宿<直感>
「これで大丈夫。安静にしておけばすぐに目が覚めるよ」
その言葉とともにゴム手袋を外すキリヤ。
娘さんがベッドへ駆け寄る。
四人は今宿の一室にいた。
やけに物静かな世界の中でキリヤが口を開く。
「それでそろそろ聞かせてもらってもいいかな?こうなった理由を」
キリヤは近くにあった腰をかけ、娘さんが出してくれたコーヒーにミルクと砂糖を入れながら言う。
壁に背を預けていたエンリがキリヤの前に椅子を運び座る。
エンリはキリヤと対照的にミルクも砂糖も入れずにコーヒーを口に運ぶ。
「理由を聞かれても正直、何が何だか。俺が唯一言えるのは店主が俺を娘さんの彼氏だと勘違いして攻撃してきたってことぐらいかな?」
「それは災難だったね」
キリヤは苦笑いを浮かべる。しばしの静寂が再び流れる。
エンリが唐突に一つの瓶を取り出す。
それはさっき店主にぶっかけた緑色の液体のあまりだった。
その瓶をコーヒーが置かれている机の上に置き、エンリはキリヤに聞く。
「これが何かわかる?」
突然の問いかけにキリヤは少し驚きながらも、コーヒーを置き瓶を手に取り匂いを嗅ぐ。
少し甘く酸味を含んだ匂い。香り自体は柑橘系のものに近く、色味は野草に近い。ネバつきも少なく水のようにサラサラだ。
瓶を机に置き少し思考した後、驚いた様子で答えを出す。
「まさか<純癒の霊薬>!?」
「正解」
「お目にかかれる日が来るとは。どこでこれを手に入れたの?」
「自分で作った」
「自分で!?」
さらに驚くキリヤ。しかしエンリの目的はそこではない。
「この霊薬を店主に使う前。俺は店主の顔面をボコボコに殴った」
その言葉に引くような表情を見せるキリヤにエンリは補足する。
「正確には自分の周りに結界を張り自分の攻撃が当たるようにしたって言う方が正しいかな」
「なるほど。でもそれっておかしくないか?霊薬を使うほどの重症なら痛みで攻撃の手を止めるはずだ」
「そう、その通りなんだ。でも店主は攻撃の手を緩めることすらしなかった。それどころか徐々に攻撃の激しさが増して言ったよ。まるで正気を失ったみたいに」
そうあの時の店主はどう見ても正気ではなかった。
あの異様な雰囲気と力は魔獣のそれに近かった。
「何らかの魔獣に精神を汚染された可能性は?人を狂気に貶める魔獣なら詳しくない僕でも何匹か思い当たるし、リリアのお父さんは元軍人だと聞いてるから、もしかしたら昔の精神汚染が娘から彼氏のことを聞いてぶり返したとか」
「それはないと思います。軍人は軍を退役する時、必ず精神汚染のチェックを受けるはずですから」
突然、会話に入ってきた娘さんに驚きながらもエンリは口を開く。
「それならあと他に可能性がありそうなのは……あー、もしかしてだけど、本当にただ単純に頭に血が登ってただけだったりする?」
「まさか……」
エンリとキリヤはリリアの方に視線を送る。
そこには視線を落とし少し気まずそうに虚空を見つめるリリアの姿。
二人は息を吐く。
この出来事に事件性はなく。本当にただただ娘を思うあまり暴走した父が原因だった。
愛情の末、魔獣のようになる。そんな話皮肉が効きすぎている気もするがまあ無くはない話だろう。
父親とはそういうものだ。
そして一抹の不安と疑問を残しながらそう適当に納得し話が終わる。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。わたしはこの宿の店主の娘のリリア・アンスバルトと言います」
「エンリです。よろしく」
「よろしくお願いします。……して、この度は父がご迷惑をおかけしました。本人に代わって謝らせてもらいます。おそらく意識が戻ったら父も謝りに行くと思うのでその時はどうか聞いてやってください」
「別にいいよ。些細な出来事だ。娘さん思いのいいお父さんじゃないか」
そう些細なことだ。この程度の事で驚いていたら森では生きていけない。
そんな場所から出てきたせいかメイロの些細という言葉の基準は少しずれていた。
「そういうわけにもいけません。この宿には宿泊しに来たんですよね?」
「まあ、はい。少しこの街で買い物でもと」
「ならこの宿に滞在中は宿賃を割引させていただきます。朝食も無料で出させてください」
別にしなくていい、と言いたいがどうやら聞き入れてくれそうにない。
そんな真剣で熱い視線をリリアから感じる。
ならご好意に甘えてその申し出を受けさせてもらおう。なんかこの街に来てから金銭の取引が発生するたびに何らかの理由で割引または奢ってもらってる気がするが気のせいだろう。
というかこの街に入ってからまだ一度も財布を出してない事自体まあまあの異常事態だと思うが運が良かったと思うべきか。
リリアは詫びの意も込めて一番いい部屋に泊まって欲しかったようだが、そんな部屋は持て余しそうだったので適当な普通の部屋にしてもらった。
リリアが受付に鍵を取るため部屋を出て行く。
キリヤと2人になった部屋で一瞬の静寂の後、二つの声が響いた。
「聞きたいんだけど」
「質問したいんだけど」
ダブルブッキング。言葉と言葉が飽和する。
そしてどちらが先に話すかその主導権を譲る小さな戦いが起こるがそこは割愛。
結果的に話の主導権を握ったのはエンリだった。
「店主は本当に無事なのか?傷一つもなく健康な状態?」
「うん、どこの異常も見受けられない。いたって健康な状態だよ」
「そうか……」
指先を顎に付け思考する。
しばしの思考の後、キリヤが聞いた。
「こっちも聞きたんだけど、店主さんに掛けたのは本当に霊薬だけ?何か別の薬を注射してない?」
「いや、霊薬だけだが?何かあったのか?」
「うん、首の左側に小さく気づきづらいけど注射痕が」
「首に?腕じゃなくて?」
「首だった」
「薬でもやって錯乱中に注射器を首に刺したか?」
「いや、それはない。注射痕は後ろから斜めに入るよう刺さってた。あれじゃあ自分じゃ打てない」
「なるほど、つまり何者かが店主に何らかの薬を注射した可能性があると……戦ってる最中、店主の目が赤く光って軌跡を残してた」
「目が赤く光る?何らかの魔力が瞳に干渉した?」
「あと肉体の著しい強化。筋肉が異常に膨張して、血管が浮き上がって、赤黒く見えた。雰囲気や力はそれこそ魔獣に近かったように感じる」
「他に気づいたことはあった」
「他には……怪我の回復が異常に早い?」
「怪我の回復?霊薬を使ったんでしょ?なら別におかしくないんじゃない?」
そうキリヤは首を傾げた。
首を軽く振り会話を続ける。
「霊薬を掛けた後に負った怪我の話だよ。俺は店主を落ち着かせるため、魔力の波動を心臓の中で反響するように打った。本来なら一週間は起き上がることすらできない攻撃方法だよ」
おおよそ人間相手の行う攻撃ではないが、一応、回復策がある。
むしろ回復策をなくそんな技をに使ったら単なる狂人だろう。
とりあえず俺はその攻撃を間違いなく打ち込んだ。そうあの状況で逃れることはできなかった。
ゆえに攻撃は一寸の狂いもなく確実にその心の臓を貫く。
だから今、身体に何の異常も来さず、健康体でいること自体がエンリからすれば異常なのだ。
最初こそ霊薬の残りが残っていてその怪我を回復させたのかとも思ったが、あの攻撃は箱の中を風が渦巻くように心臓や体を傷つけることはない。
魔力が心臓の中を、対象となった存在の中を反響し共振し増幅していくだけなのだ。
そのため霊薬によっての治療は不可。その可能性はなくなる。
残る可能性はキリヤの誤診か俺が攻撃を外したか、もしくはその薬とやらの影響か。
ふと落としていた視線を上にあげた。
視界に入ってくるのは口元を手で押さえ影を落とし深刻そうな表情で俯くキリヤの姿。
頬に一筋の冷や汗が流れた。
あまりにも異様な雰囲気。爽やかでハツラツとしたイメージのキリヤとは似ても似つかぬ表情だ。
そうここで話を聞かなければまだ戻れたかもしれない。
足を踏み込まなければ深淵に飲まれることなく光の元を歩けたかもしれない。
しかしそうはならなかった。
足を踏み込んでしまった。本来知るはずのなかった事実を答えを可能性に足を踏み込んでしまったのだ。
それは好奇心。そう無邪気な子供のような愉快で無責任な好奇心が愚かにも顔を出してしまったのだ。
「何かわかったのか?」
「あ、いや……」
何とも歯切れの悪い。
どうやら彼は何かを知っているらしい。
そしてそれは無遠慮に人様に話せる内容ではないようだ。
しかし何か意を決したように口にする。
それは自分の不安を吐き出すようなようにも見えた。
「エンリは今日の朝刊を見た?」
「いや見てない」
「そうか……つい先日、ある研究所が何者かに襲撃されたんだ。新聞では民間の魔法医学の研究所が襲撃されたことになっているんだけど、事実は違う」
キリヤはいい含み詰まったものを吐き出すように言った。
「襲われたのは国が運営する軍の研究所だ」
言葉を失った。
世間知らずなエンリでもその重大さはわかった。
軍の研究所が襲撃されたそれが意味するのは警備が厳重であるはずの研究所うを襲撃しそれに足りる目的とそれをやってのける武力を持った何者かがいると言うことだ。
それが個人なのか組織なのかは些細な問題だ。
重要なのはなぜ襲撃され何をされたのだ。
「その研究所では何を研究していたんだ?」
「……魔獣だ。正確には魔獣と人間の融合だ」
「随分と狂った研究だな……」
魔獣と人間の融合。それは多くの研究者が一度は考えたことのある研究だろう。
エンリもその一人だ。
しかし実行には移さなかった。移せなかった。その行き着く先が漠然と見えていたからだ。
魔獣と人間は体の作りから概念的次元的存在的あり方まで違う。
人間が物質的存在に対し、魔獣は魔力的存在だ。実体を持っているがそれは命に魔力が宿ったのではなく。魔力に命が宿ったのだ。
人間の命に魔力が宿った形とは似て非なるものだ。
そしてそんな存在同士を融合しようとすれば行き着く先は崩壊である。
自我の崩壊、肉体の崩壊、魔力の崩壊、理性の崩壊、意識の崩壊だ。
完成するのは意思なく自我なく醜く万物の魔力を破壊しながら命あるものを殺す何者でもない何かだ。
それにゆえにこの研究は禁忌とされ実行に移した時点で世界中で指名手配される。
それほど恐ろしい研究なのだ。
しかしこの研究には研究者たちを魅了する魔力がある。
誰も成功したことない魔獣と人間の完全なる融合など夢のあることだ。
もし成功すればあらゆる分野で活躍することになるだろう。医学や魔獣研究はもちろん魔導具の開発や錬金術など。そして軍に売り込めば兵器としての転用もあり得る。
だってそうだろう。魔獣の再生力や俊敏性、膂力や特性を持った兵士を量産できれば今の戦場がガラッと変わるはずだ。
いくら殺しても再生する兵士や上空から偵察する兵士、一夜にして城を構える兵士、そして厄災の力を持った兵士。
考えただけでも恐ろしいものだ。
そのためこの研究を続ける研究者は後を絶たない。人道に背こうが倫理に背こうが知識を探求することをやめない。
そしてその下には幾億もの犠牲が陸を作っている。
それもそれを国が研究していたとなるその犠牲の数は計り知れない。
「それでその研究所が襲撃された理由は知ってるの?」
頷くキリヤ。
「襲撃された理由はある薬だ」
その言葉に察する。この後続く言葉はある程度予測がついた。
むしろこれまでの話の流れで予想がつかなければ鈍感もいいところだ。
「その薬は人を魔獣へと変貌させる」
思わず頭を抱える。
どうやら事態は思った以上に深刻なようだ。話を聞かないほうが良かったかもしれない。
人間を魔獣に変える薬などもはや生物兵器の域だ。いやおそらくこの薬は実際、生物兵器として作られたのであろう。でなければ人を魔獣に変える薬など使用用途が思いつかない。
逆に言えばこの薬は生物兵器としては十分すぎる威力を持っている。
敵国の主要都市に巻けば、何も知らない市民たちが一斉に魔獣へと変貌し、周りの人を襲い始める。この薬の感染力と進行速度を知らないが一度でもこの薬が巻かれれば国を混乱させることは必至だ。いや国だけではない世界そのものを混乱させることができる。
人間を魔獣に変える生物兵器など脅威にもほどがある。
「そしてその薬はどうなったんだ?」
「盗まれた」
エンリはその言葉を理解できず首をかしげる。
「テロリストにサンプル丸ごと盗まれた」
言葉を失う。
そんな危険物がテロリストの手に渡ってしまったらしい。
これで研究所を襲撃した組織は軍が秘密裏に行う研究所を襲撃し目的を完遂する戦力を持ち、そのあと足取りを完全に消す隠密性を持ち、世界すら震え上がるやばい薬を持った世界で最も危険な組織へと成り上がった。
彼らがどんな思想のもと動いているのかは知らないが少なからず穏便な連中ではないだろう。でなければ軍の施設を襲撃したりしない。その上、そこで研究されていた危険な薬を持ち出したりもしない。
「ちなみに聞かせてくれ。なんでキリヤ、あんたがそんな機密情報を知ってるんだ」
「協力を依頼されたんだ。そのテロリストに」
「あー……なるほど……」
「その薬はまだ未完成品だったんだ。だからその薬を完成させるために魔法医学に精通する研究者が必要だった。そこでたまたま僕に白羽の矢が立ったんだね」
それがたまたまなのかそれとももともと協力を仰ごうとしていたのかわからないが思っていた以上にこの男の神経は図太いのかもしれない。
「あ、ちゃんと断ったよ。そうしたら『リリアを殺す』って脅されたから、手元にあった薬でぶすりと」
いやこの男は確実に神経が図太い。もはや巨木の域だ。多分怒らせると一番怖いタイプの人間である。
一体どう育てばテロリストに脅されて手元にあった薬で反撃する学者が育つのだろう。親にあって話してみたいものだ。
「その後、事情聴取されたりで大変だったよ。まさかテロリストの一員に間違われると思わなかったけど。たまたま知り合いの憲兵がいたおかげで助かったよ。じゃないと僕は今頃、牢屋の中だろうからね」
そう笑うキリヤにエンリは若干引く。
最初の頃は常識人かと思っていたが話を聞く限りこの人が一番やばいのかもしれない。
「というかこんな話、部外者の俺に話してよかったのか?もしかしたらそのテロリストが俺であんたをさらいに来たのかもしれないぞ?」
「大丈夫、エンリは信頼できる。僕の直感がそう言ってるよ」
「医者なのに直感を信じてるのか?」
「確かに。でも僕は魔法医学の研究者だからね。直感も広義でいえば魔法やそれに準ずるものの類だよ」
「物は言いようだな。だがその直感は信じていいよ」
そうエンリはテロリストなどではない。たまたまこの街に買い物にやって来たただの買い物客だ。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
感想やブクマ、評価などしてくれると嬉しいです。
最近他の作品にうつつを抜かしているので本作品の投稿がだいぶ遅れます。
筆が乗り次第書くので次回の投稿がいつになるかわかりませんが、月に一本はあげれるように頑張ります。