買い物
朝日が窓際の席を照らす早朝の宿。コーヒーの香りを広がるロビーで、一人の少女……アリスが机の上で足を揺らしながらメモ帳に絵を描いている。
その目の前ではキリヤが角砂糖をコーヒーに入れながら手元の資料を眺め見ていた。それは今朝方、研究上の部下から送られてきたものであった。キリヤが働いている研究所は設備こそ一流だが、年中、人員不足であり、休みの日の朝もこうして資料の一つや二つ目を通しておかないと仕事が滞ってしまうのだ。
資料の修正箇所を記録しながら読み進めていくと、目の前で絵を描いてくるアリスが話しかけてくる。
「キリヤお兄ちゃん?」
「どうした?」
「それ何?」
指差したその先はキリヤが読んでいる資料である。
「これ?これは不完全放出魔力阻害っていう病気の研究資料だね」
「難しい名前の病気……」
「確かに」
「何に使うの?」
「今度の学会で発表するんだよ。エンリが書いた論文と一緒にね」
「エンリお兄ちゃんも論文書くんだ……」
「意外?」
横に首をするアリス。
「エンリお兄ちゃんもキリヤお兄ちゃんも、お母さんと同じ匂いがするから……」
それはおそらく『賢者の天秤』などというテロ組織に属するアンクレイ・ジャニバーではなく。錬金術師ひいては錬金術の研究者としてのアンクレイを指しているのだろう。
別の分野を学ぶものたちではあるが、所詮は同じ穴の狢である。学問の探究をしているもの同士、どこかにかよる部分があるのだろう。そしてそれはアリスのような純粋無垢な子供だから気付けるものなのだろう。
どこか暗い影を落としたアリスを気にかけるように話を変える。
「僕からすれば、エンリ本人に発表して欲しかったんだけどね」
「そういえば、エンリお兄ちゃんが発表しないんだね?」
「本人があまり乗る気じゃないんだよ。まあ、彼には彼なりの事情があるんだろうね。だから今回は代理発表って形なんだ」
そうエンリにはエンリなりの事情があるはずだ。その事情を知ることはないが、別に知る必要もないだろう。彼は僕の友人であり、良き研究者仲間だ。
その上、エンリは聡明であり、彼が自分から事情を話さないのはそれなりの理由があるからなのだろう。
なら無理して聞く必要もない。
「そうなんだ……頑張ってね」
「うん、頑張るよ!」
そういうとキリヤは再び資料に視線を落とす。
アリスもまた目の前のメモ帳に再び絵を描き始めた。
少しして静かな空間に扉が開く音が響き渡る。
宿に入ってきたのは木箱を抱えたヨラルである。木箱には仕込み用の野菜たちが大量に入っている。どれもこれも彩り豊かで生で食べても美味しそうなものばかりだ。
「キリヤ、アリス、どうだ?お腹空いてないか?」
そう言って投げ渡してきたのは赤みがかったオレンジの食べ物。グラムと呼ばれる比較的温暖な地域でのみ育つ果物であった。
その果実はみずみずしく、天然の水筒とも呼ばれるその果物の果汁は、甘塩っぱく冷やして食べると、癖になる味をしている。夏にはかき氷になったり、サラダになったり、おやつになったりとわりかし万能な果物である。常温の場合、甘味よりも少し塩味を強く感じることになるがそれでも十分に美味しい。
「ありがとうございます、ヨラルさん」
「ありがとう、ヨラルおじさん」
「何、いいってことよ」
そう笑いながら、厨房の方へと入っていく。
その姿を見送り、キリヤは腕時計で時間を確認した。時刻はまだ七時前である。
壁にかけられた時計の秒針がちくちくちくとレトロな音を鳴らしながらその針を進める。
階段の方から足音が聞こえ、不意に視線を吸い寄せられる。
視線の先には軍服に身を包んだセレンが立っていた。
「おはようございます、キリヤさん、アリスさん」
「おはよう」
「おはよう、セレン」
そういうとまだ眠たいのかどこかおぼつかない足取りで、ふらふらとキリヤたちが座っているテーブルの席に腰を下ろす。
「あれ?エンリさんは、まだ起きてないんですか?」
首を傾げながらいうと、キリヤが微笑を浮かべながら、
「ああ、エンリは意外と朝に弱いんだ」
そうエンリは意外にも朝に弱い。少し前にこの宿の修理を手伝った時も、彼が下に降りてくるのはいつも9時を過ぎてからだった。
本人曰く、朝弱いくせに、夜更かしをするせいで、どうしても朝起きることができないらしい。夜更かしをやめようと思ったこともあったそうだが、どうしても小さい時からの習慣なのか、それが治ることはなく。現状に至ると自嘲気味に言っていた。
「へぇー、なんか意外ですね?」
「確かに意外……」
セレンの言葉に賛同するように頷くアリス。
一体、エンリはなぜ、ここまで早起きだと思われているのだろう、と思いながら、空っぽになったコーヒーを新しく淹れるため、コーヒーメーカーへと歩を進める。
「セレンもコーヒー飲む?」
「あ、じゃあお願いします」
「了解。あ、先に言っとくけど、俺はリリアやヨラルほどコーヒー淹れるの美味くないからね?」
「別に文句言いませんよ……」
コーヒーメーカーから、滴が落ちた。
次の瞬間、セレンが地面を蹴るように椅子から立ち上がる。
そしてその腰に下げた剣へと手を伸ばす。
「どしたの、セレン?」
「し!静かに……誰か近づいてくる……」
首を傾げ聞いてくるアリスにセレンはどこか強ばった声でそういう。
「アリス、こっちにおいで」
キリヤはアリスの座っている入り口に近い場所から、壁沿いのコーヒーメーカーが置いてある場所へと呼ぶ。
セレンは入り口横の壁に背をつける。
近づいてくる足音は一つ。歩幅が狭く足音も軽い。おそらく女性。何かを引きずる音からして何か大きな荷物を持っている。キャリーケースかな?足音から随分と戦闘慣れしていることがわかる。おそらくかなりの手練れ。
通り過ぎるか?
セレンはそんな淡い期待を抱くもその足音は宿の前へ足を止める。何かしゃべってくるのが聞こえてくる。その内容を聞き取ることはできないが、予想通り若い女性のものだった。
朝早くから路地裏の宿に用がある人間などそう多くはないだろう。何か伝令を伝えにきた軍の人間か、はたまた人目につくことを嫌う人間か、もしくはアリスの事情を知るものかだ。
剣を握る右手に力が入る。
ゆっくりと扉が開き、外の光が中へと差し込む。
「ごめんください……ここにエンリって人いますか……?」
宿の中に響く声は聞き覚えのあるものだった。
「リアナお姉ちゃん」
そう言って、宿へと入ってきた一人の少女へと駆け寄る。
「あ!アリス!よかった、やっぱりここであってたのね」
飛びついてきたアリスの頭を撫でながら胸を撫で下ろすリアナ。彼女の手にはここらの地図とエンリに書いてもらったと思われるこの宿の住所を記したメモ用紙が握られていた。
セレンは肩に入っていた力を抜きながら、握ったいた剣を鞘へと戻し、抜けた声で言う。
「どうしたの、リアナ?こんな朝早くから、そんな大荷物持って……」
リアナの手には大きなキャリーケースが握られている。
「ああ、これ?これは宿泊道具。私も今日からここで泊まろうと思って」
「え!?」
突然の告白。セレンからすれば寝耳に水である。
「ほら、セレンは軍の仕事もあるわけでしょ?そうしたらずっとアリスの近くに入れないだろうし、まさか仕事中もつきっきりってわけにもいかないだろうなって思って。それに私なら、一度『賢者の天秤』と戦ってアリスを守り抜いた実績もあるわけだし、『賢者の天秤』の仲間じゃないことも証明されてるから、新しい軍の人呼ぶよりも簡単かなって思って」
「うう、リアナぁ……」
リアナが言ったことは全て当たっていた。
セレンはあくまで軍人であるからして、アリスの保護と同時に『賢者の天秤』の捜索を行わなければいけない。それも今回の件で彼らがアリスの回収を目的としこの街で潜伏していることがわかったために、前回以上の被害が出る前に、迅速にことに当たらなければいけない。
そうなれば、アリスの隣にずっといるわけにもいかず、一応、この街へは『賢者の天秤』捜索を目的としてやってきたわけで、アリスの保護と同時に『賢者の天秤』の調査を行うことになるのは、想像に難くない。
その上、私がいない時にアリスを守れる代わりの兵士を呼ぶように上層部に要請もしていたのだが、その要請も多くのものが別件で出払っている今、いつ増員が送られてるかもわからない状況だった。
そこで現れたリアナは、セレンにはまるで救世の女神の如く映っただろう。
「ありがとう!本当に助かる!」
「いいって、いいってこれぐらい。それにほら!」
そう言って見せてくるのは、一枚の紙である。
それは軍から冒険者ギルドへの委託状。記されている内容は至極単純、アリスの保護に関する軍への協力であった。
「まさか……」
「ふふーん!昨日、みんなと別れた後、軍に掛け合って冒険者ギルドに協力要請を出してもらったの。これで私は正式に軍から協力を要請されている立場になったわけ。冒険者ギルドから任務として受けてるから、お金も出るし、私が勝手にアリスを守って文句言われることも回避できるし、一石二鳥ね」
セレンはどこか呆れたように頭を抱える。
リアナとはこの街に来る前からの友人だが、時として予想のつかないことをする。
今になって、昨日の会話の理由がわかった気がする。
昨日、『裏路地宿』でアリスを保護することが決まった後、アリスはリアナに一緒に宿に来てくれるか、と聞いていたのだが、彼女はその誘いを断っていた。
面倒見のいい彼女が、ことが落ち着くまで見守ることをせずに、距離を置くのは珍しいと思いっていたが、それが今日、このためにやっていたことだと思えば、全ての疑問が解消されていく。
おそらく彼女は軍と冒険者である自分が揉めるのを嫌ったのだろう。
魔法使い、魔術師、錬金術師が仲が悪いように、決して軍と冒険者ギルドも仲が良くはない。軍はどこの国にも所属していないにしても、民間組織である冒険者ギルドが国家転覆できるほどの武力を持って、ましてやそれを国内に常駐させていることを嫌っているし、冒険者ギルドもさまざまないちゃもんをつけて、依頼など妨害してくる軍を嫌っている。
しかしまあ、軍は魔獣討伐の際は、冒険者ギルドに協力を要請することもあるし、冒険者ギルドも貴重な収入源である軍からの要請を断るようなことはしない。
随分とまあ煮え切らない関係である。よくいえば、持ちつ持たれつであり、悪くいえば、お互い牽制し合ってる関係である。まあこの関係が今後も崩れることもないだろう。
だからこそリアナがその協力要請をもぎ取ったことに尊敬と同時に一体どんな方法を取ったのだろうとちょっとした恐怖を感じる。非合法な方法を取っていないといいんだけど……大丈夫だろうか?大丈夫だと信じたい!
だがまあその答えを聞いて、悩みの種が増やす必要もないだろうと、その疑問は心の中にそっとしまい込む。
「それにこんなのも貰ってきたしね」
そう言ってバッグから取り出したのは大量の金貨を入れた麻の袋だった。
「色々文言書き連ねて勝ち取ってきたの。これで一通りアリスの服とか必要なもの買えるでしょ?」
「すごいよ、リアナ!それにしてもよくこんなに早くお金もらえたね?いつもは申請、申請ってうるさいのに」
「まあ、私もこれぐらいは役に立たないとね。私はセレンやエンリと違って錬金術師に圧倒的有利ってわけじゃないし。もしジェルク・ヒュードと戦うことがあったら、アリスを守るのが精一杯だろうし」
そう、おそらく私がジェルク・ヒュードと対峙することがあったのならば、勝つことは厳しいだろう。それは実力やアリスをも守っている守っていないなどの条件に関係せず、もっと根本的なところにある。
錬金術師と魔導具使いは基本的に相性が悪いのだ。
魔導具使いはその名の通り、魔導具を用いて戦う人間の言葉を指す言葉だ。使う魔導具の種類でもその相性の良し悪しは変わってくるが、私のようなカートリッジ系の魔導具を使っている人間は魔法の使用回数に制限があるために、長期戦に向いていない。
そのため、魔力や霊力といった縛りがなく、錬金陣と材料さえあれば無限に武器を作り出すことができる錬金術師に、遅滞戦闘へ持ち込まれた場合、ただただジリ貧であり、カートリッジと体力を消耗するだけであり、そうなれば互角に戦うことは難しいだろう。
それこそ実力差があり、戦闘経験の差で殴れる場合は別だが、あのジェルク・ヒュードではそうはいかないだろう。
会話に入り損ねたキリヤが、リアナのことを一体、目の前にいる少女は何者なのだろうという、怪訝な視線がぶつかる。
それに気づいたリアナはキリヤの方へと向き直り、自己紹介を始める。
「初めまして、リアナ・リバースと言います」
「あ、ああ、初めまして。キリヤ・ベルベロラです。よろしく」
「よろしくお願いします」
そう言ってリアナは頭を下げた。
随分と礼儀正しい少女だ。おそらく彼女がエンリと一緒に『賢者の天秤』と戦った友人なのだろう。というか十中八九そうだろう。セレンとリアナの話の中で冒険者ギルドという名前や『賢者の天秤』と戦ったと言っているんだ。これで彼女がエンリの話に出てきた一緒に『賢者の天秤』からアリスを守った友人でなければ、僕は今後、他人の言葉を正面から受け取ることができなくなりそうだ。
「とりあえず、そんな大荷物持ってたら、ゆっくりできないでしょ?部屋に行って荷物を置いてくるといいよ。ちょって、待って……」
そういうとキリヤは厨房の方へと歩いて行き、ヨラルたちを呼ぶ。
その姿を見て、リアナは「こんな朝早くから来て迷惑だったかな?」と呟く。
それに対してセレンは「大丈夫だよ」と言う。リリアたちと出会って一日も経っていない人間がいう言葉だが、少なからず、二人が悪い人間ではないことぐらいはこんな短時間でもわかる。
「どうしたどうした?」
ヨラルがなぜかエプロンを真っ赤に濡らしてロビーの方へやってくる。
一体、この短時間で厨房に何があったのだろう。トマトでもぶつけられたのだろうか?
「お客さんですよ、ヨラルさん」
「これまたこんな宿に客が来るなんて珍しいな」
そんな自虐混じりの逆を言いながら、リアナの前に立つ。
そしてリアナに抱きついているアリスを見ながらしばしの思案をし、何かを悟ったように、「あ〜、なるほど……」と呟く。
「昨日、エンリが言ってた。一緒にアリスをも守ったって言った子か」
「よく分かりましたね」
「そりゃあ、伊達に軍上がりじゃないからな。見ればなんとなくわかる。戦い慣れてるかどうかぐらい」
普段のどこか優しい雰囲気からそんな風に見えないが、確かにヨラルも軍人上がりの人間だ。僕ではわからない元軍人ならではの感覚があるのだろう、とキリヤは思う。
「初めまして、リアナ・リバースと言います。軍からの協力要請で冒険者として協力させてもらうことになりました。よろしくお願いします」
「ヨラル・アンスバルトだ。こちらこそよろしく頼む」
二人の自己紹介が終わったところで、まるで気を見計らったようにアリスが口を開く。
「ヨラルおじさん」
「なんだ?」
「私、リアナお姉ちゃんと一緒の部屋がいい」
随分と子供らしい要望だ。リアナは昨日までどこかよそよそしいアリスの様子とは違う彼女の行動に少し驚く。まさか昨日の今日で、これだけ自分の意見を言えるようになるとは。
それはアリスの成長が目覚ましいのか、それともこの宿の人たちがそれだけアリスによくしてるかのどちらかだろう。
「俺は別にいいが……」
そんな風に言いながら、ヨラルはリアナの方を見る。
「ヨラルさんが問題ないなら、私は大丈夫ですよ?」
「ふむ……まあ、どうせ領収書は軍宛だし、我が宿自慢のスイートルームでも開けるか」
「え?いいんですか?」
「問題ない問題ない。むしろこの宿、見ての通り客が少ないというか客として泊まってるのエンリだけだから、稼げる時に稼いでおかないと。現にセレンにはセミスイートの部屋、開けてるし」
「え!?」
目耳に水といったようにセレンがヨラルの方を見る。
「確かに、随分といい部屋だな、とは思ってましたけど。まさかセミスートだなんて……経理部に怒られたくないなぁ……」
どこか肩をすくめ意気消沈しながら元の席へと戻るセレンを横目にキリヤもまたいつの間にか席に戻って淹れたまま放置されていたコーヒーを飲む。
ヨラルはその姿を見て、さすがに気の毒に思ったのか、というかその原因はヨラルだが、これぐらい大丈夫。警備上の利便性の結果って言っとけば、経理部は納得するしかないから、と助言をする。
その言葉にセレンは、確かに、と頷く。現金な人だ。
そしてヨラルは話を元に戻すように一度、咳払いをしてリアナの方へ向き直る。
「それにアリスと一緒に過ごすなら広い方がよりいいだろうしな。スイートルームならセレンの部屋とも近いから、何かあってもすぐ駆けつけれるし、エンリの部屋も近いから基本、どんな状況でも対処できるだろ?」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
その言葉を聞いたヨラルはカウンターの後ろから鍵を取り出し渡す。
「部屋は一番上の階だ。好きに使ってくれ。食事も用意するけど外で食う時とかは言ってくれれば用意しないから」
「わかりました」
「あ、あと料理のリクエスト受け付けてるから言ってくれれば作るよ」
「あ、はい。了解です」
リアナはそう言うと軽く会釈し、荷物を持って部屋へと向かう。アリスは私も行く、と言いながらトコトコとリアナの後ろをついて行き、セレンもリアナの荷物運びを手伝うため、着いていく。
ロビーに残ったヨラルとキリヤはそんな3人を見送って、姿が見えなくなった頃、キリヤが口を開く。
「賑やかになりそうですね?」
「ああ、そうだな……」
ヨラルは少し嬉しそうに微笑み、薬指につけた指輪に視線を落とした。
ーーーーー
何度目の朝か。窓から差し込む日差しはカーテンに遮られ、少しの光をこぼすのみ。いつもと違う聞き覚えのある声で目が覚めて、未だ眠たい目を擦りながら、体を起こす。
手にはなぜかペンが握られており、膝下には大量のノートと紙が散乱している。覚醒し切らない頭が徐々に昨日の記憶に鮮明さが増す。
紙にはさまざまな図形や補足が書き込まれ、ノートにはその図形たちに関する詳細な文章と応用、仕組みなどが書かれている。
どうやらセレンから借りたあの遠くの人間と話す魔導具の仕組みについて考えていた結果が散乱しているらしい。考えている途中で眠ってしまったようだ。
まあ昨日は今まで生きてきた人生の中で、一番と言って良いほど濃厚な日だった。疲れて寝落ちしてしまうのも致し方がないだろう。むしろそんな疲れた状態でもこれだけしっかりした魔導具を設計したことに自分でも少しの驚きを覚える。
どうやら俺の頭は疲れた時ほど能力を発揮するタイプなのかも知れない、というくだらないことを考えながら体を起こす。
ベッドが軋み、小さく揺れる。
ベッドの上の資料たちを適当に片付けて、顔を洗い歯を磨く。
ふと下の方がいつにも増して賑やかであることに気づく。近くの時計に目をやると時刻は12時手前、食事時と言っても差し支えない時間だ。
昨日のハンみたく誰か知り合いがやってきているのかも知れない。
エンリは朝食もとい昼食を取ろうと部屋を出てロビーへと降りていく。
聞こえてくる話し声はキリヤ、リリア、ヨラル、アリスの四人ともう一人聞き覚えのある女の声。なぜかものすごい嫌な予感を覚えながら、階段を一歩一歩噛み締めるように降りていく。
一階の床が見えてきた頃、その声はより鮮明になる。
「私も昔、両親に連れて行ったもらったことありますよ、エルブル温泉街。小さい時でしたから記憶は曖昧ですけど」
「温泉入った?」
「確か旅館の温泉には入った記憶がありますね。のぼせて茹蛸になった記憶も……え?リリアさんたちは入らなかったんですか?」
「入れなかったっていうよりは、入れなかったって感じかな?」
「二人で行った初めての旅行だったんだけどね。色々トラブルに巻き込まれちゃって、入る時間を逃したんだよ」
「今思えば、残念なことしちゃったよね」
「まあ、初めての旅行にしては濃い経験だったよ。多分一生忘れないね」
「うん、絶対に忘れない」
そんな会話の最中、階段の軋む音で視線がエンリの方へと注がれる。
「おはよう、エンリ。今日は随分と起きるのが遅いね?」
「おはよ、キリヤ。いつも通り夜更かしした結果かな」
「おはようございます。エンリさん、コーヒー飲みますか?」
「うん?ああ、じゃあ貰おうかな」
「ちょっと待ってくださいね」
そう言ってリリアは席を立ちコーヒーを淹れに向かう。
エンリは近くのテーブルから椅子を手に取り、キリヤたちが座るテーブルに向け、少し離れた場所に腰を下ろす。そこにアリスがやってきて、エンリの膝の上に座る。そのことに特に気にする様子もなくエンリはその視線を一人の少女へと向ける。
そこにいるのは金の髪をポニーテールに結った少女。俺の記憶が正しければ昨日まではツインテールだったのだが、イメチェンだろうか?だが、正直な話そんなことどもいい。彼女の髪がツインテールからポニーテールへと変わったところで、彼女の芸術品じみた美しさが変わるわけでない。せいぜい、どこか気品ある少し強気なお嬢様の絵画から街を行く美少女の絵画に変わった程度の変化である。そこには別段、差があるわけではない。
そしてそんな少女が彼女らしい挨拶をしてくれる。
「おはよう、エンリ。今朝は随分と早いのね?」
その美貌に似合わぬ口の悪さ。時刻はすでに12時を回った。これを皮肉と言わずなんという。
先日、冒険者ギルドで他の冒険者と揉めていた時にも思ったが彼女の皮肉はどこか鮮度に満ちている。生々しいのだ。
鋭いナイフのような口撃ではなくどちらかというと巨大なフォークを指しているかのような感覚だ。もう少し手心が欲しい。
エンリはそんなことを考えながら、聞く。
「おはよう、リアナ。あー、なんでここにいるの?」
少年は首を傾げる。
リアナは小さく嘆息し、数時間前にセレンにした説明を繰り返し行う。十分ほどの説明をエンリはリリアが途中で持ってきてくれたコーヒーを飲みながら、聞いていた。
コーヒーも半分ほどが飲み終わった頃、説明は終わり、エンリはなるほどね、とどこか感心したような表情を見せる。
そして静かにコーヒーをテーブルの上へと戻し、
「まあ、戦力が増えるのはいいことだ。それだけ『賢者の天秤』も手を出しづらくなるしな」
それにセレンには他にやってもらうこともある。彼女にはアリスがホムンクルスであることがバレないように色々と根回しをしてもらわなければいけない。こればかりは軍の人間である彼女にしかできない仕事だ。
それに彼女には早々に『賢者の天秤』を見つけ出し、アリスの安全を確保するという最重要事項が存在している。これに関しても俺たち素人が出しゃばるよりも、軍の情報網を活用して、探した方が効率的で円滑な調査ができるだろう。
こうして見てみると彼女への負担が大きい気がするが、この際見なかったことにしよう。今が俺ができるのはアリスに魔の手が近づかないように警戒することだろう
不意にリアナが告げる。
「とりあえず、今から一緒に、買い物に行くわよ」
「ああ……うん?買い物?」
エンリは返事の後に首を傾げ、聞き返す。
「そうよ、まさか、このままアリスの私物を何も買わないわけにも行かないでしょ?服とか色々必要だろうし。この街も紹介したいしね」
「え、今すぐ行くの?」
「もちろん、早に越したことないしね」
先ほどまでは気づかなかったが、膝の上に座るアリスを見ると、いつの間にか昨日寝る前に確認した服とは打って変わって、白のワンピースに踵側が少し上がった靴を履いていて、どこかのパーティーに出ても違和感のない服装に仕上がっている。
主観で物事を語りすぎだろうか?だがまあ、それだけ綺麗に仕上がっているのは確かだ。
「あー、ひとつ聞きたいんだけど、何でわざわざ俺を待ったの?別に同伴なら俺じゃなくてもヨラルでも良くない?」
少し女々しい質問だろうか。だがまあ純粋な好奇心を偽る事は難しい。
リアナはどこか目を細めエンリを揶揄うように、
「なに?『あなたと一緒に行きたい』って言ってほしいかった?」
「いや別に。むしろ言いたかった?」
「な訳ないでしょ。ただの荷物持ちよ」
否定されるとわかっていても迷いなく答えられると少し悲しい。
肩をすくめるエンリに、膝に座ったアリスが、大丈夫、リアナお姉ちゃんはエンリお兄ちゃんのこと好きだよ、と優しくフォローを入れてくる。
アリスが優しい子でよかった。
目の前のリアナはめちゃくちゃ否定してくるが、まあこうして俺を荷物持ちとしてでも誘ってくれるぐらいには信頼と親愛があるのだろう。
そして否定と同時に補足を入れるようリアナがどこからともなく一枚の紙切れを取り出す。
「それにほら、これ」
「何これ?」
「あなた分の協力要請よ。あなた口頭で今回の件受け入れたでしょ?それを文面でもらったのよ。それにこれも冒険者ギルドを通したから、冒険者としての実績にも加算されるし、今後、冒険者として生活していく時に有利になるわ」
確かに今回の件は口頭で受けた話であった。別に報酬目当てで今回の件に関わっているわけではないが、お金が手に入るのに越した事はない。そうなれば新たな実験道具や魔導具、魔導書も買うことができる。
だが文書がなければ一時の言葉など気泡のように消えて行ってしまう。証拠となる物証がなければもしふと報酬を貰おうとしても踏み倒されて終わる可能性が高い。そういう点からも文書という正式な書類でもらえるというのは嬉しい話だ。
それも冒険者としての実績にも加算されるなら、これからの冒険者活動もとい軍資金集めが楽になる可能性がある。これはリアナには感謝しても仕切れない。
「どう?誠心誠意荷物持ちをする気になった?」
「頑張らせていただきます」
エンリはそういい、リアナから協力要請の文面が書かれた紙を受け取る。
鋭い罵りとは正反対に本当に面倒見のいい人だ。これだけいい人間なのになぜか彼女に恋人ができる姿が想像できないのは日頃の行いのせいだろうか。
「あなた、今、失礼なこと考えてない?」
「滅相もない」
まるで射殺さんと言わんばかりの視線にエンリは冷や汗をかきながら首を左右に激しく振る。
リアナは睨むような瞳でエンリを見て声を低くして、そう、とだけ呟く。
エンリの体を死闘を超えた後の疲労感が襲う。今後、彼女の前で恋人のことについて考えるのはやめとこう。人には詮索されたいことの一つや二つあるはずだ。そうだ、そのはずだ。忘れてしまおう。
これ以上、この話を深掘りしたら、それこそ命が危ない気がする。特大の地雷を踏んだ気分だ。いや実際に地雷だったのだろうが。
リアナが壁にかけられた時計を見る。
「さて、そろそろ行こうか」
「え?俺の昼飯食べる時間は?」
「今、コーヒー飲んだでしょ?」
「マジですか……」
「そもそもあなたが起きてくるのが遅いのがいけないんでしょ?」
「はい……」
うーん、実に耳が痛い話だ。全てが真実であるが故に反論の余地がない。
「アリス、行くよ」
「よいしょ」
アリスは膝から飛び降り、リアナの方へ駆け寄っていく。
エンリも残ったコーヒーを勢いよく飲み干し、リリアに、ありがとう、と言いながら席を立つ。
「あ、ちょっと待っててトランクケース取ってくる」
「急いでね」
「はいはい、少々お待ちを」
そう言ってエンリは階段を駆け上がっていく。
リアナも流石に荷物一つ取りに行くのを待てないほどせっかちでも焦っているわけでもない。
しばらくしてトランクケースを手に戻ってくるエンリ。
「行ってらっしゃい」
「気をつけてね?」
「ご飯作って待っておくね」
そんな言葉でキリヤたちから見送られ三人は買い物へと出かけた。
部屋はすっかり静まり返り、残されたキリヤとヨラル、リリアの三人が小さく呟く。
「あの二人、仲良いな」
「そうだね」
「そうですね」
窓から入る日差しが今日も暑い昼下がりの日の話であった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
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