狭い世間<アリス>
エンリはその少女に見覚えがあった。
今から数日前、リリアの神格化とも言えるあの現象を見たあの日に出会った少女。
出会ったと言っても、彼女が飛び出してきたところにぶつかって、一言二言、言葉を交わした程度の関係性だ。
彼女の着ている服はその時と同じ、ポンチョに似た服一枚のみ。それも前回見た時よりも随分と汚れているように見える。まるで何かから出会ったあの日から今の今まで、逃げ続けていたようだ。
リアナが小声で「知り合い?」と聞いてくる。エンリはそれに曖昧な返事をする。
流石に一度会って、二言三言、会話だけの少女を知り合いと言うのは憚られた。
そんなことをしていると、少女が辿々しい感情の捉えにくい声音で、口を開く。
「あの……お兄さん、前、ぶつかっちゃった人ですよね……?」
その言葉にエンリは少し驚く。
自分で言うのも何だが、エンリの顔は決して特徴的な顔つきではない。今、目の前にいるリアナのようにすれ違う人、全員が全員振り返るような美しい容姿を持っているわけでもないし、だからと言ってハンベルマンのような立派な顎髭があるわけでもなく、特に特徴と言える特徴があるわけではなかった。
少なからず、一度会話をしただけの相手に覚えられるような印象深い顔はしていない。
「ぶつかった時に私、何か、落としたりしませんでしたか?」
その言葉にエンリはトランクケースを開けた。
そして中から天球儀に似た模様のついたネックレスを取り出す。
「これのことかな?」
「そう、それです」
感情の起伏が薄い少女の声が揺れた気がした。どうやら喜んでいるらしい。
エンリはそのネックレスを少女の手の上に置く。
「ありがとう」
「次は落とさないようにね?大事なものなんでしょ?」
「はい、これは私が唯一好きにできるものですから……」
その言葉はどこか重苦しく息が詰まるような思いが込められている気がした。
そしてその言葉にエンリは一抹の不信感を覚える。それはまるで彼女が自らの意思で選択できるものは、そのネックレスしかない。そう言ったように聞こえたせいだろうか。
ぐううぅぅぅぅぅ〜。そんな唸り声にも似た音が店内に大音量で鳴り響いた。それが少女の腹の虫が鳴いたことだと考えずともわかった。
少女のその表情も少しも変わっていないが、頬がほんのりと赤くなっている。少なからず恥ずかしいという感覚はあるようだ。
そして一瞬の静寂の先、一番に声を上げたのはリアナであった。
「もし、よかったら一緒にご飯食べない?お腹空いてるんでしょ?」
「いいんですか?」
「もちろん、いいわよ!エンリもいいわよね?」
「ああ、問題ないよ」
その言葉を聞いて、リアナは微笑を浮かべ、少女の方に向き直り自分の隣に座るように手招きした。メニューを渡し、好きなものを頼んでいいよ、と伝えると少女はその無感情な瞳を爛々と輝かせて、メニューを食い入るように見た。
ふとリアナがテーブル下でエンリの足を突っついた。
それに気づいたエンリはリアナの方を見る。
そして周りはもちろん、隣でメニューを食い入るように見ている少女にすら聞こえないような小さな声で、エンリに耳打ちする。
『ねえ、気づいた?』
『何の話?』
『彼女の足、裸足よ』
言われてみればそうだ。彼女は裸足だ。
どうも風が吹けば肌が見えてしまいそうなその防御力の低い服装にばかり目が行き、彼女の足元にまで気が回らなかった。
汚れたポンチョ一枚に靴も履かずに汚れた足のまま歩き回るその姿、どうも彼女は訳ありのようだ。
こういった年端も行かぬ幼い子供が何らかの理由で今、目の前にいる少女のように家を追われ、街を徘徊する事例は決して多くないが少なからず存在していた。
家を追われる理由はいくつも考えつく、元々が貴族であり、没落したために家を失い、住む場所を失ったためや親もしくは奴隷商やその手先に誘拐され、その場所から逃げ出してきた。他には、何らかの特殊体質や特異能力を持ち、忌み子として捨てられたか。
他にも考えようと思えば、いくらでも理由は思いついた。
「これなんて読むんですか?」
少女がそう聞いてくる。
リアナがメニュー表を覗き込み、指されている場所を読み上げた。すると少女はありがとう、と少し気恥ずかしそうに答えた。
どうやらリアナは案外面倒見がいいらしい。どうも今までの行動や言動を見るにそんなタイプには見えなかったが、よくよく考えれば、今回、俺が呼ばれた理由も洞窟で助けたことに対するお礼だ。
それを考えればリアナは少なからず、人をむやみやたらに無下にするタイプの人間ではないのだろう。
「すい、すいませ……すいません……」
呼び慣れていないのか、あちらこちらへ動き回る店員を捕まえることができずにその声が徐々に小さくなっていく少女。そしてそれを見かねたリアナが店員を呼び止める。
すると少女は少し緊張した強張ったような感情のない声で淡々と告げるようにメニューを注文する。
「このりんごジュースと……やさいスープ、牛乳とスペア、リブ?っていうのと、このナスとキノコのパスタ?とレタスのサンドイッチとソーセージパンと、夏やさいのグラタンとミルクパスタ?と、あと……」
「ちょ、ちょっと待って、大丈夫、そんなに頼んで食べられる?」
「うん。大丈夫だと思う。……もしかして、こんなに頼んだらダメだった……?」
そういう少女の表情は無表情ながらにどこか悲しげで悲壮感に溢れている。それはまるで母親に叱られた子供のようだ。
おそらく少女は好きなの食べていいよ、を好きなだけ食べていいよ、と解釈したのだろう。認識の齟齬だ。
そしてそんな表情をさせてしまったリアナは、子供に気を遣わせ、その口からそんなことを言わせてしまったこのとへの罪悪感か、ばつが悪そうに、うっ、と顔を顰め、消え入りそうな小さくなっていく声で、
「う、そんな顔されたらダメなんて言えないじゃない……まあ、いいわ。どうせエンリには奢る予定だったし、一人、大食いぐらいが増えるぐらいどうってことないわ!だから、どれだけ頼んでもいいわよ?」
「本当?」
「ええ、本当よ」
「ありがとう」
そういって少女は追加で24品もの品を頼み合計で31品もの料理を頼んだ。
その光景に後悔とも悲観とも言えない、強いていうのならば諦めにも似た諦観の表情を浮かべるリアナに流石に気の毒になったのかエンリが、自分の飯代は自分で払うというと、彼女は少し震えた声で、も、問題ないわ。全くの無問題よ、と言って見せた。
随分と意志の強い人だ。まあ彼女がこういうのだから今回は大人しく奢られよう。
そして食事が届くのを待つ間、三人の会話は自然と少女についてのものへと変わっていった。
「それであなた名前、なんていうの?」
そう話題を振ったのはリアナであった。
少女の状態から見て彼女がなんらかの問題を抱えているのは明白であった。
リアナは時々口調が厳しかったり、行動が強引な人物だが、基本は優しい人だ。少なからず突然現れは身元不明の少女を同じ食卓に招き入れる程度には優しさに満ち溢れている。
それに年はも行かぬ少女が汚れた服に裸足で外を歩き回っていたのだ。それもあれだけ大きな腹の虫の音を出して。当分満足に食事も食べられていなかったことが容易に推理できる。
そんな少女を前に、そのままにしておくのは人としての道徳にも仁義にも反する行為だろう。
少女は背筋を伸ばし、椅子に座る姿は精巧に作られた綺麗な人形のような感覚を覚える。人工的な美貌がさらに人外味を増す。
そして少女は何食わぬ顔で低くも高くもない、感情の籠らない声でいった。
「私の、名前?」
「そう、あんたの名前を教えて欲しいの」
「私に名前はない。研究員からは識別番号で呼ばれた」
「え?」
その言葉にリアナは驚き激しく動揺する。おそらく彼女にとって全くの予想外のセリフだったのだろう。
言葉を失いしどろもどろになるリアナに変わって、エンリが口を開く。
「識別番号?人間を研究の実験動物に使うのを禁止されてから随分と経っているはずだけど?俺がいない間に法律が変わったのか?」
「なわけないでしょ!?今でも重罪よ!重罪!」
重罪ということを二度いい強調する。混乱と動揺で冷静ではなくなった頭は容易に人から理解する行為を放棄させる。それでも一応は人の話を聞いているらしい。
感情をあらわにするリアナに対してエンリは随分と冷静だ。
それはおそらくここ最近、この街に来てからさまざまな面倒ごとに巻き込まれたせいだろう。どうも感覚がおかしくなっているらしい。
「識別番号は13594200番だった。でも……」
少女はそこで言葉を紡ぐことをやめた。
その時、初めて少女の眉が動いた。悲しげな表情。涙こそ出ていないが、その瞳の奥にある沈鬱な表情を見流すほど、エンリは鈍感ではなかった。
エンリは口を噤む。同じく口を噤むリアナ。
幼い少女が自ら口を閉じたことを無理に聞き出す必要もないだろう。
言わないなら言わないで、それは少女が下した自分なりの判断。その判断にとやかくいう権利は憲兵や軍人ではない、今の俺たちにはないだろう。
しばらく沈黙の後、少女が口を開く。
「でも、彼女は私をアリスって呼んでた」
「そう……なら、これからはアリスって呼ばせてもらいわね?いいかしら?」
「ええ、大丈夫」
「よかった。ならアリスに聞きたいことがあるんだけどいいかしら?」
こくりと頷く。
「えっと、アリスはどこかの研究所から逃げてきたってことでいいのかしら?」
「うん、逃げてきた。あそこにいたらダメだってお母さんが逃がしてくれたの。部屋の鍵を開けてくれて」
「なるほどね。それで一人で逃げてきたのね……」
「ううん。最初はお母さんも逃げてきてたんだけど、逃げてる途中で研究所の人に見つかって、私を逃すために囮になるって、私も一緒に残ろうとしたんだけど、先に行っててって言われたから……」
どうも彼女が言っていることが嘘のようには見えない。全ては真実のようだ。
どうもが想像するよりも随分と話が大きい。
最初こそ奴隷商の元から逃げてきた少女やなんらかの理由で家に居られなくなってしまった少女だと思っていたが、実際にはもっと大きく強大なものが存在していた。
最近どうもこう言った話に縁がありすぎる。この街に来てから、随分と犯罪関係の話に詳しくなってしまった。何かそういう力でも働いているのだろうか?
まあいい。もはや関わりを持ってしまったことに変わりはない。どうせ一度足をかけた船だ。その船に乗ろうとも乗らないとも俺の自由だろう。
そして俺に選択権があるのなら、俺は構わず、その船に乗り込むだろう。
それにこんな小さな子を見捨てては今日の夜、その夢見も悪くなるってものだ。
そんなエンリと同じ意見なのか、リアナがさらに情報を集めるためにアリスに声をかけた。
「ありがとう。辛いこと思い出させちゃったね。最後に一つ聞いていいかな?」
「うん」
相槌を打ったことを確認してリアナは言葉を続けた。
「そのお母さんっていうのは?」
「私のお母さん。私にアリスっていう名前と、このペンダントをくれた大事な人」
「お母さんの名前はわかるかしら?」
「アンクレイ、アンクレイ・ジェニバーって言っていました」
「アンクレイ?」
アリスが呼んだその名前にエンリが反応する。
その姿を見てリアナが「知っているの?」と聞いてきた。
「いや、どこかで聞いたことがある気がするんだけど、思い出せないな」
「そう。まあ、そこまで期待してなかったわ」
エンリはうっ、と肩をすくめた。
ふとアリスが声を上げた。先ほどまでの無表情で感情のこもらない声ではなく、どことなく真剣で、自分のできるかぎるの願いを込めて声を出す。
「あ、あの、私と一緒に、お母さんを探すのを手伝ってくれませんか?」
突然のことにエンリとリアナはアリスの方をじっと見て固まった。
「多分、お母さんも研究所の人たちから逃げて、この街にいると思うんです。この街にいる限りは研究所の人たちも下手に行動できないって、お母さん言ってましたから。それで私、逃げてからずっと、お母さんを探し回っていたんですけど、見つからなくて……だから、手伝ってほしいんです。もちろんタダでなんて言いません。しっかり報酬も出します。それに二人は見てるとどこか、安心します。なんででしょう?優しいからですかね?それとも、私のために本気で心配してくれたからですかね?それでどうかお願いできませんか?」
しばしの沈黙のあと、リアナがくすくすと笑う。アリスは何か面白かったですか?と小首を傾げる。
リアナがアリスの手を取った。白い儚げな小さな手だ。その手を握り、その瞳を見て、彼女を安心させるように優しく微笑んだ。その姿はどこの誰が見ても、母性と彼女の優しさに溢れ、それでいて高貴でいて、強い意志を持った笑顔。まるでリアナ・リバースという少女を体現したかのような笑顔だった。
「安心して、アリス。私はあなたを見捨てないし、あなたのお母さんだって探し出してみせるわ。だから、そんな悲しそうな顔をしないで……」
「え?」
アリスは驚いたように眉を動かす。そしてその時に気づいた、自分の頬を伝う一筋の涙に。無意識のうちに溢れ出した不安と悲しみの印に。
アリス。おそらく彼女の見た目からしてその年齢は十歳前後。無表情で起伏のない声は感情が分かりにくいが、そこには確かに心があり、感情がある。
一体、彼女がどれほどの期間、研究所の人間から逃げ続けていたのかはわからない。だが最低でも三日、俺とぶつかったの日、彼女が追われていたとするならば、三日もの時間が経っている。
三日という日数は一瞬のようで子供からすれば長い時間だ。それだけの時間を、誰にも頼ることもできず、一人、母親を探して、追ってから逃げ続ける日々はどれだけ辛かっただろう。どれだけ神経をすり減らしたのだろう。
ここ数日間、ろくに食事も取れなかったこともわかる。
もし彼女が実験体として一度も研究所の外に出たことがなかったのなら、この街は彼女からすれば異界にも等しかっただろう。
知らない街に、知らない人々、そんな中で過ごすのは不安だっただろうし、苦しかったはずだ。
少なからず、そんな重い重荷を十歳程度の少女一人背負わせるものではない。全てはその重荷を肩代わりできなくても、支えるぐらいはできるはずだ。
まあ目の前の少女、一人救ったところでバチも当たらんだろう。
「もちろん、エンリも手伝ってくれるわよね?」
それは有無を言わさぬ口調だったが、別に断る理由もないので、もちろん、と短く返事した。
その言葉を聞いていたアリスが、その大きな瞳を揺らして、言った。
「ありがとうございます」
ふと彼女がはにかんだ気がした。
そして思い出す。アリスの名前を聞いたのに、まだ自分達の名前を名乗っていないことに。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。俺の名前はエンリ。よろしく頼むよ」
「それで私がリアナ。リアナ・リバース。この街で冒険者をしてるわ」
「エンリお兄ちゃん、リアナお姉ちゃんですね。よろしくお願いします」
「お、お姉ちゃん……!」
アリスの口から出たその言葉にリアナは目を爛々と輝かせる。
嬉しさのあまり言葉を失っているようにすら見える。
そしてしばしそのお姉ちゃんという言葉を噛み締めてから、アリスに抱きつく。
「安心して!お姉ちゃんが絶対、アリスのお母さんを見つけてあげるからね!」
アリスが小さく「苦しいです……」と訴えるものの、抵抗しているようには見えない。むしろ安心したようにすら見える。
「とりあえず、腹ごしらえしよう。何をするにしてもまずは腹が膨れてないとな」
そういったエンリの姿を横目でリアナが睨め付ける。その瞳からはどことなく、驕るのは私なんだけど、という無言の訴えを感じる。
だがまあこの際無視しよう。
ちょうど三人の元に料理を持ってきた店員もやってきた。
パスタや何やらがそのテーブルの上に置かれ、華やかな食事を彩る。
リアナがアリスを解放し、意気揚々と食事につこうとした時、リアナが思い出したように聞いた。
「そうだ!アリス、あなたがいた研究所の場所ってわかる?」
「ごめんなさい、わからない。あの時は逃げるのに必死だったから……」
「大丈夫よ、謝らないで」
「あ!でも私のいた組織の名前ならわかる」
「え?」
その言葉に二人は驚く。
てっきりアリスがいたのはどこかの企業か国が秘密裏に運営する研究所だと思っていたのだ。しかし組織による研究所となると話が違ってくる。組織とはある目的、ある認識、ある信念をもとに、構成される集団のことだ。
企業や国が運営する研究所だったのなら軍事関係や金儲けなど、その目的は随分と明瞭なものだろう。それが秘密裏に行なっているものだったのなら、世間には出せない非合法な研究をしていることも予想できる。
だが組織となるその信念がわからない限り、その研究内容はもちろんその研究内容のたどり着く目的を掴むことが難しい。それもそれが光の届かない影の元で行なっているなら尚更だ。
さらに言えば、そう言った組織が表立って誰の目も届かないように行うことなど、どう考えてもいいものではないだろう。なんらかの犯罪組織か、テロ組織か、少なからず、人に誇れるような研究はしていないことは容易に想像できた。
「確か組織の名前は……」
アリスがその名前を口にしようとした時、コンコン、と窓をノックする音が聞こえた。
自然と三人は箸を止め、その音のした方に視線を向けた。そこにいたのは黒いローブを羽織った一つの人影。どこか全ての光を吸い込んでしまいそうなその黒はどうも不気味に見えた。
一瞬の思考。自分の知り合いにこんな奇天烈な格好をする人物はいたか?いや思いつく限り存在しない。
リアナも同じなのか、首を傾げ、不思議そうな表情をするだけだった。
その時ふと最悪の想像が脳裏をよぎった。
この場には俺とリアナ以外にも一人人物がいる。
エンリはアリスの方を見た。
そこには顔面から血の気が弾き、青白くなり、歯を小刻みに鳴らす少女の姿があった。
明らかに正常ではない。恐怖などという陳腐な感情は超えている。それはもはやその魂にさえ焼き付けられた呪いような物だろう。
そしてアリスが震えた声で言った。
「な、なぜ、あなたが、ここに……」
奇しくもそれはアリスが初めて明確に見せた感情であった。
ローブの隙間から笑った口元が見えた。
風が靡く。側面に描かれた天秤を持った女性の横顔が見える。優しく微笑んでいるようにも、険しい顔で天秤をながめているようにも見える不思議なエンブレムだ。
そしてそのエンブレムが見えた瞬間、リアナが叫んだ。
「エンリ、みんなを守って!」
その言葉が聞こえたと同時にリアナがアリスを庇うように椅子から立ち上がり、横に置いてあった大剣を握った。
エンリもまたリアナと同じように椅子を蹴り上げる勢いで立ち上がり、手元にあったトランクケースを手に持つ。
次の瞬間、人影の手が窓ガラスに触れる。そしてそこにあったはずの窓ガラスが一瞬にしてまるで真冬に見る雪のような白の結晶に姿を変えた。
それはありとあらゆる物質の構成を知り、操り、書き換える人が生み出した人のための技術、世界の真理へと迫らんとする三大技術の一つ。
ーー錬金術。
それに準ずる物だった。
「随分と手間をかけさせてくれたね、200番?とんだお転婆娘さんだ。さあ、帰るよ。大いなる計画のために僕たちには君が必要なんだ。
そういう人影の隠れた視線から逃げるようにアリスはその体をリアナの後ろへと隠す。
その光景に人影は差し伸べた手を引っ込め、少し不機嫌そうに言う。
「そうか、200番。僕と一緒に来るつもりはないんだね?……アンクレイ、君は随分と面倒なことをしてくれたよ。おかげで彼女を殺さないといけなくなった」
そう淡々と語る人影。
後方からアリスめがけ、大量の岩槍が迫る。それは店の中全てを蹂躙するには十分すぎる威力と数を誇っている。
そしてそれがまさか地面が隆起し、街道のレンガやその下地が錬金術により別の物質へ書き換えられたものだと理解するには錬金術に明るくないものには少々の時間を要するだろう。
それもその威力が鉛をも平気で貫く攻撃力を誇っていたとしたら尚更だ。
その岩槍が、店の中に存在する全てを粉砕しようとした時、それらが砕け散っていく。
アリスへと向かった岩槍は、その前に立っていたリアナが砕き折り、それ以外のものは全てエンリが他の人たちを傷つける前に氷魔法で、凍らせ動きを封じ押さえつける。
そしてその光景を見ていた人影が不機嫌そうな視線で二人を睨むつけてくる。
「そのエンブレム、賢者の天秤ね?」
「おや?僕たちのことを知っているんですね?」
「ええ、知っているわ。錬金術至上主義の過激派集団。多くいる三大技術過激派の中でも極めて危険。多くの魔法使い、魔術を殺し、無差別にテロ行為を行う頭のネジが一本どころか全部無くしたイカれた集団ってことぐらいわね?」
「イカれた集団って酷いな。それになんか僕たちが悪いみたいな物言いで侵害だ」
「何を言ってるの?」
「僕たちはただ無知の人々に教えてるだけだよ?魔法や魔術は所詮、錬金術の劣化版だって」
「それがどうして人を殺すことに繋がるのよ!?」
「え?死んで当然じゃない?魔法とか魔術みたいな不完全な技術使う奴ら」
「は?」
「だって、魔法とか魔術みたいな不完全な技術、世界を穢すだけの存在じゃん。そんなものが完璧で完成された技術である錬金術と同等に扱われるとかおかしくない?」
どうやらアリスは随分と頭のイカれた連中に追われているらしい。彼女はお母さんが組織から逃したのも納得だ。
こんな奴らと一緒にいたら精神に一つや二つ異常をきたしそうだ。
「正直な話、今こうして君たちのような不完全な技術を使う奴らと同じ空間にいて、同じ空気を吸って、会話をする。それだけで虫唾が走って全身をかきむしりたくなる。そして世界を穢すだけの技術を使う奴らなんて死んで当然じゃん?何かおかしいことある?」
「え?ならなんで無差別テロなんかするの?犠牲になった人の中には錬金術師もいたと思うんだけど……?」
それはリアナの純粋な疑問だった。
目の前の人影が所属する賢者の天秤と呼ばれる度々、正義の制裁と称し、大小様々な大きさのテロ行為におよび、その犯罪行為には巻き込まれ犠牲になった人もいたのだ。
「うん、まあ確かにそうだね。それに関しては本当に心苦しいよ、同じ完璧な技術を使う同志が犠牲になってしまったことは、本当に心苦しんだよ。まあでも、運がなかったんだよ。その人は。それにその人も錬金術だけの完璧な世界の礎になれて嬉しいと思うよ?」
「狂ってる……」
リアナはその答えを聞いて言葉を失った。
「狂ってる?僕たちが?違うでしょ?狂ってるのはこの世界の方でしょ?魔法や魔術が錬金術と対等に扱われ、それになんの疑問も抱かず、汚染されていっているこの世界の方がよほど狂ってるよ」
人間、話せば通じ合えると多くの聖人が語っている。
だけどそれはおそらく間違っているのだろう。でなければこれだけはっきりと会話して、その言葉を聞いているのに、その言葉の意味を理解できないはずがない。
少なからず、自分の巨悪を正義だと思い込んでいる人間と、分かり合える日は一生こないだろう。
「とりあえず、早く彼女を殺させてくれる?僕、早く家に帰って錬金術の研究したんだよね」
そう気怠げに人影は言った。
地面から天を射抜くかの如く、複数の鉄できた極太の針が突き出す。リアナはそれを後ろに隠れていたアリスを抱え避ける。
先ほどまで店内にいたお客や店員たちはすでに外に避難済みだ。
そしてリアナはその大剣をローブの人影に向けて、声高らかに宣言する。
「あなたみたいな奴にアリスを渡すつもりはないし、殺させるつもりもない!大人しく捕まりなさい」
「アリス、アリスって、もしかしてその人形の名前?アンクレイの奴、たかが道具に名前つけてたのか。まあいいや、200番を手放す気がないならいいよ、一緒に殺してあげるから。まあどうせ、魔道具使いだし殺すつもりだったけど」
ローブの人影が再び錬金術を使い、大量の鉄でできた円柱をを用意する。二度の串刺し攻撃を避けられたことにより、串刺しにすることを諦め、圧倒的質量と数量を持って押しつぶす作戦に切り替えたようだ。
そして実際に百を優に超える鉄製の円柱が上下左右問わずに一斉に襲いかかってくる。隙間なく襲ってくる。逃げ場はない。
リアナが大剣を強く握りしめる。
いつもは風系の魔法を使うことができる淡い緑色のカートリッジを入れているのに、今日に限って、大剣の中にセットされているのは炎系の魔法を使うことができる緋色のカートリッジだ。
もちろん、このカートリッジを使用して魔法を使えば、所詮は鉄でできた円柱、簡単に溶かすことができるだろう。
少し火傷を負うかもしれないが、このまま鉄の塊に押し潰されて死ぬよりはいいだろう。
しかし問題は炎系の緋色のカートリッジは制御が難しい上に、人影の攻撃のせいでほぼ密閉空間で魔法を放つのと変わらないことだ。
もしこのような密閉空間で制御が難しく威力を抑えることができない炎系の緋色のカートリッジを使用すれば、その爆発の威力が密閉空間内で抑えられ、中で圧縮された魔法により、運が良ければ火傷ですむが、最悪の場合、自分の攻撃で重傷を覆う可能性がある。
自分だけならまだしも、アリスもいる状態でそんな賭けには出られなかった。
もちろんカートリッジを入れ替えている時間もないので選択肢は随分と限られていた。
仕方がない。こうなったら正面突破。直接この大剣で円柱を破壊するしかないだろう。少し辛いが不可能ではない。少なからず、ここで魔法を放つよりも軽症で済むはずだ。
そう覚悟を決めた時、迫る円柱が同じく、錬金術の攻撃により相殺される。
「錬金術が完成された技術?馬鹿馬鹿しい。未完成だからこそ研究しがいがあって、楽しいだろうが」
そう言ってエンリが人影の前に立つ。
そして人影はその言葉に明確に怒りを露わにさせる。
「貴様!魔法使いという穢れた存在が錬金術を扱うだけでなく!錬金術を語るか!それも未完成で不完全なものだと!?」
「魔法使い?違うよ、俺は」
「は?魔法を使う穢れた存在が魔法使いじゃないというなら一体、なんだというのだ!」
「俺は学者だよ。好奇心に生き、進歩を求める一介の学者だ」
「ならあえて言おう!学者風情が錬金術という崇高なものを語るな。錬金術は選ばれし者だけが使える、世界の真理たる技術なのだ」
「そうか。なら俺からも言わせてもらうけど、お前みたいな奴が一丁前に錬金術師を語ってんじゃねえよ」
「貴様ぁああああ!!!」
ローブの人影が感情任せに周囲の物質を岩槍へ変える。
そしてその岩槍が完全に錬金術による形を成す前に、ローブの人影の頭部をエンリのトランクケースが襲った。
鈍い音が周囲に響き渡る。
そしてこの音こそが、これから古都シルバルサおよび世界を震撼させる大事件、『紅き月の夜』の始まりだった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
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