞬のうちで地面が崩れ去る。先ほどまで綺麗に塗装された道だったそれらは、粉砕され、破片となり、粉となり、最後は姿なく消滅していく。
竜がブレスを吐く。雲を切断しながら、竜はそのブレスを結界内へと放った。
結界の蓋が閉じられ、竜のブレスが狭い結界の中で反射する。その様子はまるで小さな竜が全てを蹂躙する姿のようにさえ見えた。
もし今、この場所で、あの結界が壊れ、あの竜のブレスが解放されることがあれば、ここら一体は、一瞬で更地になるということが誰の目にでもわかるほどのものであった。
男は全身に鳥肌と冷や汗を滲ませながら、脱出ができてよかったと心の底から思いながら、ゆっくりとエンリの方へと向き直る。
そこにはいまだに思考から完全に脱出し切っていないエンリの姿がある。
まあいい。この際、男の使う魔法が何であるかは、もはや問題ではない。問題は俺が男に対し有効打を与えることができるかどうかいうことだ。今のところ、俺が男にダメージを与えられたのは左腕を折ったあの時だけ、あれ以外は一度も男に触れられてさえいない。
その上、男が逃げないところを察するに、奴はまだ手の内を全て見せていないのだろう。もしそれが致命的なものとなりうるのなら、今、追い詰められているのは俺の方なのだろう。
エンリは静かに息を吐いた。
空間魔法が効いたのなら、少なからず時間や次元に干渉するような魔法ではない。だがおそらく、相手の力量をみるに二度は同じ手段は効かないだろう。もし効いたとしてもすぐに対応されておしまいなはずだ。
ならば、やることは決まっている。正面からねじ伏せる。
「大人しく殺される気はないか?」
男が聞く。
「残念ながら、まだこの世にやり残したことがいっぱいあるのでね」
エンリが言う。
男が腰に下げた剣を抜いた。エンリもまた先ほどまで天を駆けていた竜を霧散させ、結界を解除し、トランクケースを握るその腕に力を込める。
空気が張り詰める。それはまるで膨らませた風船に針を突きつけるかのような緊張感であり、いつ破裂してもおかしくなかった。
初夏の少し湿気を含んだ風が二人の間を吹き抜けた。
瞬間、男が動く。
一歩の跳躍は一瞬にしてエンリとの距離を詰める。振るわれるは右手の剣。
浅い角度から振るわれたその剣は、半月を描くかのような美しい弧を描きエンリの左腕へと迫る。
地面を叩く。体が自然と捩れ、剣の刃を沿うように回避し、その回転は蹴りへと変換される。男の頭部を、こめかみを抉るような蹴りが炸裂するも、それは空を切る。
その隙に男は左手に持った短剣をエンリの脇腹に突き立てるも、それを予想していたのか、エンリは左腕を掴み、自分の方へ引き寄せ、思いがけない行動に体勢を崩した男の足を払い、地面へと組み伏せ、トランクケースを男の左手の甲へと叩きつける。
男はその額に冷や汗を浮かべ、左手を蜃気楼のように実体を消す。
地面が砕け、破片が辺りに飛び散る。
エンリはすぐさま、地面に叩きつけたトランクケースを男の顔面へ向けフルスイング。地面を滑走路に走ったそれは異様な音を鳴らしながら、直撃する。どうにも頭を消すのが間に合わなかったらしい。
口に滲んだ血を吐き捨てて、下半身を捻り、左腕を掴んでいるエンリを逆に振り回すような形で起き上がり、右手に持った剣をエンリの爪先に突き刺すも、一瞬のところで足を引かれ、地面へと突き刺さる。
その隙にエンリは男の腹部へ蹴りを入れるも、これは当たらず何もない空間を蹴るだけだった。男はすぐに地面に刺さった剣が抜けないとわかると、手を離し、エンリと距離を取るように後方へと立ち退く。
その姿をエンリは一切、油断することなく視線を送りながら、地面に刺さった剣が使えないように、柄を掴み、無理矢理に捻じ曲げる。これで抜けたとしても剣として機能することはない。
男の手には再び短剣だけが残る。
折れた左腕から右腕へと持ち替える。
再び睨み合う。
いつの間にか周りにいた人々はかなり離れた場所で両者の行く末を見守っている。
初夏の風が吹き過ぎた頃、両者同時に地面を蹴った。数多の静寂を破り、大気を切り裂くように二人の距離が近づく。
男の刺突。エンリはトランクケースでその攻撃を受け、そのまま押し込むよな形でトランクケースを男の胸部に押し付ける。エンリはそのまま氷魔法で男の頭部を狙う。男はもちろん頭部を消して、その攻撃を避ける。それがエンリの仕掛けたブラフとも知らずに。
そして発動するはトランクケース越しであろうとも、人一人悠々と地へ伏せる技。
ーー波魔ーー
男はトランクケースのせいで波魔特有の手のひらを添えるような構えに気づかず、衝撃が直撃する。衝撃で男の体が後方へ吹っ飛び、地面へとその背をつけた。
気絶していないことを見るに魔力の波動が広がりきる寸前で魔力でガードしたのだろう。だが、中途半端な”波魔”は心臓が揺れる痛みと呼吸困難で無駄に辛い。過去に俺も受けたことがあるからわかる。
エンリは地面に伏せる男の方へと近づいていく。
そして男の顔を見て感心した様子で言う。
「この状態で一切の魔力の乱れがないとか、大した魔術師だよ。顔にかけてある魔術は愚か、それ以外の魔力ですら乱れていないだから」
多分、この男は俺が知っている顔なのだろう。でなければ、ここまで顔を隠す必要はないはずだ。もし顔を見られて困る人間ならそもそもこんな朝っぱらから、ひと目のつくこんな場所で襲ってこない。
今この場で、顔にかかった魔術を剥がして、そのご尊顔を見てもいいが、それはまあ、セレンたちに任せるとしよう。俺は一刻も早く、軍の報告会に出席しなければいけない。
今回の戦闘で、随分と時間を食ってしまった。後処理もとりあえずはセレンに任せよう。
男がどこか不敵な笑みを浮かべていた。
今にでも笑い出しそうな雰囲気だ。
「まさか、お前に負けると思ってなかった。できればこれは見せないでおきたかった。だが、そうも言ってられないらしい」
エンリは頭に疑問符を浮かべながら、”波魔”を受けてよくここまで喋れるなと感心する。
不意にエンリは足を止め、少し離れた場所から様子を伺う。
男は今なお地面に伏せているが、その口振りから虚勢のようなこけおどしではなく明確な自信を感じたからだ。
しかしそれが不味かった。様子を見るために離れた場所で足を止めてしまった。それが致命的なミスと気づいたのはそれが起きてからだ。
次の瞬間、エンリの四肢を無数の武器が貫いた。いや貫いたと言うにはあまりにも突然、なんの気配もなく、なんの予感もなくその場へ現れた。それはまるで元々そこにあったかのように、現れたのだ。
「は?」
思わずそんな言葉が漏れた。
四肢を貫かれ、完全に固定され、身じろぎすらすることはできない。
男は朧げな足取りで立ち上がり、エンリの方へと近づいてくる。その様子から見てどうにも戦えるようには見えないが、今の俺をなぶり殺すには十分すぎる力は残っているだろう。
エンリの胸部に突然、土柱が現れ、体を貫く。風穴というには少し大きすぎる穴に土でできた柱が刺さっている。そして槍が、剣が、矢が、木が、氷が、岩が、斧が、さまざまなものが突如と現れ、エンリの体へと刺さっていく。その光景はまるで、エンリの体からさまざまな武器やものが生えてきているようにすら見える。
そして気づく、男の魔法の正体に。
男がエンリの目の前に立つ。
そしてその腕を空間へと『浸透』させ、エンリの体へと侵入する。
男が使う魔法、それは浸透魔法。ありとあらゆるものを浸透させ、ありとあらゆるものを透過する魔法。その能力に限りはなく。過去の偉大な浸透魔法の使い手は山を一個丸々、空間に浸透させ、敵の真上に出現させ、打ち破った逸話がある魔法だ。
しかし、その実、使い手が非常に少なく、あまり知られていない魔法の一つとして有名だ。
失念していた。学者と名乗ることを恥じるほどの失念だ。男の使う魔法はどれも浸透魔法の特徴であった。その姿を空間に浸透させるときに見せる、蜃気楼のような光景も、透過魔法や投影魔法のように、実態を消すことができるのも、そして、空間に浸透させた物体を加速させ、物体を飛ばすことができるのも、全部、浸透魔法の特徴だ。
もしできることなら今すぐにでも穴を掘って埋まりたい。そしてここまで自信満々に、これは違う、あれも違う、と考えていた自分の記憶を消して、もう一度最初からやり直したい。
しかし、まあ、これも経験だと割り切るのはいつものことだ。
だがまあ、受け入れたわけでこの状況を打破できるわけではなく。今なお苦しい。
魔法や魔術で体を強化していたから良かったものの、もし、強化していなかったのなら今頃、俺の体は四方八方に裂けて、人の形を失っていただろう。
骨は完全に切断され、肉も絶たれ、神経すら繋がっていない。おそらく今、俺が生きているのは体にかけた魔法たちが無理矢理に、血流を流し、心臓や肺といった器官の動かしているからだろう。
存外、強化魔法は優秀なものだな。
正直な話、今すぐにでもこの耐え難い意味を発散するように発狂して、意識を暗い闇の中に落としたいが、もし、そんなことをしたら相手の思い通りになるのは明白だ。
「立場が逆転したな。質問者から回答者へ。気分はどうだ?」
男が訪ねる。
「最高だね。今すぐにでも駆け出したい気分だ」
エンリはそう少し顔を顰めながらいった。
「そうか。できれば、このままお前と談笑を楽しみたかったが、残念ながら早く、この場から立ち去らないと憲兵がやってきてしまうからな。それにこっちも予定がある。時間がないんだ」
そういうと男はエンリの体の中でその手を実体化させる。
体の中に突如と生まれた異物感と痛みは想像を絶するものであり、さまざまな痛みを受けてきたエンリでさえ、その不快感と痛みに声を上げるには十分であった。
体の中で実体化させた短剣がエンリの心臓に触れる。
「遺言は?」
その短剣をエンリに突き立てる前に、男が聞いた。
するとその言葉にエンリは、眉を上げて、まるで挑発するような、相手を舐め腐っているようなその神経を逆撫でする笑顔で呟く。
「あいにく、俺には必要がないものでね。あんたこそ、遺言の準備は?もちろんできてるよな!」
瞬間、エンリの右腕が動く。
それは自分を傷つけることを厭わない相打ち覚悟の無茶苦茶な策。勢い任せに自分の右腕を固定している武器たちから引き抜いたのだ。
もちろん鮮血が宙を舞う。放物線を描き、美しいその軌跡の雫が、地へと落ちる前に叫ぶ。
天明『それは世界を焼き尽くす』
それは極限にまで凝縮された光の集合体。その熱量は瞬時に辺りのものを焼き切り、大気すら切断するほどの威力だ。
そんな威力の攻撃が地面を走り、男の眼前にまで迫る。男は自らの体を空間に浸透させ、その実態を消し、エンリのはなった攻撃を避ける。しかし圧縮された光の集合体の光量は男の視界を奪うには十分すぎる威力であった。
次の瞬間、視界が開け、男がエンリの姿を見た時、驚愕する。
空間が割れている。いや、違う。境界が分たれたのだ。
境界術『不完全な存在証明』
男の存在の境界が切断される。これにより男は空間への浸透魔法の行使することができなくなる。もし浸透魔法を使ったとしても、存在が境界術で切断されているので自らを空間に浸透させることができなくなる。
それは今なら、攻撃を透過されることなくダメージを与えることが可能ということだ。
岩橙魔術『大質量』
それは岩というには巨大で、それが作り上げた影は一瞬、世界が闇に包まれたと感じさせるものであった。隕石とも見間違えてしまう。
質量、それは物理法則というものがある世界において、偉大な武器となる。どんなものでも重いものが頭に当たれば人は痛みに悶える、柔らかく人体に無害そうな雪でさえ、塊となればそれは立派な兵器だ。もしそれに速度が与えられたなら、人を葬るには十分すぎる威力となるだろう。
男は息を呑む。流石に今、あんなものを喰らえば、ひとたまりもない。
そのつま先を後方へ向け、走り出そうとした時、エンリが声をかけてくる。
「帰るの?ならお土産でもあげるよ」
「は?何を言……!?」
言葉を言い終わる前に腹部に走る鈍痛。それが高速で飛んできた拳大の岩だと気付いたのはすぐのことだ。そしてそんな大きさの岩が次から次へと、まるでカタパルトでも使ったのかと疑いたくなるような速度で飛んでくる。
次第に男の体はその場に留まることができなくなり、後方へと押され始める。そして十発も喰らえば、ついには足が地面から離れ、後ろへと吹っ飛ばされる。しかし、それでも岩は飛んでくる。体にぶつかってはその速度を上げていく。
そしてついに空の巨大な岩が落ちてくる。落ちてきたそれからはもはや逃れることなどできない。
岩はゆっくりと確実に押しつぶすように男の上へと落下した。
しばらくして、エンリの体を貫いていた数多の武器が消えてなくなる。
エンリは岩の方へとぼろぼろな体を無理矢理、動かして近づく。そして魔法で岩を砕き、その下を見ると、そこには血溜まりだけが残っており、男の姿はなかった。
まあ、予想通りではあった。あれだけ戦い慣れている魔術師が自分に強化魔法をかけていないとは考えにくいし、俺の体を突き刺していた武器が消えた時点で、浸透魔法で回収したのは目に見えていた。
しかしまあ、気絶しないで逃げおおせるのは男の忍耐のおかげだろう。
そんな風にエンリは考えながら、呼吸を落とし気を抜いた。
次の瞬間、走る。胸部の微かな痛み、口から自然と血が溢れ出た。
それはエンリの心臓を一本の短剣が貫いた証拠であった。
エンリは静かに、振り返る。
そこにはエンリと同じく全身に傷を負った状態で、立っている男の姿があった。
なるほど、逃げたんじゃなく。俺が気を抜いて、確実に殺せる瞬間を待っていたわけか。完全に乗せられたな。
エンリは膝から崩れ落ち、地面と見合う。男はその光景を見た後、ローブを再び被り、その影を人並みの中へと消していった。
これはまずい。非常にまずい。どれぐらいまずいかというとかなりまずい。
手元には今すぐ、この傷を手当てできるような薬はなく、手段もない。薬草を使ったところで、焼け石に水。大した効力は期待できない。
こんな時に限って、霊薬が手元にないことが悔やまれる。魔法や魔術、境界術や結界術、その他いろいろなものを使って、延命を試みているものの、おそらく長くは持たないだろう。
少し多くの血を流しすぎた。持って5分、いや10分が限界だろうか?
そんな短い間で、これだけの傷を治せる手段は限られている。軍に辿り着ければまだ軍医や傷を治せるだけの機材がある可能性はあるが、今の俺の状態では、軍の基地に着く前にその灯火は尽きてしまうだろう。
宿に戻ってキリヤに治療してもらうのも、おそらく俺の命が持たない。
いわゆる詰み、と呼ばれる状況だろうか?
これまでいろいろな死線をくぐり抜けてきたそれでもまだ経験が足りなかったらしい。まあ実際、山に籠っていたのだから対人戦闘の経験が浅いのは当たり前か。それにしても少し驕っていたのかもしれないな。もっと慎重にそれこそ好奇心に駆られ相手の試すように戦うのではなかったら、ここまでの状況には至っていなかっただろう。
エンリは静かに息を吐き捨てて、自分の行いを反省する。
次第に暗くなっていく視界に一つの人影が近づいてくるのがわかった。
「大丈夫ですか、エンリさん?」
「あんたは……」
そこにいたのは赤褐色の短い髪に優しそうな顔立ちの男性。俺が森から出てきて最初にあった人間であり、この街へ俺を運んでくれた男の姿だ。
「リレア……」
「そうです、リレア。リレア・リバースです」
男の傍らには初めてあった時のように剣が携えてある。
まだ彼と会って一ヶ月も会っていないというのに、随分とあの日のことが懐かしく思えてしまう。
「さっき誰かと喧嘩……というには少し殺意が高すぎますね。戦闘をしていたみたいですけど……治るんですか?その傷」
「ああ、多分、ダメだろうな」
エンリはそう少し笑った。
「空想世界の奴らが俺の状態に気づけば他にやりようがあるんだけどな……」
今思えば、俺が死にかけると空想世界の奴ら真っ先に駆けつけてくるのに、今日は随分と珍しい。たまにこういうことあるが、あれは一体どういうことなのだろう?どういった基準で、助けに来てくれているんだ?
しかしまあ、その疑問も今となっては解決のしようがない。
不意にリレアがエンリの肩を担ぐ。
「歩けますか?」
「うん?ああ、少しなら……」
「ここから十分ほど歩いたところに僕の止まっている宿があるんだけど、そこに行けば、君のその傷も治せるかもしれない!どうにかそれまで、生き残れる?」
「随分な無茶を言ってくれる。持つかどうかは正直わからないが、まあ、どうにか死神に手を引かれないように頑張るよ……ありがとう」
「いやいや、シーベルトの時に助けてもらったからね。これぐらいわけないさ。これも巡り合いってものだよ」
そう言ってエンリはリレアの肩を借りながらそのおぼつかない足で、一歩一歩、踏み締めるように前へと進んだ。
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